未翻訳小説を頑張って日々読んでいる日記

未翻訳小説を頑張って日々読んでいる日記

まだ翻訳されていない英米文学をたまに紹介します。

【翻訳書が出ました】『創作者のための読書術 読む力と書く力を養う10のレッスン』エリン・M・プッシュマン

このブログで大切なことを告知するのを忘れていました。
この度、私の初の翻訳書が刊行されました。
エリン・M・プッシュマン『創作者のための読書術 読む力と書く力を養う10のレッスン』(フィルムアート社)です。

www.filmart.co.jp

作家の分析的な読み方を学んで、作品をより深く理解できるようになるだけでなく、自分でも実際に書いてみよう、という本です。
扱うのは小説だけではなく、ノンフィクション、フォトエッセイ、グラフィックノベル、散文詩などなど、あらゆる形式の作品を対象にしています。
異なるジャンルを融合させた「ハイブリッド作品」、デジタルメディアを利用した新しい形式、新しい発表方法など、従来の創作論にはない新しい要素も満載で、訳した本人が言うのもアレですが、かなり良い本です。
引用されている作品は、ゼイディー・スミス「カンボジア大使館」をはじめ21世紀以降の作品が多くすべて未訳でしたので、それらも頑張って訳しました。。いわゆる「ツイッター文学」や「食べログ文学」のような作品も含まれており、非常に興味深く読めると思います。
(メアリー・オリバーの詩のみ、小磯洋光さんが翻訳してくださっています。なので厳密には「すべて」ではないのですが)

お近くの書店、あるいはネットショップなどで購入していただければ幸いです。よろしくお願いします。


そして、本書の刊行を記念して、東京は西荻窪の今野書店さんにて、私の選書フェアを開催中です。
そして、私も在店して選書棚の隣に座り、訳書と選書について直接説明して売り込む、という特殊なフェアとなっております(4年前にもやっていましたが)。
私が在店している日は、私か今野書店のツイッターアカウントをチェックしてみてください。週末のどちらかは必ず顔を出す予定です。とりあえず9月最終週まではやる(はず)です。
東京にお住まいの方など、ぜひお店に遊びにきて気軽に声をかけていただければと思います。

※ちなみに今は2024年のブッカー賞受賞作と、Jason Mottの新作を読んでおります。そのうちこのブログで紹介します。

散文詩、戯曲、小説……さまざまなテキストの形式を詰め込んだ「ハイブリッド小説」(Cuddy by Benjamin Myers)

 イギリスには「小説という型を破り、その可能性を拡げる(実験的な)創作」に贈られる「ゴールドスミス賞」という文学賞がある。受賞作リストを見ると邦訳されたのはアリ・スミス『両方になる』(新潮クレスト・ブックス 木原善彦訳)ぐらいだろうか。今回読んでみたのはそんな2023年のゴールドスミス賞受賞作、ベンジャミン・マイヤーズ(Benjamin Myers)の『カディ(Cuddy)』だ。
 ベンジャミン・マイヤーズは1976年生まれ。本書の舞台であるイギリス北東部のダラム出身。10代の頃はSour Faceというパンク・ロックバンドで活動していて、のちに『メロディ・メイカー誌』のスタッフになる。その後、音楽や芸術に関連した記事や伝記、エッセイも多く書きつつ、小説や詩集も出版。『カディ』は長編小説としては8作目となる。


 Cuddyとはイギリス北東部のリンディスファーン(Lindisfarne)という島の修道院長「聖カスバート(Saint Cuthbart)」(636 - 687年)の愛称。
 本書の「イントロダクション」で、聖カスバートの簡単なプロフィールが2頁で説明されているので、ここだけ訳出してみよう。

 カスバートは634年、ノーサンブリア王国のダンバー(現在のスコットランド領)で生まれた。羊飼いとして働いてるときに幻視を体験し、17歳のときにメルローズにある男子の修道院に入り、661年には修道院長になる。
 その謙虚な性格、敬虔な信仰心、自然への愛情、そして教えを説くためなら遠く離れた場所でも長い旅に出ることで、人々の間ですぐに知られるようになった。
 665年、リンディスファーン島の修道院長に任命される。イギリス北東部の沿岸に位置し、本島からは干潮時に土手道を渡るしかないその島で、彼は院長として長い時を過ごす。
 より慎ましい生活を求めて、カスバートはリンディスファーンの修道院長の職を退くと、さらに離れた小島のインナー・フェーン島へ移り、簡素な石造りの庵に住む。
 民衆の支持と尊敬を集め、愛着を込めて「カディ」と呼ばれた彼は、説得されて685年に隠居生活から戻り、リンディスファーンの司教に任命される。しかし、すぐにインナー・フェーン島の石造りの庵へ戻る。その地で苦しい病に倒れ、687年3月20日、生涯を終える。
 亡くなって十数年が経っても、カスバートの遺体は朽ちることがなかったと信じられていたことから、彼は聖人の宣言を受ける。
 793年、ヴァイキングの侵略を受けたリンディスファーンの修道士たちは、カスバートの遺体と聖遺物が納められた棺を掘り出し、島を後にする。長い放浪の旅が続き、従者と信者から成る共同体が、聖人を守り続けた。
 カスバートの遺体は様々な土地を転々としたが、なかなか安住の地を見つけることができなかった。そして995年、「カスバート共同体」はその地をダラムに見つける。そこで最初の教会が建てられ、のちにカスバートの遺体と聖遺物を収容する大聖堂にまで発展する。カスバートの遺体は1200年以上の歴史の中で5回掘り起こされ、大聖堂が位置する土地も長いさまざまな混乱に巻き込まれてきたが、聖堂は今日でも同じ場所に鎮座しており、世界中から巡礼者が訪れる地となっており、聖カスバートも北イングランドの守護聖人のように広く親しまれている。

 さて、この小説のどこが実験的なのだろうか。それはパラパラと頁をめくってみるとすぐにわかる。
  
 テクスト(文章)の種類について考えてみてほしい。小説、詩、戯曲……創作から離れれば、日記やノンフィクションも含まれるだろう──それらすべてを、一人称/二人称/三人称すべての語りの視点を使い分けて、一冊に詰め込んだ脅威の「ハイブリッド」小説がこの『カディ』なのだ。

 ではイントロダクション以降、どんな形式で書かれているか目次順に一つずつ説明しよう。「Book1」以降の地名は、各時代のダラムの呼び名が移り変わっていることを表している(日本語表記がこれで正しいのかはちと怪しいが)。

プロローグ インナー・ファーン島 687年
自由詩/一人称

 死を迎えるカディがその状況を説明する。わずか7頁。

Book1:聖カディ ダンホルム 995年
散文(自由詩? 物語詩?)/一人称

 この章で語られるのは、ヴァイキングの襲来からカディの遺体を移す旅だ。語り手は、孤児になったところを僧侶たちに召使いとして拾われた女性エディヴァ(Ediva)。彼女はカディと対話をすることができ、カスバートの遺体を安置すべき場所の幻視を見る。聖職者たちは辛い旅を続ける中、彼女はフクロウの目をした青年(Owl eyes)と関係を深める。やがて、彼女は幻視と一致する場所を見つけ、ここに新しい墓を作ると宣言する。同時に「梟の目」との子を孕っていることを知る。この章の最後に少しだけ時間が進み、1094年、「梟の少年(Owl boy)」という語り手が登場し、大聖堂の建築が始まったことがわかる。
 この章は視覚的にも凝った箇所が多く、先に載せた頁はすべてこの章からだ。さらに、転換のタイミングでカスバートとリンディスファーンに関する文献の引用の羅列が挿入される。極めて主観的な散文が続く章の中に、史料としてのテクストを配置することで、散文の雰囲気を損なうことなく背景情報を追加し、ストーリーの強度を高めている。


Book2:石工の印 ダレサム 1346年
小説/二人称

 ようやく一般的な小説のような語りになるが、二人称なので「変わった作品を読んでいる感」は非常に強い。物語の中心となる「あなた(You)」はエダ(Eda)という女性。父から教わった製造方法でビールを作って、聖堂の修繕と拡張の作業をしている職人たちに提供している。しかし、エダの夫であるフレッチャー・ブラードが厄介者。ブラードはイングランドでも指折りの弓の名手であるが、エダに暴力を振るうDV男なのだ。ブラードがスコット族との戦争のために遠征している間に、エダは石工のフランシス・ロルフと関係を深める。そしてブラードが帰ってきて……。


幕間劇:石は語る 教会の身廊 1650年
戯曲

 幕間劇(Interlude)と呼ばれたこの章はわずか12頁。そして文字通り「幕間劇」であり、テクストとしては戯曲になっている。クロムウェルによるスコットランド侵攻の1650年秋、「大聖堂は、訪れるすべての人にとっての礼拝、神聖さ、庇護の場所としての目的を失った」(269)と語られる。登場人物は、大聖堂に取り残された瀕死の4人の青年と「大聖堂」。大聖堂は青年たちに直接語りかけることはできないが、ナレーションを担当しつつ、彼らと命を落とした者のために名前を読み上げるところで終わる。


Book3:大聖堂の亡骸 ダネルム 1827年
日記(あるいはホラー小説)/一人称

 さらに時が進んだこの章は日記形式。日記の書き手(つまり語り手)は、古物研究、考古学を専門とする大学教授のフォーセット・ブラック。彼のもとに旧友だと名乗るパーネルという聖職者から、フォーセットにカディの遺体を発掘する作業を手伝ってほしいという手紙が届く。彼はパーネルについて何も思い出せなかったが、好奇心ゆえに参加することにする。しかし、現地に到着したフォーセットを待っていたのは怪奇現象だった。


Book4:おかしな青年 ダラム 2019年
小説/三人称

 最終章の舞台は現代で、ようやく一般的な小説の形式で語られる。大きな目をしたマイケル・カスバートは、病気の母を介護しながら肉体労働をする青年。やがてマイケルは大聖堂での手伝いの仕事を紹介される。それまでの辛い解体作業に比べると、大聖堂での仕事は恵まれた環境だった。そして大聖堂近くのカフェで働くエヴリン(Evelyn)という女性と仲良くなる。しかし、自分の父は服役中、バス代を節約するために歩くほど貧窮し、地元民なのに大聖堂についてほとんど知らないマイケルは、大学生であるエヴリンとの距離を感じてしまう。そして母親の容態がいよいよ悪くなってきて……。

 それぞれ異なるテクストの形式を採用しつつ、Book1は神話、Book2はDV夫によるサスペンス、Book3はホラー(M・R・ジェイムズ風と指摘するレビューもある)、Book4はボーイ・ミーツ・ガールと、まったく異なる雰囲気をまとっている。一方で、細かいところでは多くの共通点がある。


弱者へのまなざし

 まずは、食事を担当する頭文字がEの女性と、フクロウのように大きな目を持った青年がBook1〜4のすべてに登場し、金銭的や家庭環境など恵まれない境遇にあることだ。ここで本書のジェンダー観に疑問を感じる人がいるかもしれない。現代が舞台のBook4でのエヴリンも含め、女性が「食事係」をしているではないかと。構図としてはそうかもしれないが、例えばBook2でのエダはビール職人として独立しているとも言えるし、Book4で「ケアする側」として描かれているのは、エヴリンよりもマイケルの方だ(そして二人の関係は、典型的なボーイ・ミーツ・ガールとは異なる終わり方をする)。
 そして、Book3での主人公フォーセットは大学教授と他の章とは明らかに異なる人物だが、非常にリベラルな考えをもった人物としても描かれている。発掘作業を主導するパーネルとフライーネとの会話の中で、フォーセットはSophieという女性のWoman Not Inferior to Man: or, a short and modest vindication of the natural right of the fair-sex to a perfect equality of power, dignity, and esteem, with the men.(直訳すれば『女性は男性に劣っていない:あるいは、権力、品位、尊厳において男性と完全に平等である自然な権利についての簡潔で控えめな弁明』。1739年に出版された実在する本で著者のSophieはペンネームのため誰なのかは不明)を読んだことがあり大いに共感すると述べるシーンがある(316頁)。この箇所を「あざとい」と見ることもできるだろうが、それよりも、すべての章の主人公にキリスト教が本来もっている平等・博愛の精神ないしはカスバートの精神を貫かせることが主眼だろう。そのことは、主人公と対立する暴力性を孕んだ人物として描かれるのが、聖職者(それも身分が上の人物)であることからもわかる。そして、その対立構造を各章のストーリーのエンジンとして機能させている。
 他にも同じ名前の人物など、さまざまなモチーフが章を超えて重なっていく。それもすべて、今作を「短編集」あるいは「連作短編集」にするのではなく、「長編小説」として完成させるためだ。さながら数百年を経て完成、修繕しながら保存されている大聖堂のように。


