未翻訳小説を頑張って日々読んでいる日記

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まだ翻訳されていない英米文学をたまに紹介します。

There There by Tommy Orange

 『There There』というタイトルは、ガートルード・スタインの『Everybody’s Autobiography』の中の一節に由来する。ガートルード・スタインはこの小説の舞台でもあるカリフォルニア州オークランドで育ったのだが、街として大きく発展したオークランドからは彼女が幼少期を過ごした面影はすっかり失われてしまった。それを見て彼女は「There is no there there」と書いたのだ。
 だが『There There』の登場人物の一人は、そのガートルード・スタインの言葉に対して「それはネイティヴアメリカン)に起こったことだ」と言う。後半に書かれた一説を引用すれば「俺たちの土地にいきなりやってきて、居座って、全部奪っていったじゃないか。」

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 現代に生きるネイティヴアメリカンの生活を書いた『There There』は、自身もネイティヴアメリカンであるトミー・オレンジのデビュー作。2018年に大変話題になった本のひとつであり、PEN/ヘミングウェイ賞を受賞、ピュリッツァー賞フィクション部門の最終候補にも残った。

 …と書いてきたが、There Thereというワードを見ると、頭の中に「ドンドドン、ド、ド」とドラムの音が響くのではないだろうか? そのバンドのファンならば、二人のギタリスト、ジョニーとエドが一心不乱にタムを叩いている姿も思い浮かぶのではないだろうか?
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 おそらくほとんどの人がガートルード・スタインの一説ではなく、レディオヘッドの代表曲のひとつ"There There"を思い浮かべるはずだ。作者のトミー・オレンジは1982年生まれの37歳。世代的にもドンピシャだし、作中にMF Doom(Madvillian)やEarl Sweatshirtの名前が出てくるあたり確実に音楽好き、ならば常識としてレディオヘッドは聴いてきたはず。タイトルの正式な由来がガートルード・スタインでも、レディオヘッドをイメージさせることが真の狙いだったに違いない。それに、民族的なドラムスがどことなく作中にも出てくるネイティヴアメリカンの太鼓を彷彿とさせるではないか(ドイツのクラウトロックバンド、カン(Can)からヒントを得たと言われているので直接的に影響があるわけではない)。
 もちろん作中でも登場人物の一人が地下鉄内で"There There"を聴いていて、ヴァースで繰り返されるあのフレーズが引用されている。
「Just ’cause you feel it doesn’t mean it’s there(感じられるからといって、そこにあるとは限らない)」
 このフレーズにおける「存在の不確かさ」は、楽曲中ずっと鳴り続けるドラムスのように、小説内でも通奏低音として常に流れている。それが現代を生きるネイティヴアメリカンの存在を表しているとも言えるからだ。


 小説『There There』に明確な主人公はいない。複数の登場人物が少しずつ語っていくことで、それぞれの人生、関係性が徐々に明るみになっていく構成だ。
 もちろんそれらのほとんどがネイティヴアメリカン、もしくはネイティヴアメリカンの血を引く。そして全員が社会的弱者、ないしはそういった状況に追い込まれている。アルコール依存症は当たり前、離婚、無職…。「アメリカ」という国は建国の時代からネイティヴアメリカンを迫害してきたが(文学作品ならばコーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』が象徴か)、現代の都市に生きるネイティヴアメリカンも、直接的にではないにしろずっとアメリカの隅に追いやられているのだ。
 そんな中、なんとかネイティヴアメリカンの文化を繋ぎとめようとする試みがある。登場人物の一人は助成金を得てあるプログラムを進める。ネイティヴアメリカンには、昔から語り継がれる伝説や迫害の歴史、という時代遅れの物語しかない。なので、現代を生きるネイティヴアメリカンにインタビューを繰り返し、「今の」ネイティヴアメリカンの物語を作ろうではないか、というものだ。これはそのまま小説『There There』が書かれた理由と言えるだろう。
 もうひとつの文化を繋ぎとめる試み、それは「パウワウ(Powwow)」と呼ばれるネイティヴアメリカンの集会でお祭りのことだ。元々はネイティヴアメリカンの部族の集会のことであり、現在ではそういった意味合いを引き継ぎつつも、イベント的な要素を押し出しているようだ。伝統的な衣装を身に着け、太古のリズムに踊る。また、各部門に別れて踊りを競い合い、優勝すると賞金がもらえることもあるらしい(少なくともこの小説内の設定では)。

