未翻訳小説を頑張って日々読んでいる日記

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まだ翻訳されていない英米文学をたまに紹介します。

Infinite Jestまとめその0(まえがき)

Infinite Jest とは?


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 今、私が頑張って少しずつ読んでいるのが1996年に出版されたDavid Foster Wallace(デイヴィッド・フォスター・ウォレス)の『Infinite Jest(インフィニット・ジェスト:直訳すると「無限の戯れ」)』だ。現代アメリカ文学で金字塔的な扱いを受けている本書、過去の金字塔たちと同じく、クッッッッッソ長いメガノベルだ。小さいフォントでページいっぱいにびっしり書き込まれていながら本編約1000頁、そして完全に小説の一部として機能する脚注が約100頁というボリュームというまさに鈍器。ピンチョンの『重力の虹』(72年)は「読了した人よりもドアストッパーとして使っている人のほうが多い」なんて言われていたようだが、『インフィニット・ジェスト』も似たようなことを言われているのだろう。

 検索すれば桑垣孝平の「戸山翻訳農場」というサイトがヒットするが、「先に書いておくがネタバレする。今まさに読んでいる人、これから読もうと思っている人は、閉じていただきたい」と書いてあったので、言われたとおり私はそこでサイトを閉じ、本を開いたわけだ。

 というわけで、これから自分の読書メモを兼ねて「今まさに読んでいる人」の少しでも手助けになればと『インフィニット・ジェスト』のチャプターごとの概要を少しずつ書いていこうと思う。なお、ポストモダン文学とカテゴライズされる本書、その例に漏れず内容だけでなく英文自体がとてつもなく難しいので、“Infinite jest Wiki”と“LitCharts”というサイトのチャプター別まとめを参照し確認した上で書いてくつもりだ。無事最後までやり(読み)通せたら、いつか翻訳が出版されたときにも役立つだろう。いつかは分からないが…。

 だが、まずは「これから読もうと思っている人」のためにウォレスの簡単なプロフィールと、現在手に入るヴァージョンに必ず載っているTom Bissell(トム・ビッセル)による前書きの拙訳を紹介しようと思う。  


デイヴィッド・フォスター・ウォレスについて

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──この達人的才能を持った作家に書けないものはないようだ──

 デイヴィッド・フォスター・ウォレスは1962年生まれ。大学で哲学と文学を学び、24歳で『The Broom of the System(ヴィトゲンシュタインの箒)』でデビュー(講談社から翻訳が出版されていて訳者は予備校講師の宮崎尊。そこそこ有名な先生なので知っている人もいるかもしれない)。大学で創作を教えながら『インフィニット・ジェスト』を発表したときはまだ34歳。その後は短編やエッセイ、ノンフィクションなどを執筆しつつ、長編『The Pale King』執筆中の2008年に自殺。46年の生涯だった。同時代のヒーローであるニルヴァーナカート・コバーン(1967-1994)のように、作者が早逝(しかも自殺)したことが作品の伝説化を助長させている可能性は考慮しておかねばなるまい。2018年には「Metoo運動」の流れでウォレスの大学でのセクハラ行為が告発されたりしており…それに関しては他の記事を探してくれればと思う。

 現在入手できるウォレスの翻訳された作品は、大学でのスピーチ『This is Water(これは水です)』(阿部重夫 訳)と『すばる』2018年9月号に収録されたエッセイ『Consider the Lobster(ロブスターの身)』(吉田恭子 訳)ぐらいだろうか。デビュー作『ヴィトゲンシュタインの箒』と中短編集『奇妙な髪の少女』(白石朗 訳)は絶版で、Amazonでの価格はそれぞれ9000円と17500円である。私は『ヴィトゲンシュタインの箒』と『ロブスターの身』を読んだが、とりわけ『ロブスターの身』は優れた知性とユーモアと技術(と翻訳)が絡みあった傑作であり、比較的入手しやすいことからも初めて読むウォレスにはうってつけだと思う。

 実は作品ではなく作家のウォレス自身がすでに映画化されている。『インフィニット・ジェスト』刊行時のブック・ツアー(各地の書店を回り、講演会やサイン会などのイベントを行う)に同行したローリングストーン誌の記者による回顧録が出版されており、それを元に映画化したもの。タイトルは『The End of the Tour』(2015)で、邦題は『人生はローリングストーン』という大変残念なものになっている。日本では劇場未公開だったが、Amazon Primeなどで視聴は可能。天才とその天才に憧れる凡人、しかし天才にはないものをその凡人は持っていて…という二人のコントラストを描いたなかなか良い映画だった。『インフィニット・ジェスト』に関するネタバレはないし、ウォレスが大体どのような作家なのかを知った上で観れば十分に楽しめるはずだ。