長編としてのカタルシス

 Book4のマイケルは貧しい環境のため、この仕事に就くまで大聖堂の中に入ることができなかった(「実は大聖堂の中に入れるのは中間層の家庭からで、街の外れにある、彼が生まれる前に地元の産業が枯渇させた土地に住む人々には開かれていなかったのだ」390頁)。そんなマイケルに、カスバートと大聖堂の歴史に詳しいエヴリンは、一緒に中を回りながらガイドをしてあげる。イギリスと他国との歴史、カスバートの遺体の経緯を説明し、石に刻まれた「石工の印」(Book2)を見せて、聖カスバートの墓が何度も開けられていたことを証明した手記が残っていること(Book3)を教える。
 そして極めつけは、マイケルが初めて大聖堂の仕事に参加したとき、初めて平等に扱われ、仲間の一員と感じることができたシーンだ。

 そして、この感覚によってマイケルは気づいた。おそらく初めて自分は歴史の一部として存在しており、しかも、その歴史は永遠に終わらないものだということを。彼は人々の──記憶の──連鎖の新たな一部として繋がっている。その連鎖は、人々が別々の言葉を話し、別々の食べ物を食べ、別々の生活を送っていたが、おそらく同じようなことを考え、同じようなものを望んでいた遠い過去まで伸びている。連続体だ、彼はそう思った。この言葉で合っているだろうか? 僕たちは皆、連続体の一部なんだ。(406)

 そんな「現代のカスバート」マイケルに、Book1と2を経て確立し、幕間劇とBook3で失われた「大聖堂の神聖さ」が、聖カスバートが、語りかける──。


 実験的な要素が取り入れられていたとしても、ただの曲芸で終わってはいけない。しっかり作品の主題とクオリティを補完する「一部」になっていなければならない。その点で言うならば、『カディ』は確かに一見とても実験的に見える(実際に実験的である)が、その実験性にはすべて意図がある。それは最終部の語りに集約される物語の完成を目指して組み立てるブロックであり、つまりは『カディ』はトータルで見れば極めて真っ当で完成度の高い、長編小説「ノヴェル」だと言うことができるのだ。

ジェスミン・ウォードの新境地(Let Us Descend by Jesmyn Ward)

 ジェスミン・ウォードが現代アメリカ文学を代表する1人であることを否定する人はまずいないだろう。『骨を引き上げろ』(2011)と『歌え、葬られぬ者たちよ、歌え』(2017)で全米図書賞を2度受賞。これまで同賞を複数回受賞した作家は全員「白人男性」であり、「非白人」としても「女性」としても初の複数回受賞作家となったのがウォードなのである。日本では、まず『歌え〜』から出版順を遡る形で『骨を〜』、2008年のデビュー作『線が血を流すところ』まで邦訳された(いずれも作品社で、訳者は石川由美子)。

 さて、そんなジェスミン・ウォードが『歌え〜』以来の長編Let Us Descend を2023年に発表した。ウォードはデビューから一貫して架空の現代の街ボア・ソバージュを舞台に書いてきたが、今作の舞台は奴隷制が残る時代、カロライナの農場だ。

全300頁だがフォントは大きめなので、邦訳されたら前2作よりは短くなりそう

あらすじ

 物語は農場で奴隷として暮らしている母娘の「特訓」から始まる。語り手のアニスは小さい頃、母から木の枝を削って作った「槍(spear)」を渡された。母も(アニスの)祖母が作った槍を持ち、「これは私たちだけの、誰も奪うことができない秘密」(2)と言って、アニスに槍の使い方を教える。
 そのあとも、母はアニスに色々なことを教える。戦い方だけではなく、薬草の知識、農場の主からレイプされアニスを孕った話、そしてママ・アザ(Mama Aza)と呼ばれる祖母の話だ。ママ・アザはかつて「王の妻であり戦士」の1人だったが、王以外の男性と恋に落ちた結果、王によって奴隷として売られ、アメリカに連れてこられた。

 ママ・アザの闘い方や物語を知ることは──別の世界、別の生き方を思い起こすことなの。その世界は完璧な世界ではなかったけれど、この世界ほど間違ってはいない。(16)

 間違っている「この世界」とは、もちろん奴隷制度のことだ。そんな母が他の場所へ売られることになり、アニスと母は離れ離れになってしまう。悲しみに沈むアニスは同じ農場で暮らすサフィ(Safi)と愛情に満ちた関係となる。やがてアニスもサフィとともに売られることとなり、二人は過酷な移動を強いられる。男性は鎖で、女性はロープで繋がれ、目的地へとひたすら歩き続ける日々。
 ある夜、休憩しているときに白人の1人がサフィだけをロープから外し、森に連れていきレイプしてしまう。サフィが戻ってきたとき、白人はサフィのロープを軽くしか結ばず、脚がロープから外れそうになっていた。それに気がついたアニスは、サフィに逃げろと言う。サフィはアニスの強い言葉に促され、アニスの掌にキスをしたあと、森の中へと駆け出す。
 その数日後の朝、痛みと悲しみで目が覚めたアニスの前に、雲のようなスカートを履いて宙に浮く女性の姿をした“魂”が現れる。その魂はアニスに言う。「私を呼ぶあなたの声が聞こえたのだ」「私のことはアザと呼びなさい」(66)
 しかし、母から聞いていたママ・アザの身体的特徴とこの魂の姿は一致しない。この魂はなぜアニスの前に現れたのか? なぜこの魂はアザと名乗っているのか?
 こうして、アザに見守られながらアニスは地獄の日々を生き抜いていく。


母・ヴードゥー・水

 前2作と設定こそ異なれどまったく関連がないわけではない。ウォードを日本語で論じたものとして最適な論考が、ハーン小路恭子の『アメリカン・クライシス』(松柏社, 2023年)の「エコロジーをダーティにせよ」だが、そこでハーン小路は「母の否定性」「ヴードゥーとエンパワメント」といった観点からウォードの前2作を論じている。今作でもアニスをはじめ多くの登場人物が母の不在を余儀なくされており、アザの言葉を通して母や過去の悲劇と繋がりつつ、必死に生きようとする。
 「ヴードゥー」に関しては『歌え〜』との関連が明確だ。『歌え〜』でも重要な要素だった薬草の知識は本作でも継承されており、アニスに進むべき道を告げる“魂”アザは、『歌え〜』での幽霊を彷彿とさせる。さらに、後半に進むに連れて重要性を増していく“The Water”だ。

 水とはすべての魂のこと。私とあなたの前、すべての前に、水があった。私たちは水からやってきて、水へと戻っていく。水だけがすべてを知っているが、自ら語ることはない。(……)予知する者は、遠くを見ながら、できる限り水の流れを読む。(……)それら予知する者だけがわかっているだろう、船から投げ出された者たち、船から身を投げた者たち、海の底に沈んだ者たちが、その深さとともにいることを、そしてその沈下のあと、歌うであろうことを。(125-126)

 このイメージは、『歌え〜』での、

「ウロコの鳥が風にもまれながらおれを連れて渡ってくれる水の音が、すぐそこに聞こえている。(……)そして詞のない歌を口ずさむ。水の音といっしょに空気にのって運ばれてくる歌を」(263-264)

 という場面を彷彿とさせる。
 このようにウォードがこれまで書いてきた要素は、本作にも脈々と「流れて」いて、過去作とも「共鳴」している。

抵抗の物語

 『骨を引き上げろ』付録解説で青木耕平が取り上げているウォードの文体の特徴、「情け容赦ない語り(narrative ruthlessness)」(10)は本作でも健在だ。アニスたち奴隷の日々があまりに残酷なことは言うまでもないが、さらに本作では白人(支配者側)たちを名前ではなく属性や身体的特徴のみで表現し(ジョージアの男、夫人、金髪の男etc)、セリフの数も抑えることで、支配者層に感情がないような効果をもたらしている。この効果でアニスたちが生きる日常が“地獄”であることをより際立たせている。

 作中冒頭で触れられるがタイトルの”Let Us Descend”は、ダンテの『神曲』で詩人ウェルギリウスが主人公であるダンテを地獄のその先へと案内するときのセリフ”let us descend now into the blind world”からの引用である(35)。奴隷の生活が地獄であることを示唆するものだが、タイトルにはもう一つの意味が込められている。
 “descend”には、「下に降りる」という意味のほかに「子孫へ伝える、継承する」という意味もある。つまり、槍の使い方、薬草の知識、ママ・アザや母、他の奴隷たちの生を記憶し、子孫へ伝える(Let us descend)ということだ。それこそがアニスたちの抵抗と連帯の方法なのである。
 前2作との違いは、この「抵抗」にあると思う。小説冒頭、アニスは屋敷での家庭教師の授業を盗み聞きし、家庭教師が奴隷たちを蜂に、白人を養蜂家に例える話を聞く。しかし同時にママ・アザから伝わる「槍」が蜂の「針」のイメージと重なり、さらにアニスは蜂の巣のトップが雌であり「女王(原文では“queens”と複数形)」であることにポジティヴな印象を抱く(7-9)。中盤では、アニスが伝承された薬草の知識によって、ある白人の命を左右する機会を得る。つまり権力関係が逆転する瞬間だ。本作は冒頭に「武器(weapon)」という言葉が出てくるが、まさにそれを象徴として、前2作と比べると全体を通して抵抗のニュアンスがより強く、直接的なのだ。

   今作では様々なキーワード、モチーフが場所を変えて点在しているが、その中でも読者が息を呑むのは「息ができない(I can’t breath)」だ。2014年のエリック・ガーナー事件以降、「息ができない」というフレーズはブラック・ライヴズ・マター運動を象徴する言葉となった。さらに2020年にジョージ・フロイド事件が起きて、その言葉の重要性が増してしまったことは言うまでもない。『歌え〜』にもそれを意識した表現が何度か見られたが、それらはあくまでモチーフであり、テクスト上では「息(Breath)」と書かれる程度だった。しかし、本作ではそのまま「息ができない(I can’t breath)」というセリフが何度も登場し、いずれも黒人奴隷が命の危機に瀕しているシーンでの言葉だ。200年近く前の物語ではあるものの、明らかに現代を意識して書かれている。

 この記事では細かく触れなかったが、アニスとサフィとの明らかな恋愛関係も注目に値する。サフィと離れ離れになったあとも、サフィと交わした身体的接触はアニスの中で残り続け、何度も喚起してくる。これまで語られなかったであろうクィアの黒人奴隷への弔いであるだけでなく、最終部でのアニスの選択に影響を与えており、プロット的にも非常に重要である。
 そしてそのアニスの選択こそ、本作でのもっとも力強い抵抗であり、女性として、1人の人間として強く生きることの決断でもあり、今作が「現代の小説」であることを最も実感する決断なのだ。

※注意:ここから先は中盤以降の展開に突っ込んだ話になります。おそらく出版されるであろう邦訳まで取っておきたい方はここで止めることをお勧めします。


先行作 Mother Swamp

 今作の重要な先行作が、7人の作家による短編集 A Point In Time(2022)に収められたMother Swampだ。たったの15頁で、Amazon Prime会員なら無料で読むことができる*1。

 アメリカの湿地帯に隠れて生活をする一族の話。語り手の先祖である第一の母(First Mother)はプランテーションの奴隷で、脱走して川へと飛び込み、水面に浮かぶ丸太にしがみつき湿地帯に辿り着く。すでに子どもを孕っていた第一の母は、そこで「隠れ家」を作り、第一の娘を出産し育てる。
 第一の母はかつて、湿地帯の奥にスペイン入植者に連れてこられたマニラ系の男たちが築いた集落があるという噂を聞いたことがあった。第一の娘が17歳になったとき、第一の母はその集落を見つけ出して彼らと「提携」を結ぶ。それは、彼らの集落を秘密にしておく代わりに、娘との子どもを作る男を探す、というもの。男の子が生まれれば集落に、女の子が生まれれば隠れ家で生活をする。
 こうして何世代にもわたって女性の一族は「隠れ家」で生活をするが、第7〜8世代である母と娘(語り手)を大嵐が襲う──という内容。

 Mother Swampの「あとがき」によれば、ウォードは執筆中の小説(つまりLet Us Descendのこと)の構想を練っているときに、Sylviane A. DioufのSlavery’s Exile:The Story of the American Maroons(2014年 未訳)を読んだという。その本によれば、農場を脱走しながらも近くに隠れながら生活して、ときには農場の奴隷たちと物々交換をするなど接触を続ける元奴隷がいた。そんな生活をしている元奴隷たちの中には、追っ手が来れないほどの奥地の湿地帯へと進み、そこで自給自足のコミュニティを作ったものもいた(有名なのが「大ディズマル湿地(Great Dismal Swamp)」で、これはLet Us Descendにも登場する)。
 それを読んだウォードは考えた。そのコミュニティの始まりが1人の女性の奴隷だったら? そこで女性だけの集落を作ったら? ジェンダーロールと家父長制からも、奴隷制からもレイシズムからも解放されたとしたら? Let Us Descnedのラストも、ウォードのこの閃きから導きだされたものだ。

