未翻訳小説を頑張って日々読んでいる日記

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まだ翻訳されていない英米文学をたまに紹介します。

ポストモダン文学と“ポスト”ポストモダン文学? デイヴィッド・フォスター・ウォレスのキーワード〈新誠実(New Sinceirty)〉について

 2018年4月に行われたリチャード・パワーズ『オーバーストーリー』(木原善彦訳、新潮社、2019年)出版直後のイベントの動画がYoutubeにアップされている1。ゲストは当ブログで前回紹介した『ヨーロッパ・セントラル』のウィリアム・T・ヴォルマン。まずヴォルマンが登壇し『オーバーストーリー』の一部を朗読したあと、パワーズが壇上に上がり「フィクションとノンフィクションで私に大きな影響を与えた」とヴォルマンを紹介するのだが、そこでパワーズはユーモアを交えてこう言う。

 「私が思うに、その流行(フィクションだけでなくノンフィクションも書く)を始めたのは、私たちの友人であるデイヴィッド・フォスター・ウォレスだろう。(…)私たちはみな共通の美学で結びついていたが、それはみなが同じ属性の人間だったからだ。つまり白人で、男性で、同世代で、身長180cm以上だったということだ」

 経歴を確認すると、生まれた年はパワーズが1957年、ヴォルマンが1959年、ウォレスが1962年。デビューの年はパワーズが1985年、ヴォルマンとウォレスがともに1987年。確かに同世代と言ってよく、3人とも物理的に重い小説を書き、日本語版wikipediaでは「ポストモダン文学の作家」とされている。しかし、3人の作品を読んだことがある人は、彼らより上の世代のポストモダン作家──トマス・ピンチョンドン・デリーロ、あるいはジョン・バース──とは作風がやや異なることに気が付くはずだ。
 その違いについてヒントとなる有名なエッセイが、デイヴィッド・フォスター・ウォレスが90年に書いた(実際に発表されたのは93年)"E Unibus Pluram: Television and U.S. Fiction”(イ・ユニバス・プルラム:テレビとアメリカ小説)2だ。今回はそのエッセイと、それに関連した研究などを紹介する。
 あらかじめ言っておくと50頁とエッセイとしてはそれなりの分量があるので、かなり端折ったまとめである。表現を書き換えたり、書いてある順番なども変えているので、正確に論理を把握したいという方は必ず原書を読むようにお願いしたい。

そもそもポストモダン文学とは?

 この問い自体がそもそも難問であり、研究者・批評家によって定義もそれぞれだが、ここではザックリ行かせてもらおう。日本の一般的な海外文学読者(研究者は含まない)の中では「ポップ・カルチャーなどを取り入れて」「複数の語り手や脱線など、複雑な構成をもち」「60年代以降に書かれた実験的小説」といったところではないだろうか。代表的な作家は、評価でも人気でもやはりトマス・ピンチョンになるだろう(ここに異論は出ないはずだ)。
 トマス・ピンチョンの『逆光』(新潮社、2010年)について、訳者である木原善彦が書いた『ピンチョンの『逆光』を読む ─ 空間と時間、光と闇』(世界思想社 2011年)の冒頭に、ポストモダン文学についてこんな説明がある。

 90年代初頭に話題になったポストモダンなテレビドラマ『ツイン・ピークス』(1990-1991)の雰囲気を思い出すというのも十分に参考になるでしょう。『ツイン・ピークス』には通常の「犯罪もの」のテレビドラマとは異なって、事件の本筋とは無関係な無数の挿話が盛り込まれ、シリアスさと笑いの混合や現実離れした誇張などが随所に見られました。あのドラマに感じられた変さこそ、ポストモダニズムの現れだと言えます。(4)

 私がこの箇所を読んだとき、なるほどわかりやすいと膝を叩いたものだ。さて、以上を踏まえた上でウォレスのエッセイの概要を説明しよう。

今回読んだ“E Unibus Pluram: Television and U.S. Fiction”は、Penguin Booksから出版されたDavid Foster Wallace Reader(2018)に収録されたヴァージョンである

小説家とテレビとの関係

 ウォレスによれば、小説家とはいやらしい目つきをしている類の生き物だ。生まれながらの観察者であると同時に、人のことはじろじろ見るくせに人から見られることは嫌う、自意識過剰な生き物でもある。そんな視点から“テレビを観る”という行為について説明をする。
 テレビドラマを観ている私たち(視聴者)は、さながら“のぞき見”をしているように思えるが、テレビとは視聴者を必要としている、つまり、そもそも見られることを前提に“作られた”ものである。もし作家が創作の資料としてテレビを観ているならば、実はそこで観ているものはすでに創作として作られているキャラクターなのだ。むしろ、観ているものはキャラクターですらなく俳優であり、さらに言えば電波による画面上の現象であり家具である。テレビを観るという行為は何重もの“錯覚”によって成立しており、そのためには観ている人とテレビ側との共犯関係が必要となる。

 ここでウォレスが言いたいのはテレビへの猜疑心ではない。結論を先取していうなら、ウォレスは小説家とテレビとの閉鎖性を問題視している。

 ウォレスは、重要なのはアメリカ社会とテレビとの関係に問題があるということではなく、今やそれに対して何ができるかという段階に来ていることだと述べる。ウォレスが過去5年で素晴らしかったと評価するテレビコンテンツ(ドラマ、ミュージックビデオなど)はアイロニックな自己言及に関するものだったという。テレビが外の(現実)世界と関連していないことを批判することは、それが間違っているということではなく、的外れなのだ。
 60年代に表出してきたメタフィクションは批評家などにラディカルな美意識と迎え入れられたが、ウォレスはメタフィクション(の作家たち)の仮想敵であるところの「リアリズム」の順次的な拡大でしかないと考えている。高級文化(High Culture)としてのポストモダンというジャンルは、テレビの出現によって読者の意識(好み)が変化したこと、自意識的な視聴が生まれたことと関係がある。ポストモダンと自意識的な視聴者、そこに共通し連関しているものが自意識的なアイロニーである。他人と差別化する方法を大多数に向けて発信することに象徴されるように、テレビはその存在自体が極めてアイロニーであり、それはテレビを観ることで生まれる罪悪感と安心感というアンビバレンスを養分として成長するサイクルに繋がる。(この「テレビの根本にあるアイロニー」は、かなり長く説明していてかなり難解であるが、後半でもう一度アイロニーを説明するときにもう少し理解しやすくなる)

 さらにポストモダン文学の顕著な特徴である“ポップ文化(ブランド名、有名人、テレビ番組など)”の導入のメリットについても、「読者が皆、レファレンスを知っている」「皆が知っている状況に対して、少し不安になる」というアンビバレンスをもって説明する。現代の作家が低級文化(Low Culture)を小説に登場させると、不遜な雰囲気を醸し出し読者を不安にさせ、アメリカ文化の空虚さに物申した気持ちにさせ、何よりそれが現実(リアル)である、という点で非常に効果的なのだ(具体例として、ピンチョン、バース、ギャディスが挙げられている)。
 そして、ポストモダン文学の次なる展開の預言者としてウォレスはドン・デリーロを挙げ、『ホワイト・ノイズ』の「アメリカで最も写真に撮られた納屋」のエピソードを引用する。これは、とある納屋を見るため、そして写真を撮るために多くの人が集まっているのだが、その理由とは「この納屋が多くの人に撮られた」からであり、その閉鎖的状況を正確に捉えたシーンである3

 アメリカ文学はポップ文化を、60年代には指示対象や象徴として“利用”し、70年代から80年代前半は“言及”し、大量消費社会の神話に入れられたものを世界として使うようになった。80年代後半からは“反応”する作品、例えば実在の人物の私生活を、言わば「ガラスケースの中」を書いたものがたくさん出てきたと述べる(ヴォルマンのデビュー作をここに位置付けている)。ウォレスは、これらの作品は文学上のテクニックではなく社会・芸術的な意図で識別することができるが、そこでのポップ文化の扱い方は、ビート・ジェネレーションの作家やポストモダンが抵抗として効果的に使っていたアイロニーメタフィクションのそれと同じであり、やがてテレビによって吸収され中和されてしまうと警告する。

 カウンターカルチャーであった60年代のロックがテレビCMのBGMに使われるように、テレビは一般に浸透しているイデオロギーのその形式を見抜き、吸収し加工し、購買欲を掻き立てる勧誘として再提示する。テレビ(とCM)は「自分自身を表現しよう!」「この商品を買って群衆から飛び出そう!」と1人の個人でいることを保証してくれるが、ここにおける集団は個人を飲み込み消失する恐ろしいものとして描かれる。よって、1人でテレビを観ている視聴者は、1人でいることを礼賛される一方で自分もまたテレビで非難される受動的な大衆の1人であるという罪の意識を持っている。このアンビバレンスの真のメッセージとは、個人の実現は究極的には“観られる対象になること”で達成されること、つまり、テレビの外ではなく中へと手招きしているのだ4
 テレビを観る大衆の1人でありながら、その大衆を抜け出すようなことはできないだろうか──それを可能にする(と思い込ませる)のが、大衆を超越するような“テレビの見方(=視聴するときの態度)”であり、アイロニーなのである。ウォレスは、テレビがそのアイロニーポストモダン文学から引っ張ってきた(吸収し中和した)とする。
 このあと、80年代以降、アイロニーを持つキャラクターが増えたとして様々なドラマを挙げるが、その中に『ツイン・ピークス』の主人公、FBI捜査官クーパーも含まれている。
 冒頭で、ポストモダン文学の分かりやすい例として挙げられた『ツイン・ピークス』(1990)だが、それは「ポストモダニズムの現れ」であると同時に、ポストモダン文学がテレビに吸収されたことの現れでもあるのだ。(もちろん著者の木原さんもそんなことは分かっているとは思うけど)

 現在のアヴァンギャルド作家が扱う文化において、アイロニーや挑発や反抗は、なぜ解放へと向かわずに先細りしていってしまうのか。ひとつには、アイロニーが30年経過しても未だに最新の表現法として至るところにありふれているからだ。文化批評家ルイス・ハイド(Lewis Hyde)は「アイロニーは緊急時にしか使えないものだ。長い時間使われ続けると、それは、罠に掛かりその檻の中を楽しんでいる声でしかない」と言っているが、まさにアイロニーはエンターテイメントであるものの、ほとんど否定的な機能しか果たさない。アイロニーは批判的で破壊的であり、たとえ偽善者の嘘を暴いたとしてもそこに更地を残すだけで、代わりに建設的な何かを打ち立てるときにはさっぱり役に立たないのだ。

 では、テレビが有する反逆の美学にどう抵抗するのか。読者の頬を叩いて、テレビ文化がシニカルで、ナルシスティックで、本質的に空虚な現象である事実に目覚めさせるにはどうすればよいのか。ウォレスは次の「真の反逆的文学は“反反文学”」となるだろうとする。アイロニー的な見方はせずに、単一の意図で書くこと(single-entendre principles:単義主義5アメリカに古くからある、平凡で流行とは関係のない人間の苦しみや感情を、敬意と信念を持って扱うこと……を中心としたいくつかの項目を挙げて、このエッセイは終わる。

