未翻訳小説を頑張って日々読んでいる日記

未翻訳小説を頑張って日々読んでいる日記

まだ翻訳されていない英米文学をたまに紹介します。

Infinite Jestまとめその2(32-79頁)

 ところで2020年2月末、待望のデイヴィッド・フォスター・ウォレスの翻訳が河出書房から出版された。DFWのテニスに関するエッセイを集めたもので、タイトルは『フェデラーの一瞬』。訳者は『This is a water(それは水です)』を訳した阿部重夫

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買ったばかりなのにすでにボロボロ笑

 とりあえずDFWの入門書として最適な一冊には間違いないので、この記事をクリックしたアメリカ文学好き、DFWに興味がある人は間違いなく買うべき本だ(敢えてAmazonのリンクを貼らないのは、書店で直接購入または注文してほしいからだ)。
 『フェデラーの一瞬』に収録のエッセイのうち「「竜巻通廊」の副産物スポーツ」(“Derivative Sport In Tornado Alley”)と「フェデラーの一瞬」(“Federer Both Flesh And Not”)は、毎度お馴染みPenguin Booksの『The David Foster Wallace Reader』に収録されているので、原文と翻訳を読み比べることも可能。
 その素晴らしい仕事を読めばすぐわかるが、あくまでこのブログは(これでも)簡易的なまとめでしかない。

ハル・インカンデンツァ その3(32-33頁)

時期:ディペンド社大人用下着年(Year of the Depend Adult Undergarment)5月9日
人物:ハル


内容
 電話に出るとき、息子は父と同じ言い回しやイントネーションをしてしまうのものだ。
 ハルは朝練のために6時に寮を出ないといけないが、夕食まで戻らないことが多いためテニス道具から勉強道具まで全ての荷物をまとめなきゃいけない。それも朝練をする必要がない同室の兄弟マリオを起こさないために真っ暗な中で、だ。
 そんなとき電話が鳴った。マリオの身体がベッドの上で跳ね上がり、ハルはすぐに電話を取って透明なアンテナを出した。
「君に教えたいんだ(I want to tell you)」電話の向こうから聞こえてきた。
「伝えたいことで頭がいっぱいだ(My head is filled with things to say)」
ハルは優しく呟いた。「気にしないよ、いつまでも待つから(I don’t mind, I could wait forever)」
 マリオがへなへなと崩れ落ちた。マリオはしばしば寝たまま起き上がったりするのだ。「それがお前の考えてることってわけか」そこで電話が切れた。電話をかけてきたのはオリンだ。ホールからブラント(Brandt)がハルの名を呼ぶ声が聞こえた。
「ハル?」マリオが起きた。マリオの大きな頭蓋骨を支えるには枕が四つ必要だ。
「寝てていいよ、まだ6時だし」
「さっきの誰だったの?」
「多分、マリオの知らない人」


解説
 アーディディーの章と同じ年。ここでハルの兄弟がオリンだけでなく、巨大な頭を持ったマリオもいるということがわかる。しかもE.T.A.の寮で同部屋のようだ。冒頭の「父と子の電話対応が似ている」というのはここだけではよくわからない。

用語

  • (午前)6時:基本的に『IJ』では時間は24時間表記(Mililtary Time)。原文では0600h( = zero-six-zero-zero hours)となっている。

  • “I want to tell you, My head is filled with things to say”
    “I don’t mind, I could wait forever”
    というマリオとハルの会話は、The Beatlesの“I Want to Tell You”の歌詞。作曲はジョージ・ハリスンで『Revolver』(1966年)に収録。

医務官その1(33-37頁)

時期:ディペンド社大人用下着年(Year of the Depend Adult Undergarment)
人物:医務官

内容
 アラブ人とカナダ人の混血である医務官(medical attachés)は、ホーム・エンタテイメントのサウジアラビア代表、Q ──王子(Prince Q ──)のインターレース・テルエンタテイメント(InterLace TelEntertainment)と巨大な契約を結ぶための訪米にプライベート耳鼻科医として同行、研修医のとき以来8年ぶりにアメリカ大陸の地を訪れていた。Q ──王子はトブラローネ(Toblerone)しか食べないためにカンジダ・アルビカンスに悩まされていて、副鼻腔炎や鵝口瘡の予防のために排膿法でほぼ毎日膿を出す必要があるのだが、医務官はその技術において無比の人であると石油産業国家の間では知られていたのだ。
 報酬はとてつもない額だったが、今回の同行で医務官のやることはQ ──王子の膿を取ることだけという、まあ吐き気を催すような内容。そんな医務官のリラックス法は、豪華なアパートに帰ってリラックスして過ごすことだ。しかし敬虔なイスラム神秘主義者の医務官は、ドラッグもお酒も、化学薬品も摂取してはいけない。なので医務官は100%ハラルの夕食をリクライニングシートのトレイに置き、事前に選んでセットしておいたエンターテイメント・カートリッジを妻と一緒に寝落ちするまで見続けるのだ。
 しかし水曜日の夜は違う。なぜなら水曜日は医務官の妻が他の公使館員の妻たちと一緒にアラブ女子テニスリーグに参加する日であり、またアメリカでは店頭に新鮮なトブラローネが並ぶ日のため医務官が一日中付きっきりで世話をせねばならない日だからだ。そんなY.D.A.U. 4月1日の水曜日、医務官は処置に失敗し、Q ──王子から大目玉を食らってしまう。18時40分に帰宅した医務官を待っていたのは、薄暗い部屋と冷めた夕食と、そしてカートリッジが用意されていないという最悪の状況だった。
 イライラしながら何かカートリッジはないかと医務官が探し回ると、いつもは妻が先に簡単なチェックをしている郵便物の中に一本変わったカートリッジを見つけた。ブラウン一色のカートリッジケースに入っていてタイトルはなし。差出人欄には、小さな笑っている顔の絵とともに「HAPPY ANNIVERSARY!」とだけ書かれていた。「Anniversary」が「Birthday」の意味に使われることはないし、医務官と妻が結婚したのは10月で4年前のことだ。それにQ ──王子関連の配達物なら外交用の印が押されてあるはず。中身は通常の黒のエンターテインメント・カートリッジでやはりラベルはなし、登録・時間情報が刻印されているところには代わりに笑った顔文字がある。医務官はそのカートリッジをもう少しで捨てるところだったが、他に選択肢もないのも事実。
 彼がハラル料理をトレイにおいて、カートリッジをセットし、リクライニングシートに座ったとき、テレピューターの時刻は19時27分を指していた。

解説
 唐突に中東の王族と付き添いの医務官が登場。「ハル・インカンデンツァ その2(27-31頁)」で少しだけ触れられる「医務官」(「君のお母さんが30も年の離れた医務官(medical attachés)と遊び回っているんだよ?」)と同一人物なのだろうか?

