未翻訳小説を頑張って日々読んでいる日記

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まだ翻訳されていない英米文学をたまに紹介します。

Infinite Jest まとめその3(79-121頁)


これまでのあらすじ
 エンフィールド・テニス・アカデミー(E.T.A.)の創設者の子供であり生徒でもあるハル・インカンデンツァは、テニスの才能だけでなく辞書を丸暗記するほどの頭脳を持つ天才。なにやらケベック州を中心にアメリカとカナダの国境で陰謀がうごめいていて、ハルの母親もそれに関与しているようだが、そんなことを知らないハルはE.T.A.内にある地下トンネルで1人ハッパを吸ってハイになっているのだった…


Youtubeにアップされているオーディオブックを聞いてみたところ、何人かの登場人物の発音が明らかに間違っていることがわかったので、今回からこっそり修正しています(過去のまとめもあとで修正予定)。


ハル・インカンデンツァ その9(79-85頁)

時期:大人用下着年 Year of the Depend Adult Undergarment(以降「Y.D.A.U.」と略す)
人物:シュティットとマリオ

要約
 ゲイハルト・シュティットはE.T.A.のヘッドコーチ。齢は70近い。軍隊式で非常に厳しいコーチだが最近はめっきり丸くなったと言われている。
 ランニングするE.T.A.の生徒たちと並走するとき、シュティットは革のヘルメットとゴーグルを着用し、古いBMWのバイクのエンジンを吹かす。そんな彼の隣のサイドカーにはいつも18歳のマリオ・インカンデンツァが、その薄い髪を巨大な頭の後ろまでなびかせ、知ってる顔たちに笑顔で手を振りながら座っている。痩せすぎてボールを打つどころかラケットのグリップを握ることさえできないマリオ・インカンデンツァが、シュティットにとって率直な話ができる人物だというのは不思議に思えるかもしれない。マリオは特段シュティットと親しいわけではないし、他の先生たちにもおちょくるような態度で接してきた。ただ、彼らは校内の休憩所で一緒になることが多かったのだ。マリオは校内に生えている植物の匂いが好きで、またシュティットの香水の香りも好きだった。シュティットが喋って、マリオが聞く、だいたいこんな感じだ。
 今は亡きハルの父ジェームズ・インカンデンツァがシュティットをE.T.A.に連れてきた理由の1つが、シュティットがテニスに対して技術者よりも数学者として向き合ってきたことだ。テニスは限界要因や確率曲線に還元することができないし、チェスやボクシングとも違うスポーツである。むしろその2つのスポーツを掛け合わせたものが真のテニスなのだ。シュティットは統一前のギムナジウムでカント・ヘーゲル的な概念である、ジュニア選手は市民権のためにトレーニングをする、つまり個を全体のために捧げるべきだという教育を受けてきた。しかし、国家における市民権の道徳的混乱はさらに回折されている。不足、困窮、そして規律を忘れた植民地主義的(experialist)で廃棄物を輸出し続けるこの国家のために奉仕することなど想像できるだろうか? この国はチームでもなければ体系だってもいない、願望と恐怖が乱雑に絡みあう交差点だ。平坦で視野が狭い個人の利益をひたすら追い求めること。これこそ、この国の若い子供たちが歩むべき唯一の道なのだ。
 だが、マリオはこうも考えていた。では、個人はより大きな共同体に奉仕せよというその考えが、テニスのような一対一の個人スポーツにどのように作用するのか? シュティットの要点はこうだ。真の対戦相手とはプレイヤー自身。ネットの向こう側にいるのは、敵ではなくダンスの相手というほうが近い。テニスの無限の美は、この自己との闘いが起源なのだ。そして人生もまた同じ。
 マリオはまたこうも考えていた。ならば、自己と闘い勝利することは、自分を破壊することと同じではないのか?
 「多分、違いはない。プレイするチャンスがあるということをのぞいて」

解説
 E.T.A.の厳しいコーチ、シュティットと、ハルの兄弟マリオのちょっとおかしなコンビのやりとり。ここでマリオの年齢が18歳と判明し、ハルより年上だとわかる。これまで勝手に弟だと思ってしまっていたのは、マリオはラケットを使えないほど虚弱体質で、それが兄弟の会話に反映されていたからか。
 テニスを数学的に捉えるというシュティットのテニス観は、DFWのエッセイ集『フェデラーの一瞬』(阿部重夫訳・河出書房)収録、自身のジュニアテニスプレイヤー時代を数学・物理・化学の知識を縦横無尽に駆使して回想する「「竜巻回廊」の副産物スポーツ」と重なる部分が多い。