 湿地帯で密かに暮らす女性……となると、やはり思い浮かべるのは映画化もされたヒット作、ディーリア・オーエンズ『ザリガニの鳴くところ』(友廣純 訳 早川書房)ではないだろうか。そしてこちらも、ハーン小路恭子が『アメリカン・クライシス』の「湿地のエージェンシー、ぬかるみのフィクション」で論じている。そこで『ザリガニ〜』をエコフェミニズム(人間による自然破壊と女性の不平等が、男性優位の社会構造に起因するとする)の流れにある作品として、「非─人間的な視座において湿地の世界のありようを記述しようとするポストヒューマン的な試みがテクストの主要な部分を占め、湿地世界の生き生きとした物質のエージェンシーがとらえられている」としている(154)。
 Mother SwampとLet Us Descnedの両作品は、『ザリガニ〜』ほど湿地帯を詳細に描いてはいないが、未開の地(湿地帯)にて自然と共生しジェンダーロールとレイシズムから逃れて暮らすビジョンは、未開の地(フロンティア)にて自然を征服し白人男性主義の社会を築くという現実と対照を成す。
 
 高い評価を得た前2作と異なり200年以上前のアメリカを舞台にしつつも、現代へ、あるいは未来へと投射される豊潤な物語を書いたジェスミン・ウォード。改めて素晴らしい作家であり、今作も期待を裏切らない作品だ。

ポストモダン文学と“ポスト”ポストモダン文学? デイヴィッド・フォスター・ウォレスのキーワード〈新誠実(New Sinceirty)〉について

 2018年4月に行われたリチャード・パワーズ『オーバーストーリー』(木原善彦訳、新潮社、2019年)出版直後のイベントの動画がYoutubeにアップされている1。ゲストは当ブログで前回紹介した『ヨーロッパ・セントラル』のウィリアム・T・ヴォルマン。まずヴォルマンが登壇し『オーバーストーリー』の一部を朗読したあと、パワーズが壇上に上がり「フィクションとノンフィクションで私に大きな影響を与えた」とヴォルマンを紹介するのだが、そこでパワーズはユーモアを交えてこう言う。

 「私が思うに、その流行(フィクションだけでなくノンフィクションも書く)を始めたのは、私たちの友人であるデイヴィッド・フォスター・ウォレスだろう。(…)私たちはみな共通の美学で結びついていたが、それはみなが同じ属性の人間だったからだ。つまり白人で、男性で、同世代で、身長180cm以上だったということだ」

 経歴を確認すると、生まれた年はパワーズが1957年、ヴォルマンが1959年、ウォレスが1962年。デビューの年はパワーズが1985年、ヴォルマンとウォレスがともに1987年。確かに同世代と言ってよく、3人とも物理的に重い小説を書き、日本語版wikipediaでは「ポストモダン文学の作家」とされている。しかし、3人の作品を読んだことがある人は、彼らより上の世代のポストモダン作家──トマス・ピンチョン、ドン・デリーロ、あるいはジョン・バース──とは作風がやや異なることに気が付くはずだ。
 その違いについてヒントとなる有名なエッセイが、デイヴィッド・フォスター・ウォレスが90年に書いた(実際に発表されたのは93年)"E Unibus Pluram: Television and U.S. Fiction”(イ・ユニバス・プルラム:テレビとアメリカ小説)2だ。今回はそのエッセイと、それに関連した研究などを紹介する。
 あらかじめ言っておくと50頁とエッセイとしてはそれなりの分量があるので、かなり端折ったまとめである。表現を書き換えたり、書いてある順番なども変えているので、正確に論理を把握したいという方は必ず原書を読むようにお願いしたい。

そもそもポストモダン文学とは?

 この問い自体がそもそも難問であり、研究者・批評家によって定義もそれぞれだが、ここではザックリ行かせてもらおう。日本の一般的な海外文学読者(研究者は含まない)の中では「ポップ・カルチャーなどを取り入れて」「複数の語り手や脱線など、複雑な構成をもち」「60年代以降に書かれた実験的小説」といったところではないだろうか。代表的な作家は、評価でも人気でもやはりトマス・ピンチョンになるだろう(ここに異論は出ないはずだ)。
 トマス・ピンチョンの『逆光』(新潮社、2010年)について、訳者である木原善彦が書いた『ピンチョンの『逆光』を読む ─ 空間と時間、光と闇』(世界思想社 2011年)の冒頭に、ポストモダン文学についてこんな説明がある。

 90年代初頭に話題になったポストモダンなテレビドラマ『ツイン・ピークス』(1990-1991)の雰囲気を思い出すというのも十分に参考になるでしょう。『ツイン・ピークス』には通常の「犯罪もの」のテレビドラマとは異なって、事件の本筋とは無関係な無数の挿話が盛り込まれ、シリアスさと笑いの混合や現実離れした誇張などが随所に見られました。あのドラマに感じられた変さこそ、ポストモダニズムの現れだと言えます。(4)

 私がこの箇所を読んだとき、なるほどわかりやすいと膝を叩いたものだ。さて、以上を踏まえた上でウォレスのエッセイの概要を説明しよう。

今回読んだ“E Unibus Pluram: Television and U.S. Fiction”は、Penguin Booksから出版されたDavid Foster Wallace Reader(2018)に収録されたヴァージョンである

小説家とテレビとの関係

 ウォレスによれば、小説家とはいやらしい目つきをしている類の生き物だ。生まれながらの観察者であると同時に、人のことはじろじろ見るくせに人から見られることは嫌う、自意識過剰な生き物でもある。そんな視点から“テレビを観る”という行為について説明をする。
 テレビドラマを観ている私たち(視聴者)は、さながら“のぞき見”をしているように思えるが、テレビとは視聴者を必要としている、つまり、そもそも見られることを前提に“作られた”ものである。もし作家が創作の資料としてテレビを観ているならば、実はそこで観ているものはすでに創作として作られているキャラクターなのだ。むしろ、観ているものはキャラクターですらなく俳優であり、さらに言えば電波による画面上の現象であり家具である。テレビを観るという行為は何重もの“錯覚”によって成立しており、そのためには観ている人とテレビ側との共犯関係が必要となる。

 ここでウォレスが言いたいのはテレビへの猜疑心ではない。結論を先取していうなら、ウォレスは小説家とテレビとの閉鎖性を問題視している。

 ウォレスは、重要なのはアメリカ社会とテレビとの関係に問題があるということではなく、今やそれに対して何ができるかという段階に来ていることだと述べる。ウォレスが過去5年で素晴らしかったと評価するテレビコンテンツ(ドラマ、ミュージックビデオなど)はアイロニックな自己言及に関するものだったという。テレビが外の(現実)世界と関連していないことを批判することは、それが間違っているということではなく、的外れなのだ。
 60年代に表出してきたメタフィクションは批評家などにラディカルな美意識と迎え入れられたが、ウォレスはメタフィクション(の作家たち)の仮想敵であるところの「リアリズム」の順次的な拡大でしかないと考えている。高級文化(High Culture)としてのポストモダンというジャンルは、テレビの出現によって読者の意識(好み)が変化したこと、自意識的な視聴が生まれたことと関係がある。ポストモダンと自意識的な視聴者、そこに共通し連関しているものが自意識的なアイロニーである。他人と差別化する方法を大多数に向けて発信することに象徴されるように、テレビはその存在自体が極めてアイロニーであり、それはテレビを観ることで生まれる罪悪感と安心感というアンビバレンスを養分として成長するサイクルに繋がる。(この「テレビの根本にあるアイロニー」は、かなり長く説明していてかなり難解であるが、後半でもう一度アイロニーを説明するときにもう少し理解しやすくなる)

 さらにポストモダン文学の顕著な特徴である“ポップ文化(ブランド名、有名人、テレビ番組など)”の導入のメリットについても、「読者が皆、レファレンスを知っている」「皆が知っている状況に対して、少し不安になる」というアンビバレンスをもって説明する。現代の作家が低級文化(Low Culture)を小説に登場させると、不遜な雰囲気を醸し出し読者を不安にさせ、アメリカ文化の空虚さに物申した気持ちにさせ、何よりそれが現実(リアル)である、という点で非常に効果的なのだ(具体例として、ピンチョン、バース、ギャディスが挙げられている)。
 そして、ポストモダン文学の次なる展開の預言者としてウォレスはドン・デリーロを挙げ、『ホワイト・ノイズ』の「アメリカで最も写真に撮られた納屋」のエピソードを引用する。これは、とある納屋を見るため、そして写真を撮るために多くの人が集まっているのだが、その理由とは「この納屋が多くの人に撮られた」からであり、その閉鎖的状況を正確に捉えたシーンである3。

 アメリカ文学はポップ文化を、60年代には指示対象や象徴として“利用”し、70年代から80年代前半は“言及”し、大量消費社会の神話に入れられたものを世界として使うようになった。80年代後半からは“反応”する作品、例えば実在の人物の私生活を、言わば「ガラスケースの中」を書いたものがたくさん出てきたと述べる(ヴォルマンのデビュー作をここに位置付けている)。ウォレスは、これらの作品は文学上のテクニックではなく社会・芸術的な意図で識別することができるが、そこでのポップ文化の扱い方は、ビート・ジェネレーションの作家やポストモダンが抵抗として効果的に使っていたアイロニーやメタフィクションのそれと同じであり、やがてテレビによって吸収され中和されてしまうと警告する。

 カウンターカルチャーであった60年代のロックがテレビCMのBGMに使われるように、テレビは一般に浸透しているイデオロギーのその形式を見抜き、吸収し加工し、購買欲を掻き立てる勧誘として再提示する。テレビ(とCM)は「自分自身を表現しよう!」「この商品を買って群衆から飛び出そう!」と1人の個人でいることを保証してくれるが、ここにおける集団は個人を飲み込み消失する恐ろしいものとして描かれる。よって、1人でテレビを観ている視聴者は、1人でいることを礼賛される一方で自分もまたテレビで非難される受動的な大衆の1人であるという罪の意識を持っている。このアンビバレンスの真のメッセージとは、個人の実現は究極的には“観られる対象になること”で達成されること、つまり、テレビの外ではなく中へと手招きしているのだ4。
 テレビを観る大衆の1人でありながら、その大衆を抜け出すようなことはできないだろうか──それを可能にする(と思い込ませる)のが、大衆を超越するような“テレビの見方(=視聴するときの態度)”であり、アイロニーなのである。ウォレスは、テレビがそのアイロニーをポストモダン文学から引っ張ってきた(吸収し中和した)とする。
 このあと、80年代以降、アイロニーを持つキャラクターが増えたとして様々なドラマを挙げるが、その中に『ツイン・ピークス』の主人公、FBI捜査官クーパーも含まれている。
 冒頭で、ポストモダン文学の分かりやすい例として挙げられた『ツイン・ピークス』(1990)だが、それは「ポストモダニズムの現れ」であると同時に、ポストモダン文学がテレビに吸収されたことの現れでもあるのだ。(もちろん著者の木原さんもそんなことは分かっているとは思うけど)

 現在のアヴァンギャルド作家が扱う文化において、アイロニーや挑発や反抗は、なぜ解放へと向かわずに先細りしていってしまうのか。ひとつには、アイロニーが30年経過しても未だに最新の表現法として至るところにありふれているからだ。文化批評家ルイス・ハイド(Lewis Hyde)は「アイロニーは緊急時にしか使えないものだ。長い時間使われ続けると、それは、罠に掛かりその檻の中を楽しんでいる声でしかない」と言っているが、まさにアイロニーはエンターテイメントであるものの、ほとんど否定的な機能しか果たさない。アイロニーは批判的で破壊的であり、たとえ偽善者の嘘を暴いたとしてもそこに更地を残すだけで、代わりに建設的な何かを打ち立てるときにはさっぱり役に立たないのだ。

 では、テレビが有する反逆の美学にどう抵抗するのか。読者の頬を叩いて、テレビ文化がシニカルで、ナルシスティックで、本質的に空虚な現象である事実に目覚めさせるにはどうすればよいのか。ウォレスは次の「真の反逆的文学は“反反文学”」となるだろうとする。アイロニー的な見方はせずに、単一の意図で書くこと(single-entendre principles:単義主義5)、アメリカに古くからある、平凡で流行とは関係のない人間の苦しみや感情を、敬意と信念を持って扱うこと……を中心としたいくつかの項目を挙げて、このエッセイは終わる。

 最後は、個人的に最も重要でわかりやすいフレーズのみを抜粋したので、結末部だけでも原文を読んでみるのもいいかもしれない。
 最初に述べておくが、本記事ではこのエッセイの「概要」は説明しているかもしれないが「魅力」はまったく説明できていない。「典型的な単身世帯のアメリカ人」として“Joe Briefcase”なる人物を設定、あるいは「レイモンド・カーヴァー・ワナビー小隊の自意識的緊張病」といったフレーズのようなユーモア、「芸術は、真の価値を持つものの“創造的精製”から、偽の価値を持つものの“創造的拒絶”へと変わった」などキレ味抜群の批評眼と筆力、ピンチョンをはじめとした作家への言及などなど、読みどころがたくさんあるのでもし英語力に自信があればチャレンジしてみて欲しい(あるいは後述する“Consider the Lobster”のようにどこかの文芸誌が邦訳を……)。