インフィニット・ジェストへの前書き

 続いてTom Bissell(トム・ビッセル)による前書き「Everything About Everything」の全文。Tom Bissellはwikipediaによると1974年生まれのジャーナリスト・批評家・作家。『ニューヨーク・タイムズ』で書評を担当し、ゲームの脚本なども書いているらしい。  「Everything About Everything」は『インフィニット・ジェスト』出版20周年ということで、2016年2月『ニューヨーク・タイムズ』に掲載されたエッセイのようだ。これを読めば『インフィニット・ジェスト』の基本的な設定や大枠が理解でき、どんな小説なのかが分かるだろう。
 丸括弧は原文に付いていたものだが、一部省略してあることをご了承願いたい。なお、英単語の後ろの丸括弧、巻末脚注は私が付けた。




エヴリシング・アバウト・エヴリシング
── インフィニット・ジェストから20年後


 時を経るにつれて小説に起こることとは何だろうか? チーズやワインのように熟成したり味わい深くなるわけではないし、腐り落ちるわけでもない。少なくとも比喩的に何かが起こるわけではない。そもそも、フィクションの命は人の半生すらもたないのだ。私たちは読み終わった小説たちとともに歳をとっていくが、人間側だけが積極的に相手を貶めようとする。つまり、頭の中という水漏れしやすい大樽に小説を保存するという美徳によって、小説は腐りやすくなってしまい、数年も経てば「時代遅れ」「重要性がない」、あるいは(神よ助けたまえ)「問題作」とまで言われてしまう。だからこそ小説がこの奇妙な過程を生き延びて20周年記念としてバッチリな装丁で復刊したとき、それを掲げてこう言いたくなるのだ「この小説は試練の時期を乗り越えたぞ!」と。ほとんどの場合、称賛の意を込めてそう言われるわけだが、的確に未来を予言していたか、もしくはその後の読者にとって「時代性がある」と感じられるストーリーを持っていたという理由だけで、二十年を迎えた小説は成功したと言えるのだろうか? 仮にそれが時代を生き残るフィクションの基準ならば、歴史上もっとも素晴らしい作家はフィリップ・K・ディックになるだろう。

 デイヴィッド・フォスター・ウォレスは、後世と現在の読者へ同時に、しかも同じエネルギーで語りかける小説を書く行為、そこに孕む矛盾を理解していた。彼は『インフィニット・ジェスト』に取り掛かっている間に書いたエッセイで、自身のアイドルであるドン・デリーロの「神託めいた洞察力」について触れている。ウォレスによれば、デリーロの傑作群 ──『ホワイト・ノイズ』『リブラ』『アンダーワールド』── はもちろんその当時の読者へ向けられてはいるが、まるで砂漠の預言者が過去の知の巨人たちの完璧な分析を、後世へ向けて説明しているようにも見えるのだという。ウォレスは、デリーロのような洞察力をもたない多くの作家による「ポップカルチャー・アイコンの模倣的な利用」は「そのアイコンが、フィクションが本来収まるべき理想的不変性の外へ出て時代遅れになることで、フィクションのシリアスさを損なってしまう」と感じていた。しかし、『インフィニット・ジェスト』がその理想的不変性の中に留まっているように見えることは滅多にない。なぜならウォレスはむしろ理想的不変性をなるべく避けようとしたからだ。私たちは、ウォレスが『インフィニット・ジェスト』の作品としての強度が弱まるだろうと考えていた期限 ── バーガーキング社のメガ・バーガー年、ディペンド社の大人用下着年1 ── から五年を越えた。今読み返してみると企業が暴れ回る姿を知的なドタバタ劇として捉えた視点は、『シンプソンズ』やグランジ・ミュージックと同じように、この本を90年代前期から中期の枠に堅く、象徴的に埋め込んでいると言えるだろう。『インフィニット・ジェスト』は、まさにあの時代の小説なのだ。

 では、なぜ『インフィニット・ジェスト』は今でもまだ鮮烈に生きているように感じられるのだろうか? 