 最後は、個人的に最も重要でわかりやすいフレーズのみを抜粋したので、結末部だけでも原文を読んでみるのもいいかもしれない。
 最初に述べておくが、本記事ではこのエッセイの「概要」は説明しているかもしれないが「魅力」はまったく説明できていない。「典型的な単身世帯のアメリカ人」として“Joe Briefcase”なる人物を設定、あるいは「レイモンド・カーヴァーワナビー小隊の自意識的緊張病」といったフレーズのようなユーモア、「芸術は、真の価値を持つものの“創造的精製”から、偽の価値を持つものの“創造的拒絶”へと変わった」などキレ味抜群の批評眼と筆力、ピンチョンをはじめとした作家への言及などなど、読みどころがたくさんあるのでもし英語力に自信があればチャレンジしてみて欲しい(あるいは後述する“Consider the Lobster”のようにどこかの文芸誌が邦訳を……)。


“New Sincerity” 新誠実

 このエッセイには、『インフィニット・ジェスト(IJ)』内に登場する架空の多機能デバイス「テレピューター」の元ネタ、小説内で言及される実在のテレビドラマが引用されているなど、IJの理解に非常に役立つ情報が満載だ。特に結論部での主張はIJ全体に貫かれていると言ってよいだろう。IJの登場人物のほぼ全員が何らかのコト・モノ(多くが酒とドラッグ)に依存しており、その苦しみがひたすら変奏されていく。なぜウォレスが執拗にその苦しみを書き続けたのか──ここで使われるのが、“New Sincerity”〈新誠実〉である。
 “New Sincerity”というキーワードは、元々は映画や音楽で使われていた用語だ。ウォレスの今回のエッセイにNew Sincerityという単語そのものは出てこないが、結論部での主張を元に文学へと援用されるようになった。その1人として挙げられるのが批評家アダム・ケリー(Adam Kelly)だ。
 そんなアダム・ケリーのDavid Foster Wallace and the New Sincerity in American Fiction”(2010)6というエッセイをネットで読むことができる。こちらも大雑把に説明すると、ケリーはデリダを引き合いに出しながらウォレスのテクストへの姿勢を検証しつつ、この複雑な社会・文化の中で自身の作品が読者に受け入れられると思っている作家は、本当に誠実であると言えるのか、そのとき作家の書いたものや発言と実際の感情とは一致しているのだろうかと問う。ウォレスのテクストと発言から、ウォレス作品において作家の真の意図は表出の裂け目に潜んでいる秘密のようなものだとする。ウォレスにとって最大の恐怖であり真の安らぎでもあるのが、自己を他者からの評価へと放棄する受動的決断であり、読者へのその対話的な訴えによって〈新誠実〉の作品は成り立っている。ページの外でのその双方向の対話(a two-way conversation)こそが〈新誠実〉の特徴だとする(リチャード・パワーズもこれに当てはまるとしている)。
 『すばる』2018年9月号に収録された吉田恭子訳のウォレスのエッセイ「ロブスターの身(Consider the Lobster )」は、訳者解説でも触れているが〈新誠実〉の典型的なテクストと言えるだろう。アメリカはメイン州「ロブスター祭り」のグルメレポートのはずが、やがてロブスターは痛みを感じるのか、生き物を食べるのはどういうことなのかという倫理的な問いへと展開されていく(ちなみにウォレスは菜食主義者ではない)。あるいはウォレスのテニスのエッセイ集『フェデラーの一瞬』(阿部重夫訳、河出書房、2020年7)の「トレーシー・オースチンになぜ失恋したか」を挙げてもよい。テニスの元祖天才少女であるトレーシー・オースチンの自伝を読んだ経験から、なぜ人々はスポーツ選手の「生の声」を聞きたがるのか、人々にとってスポーツ選手とは何なのかと掘り下げていく。
 これらのエッセイを読んだ読者は、自分にとって「生き物を調理すること」「好きなスポーツ選手(あるいは有名人でもよい)」が何なのかと、まさにページの外で考えてしまう。IJも同様だ。登場人物の苦しみを読んだ読者は想像する、その苦しみはどれほどのものなのだろうかと。その苦しみに自分が直面したときどうなるだろうかと。
 ピンチョンを読んだ読者は、テクスト内の繋がりや小ネタの参照元などを考えるだろうが、それはページの外に出ているとは言えないだろう。どちらが良い悪いとかではなく、ウォレスとピンチョンの大きな違いと捉えることはできる。
 さらに、前回紹介したウィリアム・T・ヴォルマンの全米図書賞受賞作『ヨーロッパ・セントラル』(2005年、未訳)も〈新誠実〉の作品と位置付けることができるかもしれない。20世紀前半の独ソで人生の決断を迫られた人々を書いた小説だが、歴史的資料を大量に用いて、こちらもありのままの苦しみを執拗に描こうとする。アイロニーメタフィクションの要素は皆無で、彼/彼女らの決断について、自分に置き換えて思いを馳せてしまう。

取り扱いには注意

 ここで言っておかねばならないことは、ポストモダン文学〉が終わって〈新誠実〉の時代が来たのではないということだ。あくまで切り口の一つとして認識しておくのが良いだろう。事実、アダム・ケリーの論文を読んでもわかるように〈新誠実〉とはどこかふわふわした概念だ。ケリー本人も必ずしもポストモダン的なアイロニーから逃れることができたとは考えてはいないようで、その概念も曖昧なままである。〈新誠実〉の代表としては挙げられる作家がウォレスの他、ジョナサン・フランゼン、ゼイディー・スミス、デイヴ・エガーズなどなど。このリストが90年代以降のビッグ・ネームを挙げただけとも言えるのも、〈新誠実〉の曖昧さゆえだ。
 また、アメリカ文学の主流からメタフィクションアイロニーが無くなったわけでもない。2020年と2021年の全米図書賞受賞作『インテリア・チャイナタウン』と『ヘル・オブ・ア・ブック』(いずれも未訳、詳細は当ブログの過去記事参照)はメタフィクションアイロニーそのもの。しかし、この2作に今回のエッセイに書かれた批判は当てはまらない。
 なぜなら、いずれもアジア系と黒人の人種差別をテーマにしており、アメリカで非白人でいることは未だに〈緊急時〉であり、アイロニーが社会へのカウンターとして機能しているからだ。ピンチョンの初期3作が輝いていたのも、アイロニーカウンターカルチャーだった時代だからであり、それはそのままピンチョンが2013年に発表した『ブリーディング・エッジ』(佐藤良明、栩木玲子訳、新潮社、2021年)にまったく切れ味が感じられない理由である8

 しかし「イ・ユニバス・プルラム:テレビとアメリカ小説」に読む価値がないわけではない。ウォレスが指摘した人間とメディアとの関係、アイロニーへの批判は〈ポストモダン文学〉を考える上での貴重な視点であるだけでなく、SNSのエコー・チェンバーによって陰謀論あふれる時代だからこそ、その重要性は衰えていないばかりかさらに増しているようにも思える。
 そして何より、デイヴィッド・フォスター・ウォレス、『インフィニット・ジェスト』という、日本にほとんど紹介されていない最後の大物作家とその代表作を理解する上で、必須のテクストであることに間違いないのだ。


最後に

 今回のエッセイを読んでみようと思ったのは、2023年に幸運にもウォレスを扱ったことがある研究者(あるいはそのままウォレス研究者)とお話する機会に恵まれたことが大きな動機となっている。この場を借りてお礼を申し上げるとともに、ネットで閲覧可能な論文を発表している方の紹介をして終わりたいと思う。

 桑原拓也の論文は、ウォレスの短編「帝国は進路を西へ」(短編集『奇妙な髪の少女』(白水社)収録だが、絶版)を題材に、メタフィクションと閉鎖性への批判を読むもの。実際にウォレスがポストモダン文学批判をどのように小説の形へ落とし込んだのかが分かる内容。
「David Foster Wallace 初期作品における後期ポストモダン文学批判と他者の探求」(2019年)

 さらに桑原は、日本でも人気のイギリスのロックバンド、The 1975の楽曲“Sincerity is Scary”を〈新誠実〉から分析した論文も書いている。ちなみにThe 1975のフロントマン、マシュー・ヒーリーはリハビリ施設にいるときに『インフィニット・ジェスト』を読んでいたことを公言している。
「脱ポストモダンの誠実さ : The 1975の“Sincerity Is Scary”におけるアイロニーと誠実」(2019年)

 小倉永慈の論文は、邦訳され日本でも人気だったオーシャン・ヴォン『地上で僕らはつかの間きらめく』(木原善彦訳 新潮社)を、本記事冒頭の「見ること」「見られること」から読んでいこうとするもの。このブログを最後まで読んでくれるような方の中には『地上で僕らはつかの間きらめく』を読んだ方も多いだろうから、興味深く読めるのではないだろうか。
「見られたら嬉しい──オーシャン・ヴオン、デイヴィッド・フォスター・ウォレス、 死への態度と他者への倫理──」(2021年)

 林日佳里の発表原稿は『IJ』内に登場する架空の映像作家の作品から、ポストモダン批判を読み解くもの。『IJ』を読んでいないと理解が難しいかもしれないが、「誠実さ」には4つの論文の中では最も触れているもの。
「「父なるポストモダニズムへ 心を込めて、デイヴィッド」―Infinite Jestと世代のジレンマ」(2021年)



  1. Richard Powers | The Overstory with William T. Vollmann | No Immediate Danger
  2. タイトルはラテン語で、アメリカ合衆国のモットーとして知られるラテン語、イ・プルリブス・ウヌム(E Pluribus Unum)の言葉遊び。本家は「多数はひとつへ(Out of many, one)」を意味するが、ここでは“From one, many”の意味になる。実は同じ言葉が『インフィニット・ジェスト』の序盤に登場している。
  3. このシーンについては『現代作家ガイド7 トマス・ピンチョン』(麻生亨志、木原善彦 編著, 彩流社, 2014)において、長澤唯史訳で邦訳・掲載されているブライアン・マクヘイル「ピンチョンのモダニズム」の中でも、ジョン・ボードリヤールの「シミュラークル」を用いて取り上げられている。
  4. Instagramtiktokは、ウォレスの指摘をさらに加速させたメディアだと言える。
  5. 単義主義という日本語訳は、吉田恭子訳「ロブスターの実」の訳者解説から引用した。
  6. “David Foster Wallace and the New Sincerity in American Fiction.” Consider David Foster Wallace: Critical Essays, edited by David Hering, Sideshow Media Group Press, 2010, pp.131-46.
  7. こういうのも野暮だが盗用と言われぬように一応述べておくと、『フェデラーの一瞬』のAmazonレビューは私が書いた。
  8. ウォレス作品のように脚注で長々と書かせてもらうなら──評価があまりよろしくない『ブリーディング・エッジ』だが、私はそこまで嫌いではない。むしろピンチョンのファンなら必ず読むべき作品だとさえ思っている。ピンチョンは初期3作のあとの沈黙を経て、90年に『ヴァインランド』(邦訳は新潮社から98年、2011年)を発表。84年を舞台にしたこの小説を三浦玲一は、レーガン新自由主義下においてピンチョン自身の行き詰まりを書いたものと評したが(詳しくは脚注3の『現代作家ガイド7 トマス・ピンチョン』内に収められた「ピンチョンにみるポストモダン小説の変遷──『ヴァインランド』の必然」三浦玲一を参照)、私は似たような感想を『ブリーディング・エッジ』に抱いた。
     『ブリーディング・エッジ』は『ヴァインランド』以来にピンチョンが現代を舞台に設定した作品で、911を巡る陰謀論とインターネットを主題にしたものだ。「百科全書的」とも呼ばれるピンチョンの作風はいつしかインターネット的とも呼ばれるようになったが、言わば『ブリーディング・エッジ』は、自らの作風の実体化を書くという前代未聞の文学的格闘であり、そしてピンチョンは敗北した。911に関する陰謀論は昔からありふれたものであるし、インターネットの深奥に光明を見出すのもあまりにも楽天的と言わざるを得ない。主題が空回りしている小説の中で豊富な知識による言語遊戯を繰り広げたところで、文字通りただの「遊戯」でしかない。これは原文が出版されたトランプ以前の2013年に読んでもこういう評価をしていると思うし、邦訳が出版された2020年なら言わずもがなだ。
     この小説の興味深い要素は、ピンチョンのプライベートのようなものを垣間見ることができることだろう。ピンチョン一家が住んでいると思われるニューヨークの高級住宅街が舞台のひとつになっており、後半には家族愛が強く描かれている。全く人前に出ることをしなかったピンチョンが自作に自らの存在を「チラ見」させるのはなぜか。もちろん911を書くことはニューヨークを書くことなので、自身がよく知っている舞台を書くのは当然とも言えるが……私には、どこか読者へのサービスのように映った。
     私にとって『ブリーディング・エッジ』は、サッカーや野球のスター選手の「引退試合」のような読書体験だったのだ。全盛期に遠く及ばないこと、今の自分にできることは何もないことをファンとともに確認し、スピーチのあとに家族が現れて花束贈呈である。ピンチョンという滅多に姿を見せなかったアメリカ文学界の巨人が、最後に家族とともに自身の老いた姿を「小説という形で」我々に見せたことは、ファンにとっては感動的だ。(無論、これらをピンチョンが意図していた確証はない)