“New Sincerity” 新誠実

 このエッセイには、『インフィニット・ジェスト(IJ)』内に登場する架空の多機能デバイス「テレピューター」の元ネタ、小説内で言及される実在のテレビドラマが引用されているなど、IJの理解に非常に役立つ情報が満載だ。特に結論部での主張はIJ全体に貫かれていると言ってよいだろう。IJの登場人物のほぼ全員が何らかのコト・モノ(多くが酒とドラッグ)に依存しており、その苦しみがひたすら変奏されていく。なぜウォレスが執拗にその苦しみを書き続けたのか──ここで使われるのが、“New Sincerity”〈新誠実〉である。
 “New Sincerity”というキーワードは、元々は映画や音楽で使われていた用語だ。ウォレスの今回のエッセイにNew Sincerityという単語そのものは出てこないが、結論部での主張を元に文学へと援用されるようになった。その1人として挙げられるのが批評家アダム・ケリー(Adam Kelly)だ。
 そんなアダム・ケリーの“David Foster Wallace and the New Sincerity in American Fiction”(2010)6というエッセイをネットで読むことができる。こちらも大雑把に説明すると、ケリーはデリダを引き合いに出しながらウォレスのテクストへの姿勢を検証しつつ、この複雑な社会・文化の中で自身の作品が読者に受け入れられると思っている作家は、本当に誠実であると言えるのか、そのとき作家の書いたものや発言と実際の感情とは一致しているのだろうかと問う。ウォレスのテクストと発言から、ウォレス作品において作家の真の意図は表出の裂け目に潜んでいる秘密のようなものだとする。ウォレスにとって最大の恐怖であり真の安らぎでもあるのが、自己を他者からの評価へと放棄する受動的決断であり、読者へのその対話的な訴えによって〈新誠実〉の作品は成り立っている。ページの外でのその双方向の対話(a two-way conversation)こそが〈新誠実〉の特徴だとする(リチャード・パワーズもこれに当てはまるとしている)。
 『すばる』2018年9月号に収録された吉田恭子訳のウォレスのエッセイ「ロブスターの身(Consider the Lobster )」は、訳者解説でも触れているが〈新誠実〉の典型的なテクストと言えるだろう。アメリカはメイン州「ロブスター祭り」のグルメレポートのはずが、やがてロブスターは痛みを感じるのか、生き物を食べるのはどういうことなのかという倫理的な問いへと展開されていく(ちなみにウォレスは菜食主義者ではない)。あるいはウォレスのテニスのエッセイ集『フェデラーの一瞬』(阿部重夫訳、河出書房、2020年7)の「トレーシー・オースチンになぜ失恋したか」を挙げてもよい。テニスの元祖天才少女であるトレーシー・オースチンの自伝を読んだ経験から、なぜ人々はスポーツ選手の「生の声」を聞きたがるのか、人々にとってスポーツ選手とは何なのかと掘り下げていく。
 これらのエッセイを読んだ読者は、自分にとって「生き物を調理すること」「好きなスポーツ選手(あるいは有名人でもよい)」が何なのかと、まさにページの外で考えてしまう。IJも同様だ。登場人物の苦しみを読んだ読者は想像する、その苦しみはどれほどのものなのだろうかと。その苦しみに自分が直面したときどうなるだろうかと。
 ピンチョンを読んだ読者は、テクスト内の繋がりや小ネタの参照元などを考えるだろうが、それはページの外に出ているとは言えないだろう。どちらが良い悪いとかではなく、ウォレスとピンチョンの大きな違いと捉えることはできる。
 さらに、前回紹介したウィリアム・T・ヴォルマンの全米図書賞受賞作『ヨーロッパ・セントラル』(2005年、未訳)も〈新誠実〉の作品と位置付けることができるかもしれない。20世紀前半の独ソで人生の決断を迫られた人々を書いた小説だが、歴史的資料を大量に用いて、こちらもありのままの苦しみを執拗に描こうとする。アイロニーやメタフィクションの要素は皆無で、彼/彼女らの決断について、自分に置き換えて思いを馳せてしまう。

取り扱いには注意

 ここで言っておかねばならないことは、〈ポストモダン文学〉が終わって〈新誠実〉の時代が来たのではないということだ。あくまで切り口の一つとして認識しておくのが良いだろう。事実、アダム・ケリーの論文を読んでもわかるように〈新誠実〉とはどこかふわふわした概念だ。ケリー本人も必ずしもポストモダン的なアイロニーから逃れることができたとは考えてはいないようで、その概念も曖昧なままである。〈新誠実〉の代表としては挙げられる作家がウォレスの他、ジョナサン・フランゼン、ゼイディー・スミス、デイヴ・エガーズなどなど。このリストが90年代以降のビッグ・ネームを挙げただけとも言えるのも、〈新誠実〉の曖昧さゆえだ。
 また、アメリカ文学の主流からメタフィクションとアイロニーが無くなったわけでもない。2020年と2021年の全米図書賞受賞作『インテリア・チャイナタウン』と『ヘル・オブ・ア・ブック』(いずれも未訳、詳細は当ブログの過去記事参照)はメタフィクションとアイロニーそのもの。しかし、この2作に今回のエッセイに書かれた批判は当てはまらない。
 なぜなら、いずれもアジア系と黒人の人種差別をテーマにしており、アメリカで非白人でいることは未だに〈緊急時〉であり、アイロニーが社会へのカウンターとして機能しているからだ。ピンチョンの初期3作が輝いていたのも、アイロニーがカウンターカルチャーだった時代だからであり、それはそのままピンチョンが2013年に発表した『ブリーディング・エッジ』(佐藤良明、栩木玲子訳、新潮社、2021年)にまったく切れ味が感じられない理由である8。

 しかし「イ・ユニバス・プルラム:テレビとアメリカ小説」に読む価値がないわけではない。ウォレスが指摘した人間とメディアとの関係、アイロニーへの批判は〈ポストモダン文学〉を考える上での貴重な視点であるだけでなく、SNSのエコー・チェンバーによって陰謀論あふれる時代だからこそ、その重要性は衰えていないばかりかさらに増しているようにも思える。
 そして何より、デイヴィッド・フォスター・ウォレス、『インフィニット・ジェスト』という、日本にほとんど紹介されていない最後の大物作家とその代表作を理解する上で、必須のテクストであることに間違いないのだ。


最後に

 今回のエッセイを読んでみようと思ったのは、2023年に幸運にもウォレスを扱ったことがある研究者(あるいはそのままウォレス研究者)とお話する機会に恵まれたことが大きな動機となっている。この場を借りてお礼を申し上げるとともに、ネットで閲覧可能な論文を発表している方の紹介をして終わりたいと思う。

 桑原拓也の論文は、ウォレスの短編「帝国は進路を西へ」(短編集『奇妙な髪の少女』(白水社)収録だが、絶版)を題材に、メタフィクションと閉鎖性への批判を読むもの。実際にウォレスがポストモダン文学批判をどのように小説の形へ落とし込んだのかが分かる内容。
「David Foster Wallace 初期作品における後期ポストモダン文学批判と他者の探求」(2019年)

 さらに桑原は、日本でも人気のイギリスのロックバンド、The 1975の楽曲“Sincerity is Scary”を〈新誠実〉から分析した論文も書いている。ちなみにThe 1975のフロントマン、マシュー・ヒーリーはリハビリ施設にいるときに『インフィニット・ジェスト』を読んでいたことを公言している。
「脱ポストモダンの誠実さ : The 1975の“Sincerity Is Scary”におけるアイロニーと誠実」(2019年)

 小倉永慈の論文は、邦訳され日本でも人気だったオーシャン・ヴォン『地上で僕らはつかの間きらめく』(木原善彦訳 新潮社)を、本記事冒頭の「見ること」「見られること」から読んでいこうとするもの。このブログを最後まで読んでくれるような方の中には『地上で僕らはつかの間きらめく』を読んだ方も多いだろうから、興味深く読めるのではないだろうか。
「見られたら嬉しい──オーシャン・ヴオン、デイヴィッド・フォスター・ウォレス、 死への態度と他者への倫理──」(2021年)

 林日佳里の発表原稿は『IJ』内に登場する架空の映像作家の作品から、ポストモダン批判を読み解くもの。『IJ』を読んでいないと理解が難しいかもしれないが、「誠実さ」には4つの論文の中では最も触れているもの。
「「父なるポストモダニズムへ 心を込めて、デイヴィッド」―Infinite Jestと世代のジレンマ」(2021年)



  1. Richard Powers | The Overstory with William T. Vollmann | No Immediate Danger↩
  2. タイトルはラテン語で、アメリカ合衆国のモットーとして知られるラテン語、イ・プルリブス・ウヌム(E Pluribus Unum)の言葉遊び。本家は「多数はひとつへ(Out of many, one)」を意味するが、ここでは“From one, many”の意味になる。実は同じ言葉が『インフィニット・ジェスト』の序盤に登場している。↩
  3. このシーンについては『現代作家ガイド7 トマス・ピンチョン』(麻生亨志、木原善彦 編著, 彩流社, 2014)において、長澤唯史訳で邦訳・掲載されているブライアン・マクヘイル「ピンチョンのモダニズム」の中でも、ジョン・ボードリヤールの「シミュラークル」を用いて取り上げられている。↩
  4. Instagramとtiktokは、ウォレスの指摘をさらに加速させたメディアだと言える。↩
  5. 単義主義という日本語訳は、吉田恭子訳「ロブスターの実」の訳者解説から引用した。↩
  6. “David Foster Wallace and the New Sincerity in American Fiction.” Consider David Foster Wallace: Critical Essays, edited by David Hering, Sideshow Media Group Press, 2010, pp.131-46.↩
  7. こういうのも野暮だが盗用と言われぬように一応述べておくと、『フェデラーの一瞬』のAmazonレビューは私が書いた。↩
  8. ウォレス作品のように脚注で長々と書かせてもらうなら──評価があまりよろしくない『ブリーディング・エッジ』だが、私はそこまで嫌いではない。むしろピンチョンのファンなら必ず読むべき作品だとさえ思っている。ピンチョンは初期3作のあとの沈黙を経て、90年に『ヴァインランド』(邦訳は新潮社から98年、2011年)を発表。84年を舞台にしたこの小説を三浦玲一は、レーガンの新自由主義下においてピンチョン自身の行き詰まりを書いたものと評したが(詳しくは脚注3の『現代作家ガイド7 トマス・ピンチョン』内に収められた「ピンチョンにみるポストモダン小説の変遷──『ヴァインランド』の必然」三浦玲一を参照)、私は似たような感想を『ブリーディング・エッジ』に抱いた。
     『ブリーディング・エッジ』は『ヴァインランド』以来にピンチョンが現代を舞台に設定した作品で、911を巡る陰謀論とインターネットを主題にしたものだ。「百科全書的」とも呼ばれるピンチョンの作風はいつしかインターネット的とも呼ばれるようになったが、言わば『ブリーディング・エッジ』は、自らの作風の実体化を書くという前代未聞の文学的格闘であり、そしてピンチョンは敗北した。911に関する陰謀論は昔からありふれたものであるし、インターネットの深奥に光明を見出すのもあまりにも楽天的と言わざるを得ない。主題が空回りしている小説の中で豊富な知識による言語遊戯を繰り広げたところで、文字通りただの「遊戯」でしかない。これは原文が出版されたトランプ以前の2013年に読んでもこういう評価をしていると思うし、邦訳が出版された2020年なら言わずもがなだ。
     この小説の興味深い要素は、ピンチョンのプライベートのようなものを垣間見ることができることだろう。ピンチョン一家が住んでいると思われるニューヨークの高級住宅街が舞台のひとつになっており、後半には家族愛が強く描かれている。全く人前に出ることをしなかったピンチョンが自作に自らの存在を「チラ見」させるのはなぜか。もちろん911を書くことはニューヨークを書くことなので、自身がよく知っている舞台を書くのは当然とも言えるが……私には、どこか読者へのサービスのように映った。
     私にとって『ブリーディング・エッジ』は、サッカーや野球のスター選手の「引退試合」のような読書体験だったのだ。全盛期に遠く及ばないこと、今の自分にできることは何もないことをファンとともに確認し、スピーチのあとに家族が現れて花束贈呈である。ピンチョンという滅多に姿を見せなかったアメリカ文学界の巨人が、最後に家族とともに自身の老いた姿を「小説という形で」我々に見せたことは、ファンにとっては感動的だ。(無論、これらをピンチョンが意図していた確証はない)↩

20世紀の独ソの中で揺れ動く人々を正確に採譜した重奏曲(Europe Central by William T. Vollmann)