 この精確無比な分割と境界は(中略)テニスを教科書的な平面幾何学にする。これは球が止まらないビリヤード、走りながら打つチェスなのだ。(『フェデラーの一瞬』14頁)

 「己との闘いと自殺は同じではないのか?」というマリオの問いが、前章の父ジェームズの自殺とリンクしているのは間違いないだろう。

用語
* カント・ヘーゲル的概念:両者の思想ともに、全体主義的傾向が見られると指摘されている。(「全体主義」とカント or ヘーゲルをセットで検索するとブログ、論文などいろいろ出てきます)
* 「国家における市民権の道徳的混乱はさらに回折されている」:〈回折〉とは物理学。波が伝わる先に障害物があった際、波が障害物の背後などに伝わっていく現象のこと。防波堤によって変化する波がその一例。

(本文に出てくる難単語)

  • Experialist:造語。 Imperial(帝国)の語源”in(中に)”を”ex(外へ)”と変えたものだろう。直後の”waste-exporting nation(ゴミを外へ運び出す国)”から考えるに、「外部を支配する」→「植民地?」とイメージしたが…プロならなんて訳すのだろう。
  • Verstiegenheit:マリオとシュティットの会話のシーン、Schtittがこの言葉を発してマリオが”Bless you”と返す箇所がある。マリオはくしゃみだと思ったわけだが、古いドイツ語で「奇行」といった意味。


タイニー・イーウェル(85-87頁)
時期:大人用下着年(Y.D.A.U.)
人物:タイニー・イーウェル

要約
 タイニー・イーウェル(Tiny Ewell)という名に皮肉の意味は込められていないが、彼はエルフサイズに小さい(tiny)男性だ。妻に接近禁止命令を出されている彼は、リハビリのスタッフと一緒にタクシーに乗って、ボストンの西のウォータータウンを通り抜け、アルコール依存症のリハビリのためセイント・メルズ病院へと向かった。
 タイニーはそこで数日間過ごした後、リハビリのスタッフとともにタクシーに乗った。スタッフはエンフィールド・マリーン・総合病院に向かいよう運転手に指示をした。

  大人用下着年4月2日深夜、医務官、その妻、医務官と連絡が取れないことを不審に思ってホテルへ向かったQ ──王子の個人内科医の助手、助手が帰ってこないことを不審に思った個人内科医、Q ──王子から派遣された2人の大使館警備員、冊子を配ろうとしていたところリビングに人の姿を確認し扉が開いていたので中に入ってきた2人のキリスト再臨論者…全員がテレピューターに釘付けになっていた。

解説
 タイニー・イーウェルは新しい登場人物だが、やはり依存症持ち。また「小さいバール・アイヴスに似ている」という描写がある。パール・アイヴスはアメリカの歌手・俳優で『大いなる西部』(1958年)でアカデミー助演男優賞も受賞。
 後半に再び医務官。彼を心配して見に来た関係者や宗教勧誘の人たちまでもが、ラベルのないカートリッジが映ったテレピューターで動けなくなってしまったようだ。

レミー・マラートその1(87-95頁)