20世紀の独ソの中で揺れ動く人々を正確に採譜した重奏曲(Europe Central by William T. Vollmann)

 いわゆる「ポストモダン文学」に興味がある人なら、ウィリアム・T・ヴォルマン(William T. Vollmann)という名前は聞いたことがあるだろう。90年代以降のアメリカを代表する作家の一人で、ピンチョンのように長大で難解な作品を書く人物……というイメージを持っている方が多いはず。実際に経歴を調べてみると、ヴォルマン本人がピンチョンの小説に登場するような、とんでもないキワモノであることがわかる。
 1959年に生まれたヴォルマンは、大学で比較文学を学んだあとコンピュータープログラマーとして働きながら、87年にYou Bright and Risen Angelsを完成させデビュー。704頁もある長大なデビュー作が「ヴォルマンは、ピンチョンとトム・ウルフ※1の間という誰もいない場所を歩き回っている」と評されたように、ヴォルマンは、小説家とジャーナリストの要素を持った珍しい作家だ。
 ヴォルマンはノンフィクションの要素が色濃い小説を書いているだけでなく、ノンフィクションそのものも多く発表している。本人の戦地での経験も含め、暴力についての20年間の考察をまとめたRising Up and Rising Down: Some Thoughts on Violence, Freedom and Urgent Means(03年)は彼の最も長い作品で、全7巻で計3352頁もある(のちに1冊にまとめた圧縮版も出版された)。ヴォルマンが女装を始めたことで生まれた女性人格「ドロレス」について書かれたThe Book of Dolores(13年)なんて本もある。さらに、彼はイラストを多く描いては自作に使用し、87年に自費出版したThe Convict Bird: A Children’s Poemは、鉄の板で綴じられて売春婦の髪の毛で作られた栞がついているという。
 様々な活動をしているヴォルマンだが、有名なのは北米大陸への移住の歴史を書き記す「七つの夢」シリーズだろう。90年に第1作The Ice-Shirtが発表されたあと、現在までに5作が発表されており、そのうち94年の『ライフルズ』(The Rifles)は国書刊行会から栩木玲子訳で01年に邦訳されている。
 そして、現在手に入る日本語のヴォルマンの著作は『ライフルズ』含めてたったの3冊。他の2冊はいずれも90年代に邦訳されて絶版。あとは短編などがアンソロジーに少し紹介されているだけ。
 当然、ヴォルマンの05年のあの小説も未邦訳──というわけで、今回はその800頁の大長編にして全米図書賞受賞作Europe Central(ヨーロッパ・セントラル)を読んでみたわけである。

811頁なので『インフィニット・ジェスト』ほどは重くはない。

『ヨーロッパ・セントラル』のあらすじ

 小説冒頭、ナチス親衛隊の電話交換手の語りから始まるからといってピンチョン『重力の虹』のようなスケールのデカイ話を期待すると肩透かしを食らってしまう。『ヨーロッパ・セントラル』は、20世紀初頭から第二次世界大戦、戦後までのナチス・ドイツソビエト連邦の実在の人物たちの痕跡を記述していく、歴史小説と言ってもよい体裁になっている。もちろん徹底的な歴史的資料に基づいて書かれており、本書の最後50頁は出典に使われている。

 作中での扱いが特に大きい人物を登場順に列挙していくが、以下がそのまま「目次」であり「あらすじ」になっている。

 レーニン夫妻とファニィ・カプラン(1918年レーニン暗殺未遂事件の犯人)
 カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルク(1919年に殺された革命家)
 ケーテ・コルヴィッツ(ドイツの貧しい人々を扱った彫刻家)
 アンナ・アフマートヴァソ連の詩人)
 ドミートリイ・ショスタコーヴィチソ連の作曲家)
 ロマン・カルメンソ連のドキュメンタリー映像作家)
 アンドレイ・ウラソフ(ソ連からドイツへ渡った軍人)
 フリードリヒ・パウルス(ドイツからソ連へ渡った軍人)
 ゾーヤ・コスモデミヤンスカヤ(ソ連パルチザン
 クルト・ゲルシュタイン(ホロコーストを告発したナチス親衛隊)
 ヒルデ・ベンヤミン東ドイツの司法相)※2
 
 これ以外にもヒトラースターリンをはじめ、登場する政治家、軍人、芸術家、その家族たちは、すべて合わせれば100人近くになるのではないか。この多種多様な人々を、ドイツ側からは先述のナチス親衛隊の男が、ソ連側からはソ連の秘密警察NKVD(内務人民委員部)の男(アレクサンドロフという名前がつけられている)が、さながら歴史の目撃者として交互に語っていく。それぞれの章はほぼ独立した構成になっているが、さながらタコの足のように広がる電話線で密かに繋がっているかのように、どこかで共鳴し合っている。
 そして最も多くの頁数が割かれ最も多くの章に顔を出す中心人物こそ、ショスタコーヴィチとその最愛の女性、エレナ・コンスタンチノブスカヤ(Elena Konstantinovskaya)である。ショスタコーヴィチの経歴について詳しい方は首をかしげたであろう。恋多きショスタコーヴィチは生涯で3度結婚したが、そこにエレナという名前の女性はいなかったはずだと。それもそのはず、このエレナはモデルこそあれど、作中で名前が与えられている中で唯一、創作の人物なのだ。
 バイセクシャルで男性/女性問わず多くの人物から言い寄られる恋多き女性で、名前を変えてショスタコーヴィチ以上に様々な章に顔を出すエレナは、ヨーロッパの象徴として描かれており、本書で最も読者の関心を惹く存在だ。ソ連のコムソモール(共産主義青年団、密告などを行う)のメンバーでもあったエレナは英語に長けて翻訳をしていたが、大粛清が巻き起こる34年の夏にショスタコーヴィチの英語の家庭教師となり、そこで彼と恋に落ちる。ショスタコーヴィチは同時に交際していたニーナとの関係に悩むが、エレナはNKVDに逮捕されて強制収容所に送られてしまう。そのあとエレナはロマン・カルメンと結婚するなど(これは史実)2人はともにソ連の政治・芸術の世界に身を置くが、人生の軌跡は接近はすれど再び交わることはない。
 やがて戦争が終わり、両国の語り手は戦争を生き延び、ドイツは東西に分裂する。語り手の1人であるナチス親衛隊の男は、西ドイツの対ソ連諜報機関であるゲーレン機関に捕まり、ソ連に魂を売り渡していないのならばその証明としてある男を殺せと命令される。
 その男とは、青白く、髪が薄く、分厚い眼鏡をかけた男、ソビエトの作曲家ショスタコーヴィチ


暴力と倫理へのヴォルマンの意識

 ナチス親衛隊の語り手が戦争を生き延びてショスタコーヴィチ暗殺の依頼を受ける章は、非現実的なシーンが多く、最もフィクション性が強い箇所だが、ここまで来ると同時期に書かれた別の小説のことを考えられずにはいられない──物語の中盤でナチス親衛隊の男の頭を弾丸が貫き、錯乱した夢を語るあのシーン──『ヨーロッパ・セントラル』の1年後、アメリカ生まれのジョナサン・リテルがフランス語で書いた『慈しみの女神たち』だ。※3
 第二次大戦を生き延びたナチス親衛隊の語り手が戦争を回想していく『慈しみの女神たち』は『ヨーロッパ・セントラル』との共通点が多い。どちらも同じ時期に書かれ、物理的に重量級(英語版の『慈しみの女神たち』は約990頁)で、長期間の綿密な取材に基づき、音楽の要素があり、20世紀の巨大な「暴力」を中心に据えている。
 事実、『慈しみの女神たち』の英語版The Kindly Onesが09年に出版されたとき、両者を比較した書評がある。「ワシントン・ポスト誌」のMelvin jules Bukietの書評では両者の共通点を挙げたあとで、リテルに厳しめにこう書いている。

「(…)リテルは末端の小役人と怪物のどちらを生み出そうとしていたのだろうか、あるいはその両方なのかという疑問が浮かぶ。しかし、1000頁近くを読んだあとになってもその意図が分からないのは、ヴォルマンが1940年代のドイツとロシアで重要局面にいた実在の人々の、多面的な視点で描いた倫理的ジレンマを、リテルは掘り下げようとしなかったからだ」※4

 この倫理的ジレンマこそ、一見バラバラに見える『ヨーロッパ・セントラル』の登場人物たちに共通する要素であり、本編終了後に出典の冒頭で作者が直接説明しているキーワードだ。

 この複数の物語は、私の『七つの夢』ほど歴史的事実に厳密に基づいているわけではない。実際、私のここでの目的は、有名、無名、匿名のヨーロッパの倫理的行為者たちがある決断をした瞬間、その寓話の連なりを書くことだった。この本の登場人物のほとんどが実在した人物であり、私は彼らの人生を細部まで可能な限り調べあげたが、あくまでこれはフィクションである。(753)

