未翻訳小説を頑張って日々読んでいる日記

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まだ翻訳されていない英米文学をたまに紹介します。

驚愕の「神の視点」で白人一家の凋落を南アフリカの歴史と重ね合わせる傑作(The Promise by Damon Galgut)

 2021年のブッカー賞受賞作。デイモン・ガルガット(Damon Galgut)は1963年、南アフリカプレトリア出身の作家。なんと17歳で作家デビューしており、The Good Doctor(2003年)、In a Strange Room(2010年)で過去2度ブッカー賞候補になっている。作品は全て未翻訳。
 さて、「南アフリカ」と「ブッカー賞」というと、海外文学に馴染みのある人なら、ブッカー賞を2度受賞したノーベル賞受賞作家、J・M・クッツェーが思い浮かぶであろう。やはりガルガットのThe Promiseクッツェー(特に『恥辱』)に近いテーマとなっている。クッツェーDisgraceが『恥辱』と訳されているので、おそらくは本作が翻訳される場合も、タイトルはストレートに『約束』となるであろう。


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全293頁。南アフリカ英単語に慣れれば、英文自体はかなり読みやすい。文体については後述


スウォート家と南アフリカとの約束

 第1章“Ma”は、アモール(Amor)という13歳の女の子が、叔母から母が亡くなったと告げられるシーンから始まる。読み進めていくうちに、舞台は1986年、南アフリカプレトリアで農場を経営する白人のスウォート家(Swarts)であることがわかる(“Swart”は南アフリカ公用語でもあるアフリカーンス語で「黒」を意味する)。家族構成は父マニー(Manie)母レイチェル(Rachel)、その子供たちは3人で、年齢順に現在徴兵されている長男アントン(Anton)、屋敷にいる長女アストリッド(Astrid)、そして次女のアモールだ。
 長く病に苦しんでいた母レイチェルを最後まで介護したのは使用人であるサロメ(Salome)。遺体を搬送し、母がいなくなった部屋を掃除するサロメを見て、アモールは2週間前の父と母の会話を思い出す。

……2人は私が部屋の隅にいたことを忘れていた。私のことは見ておらず、2人にとって私は黒人のような存在なのだろう。
 (約束してくれる、マニー?
 彼にしがみつき、骨のような手で握る姿は、まるでホラー映画のようだった。
 ああ、そうするよ。
 私は彼女に何かを残してあげたいの。彼女がしてくれた全てのことのために。
 分かってる、分かっているよ、父は言った。
 約束して、絶対にすると。そう言って。
 約束する、父は言った。そして嗚咽音)
(19)


 レイチェルは亡くなる少し前にオランダ改宗派(Dutch Reformed)からユダヤ教へと再改宗しており、葬儀のやり方を巡って父や叔母が混乱していた。埋葬の前に開かれた食事会に軍から一時帰宅したばかりのアントンが加わる。アントンは黒人の暴動鎮圧に派遣され、女性を1人射殺した直後に母の死を告げられたため、その女性と母を重ね合わせていた。そんなアントンと父が食事会で衝突。「彼女の夫は俺だぞ! 彼女のことはお前よりよく知っている。彼女が何を信じていたかは俺が知ってるんだ」という言葉から、何気なくアモールは口にする。「じゃあ母さんがやりたかったこと守らなきゃダメだよね。サロメに家を与えるって話も含めて全部、約束したのならね」そうアモールが言うと、「そんな約束していないぞ!」と一蹴されてしまう(62)。

 ここでタイトルの意味が分かる。タイトルの『約束』とは「使用人であるサロメに家を渡す約束」のことだ。もちろん、それは「黒人に家を渡す=人種差別の撤廃」のことでもあるが、アパルトヘイト撤廃後も物語が続く(約束が守られない)ことから、「白人と黒人の関係性」とでも言えるようなもっと広い意味をもっている。

 本作は基本的に農場の外を出ないが、政治的なネタがちらほら出てくる。第1章では叔母が、1986年当時の南アフリカ大統領、白人でアパルトヘイト撤廃運動に頑なに抵抗したボータ(Botha:在任86-89年)とピクニックをする夢を見たり、9年後の第2章では「融和の象徴」ラグビーW杯をテレビ観戦するなど、その時代の政治状況を説明しつつそれを登場人物に投影させている。そしてスウォート家でもっともリベラルな人物こそ、「サロメとの約束」にこだわり続け、第3章ではエイズ専門病棟で看護師として働くアモーレだ(99-08年にかけて大統領だったムベキはエイズ否認主義をとり、南アフリカでのエイズ被害が拡大した)。彼女はスウォート家でたった1人、南アフリカの暗い歴史を背負っているとも言える。
 南アフリカの変化とともに1人、また1人と亡くなっていくスウォート家。果たしてサロメとの「約束」は果たされるのであろうか。

