未翻訳小説を頑張って日々読んでいる日記

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まだ翻訳されていない英米文学をたまに紹介します。

ネイティヴ・アメリカンたちが奏でる豊潤なポリフォニー(The Night Watchman by Louise Erdrich)

 2021年のピューリッツァー賞フィクション部門の受賞作。ネイティヴ・アメリカンの血を引く女性作家ルイーズ・アードリックは、1954年ミネソタ州にてドイツ系アメリカン人の父とネイティヴ・アメリカンのチペワ族(あるいはオジブワ族)の母との間に生まれた。一家はやがてノース・ダコタ州のインディアン居住区に移り住む。
 ダーモント大学とジョンズ・ホプキンス大学で学びながら、詩を発表し始める。大学で知り合った作家兼研究者であるマイケル・ドリスと結婚、共同で短編の執筆、研究などを行う(2人は95年に離婚、97年にドリスは自殺してこの世を去る)。小説家としてのデビューは1984年の“Love Medicine”(『ラブ・メディシン』望月佳重子訳・筑摩書房)。
 アードリックはすでに全米批評家協会賞を2回(1984“Love Medicine”, 2016年“LaRose”)、全米図書賞を1回(2012年“Round House”)、そして今作でピューリッツァー賞受賞と2012年からの10年間でアメリカ文学賞三冠(勝手にそう私が読んでいるだけ)を達成。さらにこれまでの功績が認められ議会図書館の“Prize for American Fiction”をも受賞している。2008年から始まったこの賞の他の受賞者には、トニ・モリスン、フィリップ・ロスドン・デリーロデニス・ジョンソン、コルソン・ホワイトヘッドなど錚々たる顔ぶれ。日本語で読める作品は『ラブ・メディシン』を含む90年代に翻訳された5冊のみで全て絶版だが、ルイーズ・アードリックは押しも押されぬ大物作家なのだ。


 『ラブ・メディシン』については、日本語版Wikipediaにも、検索でヒットする徳永紀美子の論文にも詳しいあらすじが書いてある。そこでの、

「アードリック作品は、20世紀初頭から現代までを主な時代背景として、保留地やその近隣の町で生きる人々の姿を描いている」(徳永 2012、31)
「(…)コミュニティの人々をも表出し、作品は個人の物語でもあれば、共同体についての物語にもなる。この多声を響かせるナラティヴ形式は、誰もが平等に語るという先住民のストーリーテリングの展開である。その一方で、同時にミハイル・バフチン(Mikhail Bakhtin)がいう、「対話的、ポリフォニック」テクストの典型ともいえるのだ」(徳永 2012、38)


という箇所は、そのまま“The Night Watchman”にも当てはまる。前置きが長くなったが、いよいよ小説の中身について説明して行こう。翻訳されるとしたら全く違う邦題になる可能性があるが(そこまでタイトルに小説が縛られていないので)、一応『夜警』としておこう。

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全450頁。邦訳されたらそこそこの厚さになりそうだ。

ネイティヴ・アメリカンの権利保護運動

 『夜警(The Night Watchman)』は、1953年のノース・ダコタを舞台とした物語。「ポリフォニー」を奏でるために多くの登場人物が出てくるが、中心になるのはお互い親戚同士の2人、地区に唯一できたアクセサリー工場に夜警として勤務するトーマス・ワズウスク(Thomas Wazhushk)と、作業員として勤務するパトリス・パラントー(Patrice Paramteau)通称ピクシー(Pixie)だ。
 トーマスとパトリスはそれぞれ全く独立したプロットを持っているわけではなく、同じコミュニティにいる以上、当然ながら密接に絡み合っている。


 トーマス・ワズウスクはチペワ族の評議会の議長で、いわゆる“Termination(ターミネーション)”と呼ばれる「連邦管理終結政策」に対する運動を起こそうとしていた。「連邦管理終結政策」とは、ネイティヴ・アメリカンを他のアメリカ国民と同様に扱おうとするもの。だが、その政策が本当は何をもたらすのかをトーマスは分かっている。