 『ヨーロッパ・セントラル』の登場人物たちは命の分水嶺を経験しており、ヴォルマンはその決断に至るまでの過程を書いていく。小説中盤でショスタコーヴィチと直接関係がない軍人たちが(それも数奇な最後を迎えた者が)取り上げられているのはそれが理由だ。自分の信念と組織からの要求とのジレンマに悩み、人智を越える歴史の流れが彼/彼女らに決断を迫る。先述したヴォルマンのRising Up and Rising Down(03年)は、ナポレオン戦争から本人によるイラク戦争のレポートまで多くの暴力を徹底的に分析することで、「暴力の微積分(moral calculus)」を試みた本なのだという。この言い方を使えば、前作で暴力について書いたヴォルマンは、その暴力を行使する前提条件である倫理に着目し、『ヨーロッパ・セントラル』では全体主義という暴力の時代において倫理的ジレンマに挟まれつつ決断する瞬間を捉えようとした──つまり倫理の微分を試みたのだと言える。
 ならば暴力の時代における「倫理の積分」は? 本書での一応の結末がそれに当たるのかもしれない。本書の後半は、最も長い章のタイトルでもある「作品番号110」が完成するまでに焦点を当てている。その作品こそ、ソ連共産党からの圧力と芸術の自由との狭間で悩むショスタコーヴィチファシズムと戦争の犠牲者のために捧げた曲」なのだ。


リテルとヴォルマン、それぞれのベクトル

 ショスタコーヴィチ、ロマン・カルメンと恋の三角関係となるエレナはもちろんだが、本書では多くの女性が印象的に描かれる。「あらすじ」で挙げた女性たちは言うまでもなく、中盤での軍人たちの章でも女性たちが登場する。将校としての成功を祈った夫が敵国へと寝返ってしまった妻、ナチス親衛隊を悩ませる死んだ女性の幻……これは男性性で語られることが多い歴史に、失われた女性のナラティブを取り戻していく試みとも言える。
 だが、ここで厳しい意見を言わせてもらうなら、女性のナラティブを取り入れたとしても「倫理的ジレンマ」(あるいは「倫理の微積分」)をヴォルマンがそこまで克明に捉えているかと言われると、疑問が残る。それぞれの登場人物の分水嶺とは言うものの、彼/彼女のほとんどがWikipediaの日本語版があるほどの著名人であるがゆえに、それは歴史的事実の集積の枠を出ていない。1人あたりせいぜい数十頁という短さもその要因だ。
 ラストも近くなりショスタコーヴィチがついに「ファシズムと戦争の犠牲者のために捧げる曲」を完成させようとするところで印象的な一文が出てくるが、これはある作家を彷彿とさせる。

 死は常に私たちの回りにいたんじゃなかったのか? もしショスタコーヴィチが500年前に生きていたなら、壁が羊歯に覆われて暗闇の同心円が不気味に広がっている深い井戸の中から、作品番号110を幸運にも見つけ出したかもしれない。(718)

 ここでの「井戸」は、村上春樹ねじまき鳥クロニクル』での「井戸」に非常に近い。もしかすると、ここだけを取り上げるのはアンフェアだと感じたかもしれない。私だってヴォルマンほどの意趣卓逸な作家ならば、格調高雅な言葉を駆使して人間の存在を捉える彼独自の世界観を提示することはできると思う。しかし、会話の中に実際の発言が組み込まれるほどノンフィクションの要素が強いこの小説に、その筆致を発揮できそうな箇所がそもそも少ないのだ※5。私が思うに、歴史的事実に忠実すぎるがゆえに本書は物語的なカタルシスに欠ける面があり、さらに「倫理的ジレンマ」のような抽象的で壮大な概念を捕まえるに十分な、言わば、創造的な跳躍が足りていないように思える。
 そして先程の書評に反してリテルの肩を持つなら、『慈しみの女神たち』では創作物である主人公マックス(末端の小役人なのか怪物なのかはともかく)による冒頭の宣言、そしてそのあとに延々と続く破壊の筆致、あのラストは、人間とそのシステムが孕む狂気を、他の現代作家の誰よりも捉えていると感じる。ヴォルマンとリテル、それぞれ方向性は違うが、より突き抜けている作品はリテルの『慈しみの女神たち』ではないか。これが『ヨーロッパ・セントラル』を読み終わったあとの正直な感想だ。


これはポストモダン文学なのか? そもそもポストモダン文学って?(次回予告)

 ここまで読んでくれた「ポストモダン文学に興味がある人」の多くは、消化不良を起こしているのではないだろうか。「ノンフィクション? メタフィクションではなく?」「サブカルチャーからの引用はないの?」「マジック・リアリズムの導入は?」──こういった「ポストモダン文学」のイメージはピンチョン、デリーロ、ギャディスら、ヴォルマンより一回り上の世代の作家たちに負うもので、『ヨーロッパ・セントラル』を、少なくともピンチョンらの世代と同じような「ポストモダン文学」とはカテゴライズするのは難しいだろう。
 それもそのはず、80年代にデビューしたヴォルマン、パワーズ、そしてデイヴィッド・フォスター・ウォレスらは先輩作家たちとは違うものを書こうとしていたからで、それについて書かれたDFWの有名なエッセイがあり……次回はサクッとそのエッセイの概要を書こうかと思っています。


※1:トム・ウルフとは1930年生まれで「ニュー・ジャーナリズム」の中心人物の一人と見なされている作家。「ニュー・ジャーナリズム」を乱暴にまとめるなら「取材を元にしたノンフィクションではあるけれど、小説のような演出を駆使して書く」という作風のこと。日本で言えば沢木耕太郎などがそれにあたる。

※2:ヒルデ・ベンヤミンの夫でありマウトハウゼン強制収容所で亡くなったゲオルグベンヤミンは、あのヴァルター・ベンヤミンの弟。つまり、ヒルデ・ベンヤミンはヴァルターの義理の妹である。

※3:原題はles Bienveillantes。日本語訳は、菅野昭正、星埜守之、篠田勝英、有田英也の共訳で2011年に集英社から出版。

※4:英語版のAmazonの商品紹介ページには、ワシントン・ポストをはじめ各媒体の書評が載っている。引用もそちらから。

※5:本書の特徴は「いつどこで何をした」という史実だけでなく、記録に残っている発言さえも組み込むことだ。例えば682頁では、ショスタコーヴィチとその友人たちが会話している中に「(交響曲)7番をレニングラードと呼ぶことに反対はしないよ。だけど、あの曲は包囲されたレニングラードについてではなく、スターリンに破壊され、言わば、ヒトラーによって消滅されたレニングラードについて書いた曲なんだ」という有名な発言が引用されている。

ハワイの日系二世作家が描く、対立した文化と社会(All I Asking For Is My Body by Milton Murayama)

 実は私はかなりのボクシングファンなのだが、それを知っている編集者の友人が面白いことを教えてくれた。ハワイの日系二世作家が書いた作品に、貧困から抜け出すためにボクシングを始めるという描写があるという。さらに、著者の意向で邦訳NGとなっているそうだ。それがミルトン・ムラヤマ(1923-2016)の連作短編集All I Asking For Is My Bodyだ。早速取り寄せて読んでみたが……この作品はボクシング小説云々以前に、文化と文化との間に揺れ動く人々を103頁に一文の無駄もなく詰め込んだ、移民文学の傑作だ。

 ミルトン・ムラヤマ(1923-2016)は、九州からのハワイ移民の子として生まれる。1941年、高校卒業後にハワイ大学へ進学。同年12月、真珠湾攻撃によって日本とアメリカが交戦状態となると、ムラヤマは日本語話者として台湾へ送られ、日本兵捕虜などに対して通訳などの任務に就いていた。戦後、ハワイ大学を卒業するとコロンビア大学院へ進学し、中国語と日本語で修士号を取得。その頃から小説を書き始め、執筆をしながら図書館員として働いていたようだ。
 All I Asking For Is My Bodyは3部構成となっていて、第1部が雑誌に掲載されたのが1959年でこれがムラヤマのデビュー作となる。その後、2部と3部を書き上げ完成版となり出版されたのが1975年。大きな文学賞を受賞することはなかったが、現在では日系ハワイアンの生活を描いた傑作として高く評価され、wikipedia曰く「カルト・クラシック」となっているという。


 本作の大きな特徴は、ピジン英語が多く使われていることだ。ピジン(pidgin)とは混成語のこと、つまり日本語と英語が混ざった言葉だ。例えば、

“It would be zannen to die in a strange place like Hawaii, ne?” (14) 斜体は原文ママ

 という具合だ。導入部で語り手はピジン英語を含め、自分たちが話す言語についてこう述べる。

「ぼくたちは4つの言葉を話していた。学校では良い英語(good English)、集落の中ではピジン英語、両親やお年寄りの人たちには良い日本語かピジン日本語」(5)

 本書の最後に収められたFranklin S. Odoの解説でも指摘されているが、「良い英語(good English)」という表現にすでに異文化間の対立が現れている。本作には数多くの「対立」を見てとることができるが、この一節にその全てが象徴されていると言えるだろう。


第一部「頭をコツンするぞ(I’ll crack your head kotsun)」

 All I Asking For Is My Bodyの舞台は1930〜40年代のハワイ。オヤマ(Oyama:もしかするとオオヤマなのかもしれない)家の次男として生まれたキヨシが語り手。第1部は10頁ほどで、全体の導入となっている。
 まだ幼いキヨシは同じ年の友人2人と一緒に、少し年上で”kodomo taisyo”のマコトと遊ぶようになり、フィリピン系の住民が住む集落の中にあるマコトの家にいく。昼間にも関わらず両親がおらず、マコトが調理する豪華な食事をご馳走になる。それがしばらく続くと、両親からもうマコトの家には行ってはいけないと言われる。キヨシは何度も理由を尋ねるが両親は一向に教えてくれず、言うことを聞かないと頭をコツンするぞ! と怒られてしまう。忠告を聞かずにその後もマコトと遊ぶキヨシだが、ついに折れてマコトの家にもう遊べないと伝えにいく。そこでマコトの母親が売春婦として働いていることが暗示され、キヨシはマコトの家から去る。

 第2部「身代わり(The Substitute)」

 こちらも13頁と短い内容。第1部から3年後の1934年、キヨシの母親は以前から病弱だったが、さらに悪化して医師からも危ない状態だと言われる。父親は漁に出て、長男のトシオは高校のあとそのまま仕事にいくので、キヨシが3人の妹と母の面倒をみなければいけない。キヨシは母親からハワイに来た経緯、6000ドルの借金など、オヤマ家の歴史を聞かされる。母親と父親が遠い血縁関係にあたるので、そこから不運が始まったのだと母親は言う。母親は、最後に彼女の祖父の姉にあたる「おばば(英語表記はObaban)」に会いたいと言うので、キヨシはおばばが住むカハラ(Kahara)へと向かう。

「おばば、バチって信じてる?」
「どうしてだい?」しばらくして彼女は言った。
「お母さんは、こうなったのは誰かのバチに当たったから、って思ってるの」
「うーん」
「おばばもそう思う?」
「どっちにも転ぶのよ」彼女は辛そうにそう言った。「もしお母さんが身代わりになる人を見つければ、元気になるかもしれないねえ」
(20)

 キヨシはおばばを連れて帰り母親と対面させ、おばばはその日のうちにカハラへと帰る。翌日、授業中のキヨシを父親が迎えにくる。母親の死を覚悟したキヨシだったが、知らされたのは、おばばが危篤状態になったので家族でカハラへ向かうということだった。しかしオヤマ家が着く頃にはすでにおばばはこの世を去っていた。

 第1部と第2部ではオヤマ家を通して当時の日系人の生活を描くが、「バチ」の概念や「四」にまつわる概念(死を連想)といったお馴染みの迷信を含め、日本のそれとほとんど違いがない。幼いキヨシを語り手に何度も「どうして?」と質問させることで、プロットの流れを止めない程度に英語圏の読者に日本の生活習慣を提示する。