用語

  • トブラローネ(Toblerone):細長い三角柱型のチョコレート菓子。画像検索すればすぐわかるはず。

ウォーディンへの虐待(37-39頁)

時期:ダヴ・お試しサイズの年(Year of the Trial-Size Dove Bar)
人物:子供たち─Wardine(ウォーディン), Reginald(レジナルド), Clenette(クレネッテ), 大人たち─Wardineの母, Roy Tony(ロイ・トニー)

内容
 ウォーディンが母が私の面倒をみてくれない、と言っていたとレジナルドが教えてくれたので、レジナルドとクレネッテ、私とで彼の住んでるビルへ行った。私が泣いているウォーデンの顔を拭き、レジナルドが慎重に服を脱がすと、ウォーデンが背中の傷を見せてくれた。母にハンガーで打たれるんだ、母の男、ロイ・トニーが私と一緒に寝ようとするんだ。レジナルドは、ウォーデンの母が仕事でいない夜、ロイ・トニーが彼女の横にやってきて息を吐くんだと言った。ウォーデンは、母がお前がロイ・トニーを誘っているんだとハンガーで叩くんだ、と言った。私の母は、ウォーデンの母は正気じゃないのよ、と言っていて、ロイ・トニーを恐れていた。レジナルドはウォーデンを愛していて、彼女を救いたいが、そんなことをしたらロイ・トニーに殺されるだろう。ロイ・トニーは4年前に殺人をしていて仮釈放中だ。ロイ・トニーはウォーデンの父親の兄弟でもある。ウォーデンは言った、レジナルド、私の異父母の姉よ、絶対にあなたたちの母親には言わないで。
 でもレジナルドは言うだろう。ウォーデンに手を出すのをやめろと言うだろう。そしてロイ・トニーはレジナルドを殺して、ウォーデンは母に叩かれるだろう。知っているのは私だけになる。そして私のお腹には赤ちゃんがいる。

 8年生になったとき、ブルース・グリーンはクラスメイトのミルドレッド・ボンクという美しい女性に恋に落ちた。
 10年生になったとき、ミルドレッド・ボンクは校内でタバコを吸い、授業中に抜け出して車を飛ばしビールを飲んで大麻を吸うワルになってしまった。
 卒業するはずの年になると、ブルース・グリーンはミルドレッド・ボンク以上のワルになっていた。2人はハリネット・ボンク・グリーンと、さらに他のカップルや水槽に大きな蛇を飼っているトミー・ドゥーシーたちと、オールストン(Allston)のトレーラーで暮らしていた。ミルドレッド・バンクは家で連続ドラマのカートリッジを観ながらハイになっていて、ブルース・グリーンはレジャー・タイム・アイスで仕事をしていた。人生ってのはつまりはひとつのデカいパーティーなんだ。

解説
 また唐突に初登場キャラの話が始まるだけでなく、文体もこれまでと全く違う。三単現と時勢を無視し、動詞はずっと原型(例:“she be cry”)の語り。実はこれ、黒人英語。最初は面食らうが、読んでいくとなんとなく意味は掴めてくる。そして分かってくるのが、母のパートナーからの性的虐待という重い話。

用語

  • Trial-Size Dove Bar:“Dove”というと誰もが石鹸のことを思い浮かべると思うが、実はアメリカに全く別の会社で表記は同じ“Dove”というチョコレート会社がある(2019年に日本に初上陸したそうで、その際の日本語表記は「ダブ」。阿部重夫訳『フェデラーの一瞬』収録の「マイケル・ジョイスの一流「半歩手前」」にも出てきていて、ここでは「ドーヴ・バー」と表記している)。“Bar”という単語は「平面で囲まれた固形物」という意味であり、石鹸の“Dove”にもチョコレートの“Dove”にも取れる。とりあえず“v”の字があるので「ダヴ」としたが、フォーラムサイトでも「どちらの“Dove”なのか」明確な答えは出ていないようだ。

  • Allston(オールストン):マサチューセッツ州ボストン市内の地区。

ハル・インカンデンツァ その4(39-42頁)

時期:ディペンド社大人用下着年(Year of the Depend Adult Undergarment)
人物:ハルとマリオ

内容

「ハル」
「…」
「ねえ、ハル?」
「何? マリオ」
「もう寝たの?」
「もういいでしょ。ずっと喋ってたら眠れないよ。目を閉じてぼんやり考え事でもしてて」
「それ、いつも母さんが言ってたことだ。ハルは僕がかわいそうだから一緒の部屋にしてくれたんだよね。ねえ、また同じこと聞くけど、ハルは神様を信じているの?」
「また?一週間に一回は聞くよね」
「でも理由は聞いたことないよ」
「しょうがないな。これ聞いたらもう寝ろよ。俺は死刑反対派だけど、どうやら神は死刑賛成派なんだ。この問題に関しては彼と意見が一致するとは思えないんだよな」
「彼自身が死んでからその話してるよね」
「…」
「そうじゃなかったっけ?」
「ああ、言ったことある」
「僕にはハルが神を信じていないっていうのがよく分からないんだよね」
「マリオ、俺たちにもお互い分からないところはあるんだ。横になって静かに考えてみな」
「ハル?」
「…」
「どうして母さんは彼自身が死んだときに泣かなかったの? C.T.も泣いてたし、ハルも〈トスカ〉を聴きながら泣いてたよね」
「…」
「彼自身が死んでから、母さん幸せそうに見えない? 飛び回るのもやめたし」
「あの人はどこにもいかないよ。校長の建物とオフィスとその間のトンネルにいて、もう地上を離れることはないよ。これまで以上にワーカホリックになったし」
「どうして母さんは悲しくないの?」
「悲しんだよ。彼女なりのやり方で悲しんだのさ。間違いない」
「ハル?」
「あのとき、正門の前で半旗を掲げたのを覚えている?」
「ハル?」
「半旗を掲げるのには二つ方法があるんだ。あと数秒で寝落ちするからよく聞いてろよ。ひとつは旗を半分の位置まで下げること。もうひとつは、ポールを元の高さの二倍高くすることだ。マリオ、言ってることがわかるか?」
「ハル?」
「とても悲しかったのさ、本当さ」