 エディはトーマスに「解放(emancipation)」について知っているかと尋ねた。ああ、知ってるよ、だけど解放じゃないけどな、トーマスは言った。その法案についてエディが誰よりも先に聞いているとは面白かったが──彼はそういうやつだった。昔も今も情報を集めるのが得意なんだ。
「俺はもちろん聞いたぜ。なかなかいい話みたいじゃないか」エディは言った。「自分の土地を売れるんだろ、俺が持ってるのは土地だけだからな」
「だけど、病院に行けなくなるぞ。クリニックも、学校も、農業支援も、全部なしだ」
「俺、何も要らないし」
「政府からの支給品もなくなるぞ」
「土地を売った金で買えばいい」
「法律で、もうインディアンではなくなる」
「法律は俺からインディアンの魂を取り出すことはできねえよ」
「多分な。土地の金が尽きたときはどうだ、それからどうする?」
「その日暮らしの生活をするさ」
「お前はあいつらが求めているインディアンそのものだな」トーマスは言った。
「俺は酔っ払いさ」
「それこそが、法案が承認された後の俺たちの姿なんだ」
「それじゃあ承認させようぜ!」
「お金はお前を殺すかもしれないぜ、エディ」
ウイスキーで死ぬってこと? そうなのか、仲間よ?」
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 政府は「自由」「平等」「解放」と言ってはいるものの現実にはその名の下に厳しい生活を強いられている社会的弱者への生活援助を打ち切る、という現在の日本でも同じことが堂々と行われている政策。これを阻止するため、部族の会議を開いて署名を集めて……というのがトーマスの主なプロットだ。
 結婚して33年になる妻ローズと子どもたち、そして夜警の仕事中たびたびトーマスを訪れる幽霊ロデリック(Roderick)が、トーマスのプロットでの重要な人物となっている。

行方不明の姉

 パトリスは19歳の女性。アクセサリー工場での働きぶりは優秀で、アル中で外をほっつき回っている父に代わって一家の家計を支えている。姉のヴェラ(Vera)はミネソタ州の街へ行ったまま行方不明となっており、パトリスはヴェラを探し出そうとしている。
 トーマスよりもパトリスのプロットの方が多彩で、姉ヴェラの捜索を中心にしつつ、パトリスに惹かれる男性たち、工場での同僚たち(全員女性)との交流などが描れる。
 ここで準主人公的な活躍をするのが、チペワ族の若きボクサー、ウッド・マウンテン(Wood Mountain)。彼はずっとパトリスに好意を抱いていて(一方のパトリスはウッド・マウンテンはもちろん男性全般に興味がないのだが)、この2人の関係は作中を通して描れる。
 前半のハイライトは、パトリスが姉ヴェラの痕跡を辿るためノース・ダコタのファーゴという街へと出掛けるエピソードだ。ひょんなことからファーゴへと向かう汽車の中で一緒になるパトリスとウッド・マウンテン。ファーゴに着くと、ウッド・マウンテンはボクシングの試合のために別行動に。パトリスは怪しげな夜の街に辿り着き、そこでパトリスはプールの中で動物のゴムスーツを着て泳ぐという見せ物をすることになる。命の危険を感じつつも、やがてヴェラが住んでいた家を見つけることができたが……

 息を潜めながら彼女が一つ目の部屋に入ると、鎖が壁にボルトで繋がれている犬を見つけた。
 青白くほとんど骨同然の犬は、足で立とうともがいていたが、崩れ落ちて横たわり、喘ぐこともできないほど弱っている。ひっくり返ったボウルと、部屋の一角には水が半分入ったガラスの水差し、そして干涸びた糞があちこちに転がっており、窓は開けられていた。彼女は水差しを持ってきてその生き物の近くでしゃがみ、膨らんでただれた鼻の下に水を垂らすと、しばらくして犬の喉が微かに動き水を飲み始めた。パトリスは立ち上がり次の部屋へつながる扉を開けた。それぞれの部屋に、汚れたマット、ねじれたブランケット、糞、尿の臭い、壁にボルトで固定された鎖があり、鎖の先には首輪だけが残っていた。彼女はそれらの鎖と首輪をよく観察していった。ある部屋では窓枠にビールの瓶が並べられており、最後に残った部屋は干涸びた悪臭に満ちたバスルームだった。そこにあったのは擦り切れた古いシート、乾いた血、丸められた二つのオムツ。彼女は犬のところへと戻り、今度は座って口元へ水をもっと注ぎ、浮き出たあばら骨に手を置いた。「あなたは彼女がどこにいるか知ってるよね」パトリスは言った。「絶対知っているでしょ。お願い、彼女を見つけるにはあなたの力が必要なの」
「彼女は鎖の先で死んだよ。私みたいに」犬は言った。
(150)

 パトリスは、ファーゴでの知り合いの女性(ウッド・マウンテンの(異父母)姉でもある)に会いに行きヴェラのことを尋ねるが、明確な情報は得られず、その代わりヴェラが残した男の赤ちゃんを託され、ウッド・マウンテンとふたり、まるで家族のように連れ帰る。


