未翻訳小説を頑張って日々読んでいる日記

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まだ翻訳されていない英米文学をたまに紹介します。

「アメリカベスト短編集2021」The Best American Short Stories 2021(前編)

 前回1000頁のメガノベルを読んだことだし、初めての試みとして短編のアンソロジーを読んでみた。今回紹介するのは、2020年のアメリカ人作家の短編からセレクトした「アメリカベスト短編集2021」(タイトルの2021は出版された年で、『2022』は11月出版予定)。編者は全米図書賞を2回受賞しているジェスミン・ウォード。冒頭にウォードのエッセイが載っていて、これまた名文なのだが、今回は割愛。
 収められている短編は全20作。ひとつずつ簡単なあらすじと感想を書いていく。結構な長さになりそうなので(ついでに読む時間もかかる)、2回に分けて紹介しようと思う。
 今回は10編までを紹介するが、特に良いと思ったものには Good!をつけておく。本書に収録された短編はウェブ上で読むことができるものもあるので、気になった作品は検索してみるといいかもしれない。

 なお、著者のプロフィールは本書巻末に書かれているものに、公式プロフィールでの情報を少し加筆したもの。著者自身による短編へのコメントも本書巻末に書かれているものをまとめたものだ。
 ちなみに、10人中7人の作家が創作科出身で修士号(MFA:Master of Fine Arts)を取得している。



ガブリエル・バンプバッファローイーストウッドへ」(To Buffalo Eastwood by Gabriel Bump)

 ガブリエル・バンプは1992年生まれ。シカゴの出身。マサチューセッツ大学で創作を学びMFAを取得。これまでに短編をNew York Timesなどで発表し、28歳の2020年に第一長編Everywhere You Don’t Belong(Algonquin Books)を発表。好評でテレビドラマ化されるそうだ。

 失恋した語り手の男性はミシガンからバッファローまでドライブに出ていて、訪れる街で書店に立ち寄っていく。そして何軒目かの書店で知り合った大工の男性に飲みに誘われると、そこへさらに2人の女性が加わる。大工は自らをサンチョ・パンサ、2人の女性はそれぞれデイジー・ブキャナン、ジョーダン・ベイカーと名乗る。ご存知の通り、有名作品の登場人物の名だ。それに合わせて語り手は「俺は透明人間だ」と名乗る。そしてこの4人は、薬物の力も借りて夢か現実かわからない夜を過ごす。そんな中、語り手は愛する女性の夢を見る。
 簡素な文体だが「うまく話をするのができないんだ」と序盤に語るように、どこか不確定な要素があり、それが作品に余韻を残している。後半のラリった語りも文体的に前半との齟齬がなくスムーズで、程よいカオス感だ。序盤にレイモンド・カーヴァーの名前がチラッと出てくるが、カーヴァー的な上手さと言えるかもしれない。

 バンプは精神的にかなり弱っていた夏に、長距離ドライブに出掛けた。その道はかつて子供のころ、夏休みに父親と一緒にドライブしていた道。大人になり自分一人だけでドライブし色々な街を訪れたことは、バンプにとって素晴らしい経験になったそうだ。バンプはこれを長編に膨らませたいと語っている。


リタ・チャンエピング「奇跡の少女」(The Miracle Girl by Rita Chang-Eppig)

 リタ・チャンエピングはニューヨーク大学で創作を学びMFAを取得、短編をいくつか発表。2023年に第一長編 Deep as the sky, Red as the Sea(Bloomsbury)が出版予定で(いいタイトルだ)、南シナ海に悪名を轟かせた海賊の女性頭領の話だそうだ。

 中国から台湾へと逃れてきた夫婦のもとに生まれた姉妹の物語で、妹側からの視点が中心だ。彼女たちが住む地域は貧しかったが、宣教師がやってきて学校と教会を建ててからは生活は改善されていた。そんなある日、授業中に姉が掌から突然血を流す。この出来事をきっかけに姉は「奇跡の少女」として祭り上げられいく。姉は容姿でも勉強でも妹より恵まれていて、その上に神に愛されているだなんて!
 姉は「奇跡の少女」の役に完全にノリノリになっていて、家族も姉目当ての巡礼者とも観光客とも言える人々にお土産を売る。姉を巡る村の熱狂を一番近くで見ながらも一人だけ疎外感を感じ、姉との微妙な関係に戸惑う妹の眼差しが上手い。

 「奇跡の少女」は、チャンエピングの母が幼い頃に過ごした台湾でのエピソードがもとになっている。母の話の中でもチャンエピングの印象に残ったのは、宣教師の話だった。神が人を人種でランク付けをするがゆえに私は永遠に愛されることがないだろう、という考えは母が大人になっても未だに強い影響を与えていて、さらには話を聞いたチャンエピングにも及んでいることを感じたのだという。