 ディペンド社大人用下着年、4月1日、時刻は20時10分、医務官はラベルが貼られていないエンターテイメント・カートリッジをまだ観ていた。

解説
 E.T.A.でのインカンデンツァ兄弟の会話。父(彼自身)がこの時点で亡くなっていることがわかる。半旗の話は不思議な余韻がある。

用語

  • トスカ:ジャコモ・プッチーニ作曲によるオペラ。ナポレオン戦争直前の1800年のイタリアを舞台に、画家カヴァラドッシとその恋人トスカの悲劇を描いたもの。画家カヴァラドッシは脱獄した政治犯を匿った罪で死刑を宣告される。トスカはカヴァラドッシを拷問した警視総監に彼の命を助けるよう懇願すると、警視総監は彼女の身体を要求。それを受け入れたトスカは「銃殺刑は空砲で行う」という約束を取り付ける。その後、トスカは警視総監を殺害、カヴァラドッシに「刑は空砲で行われるから死んだフリをするように」と伝える。そして刑が執行され、トスカがカヴァラドッシの元へ行くと彼は死んでいた。実は警視総監の約束は嘘で、当初の命令通り銃殺せよという指示が出されていたのだ。そのときトスカによる警視総監殺害が発覚し、絶望したトスカは自ら命を絶つ。

ハル・インカンデンツァ その5(42-48頁)

時期:ディペンド社大人用下着年(Year of the Depend Adult Undergarment)10月
人物:オリン・インカンデンツァ

内容
 背番号71、オリン・インカンデンツァは7時30分に起きた。いつもようにベッドには汗の染みができていて、香水の香りと電話番号が書かれた女性のノートが残されていた。
 彼は朝食を作ってマンションの中央にあるプールで食べることにした。ガラスを抜けて入ってくる日差しは暑い。そよ風でプールの端に浮かんでいたビーチボールが反対側へと流れていき、ロッド・スチュワートの髪型のようなヤシの木が揺れた。
 オリンがシカゴの試合からここに戻ってきたのは二日前でそれよりさらに三日前のこと、プールに隣接したジャグジーにオリンが浸かっていたら、突然空から鳥が降ってきた。彼はサングラスの角度を下にしてよく見てみたが、確かに鳥だ。プレデターではない。これは何かよくないことが起こる兆候なのだろうか。
 オリンはシャワーを浴びるときはいつも温度を高めに設定していて、これには理由がある。オリンには苦手なものがいくつかあり、高いところ、朝、そしてゴキブリだ。ゴキブリはオリンに“the howling fantods”を感じさせる。何度業者を呼んで駆除してもらっても出てくるし、しかもこの地帯にいるゴキブリはこっちに飛んできやがる。熱湯でシャワーを浴びれば排水管からゴキブリが出てくる可能性が少なくなるからだ。
 虫と高いところの組み合わせの夢なんか見た朝は、コーヒーを3杯、シャワーを2回、たまにはランニングをして締め付けられた魂をほぐしてあげないといけない。最近は悪夢にもうなされる。大抵そんな夢はテニスの試合が舞台になっている。昨夜は、自分の顔の周りを母、アヴリル・M・T・インカンデンツァの顔が覆いかぶさったままテニスを試合をするという夢だった。
 昨夜一緒に寝た女性のノートによれば、オリンは腕を伸ばしてタックルにきた相手を押しのける動きを彼女に対してしていたそうだ。彼女は発達心理学を専攻するアリゾナ州立大学院生で、2人の子持ち、許しがたい額の扶養手当を受給されていて、好きなものは尖ったジュエリー、キンキンに冷やしたチョコレート、睡眠中に叩いてくるプロスポーツ選手、そしてインターレース教育カートリッジだった。
 オリンは彼女と一緒に統合失調症に関するインターレース教育カートリッジを観たことがある。患者の脳波を測定するためジェームズ・キャメロンフリッツ・ラングがデザインしたようなすっぽり頭を覆う測定器が出てきて、患者の脳波が赤と青で画面右下に表示される内容だった。オリンはそれを見て、早く彼女が出て行ってくれればゴキブリを始末したり彼女の子供に何をプレゼントに送ればいいか決められるのにと思っていた。
 雑誌のインタビューに協力しろという知らせでオリンはまたストレスを感じ、ハリーにまた電話したくなってしまうのだ。

解説
 ハルの兄弟、オリンのエピソード。同じインカンデンツァ一家であるので、メインキャラのハルと同じ括りとして「ハル・インカンデンツァその5」としておいた。冒頭で、ハルの回想に出てきた人物だ。
 オリンは過去にE.T.A.に在籍していたが、現在はアリゾナ・カーディナルス(Arizona Cardinals)に所属するアメリカンフットボールNFL)の選手になっていることがわかる。ちなみに14頁に“The brother’s in the bloody NFL”という箇所もあった。相当な女好きの様子。夢の内容から、ゴキブリと同じくテニスと母にもトラウマめいたものがあるのだろうか?
 ヤシの木をロッド・スチュワートに例えたり、突然空から降ってきた生物を「プレデターではない」と言ったりと、ポップカルチャーに絡めたネタは思わず吹き出してしまう。最後のハリーとは「電話したくなる」ということからも昨夜を一緒に過ごした女性の名前だろう。