 理由その1 ── 人々を奴隷にして破壊する、兵器化された「娯楽」を扱う小説として、『インフィニット・ジェスト』は最初の偉大なインターネット小説である。もちろん、ウィリアム・ギブスンニール・スティーヴンスンが『ニューロマンサー』と『スノウ・クラッシュ』で先に到達していたかもしれない。それらの作品に出てくる行列回路や仮想空間は、インターネットがどのように見えてどのように感じられるかをより正確に推測していた(ウォレスはカートリッジとディスクに基づいた娯楽の崩壊を予見できなかった)。しかし、曖昧なことしか言わない一部の残念な科学哲学者をのぞけば、誰よりも早く大衆娯楽の陰湿な拡散力に警笛を鳴らしていたのは『インフィニット・ジェスト』である。動画の共有、ネットフリックス中毒、神経が切れるまで続く長時間耐久ゲーム、そしてフェイスブックとインスタグラムで単純な人々の平凡な思考を記録し貪ろうとする屈折した誘惑…ウォレスはどういうわけかこれらがやってくることを知っていた。だが、それによって彼自身までもが“the howling fantods”2になってしまったのだ。

 とあるインタビューでウォレスは「フィクションとは、クソみたいな人間になるとはどういうことかを語ることだ」という挑発的な名言を残したが、それに先立ち「芸術は単なる娯楽よりも高位な目的をもたなければならない」とも述べていた3。そしてこれこそデイヴィッド・フォスター・ウォレスの作品全般が謎に満ちている理由であり、とりわけ『インフィニット・ジェスト』では顕著である──分かりやすい中心的な語り、すぐに見分けられる時間線の変更、異なる四つのプロットの何らかの解決…王道エンタメ小説には必要不可欠なこれらの要素を徹底的に排除した全く終わりが見えない、しかし強迫的に読者を楽しませる本──言い換えるなら、『インフィニット・ジェスト』は読者をとてつもなくイライラさせる本であるということだ。ウォレスが意図したことを十分に理解するためには、聖典のように何度も何度も貪るように読まなければならない。これは多くのウォレス読者によってくどいほど言われてきたことだが、多くのウォレス「ファン」も同様だ。結果的にウォレス派は ──ノンフィクション派、ジェスティアン(Infinite Jest至上主義者)、短編派── に別れて構成されるのだが、その全ての派閥がウォレスのキャリアの中心を成すのは『インフィニット・ジェスト』であることに同意している。この小説が(どうやら)世界についてのすべてを言おうとしていたにも関わらず、私たちは20年経ってもまだこの本が何を意味するのか、正確には何を言おうとしていたのか答えを見つけていない。しかしこの事実こそが、『インフィニット・ジェスト』がインターネットの完璧な類推であることを示している。両者とも巨大すぎて、多くを含みすぎている。両者ともいつでも迎え入れるし、いつでも追い出すことができる。

 理由その2 ──『インフィニット・ジェスト』は正真正銘、革新的な言語小説だ。修辞的表現を知り尽くしている者でさえ、ウォレスのように言語の世界を自由に飛び回ることはできないだろう—ジョイス、ベロー、エイミスよりもだ4。Aphonia(失声症)、 erumpent(破裂する勢いで外へ飛び出している様子)、Eliotical(T.S.エリオット的な)、 Nuckslaughter(今作では「カナダ人を殺すこと」の言い換えらしい) 、phalluctomy(“phallectomy”(陰茎切断)の接頭辞を“phallus”(男根)に差し替え)…これでもまだほんの序の口! 造語、新語、医学辞典の補注でしか見つけられない単語、古典的修辞学の状況でしか使われない単語、家庭の化学用語、数学用語、哲学用語… ウォレスはOED(オックスフォード英語大辞典)の探検家であり、恐れることなく新語を作り、動詞を名詞化し、名詞を動詞化し、言語小説というよりも全く新しい「辞書編纂的現実」を創造した。しかし“nerdlinger(nerd(オタク)の強い言い方)”用語を利用してみたり、あるいは“stunt-pilotry”(スタント・パイロット屋)になることは、いざ実践してみるとただの空回りに終わりかねない。そういった単語を際立たせるためにはまず文が必要なわけだが、『インフィニット・ジェスト』は常に読者を唖然とさせる描写力を維持したままだからこそ、前世紀に書かれたほとんど全ての小説を越えているのだ。例えば彼が夕焼けをこのように描写したとき──

