未翻訳小説を頑張って日々読んでいる日記

未翻訳小説を頑張って日々読んでいる日記

まだ翻訳されていない英米文学をたまに紹介します。

First Person by Richard Flanagan

 わかるだろ? 彼はそう言って、机に身を乗り出した。俺はでっち上げてたんだよ。毎日、君みたいに。作家みたいに。(178頁)


 リチャード・フラナガンはこれまで3冊が翻訳されているので知っている人も多いだろう。1961年オーストラリアのタスマニア州生まれ。1994年に作家デビュー。2001年、3作目の小説『グールド魚類画帖(原題:Gould’s Book of Fish)』で英連邦作家賞を受賞、そして2013年、太平洋戦争時に泰緬鉄道建設の強制労働に従事したオーストラリア人捕虜を描いた『奥のほそ道(原題:The Narrow Road to the Deep North)』で翌年のブッカー賞を受賞する。そのほか2006年の『姿なきテロリスト(原題:The Unknown Terrorist)』が翻訳されており、いずれの作品も訳者は渡辺佐智江
 私は『奥のほそ道』を翻訳が出たときにすぐ読んだのだが、読みやすく詩情のある文体、綿密な取材と描写、そしてそのスケールの大きさに衝撃を受けた。こんな素晴らしい作家がいたのかと。
 そして今年、新宿にある洋書専門店BooksKinokuniyaのワゴンセールのときに、フラナガンの2017年の小説『First Person』を発見(たしか500円か700円だったと思う)、英語のレベルはさほどではないし、約400頁だがフォントも余白も大きめなので、あのフラナガンならばと購入したわけだ。


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 “(The) First Person”とはこの場合は「一人称」の意味であろう。もちろんこの小説は一人称語りで進行する。

 舞台は1992年のオーストラリア。31歳の作家志望キフ・ケールマン(Kif Kehlman)は小さな娘と、双子を妊娠した妻スージーとともにタスマニア島で暮らしているが、とにかくお金がない。かと言って鋭意執筆中のデビュー作も書き上げられない。そんなキフの元へ昔の悪友レイ(Ray)から電話がかかってくる。レイが持ちかけてきた話とは、銀行から700万ドルを騙し取った有名な詐欺師ジークフリート・(ジギー)・ハイデル(Siegfried “Ziggy” Heidl)ゴーストライター」となって彼の自伝を書くこと。報酬は1万ドル。期限はハイデルが裁判に出廷するまでのわずか6週間。
 もうすぐ生まれる双子、バイトをクビになり非常に厳しい家計、そして出版社とのコネ……当初は断るつもりだったが、キフはその依頼を引き受けることにする。
 メルボルンに移り出版社の社長室でハイデルと執筆に取り掛かるキフ。しかし、ハイデルは電話で弁護士やジャーナリストと話してばかりで、キフの質問にもろくに答えない。銀行を騙した手法はもちろん、自らの小さい頃の話すら明かそうとしない。しまいには電話口の相手と食事すると言って、部屋を出て行ってしまう。こんな状態では6週間後はもちろん、近づいている初稿の締め切りさえ無理だ。

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 という感じの序盤。泰緬鉄道を舞台にした前作に比べると、詐欺師のゴーストライターという設定は面白いが、随分こじんまりとしたストーリーだなぁという印象だった。
 しかし、読み進めていくに連れてこの作品は思わぬ広がりを見せる。

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 キフとヘイデルの2人と行動をともにすることが多いレイだが、ヘイデルが近くにいるときのレイは明らかに本来の彼ではなく、暗く沈んでいる。ある日、キフとレイの2人だけでバーに行ったとき、キフはレイに、ヘイデルと一緒に過去に何をしていたのかを尋ねる。

 レイはほとんど聞き取れないほど声を低くして言った。
 俺たちはロケットの打ち上げ台を建設できる場所を探してたんだよ。
 え?
 でけえ話さ。狂ってる。NASAだよ。
(100頁)

 レイはキフに警告する。ヘイデルに喋らせ続けろ。絶対にお前は何も喋るな。双子を妊娠してる奥さんのこともだ。ヘイデルは血塗られた仕掛け鏡だ。奴を見続けるとお前自身の姿が見えてくる……。
 レイから入手した情報も役立ち、やがてヘイデルは、CIAによって様々な国で諜報活動をしたことなど、謎に包まれた生涯を少しずつ語り出す。ただし語りの中心は、ヘイデルの過去ではなく世界の仕組みについてだ。