時期:大人用下着年(Y.D.A.U.)4月30日
人物:レミー・マラート、スティープリー

要約
 夕焼けを背にレミー・マラートは砂漠の上に座っていた。彼の妻が治療を受けているケベック南東部のパピノーと比べると、ツーソンの夕焼けはより爆発しているように見える。
 カスタマイズされた車椅子に座って街へと伸びる自分の影を眺めているマラートに、Unspecified Services(ケベック分離派からいつもBSS “Bureau des Servicessans Specificite”と呼ばれている)の諜報員M・ヒュー・スティープリーの影が降りてくる。スティープリーは滑ってマラートの位置まで降りようとしたが道を外れそうになり、マラートはブランケットの下の銃から手を離し、スティープリーの腕を掴んであげてようやく止まった。スティープリーの穿いていたスカートがめくれ上がった。
「君らしい隠密っぷりだな」
「くそったれが(“Go shit in your chapeau” )」
 A.F.R.(Assassins des Fauteuils Rollents:車椅子暗殺者)のリーダー、M・フォーティアーはマラートにケベックのフランス語を使うよう要求していたが、2人が秘密裏に外であっているとき、彼らは大部分をアメリカ英語で会話する。スティープリーのケベック仏語はマラートの英語よりも上手いのだが、今使っているのはスティープリーの好みのアメリカ英語だ。
 かつて、マラートは妻に先進的な治療を受けさせるため、AFRを裏切ってBSSに情報を流すフリをして──実は本当に裏切ったのだ。
「奥さんの調子はどうだ」
「変わりなくだよ。それであなた方は何が知りたいんだい?」
「驚くようなことは起きてないよ。ただ、北東のほうでちょっとしたバカ騒ぎがあっただろ。あんたも知っているはずだ」
「騒ぎ?」
「知らなかったとは言わないでくれよ。俺たちが『ジ・エンターテイメント』と呼んでるモノが通常配送である人物の元に突然送られたんだ。そいつは特に政治的な人物ではない、ただひとつサウジアラビアの娯楽省の人間だってことをのぞいてな」
「消化器系が専門の医務官(Medical Attache)のことだろ、君が言っているのは。あなた方はそれに私たちの組織が絡んでいると思っているのかい? 私たちは被害者の数さえ知らないよ」
「20人まで行ったんだぜ、レミー。医務官、医務官の妻…大使館のパスを持っているやつが4人もいた。俺たちが聞きたいのはAFRが医務官を見せしめにしたんじゃないかってことだ」
「消化器系の医務官も大使館員も、私たちのリストに名前はないね」
「まだあるぞ、レミー。その大使館員はトランス・グリッド・エンターテイメントの主要なバイヤーと関係があったんだ。ボストンのオフィスからからの続報では、『ジ・エンターテイメント』の監督(autear)の未亡人と以前に関係を持っていた疑いが強いって話だ。その奥さんは、夫がA.E.C.(Atomic Energy Commision)にいたときに、色々な人物を関係があったと言われている」
「君が言っているのは性的な関係ってことだろ。政治的ではない」
「その夫人はケベック人なんだよ。オタワの“Personnes à Qui On Doit”リストと3年間過ごしていた。政治的セックスってやつがあったんだ」
「私たちが知っていることは全部伝えたはずだ。一個人をO.N.A.N. への警告とするのは私たちの望むことではない」
「俺は個人的に確認してみたかっただけだよ」
「我らがM・タインには聞いたのかい? 君はなんて呼んでたっけ? 『ロッド・ア・ゴッド(Rod, a God)?』」
(ロドニー・タイン ⦅Rodney Tine⦆はUnspecified Servicesの長官で、O.N.A.N.と北アメリカ再配置⦅continental Reconfiguration⦆の立案者。ホワイトハウスと繋がっている人物でもあり、書記ルーリアを愛していたと言われている)
レミー、『ロッド・ザ・ゴッド(Rod, the God)』だよ」

「それで、俺と君が会ったことはフォーティアーに報告するんだろ?」
「もちろん(’n sur)」
「君はすでに三重スパイだよな? もしくは四重か。俺とあんたがここにいることをフォーティアーとA.F.R.が知っていることを、俺たちは知っている」
「でも俺の車椅子の仲間たちは、それを君が知っていることを知っているよ…私は裏切るフリをするフリのフリをしていたということかな」
「別に悪意はないんだよ。強迫的な警告というやつさ。あんたのとこのデュプレシは、タインがルーリアに渡してしまった情報を取り返そうとしているって疑ってたよな?」
「デュプレシなら先日突然この世を去ってしまったよ」
 マラートが作り笑いをしながらそう言うと、しばらく2人の間に沈黙が流れたやがてマラートは腕時計を確認して言った。
「思うに、僕らは君のB.S.S.の連中よりもシンプルなやり方で、この問題に取り組んだ方がいいね。もしタインが情報を取り戻そうとしているのなら、ケベック人は気がついているだろう」
「ルーリアのおかげでね」
「ああ。ルーリアも知っているだろう」


解説・用語
 メインキャラの1人、車椅子の暗殺者(A.F.R.)レミー・マラートが初登場。会話の相手スティープリーは所属する組織(B.S.S.)からの命令で女装をさせられていて、会話の最中に偽の乳房がズレて顎にあたるなど、女装がめちゃくちゃになっている描写が挟まれる。また、途中に野生のハムスターの説明が突然挿入されるのだが省略。
「くそったれが(“Go shit in your chapeau” )」は“F--k off”のちょっと丁寧な言い方“Go shit in your hat”の“hat”(帽子)だけをフランス語に言い換えたもの。このようにこの章の会話では英語とフランス語が混ざるところがいくつかある。それはケベック州公用語がフランス語だからであり、そこから誰がアメリカ側で、誰がケベック側なのかを察することができる。
 この章では、今までの無関係と思えるエピソードが繋がることでどこかまとめ的な役割を持つ(といってもまだ10分の1だが)。