ヴァネッサ・クティ「私たちの子供たち」(Our Children by Vanessa Cuti)

 ヴァネッサ・クティはニューヨーク州立大学で創作を学びMFAを取得、2023年の春に第一長編 The Tip Line(Crooked Lane Books)が出版予定。

 語り手の女性は子供もいる既婚者だったが、妻子持ちのダンという男性と恋に落ち(つまりW不倫)お互いに離婚し再婚。2人は、お互いの子供たち全員を連れてキャンプ場のロッジを借りることを計画する。そこで2人は、子供たちだけで過ごさせるために1日だけロッジを立ち去ることを思いつく。2人だけの時間を過ごしながら語り手の女性は、お互いの子供たちがロッジの中で生活し、成長し、大人になっていく夢を見る。
 W不倫を経て交際する2人とそれぞれの子供たちの関係の変化を描いた作品とも言えるが、それよりも、ロッジに残った子供たちが自分たちだけの世界を作り上げて成長していくという夢が、幻想文学のようで、非常に印象的。

 クティ自身の「母として足りないところ」からこの短編は始まったという。書き出しをおとぎ話のように感じたのでそのまま書き続けた、読者にも「現実の外側」のように感じて欲しいと語っている。


ジェンゾー・ドゥケ「ぼくたち」(The Rest of Us by Jenzo Duque)Good!

 ジェンゾー・ドゥケはシカゴのコロンビア・コミュニティで移民二世として育つ。ブルックリン大学で創作を学びMFAを取得、現在は短編集と第一長編の執筆中。短編の賞であるプッシュカート賞のノミネート経験もある。

 ヒスパニック系の若者の青春時代を語った短編。語り手は、様々な人種がそれぞれのテリトリーで暮らす街に住み、2人の友人と仲良く遊んでいた。しかし、その仲良し3人組は危険な商売に誘われ、次第に道を外れていく。
 この短編の魅力は語り口だ。ジュノ・ディアス作品のように、スラングだけでなくスペイン語も多いので全てを理解できたわけではないが、幼年時代の思い出、成り上がり、そして没落までが、達観したようなトーンで、それでいてどこか爽やかに語られる。
 「皆がそれぞれの物語の語り手なのだ(we were the tellers of our own stories)」と教えられて育った語り手は最後のパラグラフで、自分たちのことを忘れてもらっても、この土地に移り住んでも何とも思わない、と語る。なぜなら語り手は、思い出や記憶といった個人的な物語の価値を分かっているからで、それを読者に伝えるラストは儚くも美しい。

 本人によれば博士課程の学生だった2017年、クラスの課題で読んだMary Grimmの“We”という短編と、ルームメイトと観た映画『ボーイズ’ン・ザ・フッド』 が構想のもととなったという。


ブランドン・ホブソン「愚者からの脱出」(Escape from the Dysphesiac People by Brandon Hobson)

 ブライアン・ホブソンはオクラホマ州立大学で創作を学び(博士号を取得)、現在はニューメキシコ州立大学とアメリカンインディアン美術研究所で教えている。すでに長編を4作発表しており、2018年のWhere the Dead Sit Talkingは全米図書賞のファイナリストになっている(受賞作はシークリット・ヌーネス『友だち』)。

「親愛なる孫よ(…)私が暗黒の地から脱出し、我が家へと帰った話をしよう」と始まるこの短編は、描写や情報の少なさからダークSF的な雰囲気を感じるが、読み進めていくうちにネイティヴ・アメリカン民族浄化のことだとわかる。
 プロットは比較的シンプルだが、凄惨な内容(子供たちは髪を切らされ名前を変えさせられる)と、スリリングな物語に読者はどんどんページをめくってしまうだろう。

 触れておくべきはタイトルの意味だろうか。“Dysphesiac”は辞書に載っていない単語だが、綴りが「不全失語症」を意味する“Dysphasia(c)”に非常に近い。作中で子供を連れ去った白人たちの喋り方は、吃音があったり、毎回「ピリオド」と口頭で言ったりと確かに違和感は見られるが、この程度で「失語症」という言葉を使うのは適切ではない。
 ではどういうことなのか? “Dysphesiac”で検索すると驚きべきことにデイヴィッド・フォスター・ウォレスの文章がヒットする。The Oxford American Writer's Thesaurusに以下のような文章があるらしい(現物を手に入らないので確認はできないが)。
 ウォレス曰く、脳のダメージによって言語がうまく使えないことを意味する医学用語の“Dysphasia”よりも、意味は近いものの医学用語ではない“Asphasia”を使う作家が出てきている。そして“Dysphesia”は、専門的な定義から拡大して、筋の通った文章を作る能力が著しく欠けていることまでを意味することができるのだという。そしてウォレスは“Dysphesia”の具体例として、ブッシュ元大統領親子を挙げる。