 いわゆる「ポストモダン文学」に興味がある人なら、ウィリアム・T・ヴォルマン(William T. Vollmann)という名前は聞いたことがあるだろう。90年代以降のアメリカを代表する作家の一人で、ピンチョンのように長大で難解な作品を書く人物……というイメージを持っている方が多いはず。実際に経歴を調べてみると、ヴォルマン本人がピンチョンの小説に登場するような、とんでもないキワモノであることがわかる。
 1959年に生まれたヴォルマンは、大学で比較文学を学んだあとコンピュータープログラマーとして働きながら、87年にYou Bright and Risen Angelsを完成させデビュー。704頁もある長大なデビュー作が「ヴォルマンは、ピンチョンとトム・ウルフ※1の間という誰もいない場所を歩き回っている」と評されたように、ヴォルマンは、小説家とジャーナリストの要素を持った珍しい作家だ。
 ヴォルマンはノンフィクションの要素が色濃い小説を書いているだけでなく、ノンフィクションそのものも多く発表している。本人の戦地での経験も含め、暴力についての20年間の考察をまとめたRising Up and Rising Down: Some Thoughts on Violence, Freedom and Urgent Means(03年)は彼の最も長い作品で、全7巻で計3352頁もある(のちに1冊にまとめた圧縮版も出版された)。ヴォルマンが女装を始めたことで生まれた女性人格「ドロレス」について書かれたThe Book of Dolores(13年)なんて本もある。さらに、彼はイラストを多く描いては自作に使用し、87年に自費出版したThe Convict Bird: A Children’s Poemは、鉄の板で綴じられて売春婦の髪の毛で作られた栞がついているという。
 様々な活動をしているヴォルマンだが、有名なのは北米大陸への移住の歴史を書き記す「七つの夢」シリーズだろう。90年に第1作The Ice-Shirtが発表されたあと、現在までに5作が発表されており、そのうち94年の『ライフルズ』(The Rifles)は国書刊行会から栩木玲子訳で01年に邦訳されている。
 そして、現在手に入る日本語のヴォルマンの著作は『ライフルズ』含めてたったの3冊。他の2冊はいずれも90年代に邦訳されて絶版。あとは短編などがアンソロジーに少し紹介されているだけ。
 当然、ヴォルマンの05年のあの小説も未邦訳──というわけで、今回はその800頁の大長編にして全米図書賞受賞作、Europe Central(ヨーロッパ・セントラル)を読んでみたわけである。

811頁なので『インフィニット・ジェスト』ほどは重くはない。

『ヨーロッパ・セントラル』のあらすじ

 小説冒頭、ナチス親衛隊の電話交換手の語りから始まるからといってピンチョン『重力の虹』のようなスケールのデカイ話を期待すると肩透かしを食らってしまう。『ヨーロッパ・セントラル』は、20世紀初頭から第二次世界大戦、戦後までのナチス・ドイツとソビエト連邦の実在の人物たちの痕跡を記述していく、歴史小説と言ってもよい体裁になっている。もちろん徹底的な歴史的資料に基づいて書かれており、本書の最後50頁は出典に使われている。

 作中での扱いが特に大きい人物を登場順に列挙していくが、以下がそのまま「目次」であり「あらすじ」になっている。

 レーニン夫妻とファニィ・カプラン(1918年レーニン暗殺未遂事件の犯人)
 カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルク(1919年に殺された革命家)
 ケーテ・コルヴィッツ(ドイツの貧しい人々を扱った彫刻家)
 アンナ・アフマートヴァ(ソ連の詩人)
 ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(ソ連の作曲家)
 ロマン・カルメン(ソ連のドキュメンタリー映像作家)
 アンドレイ・ウラソフ(ソ連からドイツへ渡った軍人)
 フリードリヒ・パウルス(ドイツからソ連へ渡った軍人)
 ゾーヤ・コスモデミヤンスカヤ(ソ連のパルチザン)
 クルト・ゲルシュタイン(ホロコーストを告発したナチス親衛隊)
 ヒルデ・ベンヤミン(東ドイツの司法相)※2
 
 これ以外にもヒトラーとスターリンをはじめ、登場する政治家、軍人、芸術家、その家族たちは、すべて合わせれば100人近くになるのではないか。この多種多様な人々を、ドイツ側からは先述のナチス親衛隊の男が、ソ連側からはソ連の秘密警察NKVD(内務人民委員部)の男(アレクサンドロフという名前がつけられている)が、さながら歴史の目撃者として交互に語っていく。それぞれの章はほぼ独立した構成になっているが、さながらタコの足のように広がる電話線で密かに繋がっているかのように、どこかで共鳴し合っている。
 そして最も多くの頁数が割かれ最も多くの章に顔を出す中心人物こそ、ショスタコーヴィチとその最愛の女性、エレナ・コンスタンチノブスカヤ(Elena Konstantinovskaya)である。ショスタコーヴィチの経歴について詳しい方は首をかしげたであろう。恋多きショスタコーヴィチは生涯で3度結婚したが、そこにエレナという名前の女性はいなかったはずだと。それもそのはず、このエレナはモデルこそあれど、作中で名前が与えられている中で唯一、創作の人物なのだ。
 バイセクシャルで男性/女性問わず多くの人物から言い寄られる恋多き女性で、名前を変えてショスタコーヴィチ以上に様々な章に顔を出すエレナは、ヨーロッパの象徴として描かれており、本書で最も読者の関心を惹く存在だ。ソ連のコムソモール(共産主義青年団、密告などを行う)のメンバーでもあったエレナは英語に長けて翻訳をしていたが、大粛清が巻き起こる34年の夏にショスタコーヴィチの英語の家庭教師となり、そこで彼と恋に落ちる。ショスタコーヴィチは同時に交際していたニーナとの関係に悩むが、エレナはNKVDに逮捕されて強制収容所に送られてしまう。そのあとエレナはロマン・カルメンと結婚するなど(これは史実)2人はともにソ連の政治・芸術の世界に身を置くが、人生の軌跡は接近はすれど再び交わることはない。
 やがて戦争が終わり、両国の語り手は戦争を生き延び、ドイツは東西に分裂する。語り手の1人であるナチス親衛隊の男は、西ドイツの対ソ連諜報機関であるゲーレン機関に捕まり、ソ連に魂を売り渡していないのならばその証明としてある男を殺せと命令される。
 その男とは、青白く、髪が薄く、分厚い眼鏡をかけた男、ソビエトの作曲家ショスタコーヴィチ。


暴力と倫理へのヴォルマンの意識

 ナチス親衛隊の語り手が戦争を生き延びてショスタコーヴィチ暗殺の依頼を受ける章は、非現実的なシーンが多く、最もフィクション性が強い箇所だが、ここまで来ると同時期に書かれた別の小説のことを考えられずにはいられない──物語の中盤でナチス親衛隊の男の頭を弾丸が貫き、錯乱した夢を語るあのシーン──『ヨーロッパ・セントラル』の1年後、アメリカ生まれのジョナサン・リテルがフランス語で書いた『慈しみの女神たち』だ。※3
 第二次大戦を生き延びたナチス親衛隊の語り手が戦争を回想していく『慈しみの女神たち』は『ヨーロッパ・セントラル』との共通点が多い。どちらも同じ時期に書かれ、物理的に重量級(英語版の『慈しみの女神たち』は約990頁)で、長期間の綿密な取材に基づき、音楽の要素があり、20世紀の巨大な「暴力」を中心に据えている。
 事実、『慈しみの女神たち』の英語版The Kindly Onesが09年に出版されたとき、両者を比較した書評がある。「ワシントン・ポスト誌」のMelvin jules Bukietの書評では両者の共通点を挙げたあとで、リテルに厳しめにこう書いている。

「(…)リテルは末端の小役人と怪物のどちらを生み出そうとしていたのだろうか、あるいはその両方なのかという疑問が浮かぶ。しかし、1000頁近くを読んだあとになってもその意図が分からないのは、ヴォルマンが1940年代のドイツとロシアで重要局面にいた実在の人々の、多面的な視点で描いた倫理的ジレンマを、リテルは掘り下げようとしなかったからだ」※4

 この倫理的ジレンマこそ、一見バラバラに見える『ヨーロッパ・セントラル』の登場人物たちに共通する要素であり、本編終了後に出典の冒頭で作者が直接説明しているキーワードだ。

 この複数の物語は、私の『七つの夢』ほど歴史的事実に厳密に基づいているわけではない。実際、私のここでの目的は、有名、無名、匿名のヨーロッパの倫理的行為者たちがある決断をした瞬間、その寓話の連なりを書くことだった。この本の登場人物のほとんどが実在した人物であり、私は彼らの人生を細部まで可能な限り調べあげたが、あくまでこれはフィクションである。(753)

 『ヨーロッパ・セントラル』の登場人物たちは命の分水嶺を経験しており、ヴォルマンはその決断に至るまでの過程を書いていく。小説中盤でショスタコーヴィチと直接関係がない軍人たちが(それも数奇な最後を迎えた者が)取り上げられているのはそれが理由だ。自分の信念と組織からの要求とのジレンマに悩み、人智を越える歴史の流れが彼/彼女らに決断を迫る。先述したヴォルマンのRising Up and Rising Down(03年)は、ナポレオン戦争から本人によるイラク戦争のレポートまで多くの暴力を徹底的に分析することで、「暴力の微積分(moral calculus)」を試みた本なのだという。この言い方を使えば、前作で暴力について書いたヴォルマンは、その暴力を行使する前提条件である倫理に着目し、『ヨーロッパ・セントラル』では全体主義という暴力の時代において倫理的ジレンマに挟まれつつ決断する瞬間を捉えようとした──つまり倫理の微分を試みたのだと言える。
 ならば暴力の時代における「倫理の積分」は? 本書での一応の結末がそれに当たるのかもしれない。本書の後半は、最も長い章のタイトルでもある「作品番号110」が完成するまでに焦点を当てている。その作品こそ、ソ連共産党からの圧力と芸術の自由との狭間で悩むショスタコーヴィチが「ファシズムと戦争の犠牲者のために捧げた曲」なのだ。


リテルとヴォルマン、それぞれのベクトル

 ショスタコーヴィチ、ロマン・カルメンと恋の三角関係となるエレナはもちろんだが、本書では多くの女性が印象的に描かれる。「あらすじ」で挙げた女性たちは言うまでもなく、中盤での軍人たちの章でも女性たちが登場する。将校としての成功を祈った夫が敵国へと寝返ってしまった妻、ナチス親衛隊を悩ませる死んだ女性の幻……これは男性性で語られることが多い歴史に、失われた女性のナラティブを取り戻していく試みとも言える。
 だが、ここで厳しい意見を言わせてもらうなら、女性のナラティブを取り入れたとしても「倫理的ジレンマ」(あるいは「倫理の微積分」)をヴォルマンがそこまで克明に捉えているかと言われると、疑問が残る。それぞれの登場人物の分水嶺とは言うものの、彼/彼女のほとんどがWikipediaの日本語版があるほどの著名人であるがゆえに、それは歴史的事実の集積の枠を出ていない。1人あたりせいぜい数十頁という短さもその要因だ。
 ラストも近くなりショスタコーヴィチがついに「ファシズムと戦争の犠牲者のために捧げる曲」を完成させようとするところで印象的な一文が出てくるが、これはある作家を彷彿とさせる。

 死は常に私たちの回りにいたんじゃなかったのか? もしショスタコーヴィチが500年前に生きていたなら、壁が羊歯に覆われて暗闇の同心円が不気味に広がっている深い井戸の中から、作品番号110を幸運にも見つけ出したかもしれない。(718)

 ここでの「井戸」は、村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』での「井戸」に非常に近い。もしかすると、ここだけを取り上げるのはアンフェアだと感じたかもしれない。私だってヴォルマンほどの意趣卓逸な作家ならば、格調高雅な言葉を駆使して人間の存在を捉える彼独自の世界観を提示することはできると思う。しかし、会話の中に実際の発言が組み込まれるほどノンフィクションの要素が強いこの小説に、その筆致を発揮できそうな箇所がそもそも少ないのだ※5。私が思うに、歴史的事実に忠実すぎるがゆえに本書は物語的なカタルシスに欠ける面があり、さらに「倫理的ジレンマ」のような抽象的で壮大な概念を捕まえるに十分な、言わば、創造的な跳躍が足りていないように思える。
 そして先程の書評に反してリテルの肩を持つなら、『慈しみの女神たち』では創作物である主人公マックス(末端の小役人なのか怪物なのかはともかく)による冒頭の宣言、そしてそのあとに延々と続く破壊の筆致、あのラストは、人間とそのシステムが孕む狂気を、他の現代作家の誰よりも捉えていると感じる。ヴォルマンとリテル、それぞれ方向性は違うが、より突き抜けている作品はリテルの『慈しみの女神たち』ではないか。これが『ヨーロッパ・セントラル』を読み終わったあとの正直な感想だ。


これはポストモダン文学なのか? そもそもポストモダン文学って?(次回予告)

 ここまで読んでくれた「ポストモダン文学に興味がある人」の多くは、消化不良を起こしているのではないだろうか。「ノンフィクション? メタフィクションではなく?」「サブカルチャーからの引用はないの?」「マジック・リアリズムの導入は?」──こういった「ポストモダン文学」のイメージはピンチョン、デリーロ、ギャディスら、ヴォルマンより一回り上の世代の作家たちに負うもので、『ヨーロッパ・セントラル』を、少なくともピンチョンらの世代と同じような「ポストモダン文学」とはカテゴライズするのは難しいだろう。
 それもそのはず、80年代にデビューしたヴォルマン、パワーズ、そしてデイヴィッド・フォスター・ウォレスらは先輩作家たちとは違うものを書こうとしていたからで、それについて書かれたDFWの有名なエッセイがあり……次回はサクッとそのエッセイの概要を書こうかと思っています。