  • 医務官(Medical Attache)と謎のビデオ

    医務官に送りつけられた謎のビデオ、それを見たものは固まってしまう、という事件(初回は33頁)。スティープリーはこのビデオが「ジ・エンターテイメント」と呼ばれていることを明かし、この事件をA.F.R.の仕業ではないかと疑うが、マラートはそれを否定。そして重要なのがその後だ。
    「『ジ・エンターテイメント』の監督(autear)の未亡人と以前に関係を持っていた疑いが強いって話だ。その奥さんは、夫がA.E.C.(Atomic Energy Commision)にいたときに、色々な人物を関係があった」
    ハルの父ジェームズ・インカンデンツァの章(63-65頁)と合わせると、「ジ・エンターテイメント」の監督がジェームズであることがわかり、ハルの母アヴリルケベック分離派と関係があったということにもリンクする。

  • 「あんたのとこのデュプレシは、タインがルーリアに渡してしまった情報を取り返そうとしているって疑ってたよな?」「デュプレシなら先日突然この世を去ってしまったよ」

     この世を去ったデュプレシとは、55-60頁、ドン・ゲイトリーに押し入られて不運にも命を落としたのはギョーム・デュプレシ(Guillaume Duplessis)のことで間違いない。〈ハル・インカンデンツァその2(27-31頁)〉の父ジェームズと子ハルとの会話にも出てくる。
     そのジェームズとハルの会話「悪党どもと君の家族の、下劣な不義を私が知らないとでも? 汎カナダ・レジスタンスの悪名高いデュプレシと彼の邪悪な書記であるルーリア・P…」(30頁)に出てくるもう1人の人物名〈ルーリア・P〉。これがB.S.S.の長官タインからB.S.S.の情報を流出させたルーリア(Luria Perec)のこと。反O.N.A.N.側だと思われるが、A.F.R.の人間なのだろうか?


     ここで、これまでの情報を整理してみよう。

     これまでケベック州を中心に様々な団体が登場してきた。まず、

  • O.N.A.N.アメリカ、カナダ、メキシコから成るOrganization of North American Nationsのこと。訳すなら「北アメリカ(大陸)連合」といったところ。 
    O.N.A.N.の長官はロドニー・タインという人物で、「北アメリカの再配置」の主導者でもある。その中心にあるのが〈巨大な凹面地帯(the Great Concavity)〉〈巨大な凸面地帯(the Great Convexity)〉(55-60頁)なのだろう。前回も引用した図を再掲載。

    出典:infinitesummer.org

    この地帯がアメリカ側から見ると凸面に、カナダ側からは凹面に見えるということ。この本来ならアメリカ領にあたる地帯がカナダに“gift or return”される(58頁)。それに関連して様々な組織活動が行われているようだ。

カナダ側の組織

  • A.F.R(Assassins des Fauteuils Rollents:車椅子暗殺者):脚注42において解説がされていてケベックで最も恐れられている反O.N.A.N.テロリストグループ」とのこと。団体名がフランス語なのもそういう理由だ。
  • ケベック分離派、アルバータ州の極右団体:上記の〈巨大な凹面地帯(the Great Concavity)〉〈巨大な凸面地帯(the Great Convexity)〉に関連して55-60頁で言及された団体。

    カナダ側の人物
  • レミー・マラート:メインキャラの1人。車椅子暗殺者。妻が難病。
  • フォーティアー:マラートの上司。
  • アヴリル(ハルの母親):ジェームズと結婚前にケベック分離派と関係あり。
  • ルーリア・ペレック(Luria Perec):B.S.S.の長官ロドニー・タインに接近し情報を漏洩させた。
  • ギョーム・デュプレシ(Guillaume Duplessis):55-60頁にて、プロの盗人ドン・ゲイトリー(メインキャラの1人)に不運にも殺されてしまった「カナディアン・テロリズム・コーディネーター」

    アメリカ側の組織

  • O.N.A.N.:全体の流れから推測するに、O.N.A.N.にはアメリカの意向が大きく反映されているのだろう。

  • Unspecified Services(=B.S.S.):日本語訳はさっぱり思い浮かばない。正式名称は英語だが、マラートを含めケベック側からフランス語で“Bureau des Servicessans Specificite”と呼ばれている。

    アメリカ側の人物
  • ティープリー:女装してマラートと会話していたUnspecified Service(B.S.S.)の人物。
  • ロドニー・タイン:Unspecified Service(B.S.S.)の長官であり、O.N.A.N.と「北アメリカの再配置」の中心人物。ルーリアに惚れてしまい情報を漏洩する。ホワイトハウスにもつながりを持つ。
  • ジェントル大統領:物語内におけるアメリカ大統領。まだ言及されるだけで登場はしていない。