用語

  • オリンはゴキブリをみると“the howling fantods”を感じるそうで、このキーワードが少し感覚的にわかるようになったかもしれない。

ハル・インカンデンツァ その6(49-55頁)

時期:ディペンド社大人用下着年(Year of the Depend Adult Undergarment
人物:ハル・インカンデンツァとE.T.A.の面々

内容

 ハル・インカンデンツァは17歳。E.T.A.地下のポンプ室でひとりワンヒッターで大麻を吸ってハイになっている。ハルが大麻を吸っていることは秘密で、ワンヒッターを使っているのも、ポンプ室で吸っているのもこれがもっともバレないやり方だからだ。
 ハルが大麻を吸っているのを知っているのは、マイケル・ぺミュリス, ジム・ストラック、ブリジェット C・ブーン、ジム・トレルチ、テッド・シャハト、トレヴァー・アクスフォード、カイル D・コイル、そしてトール・ポール・ショー、あともしかするとフラニー・アンウィン。バーナーデット・ロングリー(Barnadette longley)、Kfreerも知らないわけがない。ハルの兄弟のマリオも多少は知っているようだ。オルソー・スタイス(Ortho Stice), パートリッジ・KS(Partridge KS)は知っている。そしてハルの兄、オリンは遠いところにいながら知っている。
 ハルの母、アヴリル・インカンデンツァと義理の兄弟チャールズ・テイヴィスはハルがドラッグ、特にボブ・ホープ(Bob Hope)をやっていることは知らないが、彼が時々お酒を飲むことは知っている。特にアヴリルはハルの父親、ジェームズ・O・インカンデンツァ博士が生きていた頃の飲み方を知っているので心配しているが、カウンセラーのラスク先生の助言もあって、テニスと学業の成績から大丈夫だろうと考えている。
 快楽用の薬物はアメリカの高校では多かれ少なかれ慣習になっているが、それはおそらくとてつもない不安から逃れるためなのだろう。児童期の終わり、思春期、将来への不安、目前に迫る成人期。E.T.A.の生徒が飲酒や薬物の使用がわかると即除籍処分になるのだが、指導するスタッフ(prorector)も自身の試合をこなしつつ指導するという激務に追われて薬物依存になっているのだ。ハルは薬物でハイになることよりも、それを隠すことにどうしてこんなに執着しているのか自分でもわからなかった。

 4月2日、0時15分。医務官はまだラベルのないカートリッジを見続けていた。
 5月18日、マリオ・インカンデンツァはコーチに言われて、E.T.A.の生徒のプレイを記録するための装置の製作を手伝っていた。

 

解説
 E.T.A.関連の登場人物が一気に増える章。ハルの友人たちはもちろんだが、両親の名前(父ジェームズ、母アヴリル)も判明する。そしてE.T.A.だけでなくアメリカ中の多くの若者がドラッグ中毒になっているという。この章では脚注を使いつつ多くのドラッグ、化合物が専門用語を使って説明されている。分からない名詞があればほぼそれだと思っていい。
 内容には書かなかったが、中盤にE.T.A.の敷地内の説明がある。非常にややこしい文章と単語で書かれているので(脚注3「E.T.A.はカージオイドのように広がっている」)、以下のイラストを参照してもらいたい。これらの建物のいくつかがトンネルでつながっている。

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出典:thehowlingfantods.com

 医務官は謎のカートリッジを19時27分に見始めたので、この時点で約4時間45分見続けていることになる。


用語
 とにかくドラッグと化学用語が多いので省略。ボブ・ホープ(Bob Hope)は少し後にも登場するので書いておいた。
 ここでも“howling fantods”が出てくる。マイケル・ぺミュリスとジム・ストラックに対して母アヴリルが“the howling fantods”を抱いている(“both of whom Avril a howling case of the maternal fantods”)。



ドン・ゲイトリーその1(55-60頁)

時期:アメリカンハートランドの日用品年
人物:ドン・ゲイトリー

内容
 ドラッグ中毒者はドラッグを買うお金を得るために犯罪に走るが、殺しではなく強盗を選ぶものだ。27歳、巨大な頭を持つドン・ゲイトリーはその中でも才能に溢れたプロの強盗。例えば、地方検事補によって3ヶ月刑務所に入れられてしまったゲイトリーは、公選弁護人によって訴えが取り下げられたあと、信頼できる仲間と一緒にとある復讐を行った。
 地方検事補夫妻が外出しているときを見計らい、2人は電源を切断し侵入、そしてゲイトリーは警報機を細工し、約10分後にアラームが作動するように仕掛けた。あたかも盗みの途中でアラームが鳴り慌てて逃げ出したような印象を残すためだ。警察と夫妻が家に戻ってくると、盗まれたのは硬貨のコレクションとアンティークのショットガンだけ。高価な品々は床にまとめられていたものの、持ち出す時間がなかったのだと考えた。
 それから約1ヶ月後、検事補夫妻の元に一通の封筒が届く。封筒の中に入っていたのは、アメリカ歯科医協会による日頃の口腔衛生の重要性を説くパンフレット、そして2枚のポラロイド写真。その写真にはそれぞれハロウィンの被り物をしたゲイトリーと仲間が写っていた。2人ともパンツを下げて膝を折り曲げていて、写真の焦点は彼らのお尻から突き出ている夫妻の歯ブラシに向けられていた。
 ある日、そんなゲイトリーと仲間が誰もいないだろうと思ってマサチューセッツはブルックラインのとある家に侵入すると、1人だけに家に残っている人物がいた。その小さな男は家主であり、風邪で1人だけベッドに寝ていたのだ。しかしドラッグが欲しくてたまらないゲイトリーはそのまま盗みを強行することにし、家主をキッチンの椅子に縛り上げ、猿ぐつわを噛ませた。やめてくれ、いまひどい風邪をひいていて、鼻だけじゃ呼吸できないんだ、なんなら高価なものがどこにあるかも教えてもいい、しかし家主の言葉はゲイトリーには海のカモメが鳴いている程度にか聞こえなかった。
 実はこの縛られている男、「巨大な凹面地帯」の反O.N.A.N.の幹部として悪名高い人物で、アメリカとO.N.A.N.同盟国にとっての「巨大な凸面地帯」を「返還」されることがカナダの主権、名誉、そして衛生を踏みにじる行為であると意見が一致している本来は対立する2つの団体、ケベック分離派とアルバータ州の極右団体との連絡役を務めるためにボストンに引っ越してきた、「カナディアン・テロリズム・コーディネーター」だったのだ。  ゲイトリーとその仲間は盗みを終えると、その男、ギョーム・デュプレシスを縛ったまま家を去った。デュプレシスはそのまま窒息死し、警察がデュプレシスの遺体を発見した時、椅子に座り続けているかのような姿勢のまま運ばねばならなかった。