※1:トム・ウルフとは1930年生まれで「ニュー・ジャーナリズム」の中心人物の一人と見なされている作家。「ニュー・ジャーナリズム」を乱暴にまとめるなら「取材を元にしたノンフィクションではあるけれど、小説のような演出を駆使して書く」という作風のこと。日本で言えば沢木耕太郎などがそれにあたる。

※2:ヒルデ・ベンヤミンの夫でありマウトハウゼン強制収容所で亡くなったゲオルグ・ベンヤミンは、あのヴァルター・ベンヤミンの弟。つまり、ヒルデ・ベンヤミンはヴァルターの義理の妹である。

※3:原題はles Bienveillantes。日本語訳は、菅野昭正、星埜守之、篠田勝英、有田英也の共訳で2011年に集英社から出版。

※4:英語版のAmazonの商品紹介ページには、ワシントン・ポストをはじめ各媒体の書評が載っている。引用もそちらから。

※5:本書の特徴は「いつどこで何をした」という史実だけでなく、記録に残っている発言さえも組み込むことだ。例えば682頁では、ショスタコーヴィチとその友人たちが会話している中に「(交響曲)7番をレニングラードと呼ぶことに反対はしないよ。だけど、あの曲は包囲されたレニングラードについてではなく、スターリンに破壊され、言わば、ヒトラーによって消滅されたレニングラードについて書いた曲なんだ」という有名な発言が引用されている。

ハワイの日系二世作家が描く、対立した文化と社会(All I Asking For Is My Body by Milton Murayama)

 実は私はかなりのボクシングファンなのだが、それを知っている編集者の友人が面白いことを教えてくれた。ハワイの日系二世作家が書いた作品に、貧困から抜け出すためにボクシングを始めるという描写があるという。さらに、著者の意向で邦訳NGとなっているそうだ。それがミルトン・ムラヤマ(1923-2016)の連作短編集All I Asking For Is My Bodyだ。早速取り寄せて読んでみたが……この作品はボクシング小説云々以前に、文化と文化との間に揺れ動く人々を103頁に一文の無駄もなく詰め込んだ、移民文学の傑作だ。

 ミルトン・ムラヤマ(1923-2016)は、九州からのハワイ移民の子として生まれる。1941年、高校卒業後にハワイ大学へ進学。同年12月、真珠湾攻撃によって日本とアメリカが交戦状態となると、ムラヤマは日本語話者として台湾へ送られ、日本兵捕虜などに対して通訳などの任務に就いていた。戦後、ハワイ大学を卒業するとコロンビア大学院へ進学し、中国語と日本語で修士号を取得。その頃から小説を書き始め、執筆をしながら図書館員として働いていたようだ。
 All I Asking For Is My Bodyは3部構成となっていて、第1部が雑誌に掲載されたのが1959年でこれがムラヤマのデビュー作となる。その後、2部と3部を書き上げ完成版となり出版されたのが1975年。大きな文学賞を受賞することはなかったが、現在では日系ハワイアンの生活を描いた傑作として高く評価され、wikipedia曰く「カルト・クラシック」となっているという。


 本作の大きな特徴は、ピジン英語が多く使われていることだ。ピジン(pidgin)とは混成語のこと、つまり日本語と英語が混ざった言葉だ。例えば、

“It would be zannen to die in a strange place like Hawaii, ne?” (14) 斜体は原文ママ

 という具合だ。導入部で語り手はピジン英語を含め、自分たちが話す言語についてこう述べる。

「ぼくたちは4つの言葉を話していた。学校では良い英語(good English)、集落の中ではピジン英語、両親やお年寄りの人たちには良い日本語かピジン日本語」(5)

 本書の最後に収められたFranklin S. Odoの解説でも指摘されているが、「良い英語(good English)」という表現にすでに異文化間の対立が現れている。本作には数多くの「対立」を見てとることができるが、この一節にその全てが象徴されていると言えるだろう。


第一部「頭をコツンするぞ(I’ll crack your head kotsun)」

 All I Asking For Is My Bodyの舞台は1930〜40年代のハワイ。オヤマ(Oyama:もしかするとオオヤマなのかもしれない)家の次男として生まれたキヨシが語り手。第1部は10頁ほどで、全体の導入となっている。
 まだ幼いキヨシは同じ年の友人2人と一緒に、少し年上で”kodomo taisyo”のマコトと遊ぶようになり、フィリピン系の住民が住む集落の中にあるマコトの家にいく。昼間にも関わらず両親がおらず、マコトが調理する豪華な食事をご馳走になる。それがしばらく続くと、両親からもうマコトの家には行ってはいけないと言われる。キヨシは何度も理由を尋ねるが両親は一向に教えてくれず、言うことを聞かないと頭をコツンするぞ! と怒られてしまう。忠告を聞かずにその後もマコトと遊ぶキヨシだが、ついに折れてマコトの家にもう遊べないと伝えにいく。そこでマコトの母親が売春婦として働いていることが暗示され、キヨシはマコトの家から去る。

 第2部「身代わり(The Substitute)」

 こちらも13頁と短い内容。第1部から3年後の1934年、キヨシの母親は以前から病弱だったが、さらに悪化して医師からも危ない状態だと言われる。父親は漁に出て、長男のトシオは高校のあとそのまま仕事にいくので、キヨシが3人の妹と母の面倒をみなければいけない。キヨシは母親からハワイに来た経緯、6000ドルの借金など、オヤマ家の歴史を聞かされる。母親と父親が遠い血縁関係にあたるので、そこから不運が始まったのだと母親は言う。母親は、最後に彼女の祖父の姉にあたる「おばば(英語表記はObaban)」に会いたいと言うので、キヨシはおばばが住むカハラ(Kahara)へと向かう。

「おばば、バチって信じてる?」
「どうしてだい?」しばらくして彼女は言った。
「お母さんは、こうなったのは誰かのバチに当たったから、って思ってるの」
「うーん」
「おばばもそう思う?」
「どっちにも転ぶのよ」彼女は辛そうにそう言った。「もしお母さんが身代わりになる人を見つければ、元気になるかもしれないねえ」
(20)

 キヨシはおばばを連れて帰り母親と対面させ、おばばはその日のうちにカハラへと帰る。翌日、授業中のキヨシを父親が迎えにくる。母親の死を覚悟したキヨシだったが、知らされたのは、おばばが危篤状態になったので家族でカハラへ向かうということだった。しかしオヤマ家が着く頃にはすでにおばばはこの世を去っていた。

 第1部と第2部ではオヤマ家を通して当時の日系人の生活を描くが、「バチ」の概念や「四」にまつわる概念(死を連想)といったお馴染みの迷信を含め、日本のそれとほとんど違いがない。幼いキヨシを語り手に何度も「どうして?」と質問させることで、プロットの流れを止めない程度に英語圏の読者に日本の生活習慣を提示する。

 そして残り80頁ほどの第3部が、実質的な本編と言える。

第3部「俺の望みは俺の人生なんだ(All I Asking For Is My Body)」

 1936年、オヤマ家に4人目の女の子が生まれ、一家はカハラという街に引っ越すことにする。カハラにはサトウキビのプランテーションがあって多くの住民がその労働者として働いており、父だけでなく兄のトシも高校を辞めてプランテーションで働くことになる。
 苦しい生活の中、長男のトシオは両親に反発する。両親は、かつて自分たちがそうしてきたように「親を助けるのが子どもの義務(Filial Duty)だ」という価値観で生きており、それを子どもたちにも押し付ける。

「子どもは親にお返しをしないといけないんだよ」
「いくら? いつまで?」
「あんたのお父さんは文句のひとつも言わずに、おじいちゃんを20年間助けたんだよ」
「じいさんは泥棒じゃないか」
「お父さんの前でそんなこと言うんじゃありません」
「じいさんは、お袋と親父と2人のおじさんに20年間も働かせて、それで金を全部持って日本に逃げちまったじゃないか」
「あの人は正直な人で、借金を全部返そうとしたんだ。もう一度お店を開くにはあのお金が全部必要だったんだよ」
「それで全部失っちまったってわけだ。天罰だよ」
「地震が来るだなんて誰にも分からないじゃない」(注:関東大震災のこと)
「んでお袋は、俺たちに人生を諦めることで親父を借金から救って欲しいんだろ」
「心配しなくていいわ。あんたには頼らない。キヨシが助けてくれるもの」
(30)

 そんなトシオは、ボクシングの教則本を使ってトレーニングを始める。トシオが両親に反発すればするほど、キヨシは両親のケアをせざるを得なくなるのだが、トシオが始めたボクシングのトレーニングにも一緒に付き合うのだった。

 一方、カハラは街全体が「ピラミッド」のような階層ができていた。頂点はプランテーションの経営者であるネルソン氏、その下にポルトガル系、スペイン系。そして日本系がきて、最下層はフィリピン系。1937年、プランテーションで働くフィリピン系の人々がストライキを起こすと、会社はキヨシたち学生を雇い入れて、ストライキを起こしたフィリピン系の人々をクビにするだけでなく、荷物までプランテーションの外に位置する州の道路に放り投げる。カハラでは、州よりも会社が権力を握っているのだ。
 この状況に、赴任してきたばかりの教師スヌーキーは怒りを露わにしつつ生徒に問う。

「(…)レイ・スタナード・ベイカーは、これをアメリカ合衆国最後の封建制度の名残、最後の生き残りだと言っていたが、本当にその通りだな。プランテーションは、人々を分断し、支配する。私の言っていることがわかるかな? フィリピン系がストライキをする、君たちは喜んでストライキを妨害する。これは大事なことなんだよ。自分で自分の損になることをしていると思わないか? うん、キヨシ、どう思う?」
「フィリピンのひとたちは、誰にもストライキに加わってほしくない、と思っていることが重要だと思います。彼らは自分たちのためだけに給料の引き上げを要求しています。彼らが怒っているのは私たちではなく、ストライキに参加しないフィリピンのひとたちに怒っています」
(33 ※一部省略)

 スヌーキー(この翌年学校を去る)の意見に同調するのは、トシオだけだ。

「フィリピンの奴ら、かわいそうなことになりそうだ。もう食料が尽きるぞ」トシオが夕食中に言った。
「あいつらは勝てない」父は言った。
「日本人も加わるべきだったんだ」トシオは言った。
「日本人は1920年と1922年にストライキをやって、2回ともあいつらがスト破りをしたんだぞ」父は言った。
「だから誰もプランテーションを倒せないんだ」トシオは言った。
「他人の世話なんて焼かなくていいのよ」母は言った。
「俺たちは身の程を知るべきで、怒ってはいけない。それが尊敬を得る唯一の方法だ」父は言った。
「それが日本人の厄介なところなんだ。ボトボト(boto boto:フィリピン語で男性器)では尊敬は得られない。闘うことで尊敬を得るんだ。俺たちはあいつらと闘わなくちゃいけない。だけどその前に、日本に帰るって選択肢を忘れなきゃな。俺たちは日本との繋がりを全部切って、アメリカ人にならないと。クロダも同じこと言ってたぜ」
「クロダは急進派だ」父は言った。クロダとはホノルルの2言語併用新聞「ホノルル・デイリー」の編集者だ。
(37 ※一部省略)

 このように、カハラでは様々な分断と対立が生じている。資本家と労働者、異なる人種同士、そして日本の伝統的家族主義とアメリカの個人主義。そんなカハラでの生活を変えるためにトシオはボクシングにかける。トシオは地方大会で勝ち進むものの、ホノルルで行われる(ハワイ全土を対象の?)地区大会の決勝で負けてしまい、さらに大きな大会が行われるアメリカ本土へは渡ることはできない。

「お前はもう辞めたほうがいいぞ」父は言った。
「いや、もっと厳しいトレーニングをしなくちゃ」彼は言った。
 そして彼は僕のほうを向いて英語で言った。「しんどいことになりそうだ。くそったれホノルルの奴らめ、あいつらプロのようにトレーニングしてやがる。あいつら仕事をしてない、練習しかしてないんだ」
 トシオは他の労働者と同じように週に48時間、毎日休みなく、試合当日の土曜日ですら働いていた。
(55)

 キヨシもボクシングを始めるが、トシオのように地区大会決勝で負けてしまう。しかしキヨシはトシオを通じて、オヤマ家とカハラの現状に疑問を抱き、アメリカ的な個人主義を身につけていく。トシオとキヨシのボクシングは、家族の借金を返しプランテーションの労働からも解放される一発逆転の道”だけ”ではない。究極の個人スポーツであるボクシングで成功することは、「家」を中心とした日本の伝統的な価値観に打ち勝つことも意味する。