    ハル・インカンデンツァ その10(95-105)

    時期:大人用下着年(Y.D.A.U.)11月3日 火曜日
    人物:ハル、E.T.A.の生徒たち

    要約
     「…彼らが座りながら感じているものが不幸だって気づくことでさえも? それとも最初から感じることさえ?」
     16時40分、男子ロッカールームで午後の練習試合を終えた生徒たちはくたくたに疲れていた。
     「それで」ジム・トレルチが言った。「お前はどう思う?」
     「テストはトルストイ統語論についてだっただろ。不幸な家族についてじゃない」ハルが静かに言った。
     「よし、じゃあ」トレルチは言った。「抜き打ちテストだ。明日のリース先生のテストのね。問題、過去の放送受信テレビセットとカートリッジ型TP(テレピューター)の決定的な違いは?」
     ディズニー・R・リースはE.T.A.の「エンターテイメントの歴史Ⅰ・Ⅱ」の教師だ。
     「陰極発光パネル。陰極銃はなし。光覚スクリーンもなし」
     「お前が言ってるのは、高解像度ってこと? 一般的にはビューア(viewer)、具体的にはTPコンポーネント・ビューアのこと?」
     「アナログじゃないってことさ」ストラックが言う。
     「画面がザラつかない、幽霊みたいに多重に見えない、飛行機が飛んでいるときに垂直な線が入らない」
     「アナログ対デジタルだな」
     「それはTPに対比するネットワーク内としての放送という意味? それともネットワーク・プラス・ケーブル?」
     「ケーブルテレビってアナログだったの? ファイバーフォンより前(pre-fiber phones)のやつみたいに?」
     「それがデジタルだ。リースがアナログからデジタルへの移行に対してその言葉をよく使うね。1時間に11回は使ってないか?」
     「実際、ファイバーフォンより前って何を使ってたの?」
     「昔ながらの糸電話の原理……

     ロッカールームの中で、ピーター・ビーク、イヴァン・インガーソル、ケント・ブロットもタオルをかぶって肘を膝につき、木のベンチに座っている。それぞれ12歳、11歳、10歳だ。E.T.A.の18歳以下の選手は、それぞれ4人から6人の16歳以下の子供たちの世話を任される。E.T.A.からの信頼が厚ければ、より若くてより未熟な子供たちが割り当てられる。これがチャールズ・テイヴィスが設けた「ビッグ・バディ・システム」だ。テニス焼けのため、彼らは裸だとちょっとおかしく見える。夏から、腕と脚はキャッチャーミットのように深い黄土色で、足首から下はカエルの腹のように白く、胸、肩、上腕部はオフホワイトだ。最もひどいのは顔で、ほとんど赤く輝いている。隔世遺伝で初めから顔が黒っぽいハルを除き、白と黒のまだらの顔をした者は外でのプレーの前にレモン・プレッジ(木材用のワックススプレー)を吹きかけることを我慢できた選手たちだ。

     「こんな疲労まみれの日々を言い表すために、全く新しい統語論が必要だ」ストラックは言った。「この問題に対してE.T.A.で最高の知性を持った人物がいるぞ。類語辞典を消化して、分析したやつが。なあハル?」
     ハルは自嘲的に笑ってみせたが、誰もがそこに彼の余裕を感じた。父方に当たる北部アメリカの血によって5世代前のイタリア、ウンブリア地方の血はほとんど薄められてしまったが、その名前は引き継がれ、曾祖母には南東のピマ族とカナダ人の血が流れていた。存命のインカンデンツァ一族では、ハルはどこから見ても民族的な要素をもっている唯一の人物だった。亡き彼の父は不気味に背が高く、ピマ族風の頬骨、黒い髪をもっていた。対してハルはカワウソのような光沢を持った黒といった感じで、背は少しだけ高く、目は青いが黒みも帯びていた。妊娠期には全面的な染色体戦争が起こっていたに違いない。長男のオリンは母のアングロ・ノルド・カナディアンの特徴が強く、深い目の彫り、ライトブルーの目、完璧な体型で、運動神経も抜群だ。
     次男のマリオはインカンデンツァ一族の誰とも似ていないように見えた。
     ハルは、ビッグ・バディの世話をしなくても良い非遠征日の大半で、皆がシャワーやサウナで忙しいタイミングを狙ってE.T.A.の地下トンネルへと降りていき、居眠りをする。そして誰かに気付かれる前にさりげなく戻ってきて、年少の生徒たちと一緒にシャワーを浴びる。
    午後のロッカールームは底なしのようだ。以前も、そして明日も、彼らはこのような疲れ果てた姿でこの部屋にいるだろう。外の明かりは悲しく、嘆きは骨の髄まで響き、伸びていく影の縁は鋭い。
     「こんなにキツい練習をさせているのは、テイヴィスだと思う」フリーヤーが言った。
     「いや、シュティットだ」ハルは言った。
     「シュティットは忠実なナチ党員のように、言われたことをただやっているだけさ」
     「じゃあ『ハイル!』はどんな意味合いになるんだ?」シュティットに忠実なことで知られるスティスがそう尋ねたタイミングで、彼らは突然タオル投げを始めた。