「でっぷりと膨張した姿は完璧な円形、大きく刺すような光を放射して…落ちる寸前の粘球のように、微かに揺れながらぶらさがっている」(空と天候にかけてウォレスより上手な作家はいない。それは彼がイリノイ州中央部というトルネードがつきまとう広大な平原で育ったからだろう)

 ウォレスの死後、ジョン・エレミア・サリバンは非常に的確な言葉を残した。「想像することが困難なことがある。この世を去るときに、これで言語が貧しくなると思われるほど独創的な作家でいることだ」。ウォレスが我々のもとを去って7年が経ったが、まだデイヴィッド・フォスター・ウォレス連邦文章保管庫に新しい言葉を追加できた者 ──これに匹敵する文を書いた者── はいない。

「ひとろくまるまる(sixteen)、遅番に交代(second shift’s)。サンドストランド(sundstrand)・パワー・アンド・ライトのサイレン(siren)は、音もなく(no-sound)落ちてくる雪(falling snow)によって気味悪く覆われかき消された」

もしくは──

「彼は住居不法侵入の天才だったので、いざ侵入の際 ── 彼は若い恐竜ほどの体格だったが、ほとんど真四角な巨大な頭、そう、彼がかつて酔っ払った友人たちにエレベーターのドアに挟めさせ、開いては閉じ、開いては閉じを繰り返して爆笑を誘ったその頭で…」

 中世の修行僧が、己の価値とは比較にならないほどの巨大さにおののきながら聖典に立ち戻るように、私たちはウォレスの文章に再度向き合う。私がウォレスの精神性への判断に理解が及んでいなかったあいだ、彼を宗教的な作家とだけ捉える見方は間違っていると考えていた。しかし間違えていたのは私の方であり、彼の信仰とは他の多くの宗教のように言葉への宗教だったのだ。だが、ほとんどの宗教が特定の言葉だけを神格化するのに対し、ウォレスは全ての言葉を高尚にする。

 理由その3 ──『インフィニット・ジェスト』は比類のないほど魅力的なキャラクターにあふれた小説だ。どんなに優れた小説家たちでもキャラクターには苦戦するものだが、それはシンプル且つ強固なキャラクターたちを作ることが難易度最上級の作業だからに他ならない。

 ジェイムズ・ウッドという文芸批評家は ──ウォレス作品に対して尊敬に溢れているが徹底的に冷徹な評価をする批評家でもある── 『How Ficition Wroks』において、E.M.フォスターの有名な「フラット」と「ラウンド」というキャラクターの違いに言及している5。「もし私がメインキャラクターとサブキャラクター(ラウンドキャラクターとフラットキャラクター)を巧妙さ、奥深さ、割かれたページ数の観点から分けるとするなら、私はラウンドキャラクターよりも多くのいわゆるフラットキャラクターの方をより生きていると感じ、人間学のように興味深く観察してしまうことを認めなければならない」とウッドは書いたのだが、『インフィニット・ジェスト』を読んでいる、または再読している人は皆、その発言に納得せざるを得ないだろう。どのページを開いても、そこではウォレスのフラットでマイナーで一回限りのキャラクターたちが、美しい模様をもった孔雀たちのように作中をド派手に闊歩しているからだ。ウォレスは単純なシーンを作らないし、キャラクターたちを安直な人生へと小説化しない。むしろキャラクターの眼を通して現実を映すため、形而上学的と言えるほど真剣に取り組んでいる。良い例が『インフィニット・ジェスト』の序盤、「今晩来るって言ってたあの女はどこにいるんだ?」で始まる幕間劇だ(17-27頁)。そこで私たちはパラノイドな大麻中毒者ケン・アーディディー(Ken Erdedy)に出くわすわけだが、彼は待ち焦がれている売人が「自分は歓迎されていないのではないか」と考えてしまうことをひたすら恐れている。週末用に何としてでも手に入れたい200グラムの「超高品質」大麻、それを持っている女性と本当に会う約束をしたのかすら確信が持てない。11ページにもわたって、アーディディーは大麻200グラムを持った女性が現れる姿を何度も妄想しながら、ひたすら待ち続ける。薬物中毒と闘っている人は、この一節を身を捻りながら、喘ぎながら、涙を流しながら読まずにいられないだろう。私は文学においてこれほどまで説得力を持って、明確に感情移入できる形を維持したまま、薬物中毒者の意識を宿しているキャラクターを他に知らない。アーディディーの幕間劇でウォレスがやっていることを文学用語で説明するなら「自由間接話法」になるが、ウォレスを読んでいるとそんな血が通っていない技術上の問題には彼もうんざりしていただろうと感じるはずだ。その代わり、彼はなんとかしてキャラクター自身に憑依せねばならず、顕微鏡のような三人称視点で何度も素晴らしいシーンを書くことができたのもこれが理由だ。この非常に特殊な才能から考えるに、ウォレスはアメリカ文学界のメソッドアクター6とでも呼べる存在かもしれないが、その裏にちょっとしたトラウマの数々が隠れているのは間違いない。そしてアーディディーは『インフィニット・ジェスト』に登場する、それぞれ異なる傷を負った何百というモブキャラの一人に過ぎないのだ! 時々わたしは不思議に思う。アーディディーを創り出すことにウォレスはどれくらいの労力を使ったのだろうか?