 ここまでくれば“Dysphesiac”のニュアンスを理解できるだろう。ウォレスが生きていたらドナルド・トランプにも“Dysphesiac”を当てはめただろうし、そこから考えれば日本の政権与党も“Dysphesiac”の典型例だ。こうしてタイトルの“Dysphesiac People”の意味するところもわかってくる。私は簡潔に「愚者」という言葉を使ってみたが、あなたならどんな言葉にするだろうか。
 それにしても、2022年にこの短編を読むと、ロシアに強制連行されたウクライナの子供たちに想いを馳せてしまう…。プーチンもまた“Dysphesiac”であろう。
参考ウェブサイト:https://eska2.livejournal.com/1915.html


ジャミル・ジャン・コチャイ「『メタルギアソリッドV ファントムペイン』をプレイして」 (Playing Metal Gear Solid V: The Phantom Pain by Jamil Jan Kochai) Good!

 ジャミル・ジャン・コチャイはアフガニスタンの難民キャンプで生まれ、カリフォルニアに渡る。カリフォルニア州大学で創作を学びMFAを取得。2019年に第一長編 Nights in Logarを発表、PEN/ヘミングウェイ賞のデビュー長編賞の最終候補に残るなど高い評価を得て、2022年7月に短編集 The Haunting of Hajji Totak and Other Storiesを発表。

 アフガニスタンにルーツを持つ少年(「あなた(You)」という二人称で語られる)が、80年代のアフガニスタンを舞台にする『メタルギアソリッド5 ファントムペイン』をプレイし、自分と同じ年頃の父と叔父と会うという、設定だけで面白いことが確定している短編。『メタルギア5』を手に入れるまでの苦労がまず面白く、プレイ後も、ゲームの中で家族の故郷を訪れ幼い父と叔父を助けようとする現実と仮想空間との融解が非常に上手く書けている。

 この短編に関しては、矢倉喬士が「Real Sound」に非常に丁寧な論考を書いているので、そちらを読んでもらう方が良いだろう。

メタルギア畑でつかまえてーーファントムを描く短編小説「『Metal Gear Solid V: The Phantom Pain』をプレイして」 https://realsound.jp/tech/2020/09/post-616406.html


ニコール・クラウス「スイス」(Switzerland by Nicole Krauss)

 ニコール・クラウスは1974年生まれ。詩人としてキャリアをスタートさせ、2001年から小説も書き始める。4作の長編と短編集を1作出しており賞の受賞歴も多数、この8月下旬に『フォレスト・ダーク』(Forest Dark, 2017)が白水社エクス・リブリスから邦訳された(広瀬恭子訳)ことからも、すでに本国では高い評価を確立させている作家のようだ。ちなみにクラウスは創作科出身でなく、美術史で修士号を取得している。

 語り手のユダヤ人の女性は13歳の頃、親の都合でアメリカからスイスに渡ってきて、ジュネーヴの英語の先生の家に寄宿することになる。そこには他に2人の18歳の寄宿生がいて、そのうちの1人が物語の中心となるソラヤだ。ソラヤはイラン革命によって国を追われた後、家族はパリに移り住み彼女だけジュネーヴの学校に通っていた。ソラヤはクールでモテた女性だったので、色々な男性と付き合った話を語り手に聞かせたりもしていた。だがある日、ソラヤが連絡もなしに家に帰らないので、警察に通報する騒ぎになってしまう。
 語り手の女性の思春期の目覚めが、その道の先輩であるソラヤのエピソードを通して語られる。中盤に出てくる男性が語り手を脅す言葉が何度かリフレインされたり、「男性の気を惹く力は、あるときには危険な脆さを伴う」という語り手が悟ることから、性のアンバランスさと性暴力を描いたと言える。もちろん語り手とソラヤのバックグラウンドに注目することも忘れてはならない。

 クラウスは実際に13歳の頃ジュネーヴに住んでおり、そのころを思い出して書いたがソラヤのモデルはいないそうだ。若い女性が己を試すことと、そしてその若い女性が社会からのジェンダー観といった「現実」とぶつかることに興味があったと述べている。


デイヴィッド・ミーンズ「犬のクレメンタイン、カルメリタ」(Clementine, Carmelita, Dog by David Means

 デイヴィッド・ミーンズは1961年生まれ。コロンビア大学で学び、詩でMFAを取得している。すでに5冊の短編集を発表しているように短編を得意とする作家だが、唯一発表した長編Hystopia(2016)はその年のブッカー賞にノミネートされている。