 そして残り80頁ほどの第3部が、実質的な本編と言える。

第3部「俺の望みは俺の人生なんだ(All I Asking For Is My Body)」

 1936年、オヤマ家に4人目の女の子が生まれ、一家はカハラという街に引っ越すことにする。カハラにはサトウキビのプランテーションがあって多くの住民がその労働者として働いており、父だけでなく兄のトシも高校を辞めてプランテーションで働くことになる。
 苦しい生活の中、長男のトシオは両親に反発する。両親は、かつて自分たちがそうしてきたように「親を助けるのが子どもの義務(Filial Duty)だ」という価値観で生きており、それを子どもたちにも押し付ける。

「子どもは親にお返しをしないといけないんだよ」
「いくら? いつまで?」
「あんたのお父さんは文句のひとつも言わずに、おじいちゃんを20年間助けたんだよ」
「じいさんは泥棒じゃないか」
「お父さんの前でそんなこと言うんじゃありません」
「じいさんは、お袋と親父と2人のおじさんに20年間も働かせて、それで金を全部持って日本に逃げちまったじゃないか」
「あの人は正直な人で、借金を全部返そうとしたんだ。もう一度お店を開くにはあのお金が全部必要だったんだよ」
「それで全部失っちまったってわけだ。天罰だよ」
地震が来るだなんて誰にも分からないじゃない」(注:関東大震災のこと)
「んでお袋は、俺たちに人生を諦めることで親父を借金から救って欲しいんだろ」
「心配しなくていいわ。あんたには頼らない。キヨシが助けてくれるもの」
(30)

 そんなトシオは、ボクシングの教則本を使ってトレーニングを始める。トシオが両親に反発すればするほど、キヨシは両親のケアをせざるを得なくなるのだが、トシオが始めたボクシングのトレーニングにも一緒に付き合うのだった。

 一方、カハラは街全体が「ピラミッド」のような階層ができていた。頂点はプランテーションの経営者であるネルソン氏、その下にポルトガル系、スペイン系。そして日本系がきて、最下層はフィリピン系。1937年、プランテーションで働くフィリピン系の人々がストライキを起こすと、会社はキヨシたち学生を雇い入れて、ストライキを起こしたフィリピン系の人々をクビにするだけでなく、荷物までプランテーションの外に位置する州の道路に放り投げる。カハラでは、州よりも会社が権力を握っているのだ。
 この状況に、赴任してきたばかりの教師スヌーキーは怒りを露わにしつつ生徒に問う。

「(…)レイ・スタナード・ベイカーは、これをアメリカ合衆国最後の封建制度の名残、最後の生き残りだと言っていたが、本当にその通りだな。プランテーションは、人々を分断し、支配する。私の言っていることがわかるかな? フィリピン系がストライキをする、君たちは喜んでストライキを妨害する。これは大事なことなんだよ。自分で自分の損になることをしていると思わないか? うん、キヨシ、どう思う?」
「フィリピンのひとたちは、誰にもストライキに加わってほしくない、と思っていることが重要だと思います。彼らは自分たちのためだけに給料の引き上げを要求しています。彼らが怒っているのは私たちではなく、ストライキに参加しないフィリピンのひとたちに怒っています」
(33 ※一部省略)

 スヌーキー(この翌年学校を去る)の意見に同調するのは、トシオだけだ。

「フィリピンの奴ら、かわいそうなことになりそうだ。もう食料が尽きるぞ」トシオが夕食中に言った。
「あいつらは勝てない」父は言った。
「日本人も加わるべきだったんだ」トシオは言った。
「日本人は1920年と1922年にストライキをやって、2回ともあいつらがスト破りをしたんだぞ」父は言った。
「だから誰もプランテーションを倒せないんだ」トシオは言った。
「他人の世話なんて焼かなくていいのよ」母は言った。
「俺たちは身の程を知るべきで、怒ってはいけない。それが尊敬を得る唯一の方法だ」父は言った。
「それが日本人の厄介なところなんだ。ボトボト(boto boto:フィリピン語で男性器)では尊敬は得られない。闘うことで尊敬を得るんだ。俺たちはあいつらと闘わなくちゃいけない。だけどその前に、日本に帰るって選択肢を忘れなきゃな。俺たちは日本との繋がりを全部切って、アメリカ人にならないと。クロダも同じこと言ってたぜ」
「クロダは急進派だ」父は言った。クロダとはホノルルの2言語併用新聞「ホノルル・デイリー」の編集者だ。
(37 ※一部省略)

 このように、カハラでは様々な分断と対立が生じている。資本家と労働者、異なる人種同士、そして日本の伝統的家族主義とアメリカの個人主義。そんなカハラでの生活を変えるためにトシオはボクシングにかける。トシオは地方大会で勝ち進むものの、ホノルルで行われる(ハワイ全土を対象の?)地区大会の決勝で負けてしまい、さらに大きな大会が行われるアメリカ本土へは渡ることはできない。

「お前はもう辞めたほうがいいぞ」父は言った。
「いや、もっと厳しいトレーニングをしなくちゃ」彼は言った。
 そして彼は僕のほうを向いて英語で言った。「しんどいことになりそうだ。くそったれホノルルの奴らめ、あいつらプロのようにトレーニングしてやがる。あいつら仕事をしてない、練習しかしてないんだ」
 トシオは他の労働者と同じように週に48時間、毎日休みなく、試合当日の土曜日ですら働いていた。
(55)

 キヨシもボクシングを始めるが、トシオのように地区大会決勝で負けてしまう。しかしキヨシはトシオを通じて、オヤマ家とカハラの現状に疑問を抱き、アメリカ的な個人主義を身につけていく。トシオとキヨシのボクシングは、家族の借金を返しプランテーションの労働からも解放される一発逆転の道”だけ”ではない。究極の個人スポーツであるボクシングで成功することは、「家」を中心とした日本の伝統的な価値観に打ち勝つことも意味する

「奴らは自分の息子たちに無知になってほしいんだ。言うことをちゃんと聞くように。ずっとはいはい言っているやつのことを、良い子だと思うようになるんだよ」
プランテーションも同じだね」僕は言った。
「ああ、俺たちは同時に2つの相手と戦っているのさ」
(68)


  キヨシの変化と選択

 小説が後半に差し掛かる頃、すべてをひっくり返すような出来事が起こる。それが1941年の真珠湾攻撃だ。これまで日本人としての誇りを唱えていた日本人集落はパニックになる。両親も態度を変えてトシオの日本語の本や国旗を隠せという助言を聞き、軍隊に所属していた日系二世は武器を没収され単純労働に従事、日本領事館でアルバイトをしていた日本人がFBIに逮捕され、オヤマ家が以前住んでいた土地では仏教徒が追放、日本人会の会長が逮捕された。日系二世は自らのことを”AJA = Americans of Japanese Ancestryと名乗り始めるようになる。

 そして、これまで「どうして?」を繰り返していたキヨシが変わる。カハラの日本人集落の長、タケモトの元へ押しかけたキヨシは、「日本人でいることが恥ずかしい、なぜ日本はあんなことをしたのか」とタケモトに理由を問う。タケモトの「日本人は合理的に考えないんじゃ。その場で一番良いと思ったことをする」という言葉を境に、キヨシの言動が明らかに変化する。

「じゃあ日本人はこれからも同じ間違いを何度も繰り返すってことですか」
「なんていうか、島国根性ってやつじゃな」
「他に説明はできないんですか?」
「説明は難しいのじゃ。日本は貧しい国だから、国の外から資源を持ってこないといかん」
「だから、生き残りの名の下に奪っていくと」
「イギリスもフランスもドイツも他の国も、100年前に同じことをやっておる。生き残りではなく利益じゃ」
「つまり、日本は100年遅れてるってことですね」
(83 ※一部省略)

 さらにキヨシの母親と妹が妊娠。母はトシオとキヨシに次ぐ、三男を産む。

「こんなに年を取った母さんが新しい子どもを産んで、恥ずかしくない?」
「いいや、新しいきょうだいが増えて嬉しいよ」
「いつかあなたが結婚したとき、白人の人たちがどうやってるか知っておきなさいよ」
「どういうこと?」
「あの人たちがどうやって産む数を少なくしているかってことよ。3人以上は作らない方がいいわよ。大変すぎるもの」
 これには少し驚いた。子どもを作るには年を取り過ぎているとは思っていたが、母はコンドームを知らないのだ。僕は3年生の頃には知っていたのに。
(93 ※一部省略)

 キヨシがアメリカ的個人主義を主体化したという文脈を越えて、日本の保守的な価値観を旧時代的として「軽蔑」しにかかる非常に強烈なシーンだ。さらにこの直後、キヨシはプランテーションに支配されたカハラの構造を察する。キヨシは、カハラの下水道がネルソン氏を始点にポルトガル系、スペイン系、日系、フィリピン系と順に流れていることに気づく。さらに、カハラの教会もボクシングを含めたスポーツという娯楽すらも、労働者を飼い慣らすための装置に過ぎないのだと(トシオが労働のため練習が不足し、地区大会決勝で負けることも必然だったのだ)。

 海を渡ってオヤマ家とカハラから離れる唯一の方法。それは戦争という歴史のうねりを利用することだ。キヨシは家族の反対を冷たく押し切り(母親が何度も「なぜ」と聞くシーンは象徴的)、志願兵に応募。さらにハワイ島での研修場の中で、これまで一度もやったことのなかったギャンブル(チンチロリン)にハマる。イカサマを交えつつ勝利していき、最後の大勝負を運のみで勝利、なんと6130ドルを手にする。興奮で眠れない夜を過ごした翌日、6000ドルを次のメモと一緒にトシオに送ったところで物語は終わる。

「オヤマ家の運の流れは変わった。身体に気をつけて。戦争が終わったら会おう」


 ミルトン・ムラヤマがこの作品の邦訳を望まなかったという理由も、想像ではあるがなんとなくわかりそうな気がする。アメリカと日本の文化の間で苦悩する人々と戦前のプランテーションでの過酷な労働環境を、語り手キヨシの成長を通して描く本作だが、その「成長」とは端的に日本を捨ててアメリカ人になることだ。第3部を加えた完成版が出版されたのは1975年だが、その3年前の沖縄返還と対照的な物語といえる。

 本ブログでは省略したが、沖縄出身の住民をキヨシの父が軽蔑するシーンがあったり、日本人と現地人との間に生まれた子の選択を描いたシーンなど、他にも様々な「分裂」がこの小説には書き込まれている。英語は非常に簡単で、100頁ちょっとの長さなので、移民文学に興味がある人は是非とも読んでほしい一冊だ。

 ※余談だが、本作でトシオとキヨシが使用するボクシングの教則本はジミー・デフォレスト(Jimmy DeForest)が書いたものとされている。ジミー・デフォレストは著名なボクシングのトレーナーで、初代ジョー・ウォルコットジャック・デンプシー(『はじめの一歩』の必殺技デンプシーロールの由来の選手といえばわかる人も多いだろう)のトレーナーを務めた。本作ではトシオがスリッピングしてから左フックをみぞおちに当てるというパンチを習得する(父と喧嘩になった際に父にも打ってしまう)のだが、これは実際にジミー・デフォレストが選手たちに教えていたパンチのようだ。

 さて、今は未邦訳の鈍器本として有名(876頁)なウィリアム・T・ヴォルマンの『ヨーロッパ・セントラル(Europe Central)』を読み始めたところなので、次回の更新は多分半年後ぐらいになります……。

「アメリカベスト短編集2021」The Best American Short Stories 2021(後編)

 ジェスミン・ウォードが2020年のアメリカ人作家の短編から編纂した「アメリカベスト短編集2021」。前回の更新からだいぶ時間が経ってしまったが、ようやく後半の残り10作を紹介。大物作家ソーンダーズや、デビュー長編が邦訳されたばかりのC・パム・ジャンなどが登場。




ジェーン・ペク「白と緑の衣を纏った二人の女性の図」(Portrait of Two Young Ladies in White and Green Robes (Unidentified Artist, circa Sixteenth Century) by Jane Pek) Best!!