 理由その4 ──『インフィニット・ジェスト』は疑うことなしにその時代の小説だ。おそらくこの点における私の証言は党派心に蝕まれているだろう。なぜなら、私がウォレスと同じ世代のメンバーであり(わずかな数だったが)、また作家同士としか友人になれないというタイプの作家であり(そのほとんどがウォレスのファン)、そして『インフィニット・ジェスト』を初めて読むにはおそらく完璧な年齢(24歳、平和部隊のボランティアとしてウズベキスタンにいた頃)だったからだ。素朴なウォレスファンとしての、そして後の彼の友人としての顔を見せるために、ここで紹介者の仮面を脱ぐことを許してほしい。

 ウズベク語の授業の前、早朝の闇の中『インフィニット・ジェスト』を読んでいたとき、私の寝室の壁の向こう、鶏の納屋でホストマザーが餌をばら撒きながら鶏に話しかけているのが聞こえた。牛が興奮して動き回る音、その低く恐ろしい鳴き声、私のベッドの真上の狭い天井裏を約一万匹の野生の猫たちが駆け回る音も聞こえた。ここで私が言いたいのは、こんな場所ではハル・インカンデンツァ(Hal Incandenza)、ドン・ゲイトリー(Don Gately)、レミー・メラズ(Remy マラート)、そしてマダム・サイコシス(Madame Psychosis)の活躍に集中することなんてできないはずだったということだ。しかし実際はそんなことはなく、こんな騒がしい中でも私は毎朝毎朝、何時間も読み続け、徐々に私の意識はぐるぐると回り始めていった。告白すると、最初の数百ページを読んだ段階では私は『インフィニット・ジェスト』が大嫌いだった。なぜか? 嫉妬心、フラストレーション、焦燥感…正確な理由はもう思い出せない。そして私の彼女に手紙を書いていたとき、彼女に平和部隊のボランティア仲間のこと、ホストファミリーのこと、ソビエト時代に集産化された農地を抜ける長い帰り道、それをイエローベルト7のウォレス風の散文のようだと書こうとしたとき初めて、この本によって私の頭の配線が完全に変えられてしまったことに気がついた。これもまたウォレスの素晴らしい能力の一つ、気まぐれに他者の観察力を細部から徐々に侵食してしまうという天啓的な力だ。偉大な散文作家は現実の世界をよりリアルに見せる── 私たちが彼らの散文を読む理由だ。しかしウォレスはより奇妙で仰天させる何かを仕掛ける。彼の作品を読んでいないときでさえ、彼の散文というレンズを通して現実の世界を知覚するよう読者は訓練されているのだ。何人かの作家の名前は形容詞化されてきたが ──カフカ風、オーウェル的、ディケンズな── これには名付けた人物の意向、状況、そして言語化による意味の減衰がある。しかし「ウォレス風」というのは外在的な何かを記述することではない。内在的な、直観的理解と論理的理解の間で、恍惚的に起きる何かを記述することだ。彼は状況を別の言葉で名付けたりしない。作り出すのだ。