 主人公はダックスフントのクレメンタイン。犬の視点を中心とした三人称で書かれた、かなり珍しいスタイルの短編。クレメンタインは仲の良い夫婦に飼われていたが、妻を失くし意気消沈している飼い主が目を離してはぐれた一瞬に、迷い犬だと思われた別の人物に連れて行かれてしまう。そこでカルメリタと名付けられ新しい生活を始めるが、あるときに元の飼い主の臭いを見つけて、元の家へと帰る。
 もちろんこの短編の特徴はプロットよりも文体。犬の認知過程や感情を言葉で表現しようとする、一種の実験小説だ。犬好きなら絶対に読んでおきたい作品だワン。

 もちろんデイヴィッド・ミーンズも犬を飼っていた。ミニチュア・ダックスフントバートルビー(いい名前!)と14年間一緒に暮らしていたミーンズは、バートルビーが亡くなって数年後ついに犬の物語を書くことにする。犬の心情を嗅覚を中心として表現し、そして究極的には人間の話であるもの、を書こうとしたという。


イクスタ・マヤ・ミューレイ「パラダイス」(Paradice by Yxta Maya Murray)

 イクスタ・マヤ・ミューレイは1970年生まれ。創作科ではなくロー・スクール出身という変わった経歴を持つ(現在もロー・スクールで教えている)。長編、短編、ノンフィクションなどすでに9冊の本を出版している。

 大規模な山火事から避難しようとする家族のお話。ネイティヴ・アメリカンとメキシコの血を引くフェルナンダは、警察官の男性と恋に落ち結婚、子供も生まれる。だが数年後に夫も義理の母も亡くなり、残ったのはフェルナンダと息子のジェシー、そして有色人種であるフェルナンダを認められない義理の父ウェズの3人。そのバラバラの家族を山火事が襲う。
 すぐそこまで迫ってきた炎を前に、ウェズは死を覚悟してでも自らの家に残ろうとするが、フェルナンダはそれを必死に説得し、3人で逃げようとする。人種によって分断された3人が天災を前に融和を見出す、という比較的わかりやすい構図だ。もちろん、山火事は地球温暖化を連想させるので、ウェズがトランプ支持者だったことを匂わす(後悔する)会話もある。なお、タイトルの「パラダイス」とは3人がとりあえずの目的地とする街の名前だ。
 炎から逃げ切ったかどうかはわからず、渋滞に巻き込まれたところで結末を迎える。この締め方もトランプ時代の混沌としたアメリカを象徴していて、とても良い。

 モデルとなっているのは2017年から18年にかけてのカリフォルニアの山火事。約150人が亡くなり45億ドルもの被害となったが、当時のトランプ大統領は被災者への支援を拒否。
 ミューレイ本人は被災していないが、ヘリからの空撮映像を観て「白人至上主義は西洋文化が生み出した最悪の方便」だと感じたという。


エロゴサ・オスンデ「グッド・ボーイ」(Good Boy by Eloghosa Osunde)

 エロゴサ・オスンデはナイジェリア出身。創作はワークショップに通っていただけで、ニューヨーク・フィルム・アカデミーで映像制作を学ぶ。というわけで、オスンデは作家だけでなくビジュアル・アーティストという顔も持ち、他の作家の装丁やファッション・ショーのポスターも制作している。インスタグラムを見てみるととても作家とは思えない投稿ばかり。短編をいくつか発表し、2022年に第一長編 VAGABONDS! を発表。多くの新人賞レースにノミネートされている。

 ナイジェリアはラゴスのとある商人の一人称語りで始まる。家からとある理由で追い出された語り手は、父より成功することを目標に、様々なビジネスを経て徐々に成り上がっていく。広大な家と何台もの外車を手に入れた語り手が、自らのパートナーを「彼(He)」と言ったとき、そこで読者は初めて、語り手が追い出された理由が同性愛者だったからだと分かる。語り手の周りには様々な性的マイノリティーが暮らすようになる。
 家から追い出されて以降初めての連絡が語り手の元に来る。父が病気で入院しているのだという。語り手は入院費を全て払い父の元へといく。父は語り手に、成功しているそうでよかった、あと一つだけお願いがあるんだ、結婚する予定の女性に合わせてくれないか? と語り手に言う。わかったと頷いた語り手は、パートナーの男性を連れていくが……そのシーンは泣いてしまう人も多いだろう。素晴らしいラスト。同性愛者と父との衝突、父(あるいは家父長制)への反骨心、そして父との和解を描いた短編だ。

 もちろんこの短編の一番の主題は「家族」であるが、オスンデは「クィアが禁じられる国でクィアが遭遇する暴力を描いた作品はすでにたくさんある」と述べ、「クィアは自分に対して起こること(暴力)を選ぶことはできないが、自分が何に耐えるかなら選ぶことができる」として、この物語を書いたという。他のクィア文学よりも語り手がたくましく、読んだ印象が異なるのは、この重心の置き方に由来するのだろう。


 以上が前半10作。現在、20作のうち16作まで読んでいるので、後半もなるべく早くアップしたい。ジョージ・ソーンダーズの名前もあるよ。