 ジェーン・ペクはシンガポールで生まれ育ち、現在はニューヨークの投資会社で法律家として働きながら小説を書いている。The Best American Short Stories 2020にも選ばれており、2022年春にデビュー長編The Verifiersを発表。

 「数時間前、あなたの最後の子孫が亡くなった」から始まる異色の短編。女性である語り手は「あなた」との思い出を語り始め、現在のアメリカから、「あなた」が結婚式前夜に「私は子供が産みたいの」と語った瞬間へと時を遡る。それは、ななななんと明朝時代の中国! 
 語り手と「あなた」は永遠の命を持っていた女性同士で、自分の命と引き換えに子供を産むことができる……と言っても、旅先に出会った人に語った“ヴァージョン”と書いており、本当の設定はよくわからない。ともかくも「あなた」は子供を産んでからほどなく亡くなり、語り手は夫と子の行く末を見届けていく。
 数十年経ったあとにその夫と子に再会したり、結婚式以前に描いてもらった「あなた」と語り手の肖像画を300年後の大英博物館で見つけるなど、数十年、数百年の時を行ったり来たりするが、それらを何も違和感なく一本の語りとして成立させてみせる“情報の整理”が(最後のシーン、最後の一行まで含めて)驚異的だ。
 さらに、永遠の命の持ち主から見た人間の一生、というSF的な視点はもちろん、姉妹でもなくただの友人でもない「あなた」と語り手の関係、明朝時代の美術品がイギリスにある背景、子孫がアメリカに渡ったあと中国に戻らなかった理由……短編として面白いのはもちろん、様々な切り口があり11頁とは思えない「厚み」。
 20作あるこのアンソロジーの中で、私個人のベストはこの作品だ。


トレイシー・ローズ・ペイトン「ロドニー最後の日々」(The Last Days of Rodney by Tracey Rose Peyton)

 トレイシー・ローズ・ペイトンはイリノイ州シカゴ出身。テキサス大学オースティン校で創作を学び修士号(Master of Fine Arts)を取得。

 俳優であり、かつてはリアリティーショーに出演して人気を博したロドニー。もちろん誰もがその顔を知る有名人で、良い家に住み妻も子供もいる。しかし、本人はどうやら俳優業を辞めており、リアリティーショーに出ていた過去を忘れたい、別の人間になれたらとさえ思っている。そんなロドニーの何気ない一日を描いた短編。
 「最後の日々」とは言え、特筆することは起こらない。朝に立ち寄るコンビニの店員が顔馴染みから新人に代わっていて自分のことを知らない様子に笑いそうになったり(ここでロドニーが黒人であることが分かる)、新聞の一面に掲載された、警察に射殺された黒人男性の写真を見て「なぜお前(ロドニー)でなく私なのだ」と問い詰められている気がしたり、映画館での上映中に捕物に遭遇し身体が固まって動けなくなるなど、一つ一つの出来事に常に不穏な雰囲気が漂っている。
 最後、ロドニーは妻が隠れて飲んでいた酒の入った水筒を持ちながら、庭のプールに水を貯める。「ここにいない友人たちへ」と地面に酒を流し、残った酒を飲みながらプールへ浸かる。水嵩は徐々に上がってきて、いよいよロドニーの頭が水に浸かる。もう少しだけ水の中にいよう、そして顔を上げたとき、全てが変わっているはずだ……ここで、物語は終わる。

 ペイトンによれば、この主人公のモデルは1992年のロサンゼルス暴動のきっかけとなった暴行事件の被害者のロドニー・キング。2014年のブラック・ライヴズ・マター運動のとき、ロドニー・キングの映像のことを思い出し、あれほどの恐ろしい出来事のあと本人の人生はどうなったのか興味を持ったのが始まりだったという。最初の2ページを書いたあと、このまま書き続けていいのかとても悩んだが、書くことを決意。もちろんフィクションではあるが、一部(というかラスト)はロドニー・キングの実際の記録に基づいている。


クリスタ・ロマノスキー「この手の世界で勝つのはクソ野郎」(In This Sort of World, the Asshole Wins by Christa Romanosky)

 クリスタ・ロマノスキーはアメリカ東部アパラチア出身。プロフィールを読む限りは奨学金の内容が多く、これまでに短編や詩を発表してきた媒体もそこまでメジャーなものはないので、今まさにキャリアを歩み始めた作家なのだろう。音楽活動もしていて、これまで2枚のアルバムを発表しているようだ。ロマノスキーの作品では、田舎の生活、トラウマ、血筋にまつわることを取り上げられており、今回の短編もまさにその内容になっている。

 主人公は子供の頃から自傷行為を繰り返し(もちろん)薬物もしている、破滅的なシングルマザー、ティフ。夫を亡くしたティフは定職に就かず、子供のバッキーとともに亡き夫の友人ジョンや実家などを行き来するフラフラした生活をしている。開始早々「みんなクソ野郎だった。クソ野郎たちが勝利する唯一の方法は、彼女を負けさせること。そして彼女はそれを拒否していた」という一文が出てくるが、まさに出てくる登場人物全員がティフの敵だ。ティフの親は彼女に生活する能力がないことに怒りつつ、児童相談所に連絡してバッキーを取り上げようと脅す。夫の友人ジョンは彼女を性的に搾取し、友人でありティフの願いを度々聞いてくれた“クソ女(Some Bitch)”にも最後に裏切られる。ティフの唯一の味方であり、愛するものはバッキーのみ。最後はバッキーの寝顔を見るシーンで終わる。
 
 ロマノスキーによれば、アパラチアは職も少なく薬物問題も深刻な地域であり、作品の舞台もアパラチアないしは同じ状況の地域を選んでいる。この短編で描きたかったことは、そういった状況で“生き残る(survive)”ことであり、ティフが嫌悪という感情をあらわにすることは、生き残ることに必須の条件なのだという。救いのない物語の中に、微かに宿る生への執着。


ジョージ・ソーンダーズ「ラブレター」(Love Letter by George Saunders)

 この短編アンソロジーの中で最も著名な作家がジョージ・ソーンダーズだろう。1958年生まれのソーンダーズはコロラド鉱山大学で地球物理学を学んだ後、ニューヨークのシラキュース大学で創作を学び、現在は同大学の教授をしている。2017年ブッカー賞を受賞した『リンカーンとさまよえる霊魂たち』(上岡伸雄訳 河出書房)をはじめ、これまでに短編集やエッセイを含め11冊の本を出版し、かなりの数が邦訳されている。

 「202_年、2月22日」と日付された、祖父から孫への手紙という形式の短編。孫から受け取ったEメールの返信を直筆の手紙で書いているのは「トピックを考えると、Eメールが一番良いやり方なのか自信がない(…)知っての通り、奇妙な時代だからね」と自ら冒頭に書いているからだ。この不穏な空気が漂ったまま読み進めていくと、孫からのEメールは友人を助けることに力を貸してほしい、というものであり、それに対して祖父は特定を避けるため、“J”というようにアルファベット一文字を使い助言をしていく。
 このディストピアな設定は何なのか。それは祖父が過去形で書き始めてから明らかになる。「なぜならこの破壊行為が出てきたのは、単なるふざけた悪党に(そのときは)しか見えなかった無能な人物が始まりで」「私が話しているのは2回目のことで、完全なデタラメでそれほど傷つきも(驚きも)しなかった3回目(息子の方)のことではない」。つまりこれはトランプが再選をし、さらにトランプの息子がその後に当選した未来の話なのだ。

 ソーンダーズ本人のコメントによれば、危機の時代にあって自分がするべきことは何か考えつつも自分が特に何もしていないことに気づいていること、さらに自分にできることは書くことだけだが、それが危機に対してほとんど効力を持たないこと、その状況に自分がいることに分かる物語を書こうと決めたのだという。


シャンティカ・シガーズ「ビーといっしょに」(A Way with Bea by Shanteka Sigers)

 シャンティカ・シガーズは現在テキサス州オースティン在住。ノースウエスト大学を卒業後、ニューヨーク大学で創作科での修士号を取得。『シカゴ・リーダーズ』でいくつかの短編を発表している。

 小学校の教師で夫と不仲になりつつある女性と、その教え子である少女ビーとの関係を、女性教師視点の三人称で描いた短編。服装や身嗜みからビーはネグレクトを受けており、女性教師はビーを気にかける。そんな女性教師は夫の不倫を目撃しないかなと妄想したり、夫から教師という仕事について暴言を吐かれるなど関係は最悪の様子。女性教師のケアもあってビーは次第に女性教師に心を開いていく。
 あらすじではわからないが、非常に奇妙な雰囲気が漂う短編になっている。3〜10行程度で次のパラグラフ(シーン)へ行くという細かく分かれた構成で、多くのことが語られずに展開される(例えば女性教師の夫についてはほとんど何もわからない)。そもそも語り手である女性教師が夫の不倫を目撃したいと望むなど奇妙な人物だからだ。その結果として最後の1行「(夫に)あなたの猫の面倒は見ておくよ」が抜群の出来になっている。なぜこれが抜群なのかは是非直接読んでみて欲しい。

 元々、シガーズは大学院時代にハリ・クンズル(白水社から『民のいない神』が木原善彦訳で邦訳されている)の指導を受けており、そのとき書いた別の短編の主人公がビーだった。その後に先生を加えて別の物語に仕上げた。最後のオチの説明(由来)もしているがここでは割愛。


ステファニー・スワロー「ヘイグリラリー」(Haguillory by Stephanie Soileau)

 ステファニー・スワローはルイジアナ州出身で、様々な奨学金基金の援助を受けながら執筆。2020年にデビュー短編集 Last One Out Shut Off the Lightsを発表。現在はシカゴ大学で教鞭を取っている。

 2005年の夏、ハリケーン・リタとハリケーンカトリーナに立て続けに襲われたニュー・オーリンズに住む頑固爺さんのヘイグリラリーとその妻ドット(Dot)。妻に強引に買い物に付き合わされた先でヘイグリラリーはカニ釣り用の餌を買って二人でカニ釣りへ行く。カニ釣りをしていると、猫を探しているという一家に出くわす。母親が一生懸命探す中、父親からは実は猫が小さな子供のベッドでいつもおねしょをするから捨てたのだと聞かされる。一家はハリケーンの被災以来ずっとトレーラーで暮らしていた。ヘイグリラリーは一家の少年にポケットナイフを渡す優しさを見せる。一家とも別れて2人が帰ろうとすると、車の近くで一家が探していた猫を見つけてしまうのだった。
 あらすじは以上だが、主に描かれるのはハリケーンによって苦しくなった人々の生活と、保守的なヘイグリラリーの造形だ。息子が外国から受け入れた養子への冷たい態度や、「苦しんでいる奴らはそれを盾に他人を苦しめてもいいと考えてやがる」といった考えは読者にとって非常に不愉快なキャラクターとして映るが、そんな人物が最後にふと見せる優しさと妻に諭されるシーンが、ハリケーン直撃のニュー・オリンズと組み合わされることで不思議な余韻となる。