 ディペンド社大人用下着年:インターレース・テレエンターテイメント、932/1864 R.I.S.コンピューター、新型OS “Pink2”、新型衛星システム、ピクセルフリー・インターネット・ファックス、ユシチュ(Yushityu)・ナノプロセッサー

解説
 メインキャラの1人と思われるドン・ゲイトリーが登場。こちらもドラッグ中毒。原文では「Burglary」(強盗あるいは住居不法侵入)と「Robbery」(強盗、強奪、略奪)を使い分けている。つまり「Burglary」の達人ゲイトリーが仲間と一緒にとある家に押し入ると住民が残っていて、「Robbery」になってしまったということ。そして彼が誤って殺してしまった人物が実は反O.N.A.N(後述)の重要人物だった。
 被害者のギョーム・デュプレシス(Guillaume Duplessis)と似た名前が「ハル・インカンデンツァその2(27-31頁)」の父ジェームズと子ハルとの会話に出てくるが(「悪党どもと君の家族の、下劣な不義を私が知らないとでも? 汎カナダ・レジスタンスの悪名高いM・デュプレシと彼の邪悪な書記であるルーリア・P…)、ファーストネームが異なるし、M・デュプレシは実在した政治家のことだと思われるので、別人物には間違いないが何か関係はあるのかもしれない。
 最後に唐突に出てくる単語の羅列は、(解説サイトによると)ディペンド社大人用下着年の発明品の羅列だそうだ。ディストピアを感じさせるそうだが、私にはさっぱり何がな何だか…。

用語

  • ゲイトリーと一緒に盗みを働く「仲間」には脚注がついていて、ゲイトリーの小さい頃からの友人、Trent (Quo Vadis) Kiteという人物だという。Quo Vadisとはラテン語で「お前はどこへいく?」の意味。

  • ブルックライン:マサチューセッツ州ボストン市内の地区。「ウォーディンへの虐待(37-39)」で登場するオールストンの隣。

  • O.N.A.N:アメリカ、カナダ、メキシコから成るOrganization of North American Nationsのこと。訳すなら「北アメリカ連合」あたりか。ちなみに小説冒頭に出てきたのは「O.N.A.N.C.A.A.」で、「O.N.A.N.」に大学競技協会がついたもの。

  • 「巨大な凹面地帯(the Great Concavity)」「巨大な凸面地帯(the Great Convexity)」:解説サイトによると、ここで話題になっている土地はアメリカとカナダの国境線を含むニューイングランドメイン州バーモント州マサチューセッツ州)からニューヨーク州に渡る土地の一部を指す。この地帯が、アメリカ側から見ると凸面をしていて、カナダ側から見ると凹面をしているということ。以下の画像を参照。

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    出典:infinitesummer.org
     この土地がカナダ側に“gift or return”されることに対して、なぜカナダ側(ケベック分離派、アルバータ州の極右団体)が怒っているのだろうか?(解説サイトでは理由を説明しているが、この時点ではまだ言及はないはず。見落としがなければだが…)

ハル・インカンデンツァ その7(60-63頁)
時期:ディペンド社大人用下着年(Year of the Depend Adult Undergarment)11月3日
人物:ジム・トレルチ、悪夢

内容
 B寮204号室のジム・トレルチは、E.T.A.内のランキングは18歳男子で8位でシングルではBチームで2位。しかし彼はまた風邪をひいてしまった。昨日のランチのときにグラハム・レイダーに移されたのではと疑っている。レイダーにバチが当たるように熱でうなされる中お祈りした。2人のルームメイト、Schachtとぺミュリスは部屋にはいない。トレルチは半分寝て半分起きながら、東側のコートからシャンパンのコルクを開けるような音を聞いていた。
 すると霊的なガチャという音がして、君は白昼夢から目を覚まし起き上がる。寮の中に誰か部外者がいると確信するが、君はまた横になり天井を見上げる。

 悪夢の感覚は、最悪の夢の形式と一致する。悪夢の本質とはいつも君のそばにあるのだ。起きている時でさえも。君の最初の悪夢は家や友人から遠く離れた、アカデミーの最初の夜のことだ。突然、この暗くて奇妙な寮の部屋の中に悪の真髄がいるという感覚に襲われる。君以外誰も気がついていない。そして注意深く床を照らしてみると、そこにひとつの顔を見るだろう、悪の顔を。
 そして君は目覚める。起きたあと床にあるのは、散らかった用具と汚い服、木目の床。 そして顔はどこにもない。

解説
 前半は三人称で「ハル・インカンデンツァ その5(49-55頁)」で登場した生徒の話。途中から人名ではなく“you”が多用されてきて、空行のあと「悪」による一人称になる。「君」と訳したが、風邪をひいているトレルチだけに語っているのではなく、E.T.A.の生徒全員が「悪夢を見たのは自分だけ」と思っているということだろう。個人的な話だが、最近『ツイン・ピークス』を観ているのでこの「悪夢」のパートからリンチっぽいものを感じてしまう。
 ハルは登場しないが、E.T.A.の話なので「ハル・インカンデンツァ」に加えている。



ハル・インカンデンツァ その7(63-65頁)