    解説・用語
     E.T.A.の日常を描く章だが、前半は作中の科学技術について、途中からハルに血筋に関する情報が説明される。ここでE.T.A.の登場人物がさらに増えるが、書ききれないので特に説明はしない。
     注目すべきはやはりハルの複雑な血筋だ。インカンデンツァというファミリーネームはイタリアに由来し、ピマ族というアメリカ南西部のネイティヴ・アメリカンの血も引いている。E.T.A.の卒業生で現在はNFLの選手としてプレーする長男オリンは母親似、三男ハルは(やや)父親似、次男で虚弱体質のマリオはどちらにも似ていない。

    (本文に出てくる難単語)
  • semion(101頁):DFWの造語。文脈からサインやジェスチャーの意味。


    レミー・マラートその2(105-109頁)

    時期:大人用下着年(Y.D.A.U.) 11月3日
    人物:レミー・マラート、スティープリー

    (前章「ハル・インカンデンツァその10」から空行を挟んで始まる。なので前章と同日時)

    要約
     女装したアメリカ人(スティープリー)はマラートから少し斜めの位置に立って、今や彼らを飲み込んだ夕日の影と、万華鏡のように煌めき出したツーソンの街を見つめていた。
     マラートは眠りの淵にいるようだ。
     「偉大な、あるいは永遠の愛とさえ言われてるかもな。ロッド・タインからルーリアへの愛は」
     マラートは低い声で返事をして、ほんの少し座り直した。
     「歌の中で不滅の存在となるやつだよ。バラードやオペラの形でね。トリスタンとイゾルデランスロットと誰だっけ。アガメムノーンとヘレン、ダンテとベアトリーチェ
     マラートは眠たそうな笑みをしかめっ面に変えながら顔をあげた。「ナルキッソスとエコー。キュルケゴールとレギーネカフカと郵便受けを気にする女の子」
     「この流れで郵便受けの例は面白いね」スティープリーは小さな作り笑いをした。
     マラートに集中力が戻ってきた。「ウィッグをとってその上に座りなさい。君の無知にはゾッとさせられるね。アガメムノーンとその女王は何の関係もない。ヘレンの夫はメネラウス、スパルタの王。君が言いたいのはヘレンとパリスだろ、トロイの王子の」
     スティープリーは面白がっているように見えた。「ヘレンとパリス、争いのきっかけとなった者。木馬、贈り物ではない贈り物」
     「私はアメリカの歴史の純朴さに驚き呆れているところだよ。ヘレンとパリスは戦争の〈言い訳〉さ。貿易をめぐる戦争だったんだ」
     「君は全て政治の話にするからな。あの戦争はただの歌じゃなかったのか? 実際に行われた戦争だってみんな知ってるのか?」
     「大事なのは、戦争を始めるのは国家であり共同体であり、それらの関心事ということだ。君は1人の女性の愛が国をも動かせることを信じ込んで、それを楽しみたいだけだろ」
     「どうだろうね。ロッド・ザ・ゴッドの周りの奴らが言うには、彼は彼女のためなら2度死ねるだろうって話だぜ。政治的なものを超越する悲劇的な要因、あんたならわかるだろ?」
     メラゼのA.F.R.への裏切りは、妻の治療のためだった。
     「熱狂的愛国者である南ケベックの車椅子暗殺者はこの種の対人感情を軽蔑するってことかな」
     マラートは車椅子に深く座り直した。「英語の〈熱狂(fanatic)〉はラテン語での〈聖堂(temple)〉に由来するって習ったかい? 正確には〈聖堂の礼拝者(worshipper at temple)〉を意味する。私たちが愛着を感じるものが聖堂だ。それは慎重に選ばれなければならないが、君が悲劇の愛として歌いたいものはそうではないだろ。1人の人間のために死ぬなんて狂っている。女性への愛は、人を小さい器に納めてしまう。国家への愛は、より大きな存在へとしてくれる」
     「だけど、選択肢がそれだけ、つまり決断もなしに愛したらどうなんだ? あんたは実際にそうだっただろ、彼女を見てその瞬間に愛さざるを得なかっただろ?」
     マラートは軽蔑を込めて鼻であしらった。「そういった場合は自己とその感傷が、聖堂となる。個人的で狭い自己の感傷の奴隷となり、無の個人となるのだ。自分自身に跪く、たった1人だけの存在に」
     沈黙が2人に訪れた。