「奴らは自分の息子たちに無知になってほしいんだ。言うことをちゃんと聞くように。ずっとはいはい言っているやつのことを、良い子だと思うようになるんだよ」
「プランテーションも同じだね」僕は言った。
「ああ、俺たちは同時に2つの相手と戦っているのさ」
(68)


  キヨシの変化と選択

 小説が後半に差し掛かる頃、すべてをひっくり返すような出来事が起こる。それが1941年の真珠湾攻撃だ。これまで日本人としての誇りを唱えていた日本人集落はパニックになる。両親も態度を変えてトシオの日本語の本や国旗を隠せという助言を聞き、軍隊に所属していた日系二世は武器を没収され単純労働に従事、日本領事館でアルバイトをしていた日本人がFBIに逮捕され、オヤマ家が以前住んでいた土地では仏教徒が追放、日本人会の会長が逮捕された。日系二世は自らのことを”AJA = Americans of Japanese Ancestryと名乗り始めるようになる。

 そして、これまで「どうして?」を繰り返していたキヨシが変わる。カハラの日本人集落の長、タケモトの元へ押しかけたキヨシは、「日本人でいることが恥ずかしい、なぜ日本はあんなことをしたのか」とタケモトに理由を問う。タケモトの「日本人は合理的に考えないんじゃ。その場で一番良いと思ったことをする」という言葉を境に、キヨシの言動が明らかに変化する。

「じゃあ日本人はこれからも同じ間違いを何度も繰り返すってことですか」
「なんていうか、島国根性ってやつじゃな」
「他に説明はできないんですか?」
「説明は難しいのじゃ。日本は貧しい国だから、国の外から資源を持ってこないといかん」
「だから、生き残りの名の下に奪っていくと」
「イギリスもフランスもドイツも他の国も、100年前に同じことをやっておる。生き残りではなく利益じゃ」
「つまり、日本は100年遅れてるってことですね」
(83 ※一部省略)

 さらにキヨシの母親と妹が妊娠。母はトシオとキヨシに次ぐ、三男を産む。

「こんなに年を取った母さんが新しい子どもを産んで、恥ずかしくない?」
「いいや、新しいきょうだいが増えて嬉しいよ」
「いつかあなたが結婚したとき、白人の人たちがどうやってるか知っておきなさいよ」
「どういうこと?」
「あの人たちがどうやって産む数を少なくしているかってことよ。3人以上は作らない方がいいわよ。大変すぎるもの」
 これには少し驚いた。子どもを作るには年を取り過ぎているとは思っていたが、母はコンドームを知らないのだ。僕は3年生の頃には知っていたのに。
(93 ※一部省略)

 キヨシがアメリカ的個人主義を主体化したという文脈を越えて、日本の保守的な価値観を旧時代的として「軽蔑」しにかかる非常に強烈なシーンだ。さらにこの直後、キヨシはプランテーションに支配されたカハラの構造を察する。キヨシは、カハラの下水道がネルソン氏を始点にポルトガル系、スペイン系、日系、フィリピン系と順に流れていることに気づく。さらに、カハラの教会もボクシングを含めたスポーツという娯楽すらも、労働者を飼い慣らすための装置に過ぎないのだと(トシオが労働のため練習が不足し、地区大会決勝で負けることも必然だったのだ)。

 海を渡ってオヤマ家とカハラから離れる唯一の方法。それは戦争という歴史のうねりを利用することだ。キヨシは家族の反対を冷たく押し切り(母親が何度も「なぜ」と聞くシーンは象徴的)、志願兵に応募。さらにハワイ島での研修場の中で、これまで一度もやったことのなかったギャンブル(チンチロリン)にハマる。イカサマを交えつつ勝利していき、最後の大勝負を運のみで勝利、なんと6130ドルを手にする。興奮で眠れない夜を過ごした翌日、6000ドルを次のメモと一緒にトシオに送ったところで物語は終わる。

「オヤマ家の運の流れは変わった。身体に気をつけて。戦争が終わったら会おう」


 ミルトン・ムラヤマがこの作品の邦訳を望まなかったという理由も、想像ではあるがなんとなくわかりそうな気がする。アメリカと日本の文化の間で苦悩する人々と戦前のプランテーションでの過酷な労働環境を、語り手キヨシの成長を通して描く本作だが、その「成長」とは端的に日本を捨ててアメリカ人になることだ。第3部を加えた完成版が出版されたのは1975年だが、その3年前の沖縄返還と対照的な物語といえる。

 本ブログでは省略したが、沖縄出身の住民をキヨシの父が軽蔑するシーンがあったり、日本人と現地人との間に生まれた子の選択を描いたシーンなど、他にも様々な「分裂」がこの小説には書き込まれている。英語は非常に簡単で、100頁ちょっとの長さなので、移民文学に興味がある人は是非とも読んでほしい一冊だ。

 ※余談だが、本作でトシオとキヨシが使用するボクシングの教則本はジミー・デフォレスト(Jimmy DeForest)が書いたものとされている。ジミー・デフォレストは著名なボクシングのトレーナーで、初代ジョー・ウォルコットやジャック・デンプシー(『はじめの一歩』の必殺技デンプシーロールの由来の選手といえばわかる人も多いだろう)のトレーナーを務めた。本作ではトシオがスリッピングしてから左フックをみぞおちに当てるというパンチを習得する(父と喧嘩になった際に父にも打ってしまう)のだが、これは実際にジミー・デフォレストが選手たちに教えていたパンチのようだ。

 さて、今は未邦訳の鈍器本として有名(876頁)なウィリアム・T・ヴォルマンの『ヨーロッパ・セントラル(Europe Central)』を読み始めたところなので、次回の更新は多分半年後ぐらいになります……。

「アメリカベスト短編集2021」The Best American Short Stories 2021(後編)

 ジェスミン・ウォードが2020年のアメリカ人作家の短編から編纂した「アメリカベスト短編集2021」。前回の更新からだいぶ時間が経ってしまったが、ようやく後半の残り10作を紹介。大物作家ソーンダーズや、デビュー長編が邦訳されたばかりのC・パム・ジャンなどが登場。




ジェーン・ペク「白と緑の衣を纏った二人の女性の図」(Portrait of Two Young Ladies in White and Green Robes (Unidentified Artist, circa Sixteenth Century) by Jane Pek) Best!!

 ジェーン・ペクはシンガポールで生まれ育ち、現在はニューヨークの投資会社で法律家として働きながら小説を書いている。The Best American Short Stories 2020にも選ばれており、2022年春にデビュー長編The Verifiersを発表。

 「数時間前、あなたの最後の子孫が亡くなった」から始まる異色の短編。女性である語り手は「あなた」との思い出を語り始め、現在のアメリカから、「あなた」が結婚式前夜に「私は子供が産みたいの」と語った瞬間へと時を遡る。それは、ななななんと明朝時代の中国! 
 語り手と「あなた」は永遠の命を持っていた女性同士で、自分の命と引き換えに子供を産むことができる……と言っても、旅先に出会った人に語った“ヴァージョン”と書いており、本当の設定はよくわからない。ともかくも「あなた」は子供を産んでからほどなく亡くなり、語り手は夫と子の行く末を見届けていく。
 数十年経ったあとにその夫と子に再会したり、結婚式以前に描いてもらった「あなた」と語り手の肖像画を300年後の大英博物館で見つけるなど、数十年、数百年の時を行ったり来たりするが、それらを何も違和感なく一本の語りとして成立させてみせる“情報の整理”が(最後のシーン、最後の一行まで含めて)驚異的だ。
 さらに、永遠の命の持ち主から見た人間の一生、というSF的な視点はもちろん、姉妹でもなくただの友人でもない「あなた」と語り手の関係、明朝時代の美術品がイギリスにある背景、子孫がアメリカに渡ったあと中国に戻らなかった理由……短編として面白いのはもちろん、様々な切り口があり11頁とは思えない「厚み」。
 20作あるこのアンソロジーの中で、私個人のベストはこの作品だ。


トレイシー・ローズ・ペイトン「ロドニー最後の日々」(The Last Days of Rodney by Tracey Rose Peyton)

 トレイシー・ローズ・ペイトンはイリノイ州シカゴ出身。テキサス大学オースティン校で創作を学び修士号(Master of Fine Arts)を取得。

 俳優であり、かつてはリアリティーショーに出演して人気を博したロドニー。もちろん誰もがその顔を知る有名人で、良い家に住み妻も子供もいる。しかし、本人はどうやら俳優業を辞めており、リアリティーショーに出ていた過去を忘れたい、別の人間になれたらとさえ思っている。そんなロドニーの何気ない一日を描いた短編。
 「最後の日々」とは言え、特筆することは起こらない。朝に立ち寄るコンビニの店員が顔馴染みから新人に代わっていて自分のことを知らない様子に笑いそうになったり(ここでロドニーが黒人であることが分かる)、新聞の一面に掲載された、警察に射殺された黒人男性の写真を見て「なぜお前(ロドニー)でなく私なのだ」と問い詰められている気がしたり、映画館での上映中に捕物に遭遇し身体が固まって動けなくなるなど、一つ一つの出来事に常に不穏な雰囲気が漂っている。
 最後、ロドニーは妻が隠れて飲んでいた酒の入った水筒を持ちながら、庭のプールに水を貯める。「ここにいない友人たちへ」と地面に酒を流し、残った酒を飲みながらプールへ浸かる。水嵩は徐々に上がってきて、いよいよロドニーの頭が水に浸かる。もう少しだけ水の中にいよう、そして顔を上げたとき、全てが変わっているはずだ……ここで、物語は終わる。

 ペイトンによれば、この主人公のモデルは1992年のロサンゼルス暴動のきっかけとなった暴行事件の被害者のロドニー・キング。2014年のブラック・ライヴズ・マター運動のとき、ロドニー・キングの映像のことを思い出し、あれほどの恐ろしい出来事のあと本人の人生はどうなったのか興味を持ったのが始まりだったという。最初の2ページを書いたあと、このまま書き続けていいのかとても悩んだが、書くことを決意。もちろんフィクションではあるが、一部(というかラスト)はロドニー・キングの実際の記録に基づいている。


クリスタ・ロマノスキー「この手の世界で勝つのはクソ野郎」(In This Sort of World, the Asshole Wins by Christa Romanosky)

 クリスタ・ロマノスキーはアメリカ東部アパラチア出身。プロフィールを読む限りは奨学金の内容が多く、これまでに短編や詩を発表してきた媒体もそこまでメジャーなものはないので、今まさにキャリアを歩み始めた作家なのだろう。音楽活動もしていて、これまで2枚のアルバムを発表しているようだ。ロマノスキーの作品では、田舎の生活、トラウマ、血筋にまつわることを取り上げられており、今回の短編もまさにその内容になっている。

 主人公は子供の頃から自傷行為を繰り返し(もちろん)薬物もしている、破滅的なシングルマザー、ティフ。夫を亡くしたティフは定職に就かず、子供のバッキーとともに亡き夫の友人ジョンや実家などを行き来するフラフラした生活をしている。開始早々「みんなクソ野郎だった。クソ野郎たちが勝利する唯一の方法は、彼女を負けさせること。そして彼女はそれを拒否していた」という一文が出てくるが、まさに出てくる登場人物全員がティフの敵だ。ティフの親は彼女に生活する能力がないことに怒りつつ、児童相談所に連絡してバッキーを取り上げようと脅す。夫の友人ジョンは彼女を性的に搾取し、友人でありティフの願いを度々聞いてくれた“クソ女(Some Bitch)”にも最後に裏切られる。ティフの唯一の味方であり、愛するものはバッキーのみ。最後はバッキーの寝顔を見るシーンで終わる。
 
 ロマノスキーによれば、アパラチアは職も少なく薬物問題も深刻な地域であり、作品の舞台もアパラチアないしは同じ状況の地域を選んでいる。この短編で描きたかったことは、そういった状況で“生き残る(survive)”ことであり、ティフが嫌悪という感情をあらわにすることは、生き残ることに必須の条件なのだという。救いのない物語の中に、微かに宿る生への執着。


ジョージ・ソーンダーズ「ラブレター」(Love Letter by George Saunders)

 この短編アンソロジーの中で最も著名な作家がジョージ・ソーンダーズだろう。1958年生まれのソーンダーズはコロラド鉱山大学で地球物理学を学んだ後、ニューヨークのシラキュース大学で創作を学び、現在は同大学の教授をしている。2017年ブッカー賞を受賞した『リンカーンとさまよえる霊魂たち』(上岡伸雄訳 河出書房)をはじめ、これまでに短編集やエッセイを含め11冊の本を出版し、かなりの数が邦訳されている。