 スワロー本人が2005年のハリケーン襲来後に実際に見聞きしたことがストーリーの基になっているという。


マドゥリ・ヴィジャイ「親愛なる友よ」(You Are My Dear Friend by Madhuri Vijay

 マドゥリ・ヴィジャイはインドのベンガルール出身。ローレンス大学で心理学と英語を学び、卒業後はインドを離れて暮らす人々を研究していたようだ。カシミールを舞台にしたデビュー長編 The Far Fieldで、インドで最も権威のある文学賞(らしい)JCB賞を受賞している(英語で書かれたか、あるいはインド語に翻訳された作品が対象)。

 この短編集の中では長めの、20頁の作品だ。イギリスからインドに移り住んでいるベイカー宅で、“au pair”をしている女性ギータ(Geeta)が主人公(“au pair”とは外国人の家で子供の世話や家事など住み込みで働きながら、語学を勉強する人。「家庭教師」とも違うし訳すのが難しい単語)。29歳のギータはベイカー宅のパーティーをきっかけに、宝くじを当てて裕福な暮らしをする53歳のインド人のスリカンス(Srikanth)と結婚することに。子供ができないことで、ギータは里親になることを決め、そしてふたりの前に現れたのが8歳のラニ(Rani)。ラニはギータの言うことを全く聞かず、あろうことか本当の両親のために家から高価なものを盗もうとすらしてしまう。そしてそのことに対してスリカンスは、自分は前の妻との間に子供が一人いる、子供が欲しいと言ったのはお前なのだからお前がなんとかしろ、と冷たく言い放つ……。
 テンポよくストーリーが展開されていき、細部を膨らませれば中編あるいは長編になってもおかしくない。家の仕事をひたすら押し付けられるギータの苦悩、スリカンスの男尊女卑的言動からこの作品の主題がフェミニズムであることは明白。さらにベイカー宅での快適な暮らしの影と、スリカンスからギータやラニへの言動には、インドのカースト制ないしは階級制の問題が描かれている。後半には物語的なカタルシスだけでなく、上記の問題を批判する強烈な文章も出てくるので、読み応え抜群だ。


ブライアン・ワシントン「おしゃべり」(Palaver by Bryan Washington)

 ブライアン・ワシントンはケンタッキー州生まれ。ヒューストン大学を卒業後、ニューオーリンズ大学で創作科での修士号を取得。2019年に短編集 Lot、2020年に長編 Memorialを発表。Lotでは若手作家を対象とするディラン・トマス賞を受賞している。ワシントンはゲイであり、LGBTQの作家を対象とするランブダ文学賞のゲイ・フィクション部門の受賞歴もある。

 東京の新大久保に住むゲイの息子の元を、遠路遥々アメリカから訪れた母。そこで息子は、順番にお互いの話をしよう、という提案をする(少しジュンパ・ラヒリ「停電の夜に」を思い出す設定だ)。
 「昔々、私は既婚者の男性と恋に落ちました」と語りだす息子。驚く母に対して、次は母の番だよと息子は言うので、母は今は離婚した夫との出会いを語りだす。親子が(ときに母一人だけで)東京の様々な街を訪れる(もちろん歌舞伎町2丁目も訪れる)のと並行して、2人の話も徐々に核心に近づいていく。
 興味深いのは、アメリカ人向けに書かれた東京の描写だ。日本文学なら当たり前すぎて書かれない電車内のサラリーマン、コンビニの店員、夜の街などの描き方は、外部から見た東京という街のエッセンスが抽出されていると言うこともできて、一周回って新鮮。
 もちろん親子の会話劇もとても上手く書けている。セリフが鉤括弧なしで書かれているので二人の会話と東京の描写がシームレスに繋がる。これによって、断片的に語られていく2人の話が東京の乱雑さと印象的に重なるのだ。最後は代々木公園でピクニックをして爽やかに終わる。これも日本文学ではなかなか見られないラストだろう。ベタと言えるが、ベタにはベタの良さもあるのだ。

 どうしてもワシントン自身の日本滞在の話が気になるが、作者のコメントには特に書かれていなかった。
 

ケヴィン・ウィルソン「生物の授業」(Biology by Kevin Wilson)

 ケヴィン・ウィルソンはフロリダ大学で創作科での修士号を取得し、現在はテネシー州のサウス大学、通称「スワニー」で創作を教えている。これまで2冊の短編集、3冊の長編を発表している。

 語り手のパトリックは、facebookの投稿で中学生の頃(eighth grade)に生物を担当していた男性教師レイノルズが亡くなったことを知り、レイノルズとの思い出を語る。いわゆる陰キャのパトリックはクラスに居場所がなかったが、そんなパトリックにもレイノルズは優しくしてくれた……という比較的ストレートな構成。しかし、この短編が優れているのはパトリックが“自分で考案した”カードゲーム「デス・カード(Death Cards)」を常に持ち歩いている、という設定だ。
 「デス・カード」は、幼年期、青年期、大人期、老人期にそれぞれ分けられたカードの山があり、それぞれ「高校を卒業した」「宇宙飛行士試験に合格」「初めてのセックスをする」などのライフイベントが描かれている。幼年期から数枚を引き、次は青年期と進んでいくが、カードの山の中には恐ろしい死に方が描かれたデスカードが含まれており、途中でデスカードを引くとそこでゲームが終了となる。最後までデスカードを引かずにゲームを終えれば「眠るように亡くなった」となる。こうして色々な人生を体験する、というゲーム。パトリックはずっと1人で「デス・ゲーム」をプレイしていて、仲良くなり始めたレイノルズにそのことを話すと、レイノルズは馬鹿にせず一緒にプレイしてくれるのだった。
 冒頭からなのだが、パトリックがゲイであること、あるいは非異性愛を暗示させる箇所がいくつか散りばめられており、レイノルズのベトナム従軍経験もその一つだ。前述のように構成はストレートで非常に読みやすいが、同性愛、いじめ、トラウマなど重要なテーマを非常に上手く折り込んでいる。最後、とある理由で怪我をしたレイノルズを訪ねるパトリック。現実があまりにも辛いと告白するパトリックに対しレイノルズは、パトリックの「デス・カード」からデスカードを一枚ずつ取り取り除き、死の恐れがない状態でプレイすることで、人生とは何かを教える。面白い設定を100%活かしたラストと言えるだろう。


C・パム・ジャン「小さな獣」(Little Beast by C Pam Zhang) Good!

 C・パム・ジャンは、2022年夏に『その丘が黄金ならば』(藤井光訳、早川書房)が発売されたことで名前を聞いたことがある人がいるかもしれない。ジェスミン・ウォードとコーマック・マッカーシーを合わせたようだと評される作品で、ブッカー賞をはじめとした多くの文学賞の候補に残り、将来が期待される若手アジア系作家のひとりだ。

 「自分の身体がこぼれていくのを感じたのは13歳のときだった。(…)私の姿勢は液状で、33個の脊椎があるが背骨は存在しなかった」と、身体への違和感から始まる。語り手は、アルタと呼ばれる女子校に通う女の子。アルタは超エリート校で、政治家や芸能人の子どもなどが在籍しているが、語り手は奨学金で入学しており、父はアルタの用務員だ。父は語り手のことを、かつては「おチビちゃん(Inch)」と、今は「お嬢ちゃん(Girlie)」と呼び、何かと過干渉してくるので語り手は父のことを嫌っている。
 学校の環境に馴染めない語り手は、「サイレント・ガールズ(Silent Girls)」と呼ばれるグループに興味を抱く。部活にも入らず授業中に勝手に抜け出する彼女たちは、まさにアルタにいながら別の世界の住民だ(日本でいうところの、不良と中二病を足したような感じ?)。偶然包丁で手を切ってしまった語り手は、教師から保護観察グループに入れられると同時に「サイレント・ガールズ」の仲間に入ることになる。やがて、仲間へのアピールのために語り手は取り返しのつかないことをしてしまう……。
 
 冒頭への身体への違和感は、一人称にも関わらず三人称のような俯瞰的視野で最後まで語り続ける文体に繋がる。またパム・ジャンは女の子たちを取り囲む現在の状況、例えばメディアでの理想的女性像、若い女性に向けられる性的まなざしによって、女の子たちが無意識的に歪められてしまうとし、その薄気味悪さを増幅した、と語っている。



 こうして全20作を振り返ると、人種、LGBTQ、抑圧される女性など、社会の周縁に追いやられた人物を扱った作品が多い。全て読んだ者の感想としては、それは選者が女性黒人作家のウォードであるからというよりも、それらの作品が短編としての完成度が非常に高かったから、と言うことができるだろう。
 ではなぜ社会の周縁を扱った作品の方が魅力的だったのか。全くの偶然なのか、それともそれが「文学」の常なのか。その問いに答えを出すには、俯瞰的な文学史の知識と最新の情報をチェックし続ける根気が必要で、私にはちと荷が重いですなあ……。

「アメリカベスト短編集2021」The Best American Short Stories 2021(前編)

 前回1000頁のメガノベルを読んだことだし、初めての試みとして短編のアンソロジーを読んでみた。今回紹介するのは、2020年のアメリカ人作家の短編からセレクトした「アメリカベスト短編集2021」(タイトルの2021は出版された年で、『2022』は11月出版予定)。編者は全米図書賞を2回受賞しているジェスミン・ウォード。冒頭にウォードのエッセイが載っていて、これまた名文なのだが、今回は割愛。
 収められている短編は全20作。ひとつずつ簡単なあらすじと感想を書いていく。結構な長さになりそうなので(ついでに読む時間もかかる)、2回に分けて紹介しようと思う。
 今回は10編までを紹介するが、特に良いと思ったものには Good!をつけておく。本書に収録された短編はウェブ上で読むことができるものもあるので、気になった作品は検索してみるといいかもしれない。

 なお、著者のプロフィールは本書巻末に書かれているものに、公式プロフィールでの情報を少し加筆したもの。著者自身による短編へのコメントも本書巻末に書かれているものをまとめたものだ。
 ちなみに、10人中7人の作家が創作科出身で修士号(MFA:Master of Fine Arts)を取得している。



ガブリエル・バンプバッファローイーストウッドへ」(To Buffalo Eastwood by Gabriel Bump)

 ガブリエル・バンプは1992年生まれ。シカゴの出身。マサチューセッツ大学で創作を学びMFAを取得。これまでに短編をNew York Timesなどで発表し、28歳の2020年に第一長編Everywhere You Don’t Belong(Algonquin Books)を発表。好評でテレビドラマ化されるそうだ。