悲劇と喜劇

 ファーゴでの夜の見せ物と空っぽの部屋は、ヴェラが壮絶な体験をしたことを読者に想起させる。だが、トーマスを訪れる幽霊ロデリックの正体が分かるにつれ、これらの悲劇は当時のネイティヴ・アメリカンが置かれていた状況そのものなのだと分かる。
 では、全体に渡って悲劇をひたすら書いたサスペンス・ホラー小説なのかというと否だ。引用したトーマスとエディの会話のように、あちこちに笑えるシーンがある。例えば、ウッド・マウンテンのボクシングコーチである白人教師のロイド・バーンズ(Llyod Barnes)もパトリスに惹かれていて、つまり師弟でなんとかパトリスに近づこうと躍起になっている。その様はコミカルなシーンにならざるを得ない。
 中盤のハイライトはそんな2人の見せ場でもある。トーマスはウッド・マウンテンが前回ミスジャッジで敗れたライバル選手、ジョー・ワブル(Joe Wobble)との再戦を計画する。その試合の入場料を、ワシントンへ代表団を派遣する資金とするためだ。街でたまたまジョーを見かけると彼は不自然な歩き方していて、どうやら右肩を負傷しているようだった。これはチャンスだ、そう思ったウッド・マウンテンとバーンズはジョーを油断させるため、負傷したとき用のギプスを常にはめ、誰もいないところで密かに練習する。

(ウッド・マウンテンとグレイスという女性が、布教しにきたモルモン教徒について語る)

「あいつは失礼なやつだな。俺がぶちのめしてやろうか」
「その折れた手で? あなたが今使ってるその手、ニスの蓋も開けられないんじゃないの?」
「あっ」
「あなた、うそついてるのね!」
「言わないでくれ! 誰一人として言っちゃダメだ。俺はジョー・ワブルを騙そうとしてるんだよ」
 グレイスは笑い始め、しまいには笑いすぎて思わず座り込んでしまった。
「おいおい、どうした」
「知らないの?」彼女はついに言ってしまった。「彼もあなたを騙そうとしてるの。体を曲げて歩き回ってる。たまにどっち側に曲げるのか忘れてるけど。女の子はみんな知ってるし」
 ウッド・マウンテンは口を開けて驚いた。「え? どうやって知ったんだ?」
「あなたはもう知ってると思ってた。みんな知ってるよ」

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 こうして、読者をも笑わせた後、パトリスをはじめ登場人物ほぼ全員が見つめるリングの上で、ウッド・マウンテンはジョー・ワブルとの騙し合いの再戦に挑むのだ。試合結果は……
 この試合で無事資金を得たトーマスは、ワシントンで「連邦管理終結政策」を推進する上院議員と面会するメンバーを誰にするかを決める。果たして、ワシントンでの面会は成功するのか? ヴェラは帰ってくるのか?


物語の後も続いていくコミュニティ

 これまで名前を出した登場人物以外にも、後半で重要な役割を果たす才女ミリー・クラウド(Millie Cloud)、ウッド・マウンテンの母、モルモン教の宣教師、パトリスの工場の友人たちの恋、パトリスの父の帰宅(パトリスがこのときだけ“Night Watch”をする)、トーマスの父のエピソード、夜警中のトーマスが遭遇するフクロウとその幻などなど……多くの魅力的なキャラクターが縦横無尽に物語中を駆け巡り、悲劇と喜劇だけでなくネイティヴ・アメリカンの物語を「再演奏」していく様は、まさに「ポリフォニー」だ。

 このブログでも紹介し、後に加藤有佳織の素晴らしい訳で邦訳されたトミー・オレンジの『ゼアゼア』(五月書房新社)も、舞台こそ21世紀の現代に移しているものの、多くのネイティヴ・アメリカンを登場させる点では共通している。『ゼアゼア』では、別々だったプロットがクライマックスに向けて集約していく形だったが、『夜警』は全く異なる。もちろん小説として一応の終わりを迎えるが、過去に紹介した小説と比べれば、ラストの「物語的な快楽」はかなり薄い。ワシントンでの面会は『インテリア・チャイナタウン』や『セルアウト』での法廷の決戦のようにはならないし、幽霊のロデリックは『歌え、葬られなき者たちよ、歌え』の幽霊のようには活躍しないし、行方不明のヴェラも意外な形で決着する。
 だが、そんなラストこそ『夜警』のようなコミュニティを描く作品にはピッタリなのだ。『夜警』は、最初から網目のように絡み合った登場人物たちが、全員でそのままクライマックスになだれ込み、その豊かな「ポリフォニー」がこの後も続いていくと読者に思わせて終わる。これこそ悲しみも喜びも内包したコミュニティを真に描いた物語のあるべき姿であり、だからコミュニティの人々の“愛”の物語になっており、だからこそコミュニティを“守る”物語になっているのだ。


 アードリックのあとがきの言葉が大変素晴らしいので、訳出して終わりにしよう。

 最後に、もしあなたが、政府の公文書の乾いた言葉の連なりが魂をバラバラにし生活を破壊すると思っているなら、この本でその疑問を消し去ってください。逆に言うと、もしあなたが、我々にはその乾いた言葉を変えることはできないと思い込んでいるなら、この本から勇気を受け取ってください。


翻訳、どこか出してください!


参考文献
「部族の語りとポストモダニズムが出会う場所─Erdrich作品におけるハイブリディティ─」 熊本県立大学文学部紀要第18巻 2012年