 そして登場人物たちは、それぞれ目的や経緯は違えど、この「パウワウ」で一堂に会することになる。いよいよ「パウワウ」の開催が近づくころ、読者にはもう悪い予感しかしない。保護者に内緒で初参加する13歳の少年、スタッフとして参加する者、司会者として参加する者、太鼓隊の一員として参加する者、それらの多くが長年会っていない肉親同士だったりするのだ。そして何より賞金を強奪しようと銃を持ち込む者…。そのとき読者の脳内にはレディオヘッドの"There There"の最後のリフレインが胸騒ぎのように鳴る。
「We are accidents waiting waiting to happen(私たちは災い。起こるのをじっと待っている)」
 その通り、最後の章は1頁か2頁で目まぐるしく語り手が変わりながら、怖ろしい惨劇を緊張感と臨場感たっぷりに描写していく。


 前半から中盤にかけて一人称、三人称、さらには二人称(!)まで使い分け、様々なテンションでネイティヴアメリカンの歴史と現代の生活を書きつつ伏線を張り巡らせ、最後の「パウワウ」でそれら全てを回収。堅実な筆力を持った書き手であるのは間違いないが、個人的に良いと思ったのは、ちゃんと「設定が現代」の物語を書いていることだ。
 というのも、このブログの初回に紹介したシークリット・ヌーネスの『The Friend』にて、創作を教える主人公が生徒たちに「1日に10時間もソーシャルメディアに触れているのに、生徒たちの書く物語にはインターネットがほとんど存在しない」「科学技術に囲まれた生活と科学技術がない物語との間の分断が、不思議でしょうがない」と愚痴っている箇所がある(102頁)。自分もそれほど00年代、10年代が舞台である小説を読んでいるわけではないが、『There There』では「奇抜すぎない程度」に現代の科学技術・文化が使われていて、読者を引き込む要因のひとつになっている。
 そもそも「パウワウ」にどうやって銃を持ち込んだかと言えば、事前に弾丸を会場の森の中に投げ入れておいて、銃本体を3Dプリンターで作ってしまうのだ。そうすれば、材質はプラスチックなので金属探知機をすり抜けることができるというわけ(いざ実戦となるとプラスチックという材質のため不具合が生じたりもする)。また、父親の名前しか知らないオンラインゲームオタクの引きこもりの男性(『オスカーワオ』を彷彿とさせる)が、母親がログインしっぱなしのFacebookを使い、父親と同じ名前のネイティヴアメリカンに片っ端からメッセージを送って父親を特定する。別の人物は通学バスの中でiPodを拾ったこと(前述したMadvillainの名盤『Madvillainy』が入っていた)が音楽との出会いだった。それとは別のヒップホップ好きの男の子は、Youtubeで素人が作ったビートに合わせて自作のラップを乗せたり、Youtubeで「パウワウ」を検索し踊りを覚える…などなど。『The Friend』の主人公に読ませたいぐらいだ。

 さて、その『The Friend』は2020年に新潮クレストブックスから翻訳されることが正式に決まったのだが、果して『There There』はどうなるか。しかしこれこそ翻訳されるべき小説だと思う。
 確かにネイティヴアメリカンというテーマは日本には馴染みのないものではある。この中で当然のように語られる「アルカトラズ占拠事件」なんてこれを読むまで全く知らなかったし。だが、ネイティヴアメリカンを「マイノリティへと追いやられた先住民族」と捉えれば、アイヌ民族を抱える日本でも無関係なテーマではないのだ。先住民族ではないが在日朝鮮人在日ブラジル人…日本に住む様々な文化をもった人々を考える際に必要な想像力を、『There There』は提供してくれるだろう。



※余談
 タイトルの影響なのか、この『There There』は文芸作品にしては珍しくポピュラーミュージック界隈でも読まれているようだ。ウィルコ(Wilco)のジェフ・トゥイーディーは「2018年に読んだ本でベストのひとつ」と紹介し、フェミニスト・パンク・バンド、スリーター・キニー(Sleater Kinny)は、今年発表された新作に関するピッチフォークでのインタビュー「新作に影響を与えた9つのもの」の中で、本書を挙げている(ちなみにヴィエト・タン・ウェンの『シンパサイザー』も挙げている)。
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