 しかし、本作を傑作たらしめているものは、テーマだけでなく実はその文体なのだ。


自由自在の神の視点

 本作はいわゆる「神の視点」とも呼ばれる、珍しい三人称で書かれている。海外の批評を読むとガルガットはこれまでこのような作風ではなかったようだが、本作でのその筆捌きは達人級だ。
 序盤から次々と視点を変えて葬儀を描いていくが、その頻度が並ではない。早いときはわずか数行で視点が変わってしまう。しかも、その跳躍は主要人物に限らず、教会のホームレスや鳥にまで及ぶ! ほとんどの会話で引用符を使わず、連想ゲームのように時も場所も越えていくことで、物理的に狭く短い「農場での葬儀」という舞台の中でも、アントンの過去(暴動鎮圧)や大統領とのピクニックという叔母の夢までを自然に組み込み、物語世界を広げることに成功している。
 さらに文字通り「神の視点」で、読者に直接語りかけてもくる。前述したホームレスはなんと勝手に名前を付けられてしまうのだ。

……ここで証明することはできないのだが、実は彼はかつて高級取りであり、注目や尊敬を受ける人物であったのだ。もっともそれは全て上手くいかなくなるまでの話。しかし、それがどうした。彼自身は気にしていないようだし、時というのは全てを流し去る川のようなものなのだ。彼の家とその中にあった全てのもの/全ての人と一緒に、ホームレスの男は名前も失ってしまった。家族と友人は時も場所も遠いところに消え、もはや彼の正しい場所を指し示す者、あるいは彼が全てを忘れたとき彼が誰なのかを教える者はいない。だが、彼がとりつかれたように「風に吹かれて」の出だしを歌い続けているので、ここでは彼をボブと呼ぶことにしよう。いいじゃないか、もしかしたら正しい名前かもしれないし。
 ボブは、うつらうつらとしか眠れず、朝日が昇る前に起き……
(201)

 こうして様々な人物を次々と描いていくが、このような手法を用いているにも関わらず、重要人物であるサロメの出番は非常に少なく設定されている。白人中心のコミュニティでは黒人の家政婦が目に入らないことを意識してもいると思われるが、結果的にサロメが登場し「約束」が読者の眼前に引っ張り出されたときの緊張感は凄まじいものがある。
 サロメがどうしてスウォート家で家政婦をするようになったのかは、最後の最後にサラッと明かされるのだが、そのとき語り手はなんと読者に責任を押しつけてくる。

 もしサロメの故郷にこれまで触れていなかったとしたら、それはあなたが聞かなかったからだよ。(285)

 もはや読者を嘲笑うかのようだ。


新旧の古典のいいとこ取りのモダン・クラシック

 このように、自由自在な神の視点が様々なエピソードを持ち込むのだが、それらはどこか笑えるものが多い。特に次女アストリッドが傾倒するヨガの指導者は、後半で何度も読者を笑わせにくる。一方、様々な南アフリカでの暴力は、物語が農場の外を出ないことで、どこか他人事の気配が漂う(それこそが裕福な白人の特権)。このように、本作はシリアスなテーマでありつつもどこかユーモアの雰囲気が漂っている。白人の没落や南アフリカと献身的に向き合う娘などなど、クッツェーの『恥辱』と共通点は多いが、クッツェーが『恥辱』で南アフリカの厳しい現実を真正面から捉えたのに対し、ガルガットは『約束』でより風刺的な目で捉えたと言えるだろう。
 海外の批評では、本作での独特の語りがジョイス、ウルフ、フォークナーと言ったモダニズムの巨匠と比較されている(結末はジョイスへの直接的な言及らしいが、私は不勉強で分からなかった涙)。さらに言えば、一家の没落とそれを側で見続ける女性、という構図はフォークナー『アブサロム! アブサロム!』に似ている……などなど、このように本作は新旧の古典と比較されるに値する、まさに「モダン・クラシック」だ。