時期:ディペンド社大人用下着年(Year of the Depend Adult Undergarment)現在
人物:ジェームズ・O・インカンデンツァ

内容
 E.T.A.はジェームズ・オリン・インカンデンツァ博士によって設立され、その後、チャールズ・テイヴィスに引き継がれた。ジェームズ・オリン・インカンデンツァの父親はテニスの神童で優秀な若き俳優でもあったのだが、結局プロテニス選手としては成功せず俳優としても全く落ち目になりアル中になった。
 ジェームズ・インカンデンツァもまたテニスの神童であり、その傍、光物理学で博士号を取得、海軍の研究所に入ることに。そこでフォードからパパブッシュの時代にかけて、彼が大いに貢献したリチウムの陽極酸化レンズにおけるガンマ線屈折率は、常温輪状核融合の実現とアメリカとその同盟国がエネルギー面での諸外国への依存から脱却することを可能にした重要な発見のひとつとみなされている。その後、民間に活躍の場を移し、光学に関する様々な発明の特許を取得、その成功によって教育学上実験的なテニスアカデミーを作った。やがて彼は自身に成功をもたらした科学の世界から身を引き、実験的な後衛芸術映画製作を始めた。時代を先取りとも時代遅れとも言えない彼の作品は、彼が亡くなったダヴ・お試しサイズの年(Year of the Trial-Size Dove Bar)でも評価されることはほとんどなかった。
 インカンデンツァ博士がトロント大学の学会で出会った女性こそ、北アメリカの学術界では類稀な美貌と実績の持ち主だったマギル大学アヴリルモンドラゴンだった。彼女は大学院時代にケベック分離派のメンバーと接点を持ち、RCMP(カナダ騎馬警察隊)の“Personnes à Qui On Doit Surveiller Attentivement(フランス語:常に監視が必要な人物)”リストに入っていたので、アメリカの永住権はもちろんビザの取得も厳しかった。第一子オリンの誕生がそれをクリアする法的な策略のひとつだったことは否めない。
 ジェームズ・インカンデンツァは最後の5年間、資産や特許を整理しE.T.A.の彼の妻の義理の兄弟に譲り、54歳で自殺した。彼の訃報は少なくとも3つの世界に深い悲しみをもたらし、ジェントル大統領からも弔辞が送られてた。彼の遺体はケベック州リスレット群に埋葬された。

解説
 ハルの父親ジェームズ・(オリン)・インカンデンツァの章。父(ハルにとっての祖父)と子と同じくテニスの神童で本作に出てくる科学技術に多大な貢献をした。
 チャールズ・テイヴィスは小説冒頭に出てきたC.T.であり「彼の妻の義理の兄弟」のこと。母アヴリルケベック分離派と繋がっていたという情報は、直前の章と「ハル・インカンデンツァ その2(27-31頁)」の会話にもリンクし、ケベックを巡る様々な陰謀が全体のストーリーに絡んでくるのは間違いない気がしてくる。
 ジェームズの自殺で深い悲しみをおぼえた「3つの世界(in at least three worlds)」とは何を指すのだろうか? ちなみに作者ウォレスが自殺したのは46歳のとき。

脚注
 しかしここで読者を驚愕させるのが、脚注24(985-993頁)だ。地名やドラッグを説明するためだったこれまでの脚注と比べると、脚注24は凄まじい。映画を撮り始めたジェームズの長い一文に付けられた脚注24、そのページに行ってみるとドキュメンタリー、未完成、未発表作も含むジェームズの撮った映画リストが始まるのだ。全部で73作品、長さは8頁にもなる(連作は1作品とカウント)。狂気の沙汰とはまさにこれのこと。

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JAMES O. INCANDENZA: A FILMOGRAPHY

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脚注はさらにフォントが小さい

 その作品の中には『Infinite Jest』もあり、ジェームズの死の際に取り組んでいた作品は『Infinite Jest 5』だ(『IJ5』の説明にはメインキャラクターの1人と思われる、マダム・サイコシスの名前も出てくる)。

用語

  • フォードからパパブッシュ:およそ1974年から1989年にかけて。

  • 常温輪状核融合(cold annular fusion):常温核融合(cold fusion)は、1989年にイギリスのマーティン・フライシュマン教授とアメリカのスタンレー・ポンズ教授によって発表された。本来、膨大なエネルギーを必要とする核融合反応(核融合反応を利用した兵器である水素爆弾は、原子爆弾を起爆装置として利用している)を常温で観測したという衝撃的な発表だったが、それ以降観測に成功した追試はなく、当該の実験環境が杜撰だったという指摘もされ、現在ではほぼ否定されている「夢の技術」。『IJ』で成功したのは“cold annular fusion”(脚注24からジェームズが『Annular Fusion Is Our Friend』という映画を撮ったことも分かる)だが、「輪状核」または「輪状核融合」という用語は現在のところ存在しない。

  • 後衛芸術(aprés-garde):“avant-garde”(前衛芸術)の反対語としての意図があるので「後衛芸術」としてみた。「後衛芸術」で検索すると表示されるキッチュ(Kitsch)と同じかどうかはちょっとわからない。原文では“ ‘aprés-garde’ experimental- and conceptual-film work”.



ハル・インカンデンツァその8(65-68頁

時期:ディペンド社大人用下着年(Year of the Depend Adult Undergarment)11月1日
人物:オリン → E.T.A.のぺミュリス → ハル

内容
「こういうの大嫌いなんだよ!」オリンは近くを滑空する人に手当たり次第叫んだ。赤い作り物のナイロン製の翼がカタカタ音を立てている。嘴のせいで呼吸がし辛い。最悪なのはスタジアムの縁から飛び降りる瞬間だ。マイル・ハイ・スタジアムのうるさいスピーカーは鉄が擦れる音がしてグラウンドに降り立っても何が流れているのか分からない。オリンはチームメイトはもちろん、チームのカウンセラーにもヴィジュアル化療法士にも、自身の高所恐怖症と滑空恐怖症のことは教えていなかった。
「俺はパントをするんだ! 俺は毎試合長く、高く、上手にパントをするから給料をもらっているんだ! 俺はアスリートで、見世物小屋パフォーマーじゃねえ! 交渉のときに空を飛ぶなんて誰も言ってなかったじゃないか」