    解説
     〈レミー・マラートその1〉(87-95頁)でのやりとりの続き。ロッド・タイン(スティープリーの上司、つまりアメリカ側)からルーリアへの愛と裏切りについて2人が議論する。愛をテーマにした作品についてのやりとりはコミカルだが、次第に個人への愛、国家への愛へと話が移る。

  • カフカと郵便受けを気にする女の子:人形を無くしたという女の子に、カフカが「人形は旅に行っているのだよ」と嘘をつき、その人形からという体で女の子へ手紙を書いていたというエピソードのこと。村上春樹海辺のカフカ』、ポール・オースター『ブルックリン・フォリーズ』などにも登場する。


    ハル・インカンデンツァ その11(109-121頁)

    時期:大人用下着年(Y.D.A.U.) 11月3日
    人物:E.T.A.の生徒たち

    要約
     「だって、誰もそんなこと意図していないからだ」ハルがケント・ブロットに言った。「俺たちがシャワーのあとこうして一緒に座り込んでいることをシュティットとデリントが知らないとでも? 全部計画されてるんだよ」
     「俺はここに6年も7年も8年もいるやつらを考えてみたんだ。ずっと苦しみ、傷つき、痛めつけられ、疲れている。今の俺たちみたいにね。そんな生活が毎日これからも続くのになんでこんなことをしているかというとプロになるためだが、この忌々しい感情はプロになるともっと苦しいくなるってことだろ」
     5人は寮の中にある小さな第6視聴室の中で、もふもふしたカーペット(shag carpet)にクッションを枕にして大の字になって寝ていた。
     5人皆が疲れているとき、ハルはお気楽な視覚化カートリッジ(visualizaton-type cartridge)を選ぶようにしている。お題目を聞かなくて済むように音は消しておくが、映像はまるで飛び出たかのように鮮明だ。選んだカートリッジはスタン・スミス。ピーター・ビークは目をあけたまま寝ているが、この奇妙な能力はE.T.A.が幼い生徒に刷り込ませているようだ。ちなみにオリンは自宅の夕食中にもすることができる。
     ハルはクッションの上にさらに両手を枕にしてスタン・スミスの映像を観ていた。瞼は重い。
    「17歳の今の苦しみとそっくりそのままの苦しみが、これからも待っていると感じているのかい、ケント?」
     ピーター・ビークは鼾をかいている。
     「でもブロット、こう考えたことあるだろ? なぜ毎日がこんなに恐ろしいにも関わらず俺たちはまだここにいるのか、と」
     「毎日じゃないよ、でもしょっちゅうだな」
     「みんながここにいる理由は、ここを出れたとき〈ザ・ショー〉にいるためさ」インガーソルが言った。〈ザ・ショー〉とはATPツアーのことで、旅行し、賞金を受け取り、スポンサーを得て、出場手当を貰い、雑誌に載って、自分の写真が公式グッズになることだ。
     「でも〈ザ・ショー〉に行けるのは1人のトップ・ジュニア選手だけってみんな知っている。残りの大半はサテライトツアーや地域ツアーを這いつくばるように回るだけで、そうでなければ弁護士か学者になる」ハルがささやくように言った。「大事なのは、俺たちはみんな一緒に、座って同じ気持ちを抱いてるってことさ」
     「連帯感ってこと?」
     「俺たちはお互いに蹴落そうとするし、お互いを守ろうともする。俺たちはそれぞれ今どこにいるのか、ランキングという相互関係のシステムで知ることができる。俺たちはみんな、食物連鎖の中にいるんだ。個人種目のスポーツだからね。ようこそ〈個人〉の真の意味へ。ここではみんな孤独だ。この孤独こそ、俺たちが共通して持っているものさ」
     「イ・ユニバス・プルラム(E Unibus Pluram)」インガーソルがつぶやいた。
     「そして問題は、じゃあどうやって俺たちは友人になれるのか、ってことだ」
     「俺は疎外(alienation)だと思うな」アースラニアンが顔をインガーソルの方へ向けて言った。「しばしば西洋で参照されてきた実存的個人、独我論
     「つまりだな」ハルが言った。「ここで話してるのは、孤独(loneliness)ってことだ」
     「犬が恋しいなあ」インガーソルがうなだれた。
     「あ」ハルが言った。「でもすぐに集団が形成されるということもあるよ。苦痛が俺たちを結びつけるんだ。先生たちは俺たちにダラダラして悪口を言うことを許している。共通の敵だよ。彼らからの贈り物みたいなものだな。共通の敵ほど人を結びつけるものはない」
     そこから2つ角を曲がったところの第5視聴室では、ジョン・ウェインがラモント・チュー、〈ねぼすけテレピューター〉ピーターソン、キエラン・マッケナ、ブライアン・ヴァン・ヴレックに停滞期を迎えた生徒が3つのタイプに分けられることを説明していた。
     第2視聴室ではぺミュリスがトランプを使って子供たちをからかい、シャハトは巨大な歯の模型でフロス(糸ようじ)の説明をし、トレルチは寮の自室(?)で反復について熱弁をふるい、第8視聴室ではストラックが試合中にオナラをすることについて説明をし、その2階下の広間ではスタイスがシュティットが説く献身さについて解説していた。
     「つまりわざと嫌われるようにしてるってことですか?」ブリークが訪ねた。
     しかしもう夕食の時間だ。ハルは左側の歯にズキズキする痛みを感じた。