 「202_年、2月22日」と日付された、祖父から孫への手紙という形式の短編。孫から受け取ったEメールの返信を直筆の手紙で書いているのは「トピックを考えると、Eメールが一番良いやり方なのか自信がない(…)知っての通り、奇妙な時代だからね」と自ら冒頭に書いているからだ。この不穏な空気が漂ったまま読み進めていくと、孫からのEメールは友人を助けることに力を貸してほしい、というものであり、それに対して祖父は特定を避けるため、“J”というようにアルファベット一文字を使い助言をしていく。
 このディストピアな設定は何なのか。それは祖父が過去形で書き始めてから明らかになる。「なぜならこの破壊行為が出てきたのは、単なるふざけた悪党に(そのときは)しか見えなかった無能な人物が始まりで」「私が話しているのは2回目のことで、完全なデタラメでそれほど傷つきも(驚きも)しなかった3回目(息子の方)のことではない」。つまりこれはトランプが再選をし、さらにトランプの息子がその後に当選した未来の話なのだ。

 ソーンダーズ本人のコメントによれば、危機の時代にあって自分がするべきことは何か考えつつも自分が特に何もしていないことに気づいていること、さらに自分にできることは書くことだけだが、それが危機に対してほとんど効力を持たないこと、その状況に自分がいることに分かる物語を書こうと決めたのだという。


シャンティカ・シガーズ「ビーといっしょに」(A Way with Bea by Shanteka Sigers)

 シャンティカ・シガーズは現在テキサス州オースティン在住。ノースウエスト大学を卒業後、ニューヨーク大学で創作科での修士号を取得。『シカゴ・リーダーズ』でいくつかの短編を発表している。

 小学校の教師で夫と不仲になりつつある女性と、その教え子である少女ビーとの関係を、女性教師視点の三人称で描いた短編。服装や身嗜みからビーはネグレクトを受けており、女性教師はビーを気にかける。そんな女性教師は夫の不倫を目撃しないかなと妄想したり、夫から教師という仕事について暴言を吐かれるなど関係は最悪の様子。女性教師のケアもあってビーは次第に女性教師に心を開いていく。
 あらすじではわからないが、非常に奇妙な雰囲気が漂う短編になっている。3〜10行程度で次のパラグラフ(シーン)へ行くという細かく分かれた構成で、多くのことが語られずに展開される(例えば女性教師の夫についてはほとんど何もわからない)。そもそも語り手である女性教師が夫の不倫を目撃したいと望むなど奇妙な人物だからだ。その結果として最後の1行「(夫に)あなたの猫の面倒は見ておくよ」が抜群の出来になっている。なぜこれが抜群なのかは是非直接読んでみて欲しい。

 元々、シガーズは大学院時代にハリ・クンズル(白水社から『民のいない神』が木原善彦訳で邦訳されている)の指導を受けており、そのとき書いた別の短編の主人公がビーだった。その後に先生を加えて別の物語に仕上げた。最後のオチの説明(由来)もしているがここでは割愛。


ステファニー・スワロー「ヘイグリラリー」(Haguillory by Stephanie Soileau)

 ステファニー・スワローはルイジアナ州出身で、様々な奨学金や基金の援助を受けながら執筆。2020年にデビュー短編集 Last One Out Shut Off the Lightsを発表。現在はシカゴ大学で教鞭を取っている。

 2005年の夏、ハリケーン・リタとハリケーン・カトリーナに立て続けに襲われたニュー・オーリンズに住む頑固爺さんのヘイグリラリーとその妻ドット(Dot)。妻に強引に買い物に付き合わされた先でヘイグリラリーはカニ釣り用の餌を買って二人でカニ釣りへ行く。カニ釣りをしていると、猫を探しているという一家に出くわす。母親が一生懸命探す中、父親からは実は猫が小さな子供のベッドでいつもおねしょをするから捨てたのだと聞かされる。一家はハリケーンの被災以来ずっとトレーラーで暮らしていた。ヘイグリラリーは一家の少年にポケットナイフを渡す優しさを見せる。一家とも別れて2人が帰ろうとすると、車の近くで一家が探していた猫を見つけてしまうのだった。
 あらすじは以上だが、主に描かれるのはハリケーンによって苦しくなった人々の生活と、保守的なヘイグリラリーの造形だ。息子が外国から受け入れた養子への冷たい態度や、「苦しんでいる奴らはそれを盾に他人を苦しめてもいいと考えてやがる」といった考えは読者にとって非常に不愉快なキャラクターとして映るが、そんな人物が最後にふと見せる優しさと妻に諭されるシーンが、ハリケーン直撃のニュー・オリンズと組み合わされることで不思議な余韻となる。

 スワロー本人が2005年のハリケーン襲来後に実際に見聞きしたことがストーリーの基になっているという。


マドゥリ・ヴィジャイ「親愛なる友よ」(You Are My Dear Friend by Madhuri Vijay)

 マドゥリ・ヴィジャイはインドのベンガルール出身。ローレンス大学で心理学と英語を学び、卒業後はインドを離れて暮らす人々を研究していたようだ。カシミールを舞台にしたデビュー長編 The Far Fieldで、インドで最も権威のある文学賞(らしい)JCB賞を受賞している(英語で書かれたか、あるいはインド語に翻訳された作品が対象)。

 この短編集の中では長めの、20頁の作品だ。イギリスからインドに移り住んでいるベイカー宅で、“au pair”をしている女性ギータ(Geeta)が主人公(“au pair”とは外国人の家で子供の世話や家事など住み込みで働きながら、語学を勉強する人。「家庭教師」とも違うし訳すのが難しい単語)。29歳のギータはベイカー宅のパーティーをきっかけに、宝くじを当てて裕福な暮らしをする53歳のインド人のスリカンス(Srikanth)と結婚することに。子供ができないことで、ギータは里親になることを決め、そしてふたりの前に現れたのが8歳のラニ(Rani)。ラニはギータの言うことを全く聞かず、あろうことか本当の両親のために家から高価なものを盗もうとすらしてしまう。そしてそのことに対してスリカンスは、自分は前の妻との間に子供が一人いる、子供が欲しいと言ったのはお前なのだからお前がなんとかしろ、と冷たく言い放つ……。
 テンポよくストーリーが展開されていき、細部を膨らませれば中編あるいは長編になってもおかしくない。家の仕事をひたすら押し付けられるギータの苦悩、スリカンスの男尊女卑的言動からこの作品の主題がフェミニズムであることは明白。さらにベイカー宅での快適な暮らしの影と、スリカンスからギータやラニへの言動には、インドのカースト制ないしは階級制の問題が描かれている。後半には物語的なカタルシスだけでなく、上記の問題を批判する強烈な文章も出てくるので、読み応え抜群だ。


ブライアン・ワシントン「おしゃべり」(Palaver by Bryan Washington)

 ブライアン・ワシントンはケンタッキー州生まれ。ヒューストン大学を卒業後、ニューオーリンズ大学で創作科での修士号を取得。2019年に短編集 Lot、2020年に長編 Memorialを発表。Lotでは若手作家を対象とするディラン・トマス賞を受賞している。ワシントンはゲイであり、LGBTQの作家を対象とするランブダ文学賞のゲイ・フィクション部門の受賞歴もある。

 東京の新大久保に住むゲイの息子の元を、遠路遥々アメリカから訪れた母。そこで息子は、順番にお互いの話をしよう、という提案をする(少しジュンパ・ラヒリ「停電の夜に」を思い出す設定だ)。
 「昔々、私は既婚者の男性と恋に落ちました」と語りだす息子。驚く母に対して、次は母の番だよと息子は言うので、母は今は離婚した夫との出会いを語りだす。親子が(ときに母一人だけで)東京の様々な街を訪れる(もちろん歌舞伎町2丁目も訪れる)のと並行して、2人の話も徐々に核心に近づいていく。
 興味深いのは、アメリカ人向けに書かれた東京の描写だ。日本文学なら当たり前すぎて書かれない電車内のサラリーマン、コンビニの店員、夜の街などの描き方は、外部から見た東京という街のエッセンスが抽出されていると言うこともできて、一周回って新鮮。
 もちろん親子の会話劇もとても上手く書けている。セリフが鉤括弧なしで書かれているので二人の会話と東京の描写がシームレスに繋がる。これによって、断片的に語られていく2人の話が東京の乱雑さと印象的に重なるのだ。最後は代々木公園でピクニックをして爽やかに終わる。これも日本文学ではなかなか見られないラストだろう。ベタと言えるが、ベタにはベタの良さもあるのだ。

 どうしてもワシントン自身の日本滞在の話が気になるが、作者のコメントには特に書かれていなかった。
 

ケヴィン・ウィルソン「生物の授業」(Biology by Kevin Wilson)

 ケヴィン・ウィルソンはフロリダ大学で創作科での修士号を取得し、現在はテネシー州のサウス大学、通称「スワニー」で創作を教えている。これまで2冊の短編集、3冊の長編を発表している。

 語り手のパトリックは、facebookの投稿で中学生の頃(eighth grade)に生物を担当していた男性教師レイノルズが亡くなったことを知り、レイノルズとの思い出を語る。いわゆる陰キャのパトリックはクラスに居場所がなかったが、そんなパトリックにもレイノルズは優しくしてくれた……という比較的ストレートな構成。しかし、この短編が優れているのはパトリックが“自分で考案した”カードゲーム「デス・カード(Death Cards)」を常に持ち歩いている、という設定だ。
 「デス・カード」は、幼年期、青年期、大人期、老人期にそれぞれ分けられたカードの山があり、それぞれ「高校を卒業した」「宇宙飛行士試験に合格」「初めてのセックスをする」などのライフイベントが描かれている。幼年期から数枚を引き、次は青年期と進んでいくが、カードの山の中には恐ろしい死に方が描かれたデスカードが含まれており、途中でデスカードを引くとそこでゲームが終了となる。最後までデスカードを引かずにゲームを終えれば「眠るように亡くなった」となる。こうして色々な人生を体験する、というゲーム。パトリックはずっと1人で「デス・ゲーム」をプレイしていて、仲良くなり始めたレイノルズにそのことを話すと、レイノルズは馬鹿にせず一緒にプレイしてくれるのだった。
 冒頭からなのだが、パトリックがゲイであること、あるいは非異性愛を暗示させる箇所がいくつか散りばめられており、レイノルズのベトナム従軍経験もその一つだ。前述のように構成はストレートで非常に読みやすいが、同性愛、いじめ、トラウマなど重要なテーマを非常に上手く折り込んでいる。最後、とある理由で怪我をしたレイノルズを訪ねるパトリック。現実があまりにも辛いと告白するパトリックに対しレイノルズは、パトリックの「デス・カード」からデスカードを一枚ずつ取り取り除き、死の恐れがない状態でプレイすることで、人生とは何かを教える。面白い設定を100%活かしたラストと言えるだろう。


C・パム・ジャン「小さな獣」(Little Beast by C Pam Zhang) Good!

 C・パム・ジャンは、2022年夏に『その丘が黄金ならば』(藤井光訳、早川書房)が発売されたことで名前を聞いたことがある人がいるかもしれない。ジェスミン・ウォードとコーマック・マッカーシーを合わせたようだと評される作品で、ブッカー賞をはじめとした多くの文学賞の候補に残り、将来が期待される若手アジア系作家のひとりだ。

 「自分の身体がこぼれていくのを感じたのは13歳のときだった。(…)私の姿勢は液状で、33個の脊椎があるが背骨は存在しなかった」と、身体への違和感から始まる。語り手は、アルタと呼ばれる女子校に通う女の子。アルタは超エリート校で、政治家や芸能人の子どもなどが在籍しているが、語り手は奨学金で入学しており、父はアルタの用務員だ。父は語り手のことを、かつては「おチビちゃん(Inch)」と、今は「お嬢ちゃん(Girlie)」と呼び、何かと過干渉してくるので語り手は父のことを嫌っている。
 学校の環境に馴染めない語り手は、「サイレント・ガールズ(Silent Girls)」と呼ばれるグループに興味を抱く。部活にも入らず授業中に勝手に抜け出する彼女たちは、まさにアルタにいながら別の世界の住民だ(日本でいうところの、不良と中二病を足したような感じ?)。偶然包丁で手を切ってしまった語り手は、教師から保護観察グループに入れられると同時に「サイレント・ガールズ」の仲間に入ることになる。やがて、仲間へのアピールのために語り手は取り返しのつかないことをしてしまう……。
 
 冒頭への身体への違和感は、一人称にも関わらず三人称のような俯瞰的視野で最後まで語り続ける文体に繋がる。またパム・ジャンは女の子たちを取り囲む現在の状況、例えばメディアでの理想的女性像、若い女性に向けられる性的まなざしによって、女の子たちが無意識的に歪められてしまうとし、その薄気味悪さを増幅した、と語っている。



 こうして全20作を振り返ると、人種、LGBTQ、抑圧される女性など、社会の周縁に追いやられた人物を扱った作品が多い。全て読んだ者の感想としては、それは選者が女性黒人作家のウォードであるからというよりも、それらの作品が短編としての完成度が非常に高かったから、と言うことができるだろう。
 ではなぜ社会の周縁を扱った作品の方が魅力的だったのか。全くの偶然なのか、それともそれが「文学」の常なのか。その問いに答えを出すには、俯瞰的な文学史の知識と最新の情報をチェックし続ける根気が必要で、私にはちと荷が重いですなあ……。