 有機幻覚ムッシモール(The organopsychedelic muscimole)、イソオキサゾールアルカロイド(isoxazole-alkloid)を含むベニテングダケAmanita muscaria)を、決してタマゴテングダケ(phalloides)やシロタマゴテングダケ(verna)や、北米に生息するその他「食べたら死ぬ」テングダケと混同してはならない、マイケル・ぺミュリスはそう熱弁した。聞いている小さな子供たちはビューイング・ルームの床にインディアン・スタイルで座っていて、うるうるした目であくびをしないように我慢していた。

 残念なことなのだが、よりギリギリのランクにいる選手は多分12歳ぐらいから始める人もいる。僕が始めたのは15歳、いやほとんど16歳になるころで、消灯前に16歳以下の人たちが集まっている部屋でやってみるかと誘われたんだ。何週間も同じ不快な夢を見ては途中で起きるを繰り返して、パフォーマンスもランクも落ち始めていたときで、なんとか眠れるようにと薬物を使ったんだ。
 その夢というのは、今でもみることがあるんだけど、とにかく壮大なテニスコートのベースラインに僕が立っている夢なんだ。明らかに対抗戦(competitive match)なんだけど、コートがサッカーのフィールドぐらいあるし、ラインも色々な方向にしかも斜めに走ったりして複雑な図を描いている。そして観客もいるしアンパイアもいるんだ。僕がその観客の中に母がいるのを見つける。母は拳を上げて、あなたを無条件に支えると伝えていた。
 アンパイアがプレーを始めてくださいと言ったので、僕たちはプレイした。「僕たち」というのは仮説で、なぜなら相手がいるかどうか見えないし、この試合の仕組みもわからないからだ。

解説
 オリンが出場しているNFLの試合のシーン。チームにちなんだコスチュームをまとって入場しているところまでは確実だが、タッチダウンしてコスチュームが剥がれ落ちる描写があったり(“first player touches down and sheds the red-feathered promotional apparatus”)、別のチームでのコスチュームの話(“In New Orleans it was just robes and halos once a season a zither”)があるので、どうやら着たまま試合をしているらしい。もちろん実際のアメフトでそんなことはしない。
 そのあとはE.T.A.内で年下の子に向かって幻覚作用を起こすキノコについてぺミュリスが指導しているシーン。その様子を「パウワウ(powwow)」のようだとも書いている。
 そしてハルの一人称で、ドラッグ使用歴と夢の話が始まる。

用語

  • Mile High:オリンが所属するアリゾナ・カーディナルスが対戦しているのはデンバー・ブロンコス(Broncos)。そのブロンコスの本拠地スタジアムがマイル・ハイ・スタジアム。最も騒がしいスタジアムと言われていた。老朽化のため2000年に閉場、2001年に取り壊し。すぐ隣に新スタジアムが建設されて跡地は現在駐車場。
     ちなみにアリゾナ・カーディナルスのロゴは赤い鳥をモチーフにしていて、ブロンコスは馬、オリンがかつて所属していたニューオリンズ・セインツはフランス国王の紋章。

  • 毒キノコ:ぺミュリスが説明しているのはハラタケ目(Agaricales)テングダケ科(Amanitaceae)のこと。猛毒をもつキノコが多いが、ベニテングダケアメリカでの通称はフライ・アガリック・マッシュルーム)は毒性が比較的弱い。ベニテングタケを乾燥させるとイボテン酸(イソオキサゾールはこの中に含まれている)の毒性が薄まったムッシモールに変化する。ムッシモールを摂取すると酒に酔ったとき近い症状が現れ、摂取し過ぎると、腹痛・下痢・嘔吐を起こす。より重い症状が出る場合もある。