 のちに私やウォレスの信奉者、そしてウォレス自身も分かったことだが『インフィニット・ジェスト』でウォレスが切り開いた「無限だと見せかけるスタイル」には限界があった。自分のスタイルを持った偉大な作家たちは皆、結果的にそのスタイルの囚人となってしまい、最後には己の信者たちによって閉じ込められるという屈辱が待っている。しかしウォレスはこの運命を避けることができた。その理由のひとつには、彼が決して別の小説を完成させなかったこと。もうひとつは、彼が自身のキャリアを大きく異なる二種類に分けたことだ ──親しみやすく輝きを放つエッセイスト、そして難解で近寄り難く捻くれたフィクション作家── そして、結果的にその二つの顔が交わることはなかった。違う言い方をすれば、エッセイは出来も良くて面白いのに対し(トゥエイン後では最高だろう)、フィクションの方はよりダークで、理論的にも読むのが難しかった。たとえそれがどれだけ素晴らしかったとしても。

 私が最後にデイヴィッド・フォスター・ウォレスに会ったのは2008年の春のことで、そのときの彼は芸術面で満足感を得ているようだった。今なら、彼の心の奥はそれとは真逆のものだったとわかる。にも関わらず私は、彼が簡潔にほのめかす次回作に興奮してその場から立ち去ってしまった。確かに彼は世代的に重要な一冊の小説を、次の世紀がどのようになるのかを示す小説を書いた。がゆえに、彼が次の小説を書かなかったことが私たちにとっての最も大きな損失といえる。世界がウォレス風のまま残っていることこそ、彼が優れた才能の持ち主だった証しではないか ──ドナルド・トランプよ、こちらがジョニー・ジェントル大統領だ── そして現在、私たちは皆、頭の中でウォレスの「書かれなかった本」を読んでいるのだ。

 デイヴィッド、きみのあの皮肉な笑いは、いま、どこにある? きみのかっぽれ踊りは、歌笑いは、ぱっと花咲く陽気な戯れ言は?8 それはここに、いつもの場所にある。そしてこれからもずっと。きみはいつも私たちを背中におぶってくれた9。きみのため、そしてこの喜びに溢れ絶望に満ちた本のために、私たちは笑い続けよう。永遠に度肝を抜かれ、悲嘆に暮れ、感謝の念を抱きながら。きみに私たちの声が届くという、叶うことのない希望を持ちながら。

──トム・ビッセル
ロスアンジェルス
2015年11月



 これを読んで気になった人、私と一緒に一年かけて読んでみませんか?




  1. 『インフィニット・ジェスト』の設定では、資本主義(新自由主義とも言えるか)があまりにも進化しすぎて、年の名称がオークションされている。

  2. howlingは「吼える、わめく」fantodsは「不安で落ち着かない状態、緊張して落ち着かないこと」の意味。“the howling fantods”で検索するとInfinite Jest関連のサイトしかヒットしない。どうやら作中に実際に使われた有名な言葉のようで、同名のファンサイト、またはこれが元ネタであろうロックバンドもいる。要は“the howling fantods”がこの作品を象徴する言葉ということだ。この事実に見合うだけの日本語を探し出すのはさすがに素人には難しすぎる。

  3. “Ficition’s about what it is to be a fucking human being.”で検索すればDalkey Archive Pressというサイトがヒットし、そこに全文が載っている。インタビュー自体は1993年のもの。

  4. 必要ないとは思うが一応フルネームを書いておくと、ジェイムズ・ジョイス、ソール・ベロー、キングズリー・エイミス

  5. E.M.フォスターは『小説の諸相』(1927年)でキャラクターを「フラット(平面的)」と「ラウンド(立体的)」の二つに分類した。「フラット」とは作品を通して変化がないキャラクターで、脇役がこれに当たる。それに対して「ラウンド」とは作品を通して変化をする(成長していく)キャラクターで、主役がこれに当たる。ごくわずかな数のラウンドキャラクターが、多数のフラットキャラクターたちによって変化していく、という図式が多くの物語に見られるということ。本文で出てくるジェイムズ・ウッズの発言を例えるなら「漫画で人気投票すると主役よりも、脇役や敵役のほうが順位が上だったりするよね」ということだろう。

  6. 自分の経験に基づいて演技する俳優のこと。

  7. 中央アジアから北アフリカに伸びる乾燥地帯はイエローベルトと呼ばれる。

  8. シェイクスピアハムレット』第5幕からの引用。“where be your gibes now? Your gambols, your songs, your flashes of merriment that were won’t to set the table on a roar?”

  9. この文も『ハムレット』第5幕からの引用。ただし、本来はこちらの方が数行ほど先に位置する。“You have borne un on your back a thousand times” 脚注8とともに、訳文は野島秀勝訳の『ハムレット』(岩波文庫 2002年)を参照した。