 ビジネスマンって何だと思う? 政治家は? 彼らは魔術師なんだ。彼らは何かをでっち上げる。物語はみんなを繋げることができる唯一のものだ。宗教、科学、お金──みんな、ただの物語さ。オーストラリアは物語。政治も物語、宗教も物語、お金も物語でオーストリア安全機関も物語。銀行は俺の物語を信じるのを止めた。そして信仰が死んだとき、残ったものは何もなかったんだ。(179頁)

 なぜか双子の妊娠の話を知っていてキフの家族に会いたがるヘイデル、突然破棄になる初稿提出の期限、歪み始めるキフの思考。レイの過去に何があったのか? ヘイデルの命を狙う者とは何者なのか? ヘイデルとは一体何者なのか? 双子は無事に生まれてくるのか? 作家とは何か? 詐欺師とは何か? 悪とは何か?
そして、自伝は完成するのか?


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 ここまで来ればわかる通り、この小説は明確な二つの軸がある。

1.キフとヘイデルの対決
2.ポスト・トゥルースの考察

 小説に崇高な憧れを抱いていたキフに少しずつ侵入していくヘイデルの性悪説的ヴィジョン。そこから自身と家族を必死に守ろうとしつつ締切までに執筆しようと奮闘する様は、もはやホラー小説と言っていい。執筆に全く協力せずデタラメばかりを語り、いかに人々が事実よりも「自分が信じたいもの」を求めているかを熱弁するヘイデルには、トランプを始めとした世界中のポピュリズムの政治家の姿がチラつく。
 ヘイデルが通称「ジギー(Ziggy)」、つまりデヴィッド・ボウイが生み出した「ジギー・スターダスト」の名で呼ばれているのは、彼が様々な偽名を使い分けたり、レイやキフを始め様々な人を取り込む魅力を持っているからだけでなく、この小説のあるクライマックスを示唆しているからでもある。

***


 そのクライマックスとは原文の300頁ぐらいに訪れる。残り100頁。そう、クライマックスが来てもまだまだ小説は続くのだ。『奥のほそ道』でも同じ構成になっており、第二次世界大戦は小説の半分ほどで終わる。私がフラナガンで特に印象に残っているのは、「物語のその後」をしっかりと書くことだ。

 あまりにも衝撃的な経験は、人生のひとつのクライマックスとして、その後の人生に大きな影響を与えるはずだ。ならば、その後の人生をも書かねばなるまい。『奥のほそ道』と『First Person』は「物語のその後」にかなりの頁が割かれる。『First Person』では約20年後の現代までが、それまでのテーマを受け継ぎつつ語られる。フラナガンは時の流れに抗えない人生の悲哀を書くのが本当に上手い。
 キフはとある場で若手の女性作家と出会う。彼女は自叙伝しか書かない作家で、自分はでっち上げなどしない、物語なんて大嫌い、全部聞いたことがある物語であり、私たちは自分自身を見つめる必要があるのだと言う(キフはそれに対し「文学的自撮りみたいだね」と答えるのだが笑)。小説が現実に与える影響を疑う彼女はこう言うのだ。

“Everyone wants to be the first person.”(361頁)


***



 実は詐欺師ジークフリート・ヘイデルにはモデルが存在する。その名はジョン・フリードリヒ(John Friedrich)。1950年生まれの彼はオーストラリア国家安全評議会(NSCA)に1977年から働き、取締役になった1982年からNSCAの事業を拡大しつつ27もの銀行からお金を借り、1989年に詐欺罪で逮捕された。その後明らかになったのは、彼はオーストラリア国民でなかったばかりか、公式の出生証明書さえなかったことだった。そして彼は自伝を書くためにある若い作家志望の男に電話をかける。
 ──そう、キフ・ケールマンにもモデルが存在する。それはなんとリチャード・フラナガン本人なのだ! 若きフラナガンはフリードリヒの「報酬は1万ドル、期限は6週間」の依頼を受けてフリードリヒの自伝を書こうとするが……。
 その後どうなったかは英語版Wikipediaに書いてあるが、小説の内容に深く関わるのでここは是非とも翻訳が出るまで読むのは待っていただきたい。正直、今作は『奥のほそ道』ほどのクオリティではないが(事実、賞レースで結果は残していない)、エンタメ性と批評性を兼ね備えた素晴らしい作品であり、数多くの読者を満足させることができる(読者が作家志望の場合は奈落の底へ突き落とされる)はずだ。今作もいずれ渡辺佐智江の素晴らしい翻訳で出版されるに違いない。


*ちなみにフラナガンの最新作は今作ではなく、2020年に発表した『The Living Sea of Waking Dreams』になっております。