  • パウワウ(powwow):このブログの「Tommy Orange『There There』」の記事を参照。


ケイト・ゴンパートの鬱と自殺願望(68-79頁

時期:ディペンド社大人用下着年(Year of the Depend Adult Undergarment)
人物:ケイト・ゴンパート → 医務官

内容
 医者は暖かい個室に顔を突っ込み、開いていた扉を優しく叩き、横になっている彼女の姿を目にした。膝をお腹まで抱えたその姿勢は、エフトゥシェンコ(Yevtuschenko)の『臨床症状図鑑(Field Guide to Clinical States)』の口絵に使われたヴァトー(Watteau)時代の憂鬱な絵のようだ。
 患者はキャサリン・A・ゴンパート(Katherine A Gompert)、21歳。マサチューセッツ州ニュートン在住。ウェルズリー・ヒルズ不動産会社で事務として勤務。3年間で4度目の入院。診断は単極性うつ病。これまで3度の自殺未遂。医者─実はまだ医学博士ではなく研修医なのだが─は、彼女にこれまで使用した薬に関してなど、いくつかやり取りをしていった。
 ケイト・ゴンパートは言った。「私は自分を傷つけようとはしていない。自分を殺そうとしたの。その2つは別々のことなの」彼女は続けた。
「自殺にはいくつか種類があると思う。私は自己嫌悪型じゃない。いわゆる『私は最低、世界に私みたいな存在はいない方がマシ』タイプのことね。この病棟でも何人かそのタイプの人がいたわ。あとは『かわいそうな私、私は自分が大嫌い、私を罰して、私の葬式に来て』タイプ、つまりバカみたいな自己憐憫タイプ。別に悪気があって言ってるわけじゃないんだけど。これらのタイプは全部、自傷行為に行き着く」
 医者は、話の続きを促すという意図を込めて小さくうなずいた。ドレツキが言うところの運動量化する者というやつだ。
「私は自分を傷つけようなんて思わないし、罰したいとも思わないし、自己嫌悪もない。私はただ出たいだけ、意識ある存在であることを止めたいだけなの。私は他の人とは全然違うタイプ。もうこれ以上、こんな感覚には耐えられない。この感覚が無くなるなんて信じられなかった。もちろん今も信じていない。これなら何も感じなくなる方がマシ」
 医者は言った。「死ぬことで感じることを止めたいというその感覚、それってつまり…」
 突然、彼女が首を猛烈に横に振った。「その感覚はどうして私が望むのかってことなの。その感覚とは私が死にたい理由なの。私はここにいる、なぜなら死にたいから。だから私は今こんな監獄みたいな部屋にいるのよ。だけど、あの人たちもこの感覚を取り除くことなんてできないに決まっているわ」
「あなたが今説明してくれた感覚は、これまでの鬱のときに経験してきたものと一緒ですか? つまり、あなたがつながっているその感覚は、あなたが鬱と付き合う感覚と同じなのかどうかってことです」
「うーん、これは」彼女は自身を指し示して言った。「状態じゃなくて、感覚なの。腕から足、頭、喉、お尻から胃まで体全体。それをなんて呼べばいいのかはわからないわ。悲しみと言うよりも恐怖に近いの。何かとてつもない恐ろしいことが、想像以上に恐ろしいことが起きようとしている、それを止めなくてはいけないけど何をしたらいいのかわからない」
「つまりあなたが言っているのは、不安があなたの鬱の大きな部分を占めていると」
 彼女が医者の言葉に反応しているかどうかはもう分からなくなっていた。「全てが恐ろしいの。そう、『身の毛がよだつ(lurid)』だ。ガートン先生が言ってたわ、『身の毛がよだつ』が的確な言葉だわ。この感覚が何より恐ろしいの。痛みよりも、母が死ぬことよりも、環境汚染よりも」
「恐怖が不安の主な要素だからね」医者はそう言った。
「気持ち悪くなるって感覚わかる? 吐き気ってことね」
 医者はもちろんというジェスチャーをした。
「でもそれは胃だけでしょ。想像してみて、あれを身体中から感じるの。全ての細胞が、全ての核細胞が、脳細胞が吐き気をもよおしている。でも吐くことはできない。そしてその感覚がずっと付きまとうの
「ああ、言おうと思ってたんだけど、もしかしたらボブ・ホープがこの感覚に関係してルカもって思ったことがあるの」
ボブ・ホープ?」
「私が買ったところでは、売人がボブ・ホープって呼ばせるようにしてたの。『街にボブはいますか?』と電話して、もし持ってるなら『希望は永遠に湧き出る(hope springs eternal)』って返ってくる。暗号みたいなものね。ある男の子は『犯罪をしてください』と尋ねるようにさせているし、オールストンのトレーラーの水槽で蛇を飼っていたあの男は…」
「つまりドラッグだね。あなたが言いたのはドラッグが原因だったかもしれないということ」医者は彼女の言葉を遮ってそう言った。
「ドラッグじゃなくて、大麻よ。大麻は天然由来の成分だし『ホープ』で人生狂わせたって言ったらみんなに笑われるわ。世の中にはもっと強力なドラッグがあるわけだし」 「私はあなたのことを笑ったりはしませんよ」
「本当に大麻が大好きだったの。人生の中心だったと言っても過言ではないわ。先生からパルネート(the Parnate)と大麻を同時に摂取してはダメって言われたけど、我慢できなかった。吸ったあとは毎回、これで最後、もうおしまいって思うの。でも数週間経つとまた吸ってしまう。また止めて数週間経つと、あの感覚が忍び寄ってくる。そしてどんどん悪くなっていって、完全にその感覚に飲み込まれてしまうの。私はもうボブを吸いたくないし、仕事もしたくないし、外にも出たくないし、読書も、TPを観ることも、何もしたくない。この感覚が出ていくこと以外何もしたくない。でもそれは無理。わかったかしら? 私は自分を傷つけることを望んでいないの。むしろ、私は自分を傷つけたくないの」

 ディペンド社大人用下着年4月2日1時45分、帰宅した彼の妻は髪を隠す布を取って部屋に入っていくと、座っている医務官を見つけ彼の元に駆け寄った。医務官は正面を見つめたまま何も反応を示さず、彼の妻はその視線の先にあるカートリッジを映す画面の方へ顔を向けた。

解説
 これまでの多くの人物が薬物中毒で、しかも自殺した父ジェームズの話のすぐあとに、ケイト・ゴンパートという新しい登場人物が自身の自殺願望と、薬物(大麻)との関係を語る。重要な章のような気がして(英文も優しめだったので)多めに書いてみた。
 ついに医務官の妻が帰宅、医務官は死んでしまったのか? ラベルのないカートリッジには何が映っているのか?

用語

  • ニュートンとウェルズリー:ボストンの近くの街。マサチューセッツ州

  • パルネート(the Parnate):トラニルシプロミンという抗うつ剤のことで日本では未承認。その商品名がパルネート。

  • エフトゥシェンコ(Yevtuschenko):エフゲニー・エフトゥシェンコ(1933-2017)という旧ソ連・ロシアの詩人のことと思われるが、『臨床症状図鑑(Field Guide to Clinical States)』という本は存在しない。

  • ヴァトー(Watteau):アントワーヌ・ヴァトー(1684-1721)フランスの画家。

  • ドレツキ:フレッド・ドレツキ(1932-2013)アメリカの心理学者。ただし「運動量化する者(momentumizer)」という用語はDFWの造語だと思われる。

  • ボブ・ホープ(Bob Hope):51頁でハルが吸っているのもボブ・ホープ

  • 希望は永遠に湧き出る(hope springs eternal):アレキサンダー・ポープ(1688-1744)というイギリスの詩人の『人間論(An Essay on Man)』からの引用。本来は“hope springs eternal in the human breast”.

  • 「オールストンのトレーラーの水槽で蛇を飼っていたあの男は」:「ウォーディンへの虐待(37-39)」の最後に、これと同じ特徴を持った人物トミー・ドゥーシーが出てきている。


…今回はここまで!
これで現在の読破率、(まだたったの)8.2%!

 それにしても、小説オリジナルの用語や設定だったり(巨大な凹地帯・凸地帯)、オペラ、核融合NFL、毒キノコについて調べていると、それだけでかなり時間を取られてしまってびっくりする。『フェデラーの一瞬』やピンチョンの小説などを読めば分かる通り、こういった細かい脚注にも膨大な労力が使われていることを身を以て実感。これからは脚注も読み飛ばさずちゃんと読もう…。