用語・解説
 前章で説明があった〈バディ・システム〉内の会話。ハル、ジョン・ウェイン、ぺミュリス、トレルチ、ストラック、スタイスのグループが出てくる。総じて登場人物が多い!
 テニスに関連していながらも抽象的な会話は、その射程が広い。例えば、
「俺たちはお互いに蹴落そうとするし、お互いを守ろうともする。俺たちはそれぞれ今どこにいるのか、ランキングという相互関係のシステムで知ることができる。俺たちはみんな、食物連鎖の中にいるんだ。個人種目のスポーツだからね。ようこそ〈個人〉の真の意味へ。ここではみんな孤独だ。この孤独こそ、俺たちが共通して持っているものさ」
 この箇所なんかは、自己責任論が蔓延し競争こそが唯一の真理とされる現代の資本主義(新自由主義)とも重なるだろう。

 プロテニスのシステムについてだが、ATPツアーといった用語はテニスに詳しくなくても知っているだろう。「サテライトツアー」というのはATPツアーよりさらに下のランクの選手たちが参加するツアーで、地域ツアー(regional tour)も(おそらく)似たようなものなのだろう。
 ニュースにも中継にも映らない選手たちがどういう環境でプレイしているかは…是非とも『フェデラーの一瞬』収録の「マイケル・ジョイスの一流「半歩手前」」を読んでもらいたいところ!必読です!

  • インターレース(InterLace):部屋の中にある試合のカートリッジについて、"motivational, visualization cartridges ── InterLace, Tatsuoka, Yushityu, SyberVision"という文章があり、これまでも何回か出てきた〈インターレース〉が、タツオカ・ユシチュ(?)なる人物が作った「サイバーヴィジョン」だったということがわかる
     …と言われても結局なんのことかよく分からないのだが。

  • スタン・スミス(Stan Smith):アディダスのスニーカーのモデル名でもお馴染みのテニス選手。1946年生まれ。グランドスラムでは全英オープンウィンブルドン)と全米オープンで一度ずつ優勝している。

  • イ・ユニバス・プルラム(E Unibus Pluram):アメリカ合衆国のモットーとして知られるラテン語、イ・プルリバス・ユヌム(E pluribus unum)の言葉遊び。本家は「多数はひとつへ(One from many)」を意味するが、ここでは“From one, many”の意味になる。

  • 疎外:マルクスの「疎外された労働」という言葉が有名だが、元々はヘーゲルに由来するらしい。

    (本文に出てくる難単語)

  • kertwang:文脈から、審判がいないセルフジャッジのときにわざと誤審をすること。

  • mein kinder:ドイツ語で“My children”と言いたかったと思われるが、“mein”は単数であり、正確には“meina kinder”でなければならない。

  • aperçu:英語で“an insight” 日本語なら洞察力。



    これで現在の読破率、12.2%!


    …これまでは「重要な箇所をピックアップ→訳してみる→まとめる」と、ある程度原文を尊重しつつまとめるという形を取っていたが、よく考えたら著作権的にどうなんだろう? という気がしてきたので今回からざっくりまとめることにした。
     次回以降は原文を無視してもっとざっくりまとめていくのでペースが上がっていくはず。