 失恋した語り手の男性はミシガンからバッファローまでドライブに出ていて、訪れる街で書店に立ち寄っていく。そして何軒目かの書店で知り合った大工の男性に飲みに誘われると、そこへさらに2人の女性が加わる。大工は自らをサンチョ・パンサ、2人の女性はそれぞれデイジー・ブキャナン、ジョーダン・ベイカーと名乗る。ご存知の通り、有名作品の登場人物の名だ。それに合わせて語り手は「俺は透明人間だ」と名乗る。そしてこの4人は、薬物の力も借りて夢か現実かわからない夜を過ごす。そんな中、語り手は愛する女性の夢を見る。
 簡素な文体だが「うまく話をするのができないんだ」と序盤に語るように、どこか不確定な要素があり、それが作品に余韻を残している。後半のラリった語りも文体的に前半との齟齬がなくスムーズで、程よいカオス感だ。序盤にレイモンド・カーヴァーの名前がチラッと出てくるが、カーヴァー的な上手さと言えるかもしれない。

 バンプは精神的にかなり弱っていた夏に、長距離ドライブに出掛けた。その道はかつて子供のころ、夏休みに父親と一緒にドライブしていた道。大人になり自分一人だけでドライブし色々な街を訪れたことは、バンプにとって素晴らしい経験になったそうだ。バンプはこれを長編に膨らませたいと語っている。


リタ・チャンエピング「奇跡の少女」(The Miracle Girl by Rita Chang-Eppig)

 リタ・チャンエピングはニューヨーク大学で創作を学びMFAを取得、短編をいくつか発表。2023年に第一長編 Deep as the sky, Red as the Sea(Bloomsbury)が出版予定で(いいタイトルだ)、南シナ海に悪名を轟かせた海賊の女性頭領の話だそうだ。

 中国から台湾へと逃れてきた夫婦のもとに生まれた姉妹の物語で、妹側からの視点が中心だ。彼女たちが住む地域は貧しかったが、宣教師がやってきて学校と教会を建ててからは生活は改善されていた。そんなある日、授業中に姉が掌から突然血を流す。この出来事をきっかけに姉は「奇跡の少女」として祭り上げられいく。姉は容姿でも勉強でも妹より恵まれていて、その上に神に愛されているだなんて!
 姉は「奇跡の少女」の役に完全にノリノリになっていて、家族も姉目当ての巡礼者とも観光客とも言える人々にお土産を売る。姉を巡る村の熱狂を一番近くで見ながらも一人だけ疎外感を感じ、姉との微妙な関係に戸惑う妹の眼差しが上手い。

 「奇跡の少女」は、チャンエピングの母が幼い頃に過ごした台湾でのエピソードがもとになっている。母の話の中でもチャンエピングの印象に残ったのは、宣教師の話だった。神が人を人種でランク付けをするがゆえに私は永遠に愛されることがないだろう、という考えは母が大人になっても未だに強い影響を与えていて、さらには話を聞いたチャンエピングにも及んでいることを感じたのだという。


ヴァネッサ・クティ「私たちの子供たち」(Our Children by Vanessa Cuti)

 ヴァネッサ・クティはニューヨーク州立大学で創作を学びMFAを取得、2023年の春に第一長編 The Tip Line(Crooked Lane Books)が出版予定。

 語り手の女性は子供もいる既婚者だったが、妻子持ちのダンという男性と恋に落ち(つまりW不倫)お互いに離婚し再婚。2人は、お互いの子供たち全員を連れてキャンプ場のロッジを借りることを計画する。そこで2人は、子供たちだけで過ごさせるために1日だけロッジを立ち去ることを思いつく。2人だけの時間を過ごしながら語り手の女性は、お互いの子供たちがロッジの中で生活し、成長し、大人になっていく夢を見る。
 W不倫を経て交際する2人とそれぞれの子供たちの関係の変化を描いた作品とも言えるが、それよりも、ロッジに残った子供たちが自分たちだけの世界を作り上げて成長していくという夢が、幻想文学のようで、非常に印象的。

 クティ自身の「母として足りないところ」からこの短編は始まったという。書き出しをおとぎ話のように感じたのでそのまま書き続けた、読者にも「現実の外側」のように感じて欲しいと語っている。


ジェンゾー・ドゥケ「ぼくたち」(The Rest of Us by Jenzo Duque)Good!

 ジェンゾー・ドゥケはシカゴのコロンビア・コミュニティで移民二世として育つ。ブルックリン大学で創作を学びMFAを取得、現在は短編集と第一長編の執筆中。短編の賞であるプッシュカート賞のノミネート経験もある。

 ヒスパニック系の若者の青春時代を語った短編。語り手は、様々な人種がそれぞれのテリトリーで暮らす街に住み、2人の友人と仲良く遊んでいた。しかし、その仲良し3人組は危険な商売に誘われ、次第に道を外れていく。
 この短編の魅力は語り口だ。ジュノ・ディアス作品のように、スラングだけでなくスペイン語も多いので全てを理解できたわけではないが、幼年時代の思い出、成り上がり、そして没落までが、達観したようなトーンで、それでいてどこか爽やかに語られる。
 「皆がそれぞれの物語の語り手なのだ(we were the tellers of our own stories)」と教えられて育った語り手は最後のパラグラフで、自分たちのことを忘れてもらっても、この土地に移り住んでも何とも思わない、と語る。なぜなら語り手は、思い出や記憶といった個人的な物語の価値を分かっているからで、それを読者に伝えるラストは儚くも美しい。

 本人によれば博士課程の学生だった2017年、クラスの課題で読んだMary Grimmの“We”という短編と、ルームメイトと観た映画『ボーイズ’ン・ザ・フッド』 が構想のもととなったという。


ブランドン・ホブソン「愚者からの脱出」(Escape from the Dysphesiac People by Brandon Hobson)

 ブライアン・ホブソンはオクラホマ州立大学で創作を学び(博士号を取得)、現在はニューメキシコ州立大学とアメリカンインディアン美術研究所で教えている。すでに長編を4作発表しており、2018年のWhere the Dead Sit Talkingは全米図書賞のファイナリストになっている(受賞作はシークリット・ヌーネス『友だち』)。

「親愛なる孫よ(…)私が暗黒の地から脱出し、我が家へと帰った話をしよう」と始まるこの短編は、描写や情報の少なさからダークSF的な雰囲気を感じるが、読み進めていくうちにネイティヴ・アメリカン民族浄化のことだとわかる。
 プロットは比較的シンプルだが、凄惨な内容(子供たちは髪を切らされ名前を変えさせられる)と、スリリングな物語に読者はどんどんページをめくってしまうだろう。

 触れておくべきはタイトルの意味だろうか。“Dysphesiac”は辞書に載っていない単語だが、綴りが「不全失語症」を意味する“Dysphasia(c)”に非常に近い。作中で子供を連れ去った白人たちの喋り方は、吃音があったり、毎回「ピリオド」と口頭で言ったりと確かに違和感は見られるが、この程度で「失語症」という言葉を使うのは適切ではない。
 ではどういうことなのか? “Dysphesiac”で検索すると驚きべきことにデイヴィッド・フォスター・ウォレスの文章がヒットする。The Oxford American Writer's Thesaurusに以下のような文章があるらしい(現物を手に入らないので確認はできないが)。
 ウォレス曰く、脳のダメージによって言語がうまく使えないことを意味する医学用語の“Dysphasia”よりも、意味は近いものの医学用語ではない“Asphasia”を使う作家が出てきている。そして“Dysphesia”は、専門的な定義から拡大して、筋の通った文章を作る能力が著しく欠けていることまでを意味することができるのだという。そしてウォレスは“Dysphesia”の具体例として、ブッシュ元大統領親子を挙げる。

 ここまでくれば“Dysphesiac”のニュアンスを理解できるだろう。ウォレスが生きていたらドナルド・トランプにも“Dysphesiac”を当てはめただろうし、そこから考えれば日本の政権与党も“Dysphesiac”の典型例だ。こうしてタイトルの“Dysphesiac People”の意味するところもわかってくる。私は簡潔に「愚者」という言葉を使ってみたが、あなたならどんな言葉にするだろうか。
 それにしても、2022年にこの短編を読むと、ロシアに強制連行されたウクライナの子供たちに想いを馳せてしまう…。プーチンもまた“Dysphesiac”であろう。
参考ウェブサイト:https://eska2.livejournal.com/1915.html


ジャミル・ジャン・コチャイ「『メタルギアソリッドV ファントムペイン』をプレイして」 (Playing Metal Gear Solid V: The Phantom Pain by Jamil Jan Kochai) Good!

 ジャミル・ジャン・コチャイはアフガニスタンの難民キャンプで生まれ、カリフォルニアに渡る。カリフォルニア州大学で創作を学びMFAを取得。2019年に第一長編 Nights in Logarを発表、PEN/ヘミングウェイ賞のデビュー長編賞の最終候補に残るなど高い評価を得て、2022年7月に短編集 The Haunting of Hajji Totak and Other Storiesを発表。

 アフガニスタンにルーツを持つ少年(「あなた(You)」という二人称で語られる)が、80年代のアフガニスタンを舞台にする『メタルギアソリッド5 ファントムペイン』をプレイし、自分と同じ年頃の父と叔父と会うという、設定だけで面白いことが確定している短編。『メタルギア5』を手に入れるまでの苦労がまず面白く、プレイ後も、ゲームの中で家族の故郷を訪れ幼い父と叔父を助けようとする現実と仮想空間との融解が非常に上手く書けている。

 この短編に関しては、矢倉喬士が「Real Sound」に非常に丁寧な論考を書いているので、そちらを読んでもらう方が良いだろう。

メタルギア畑でつかまえてーーファントムを描く短編小説「『Metal Gear Solid V: The Phantom Pain』をプレイして」 https://realsound.jp/tech/2020/09/post-616406.html


ニコール・クラウス「スイス」(Switzerland by Nicole Krauss)

 ニコール・クラウスは1974年生まれ。詩人としてキャリアをスタートさせ、2001年から小説も書き始める。4作の長編と短編集を1作出しており賞の受賞歴も多数、この8月下旬に『フォレスト・ダーク』(Forest Dark, 2017)が白水社エクス・リブリスから邦訳された(広瀬恭子訳)ことからも、すでに本国では高い評価を確立させている作家のようだ。ちなみにクラウスは創作科出身でなく、美術史で修士号を取得している。

 語り手のユダヤ人の女性は13歳の頃、親の都合でアメリカからスイスに渡ってきて、ジュネーヴの英語の先生の家に寄宿することになる。そこには他に2人の18歳の寄宿生がいて、そのうちの1人が物語の中心となるソラヤだ。ソラヤはイラン革命によって国を追われた後、家族はパリに移り住み彼女だけジュネーヴの学校に通っていた。ソラヤはクールでモテた女性だったので、色々な男性と付き合った話を語り手に聞かせたりもしていた。だがある日、ソラヤが連絡もなしに家に帰らないので、警察に通報する騒ぎになってしまう。
 語り手の女性の思春期の目覚めが、その道の先輩であるソラヤのエピソードを通して語られる。中盤に出てくる男性が語り手を脅す言葉が何度かリフレインされたり、「男性の気を惹く力は、あるときには危険な脆さを伴う」という語り手が悟ることから、性のアンバランスさと性暴力を描いたと言える。もちろん語り手とソラヤのバックグラウンドに注目することも忘れてはならない。

 クラウスは実際に13歳の頃ジュネーヴに住んでおり、そのころを思い出して書いたがソラヤのモデルはいないそうだ。若い女性が己を試すことと、そしてその若い女性が社会からのジェンダー観といった「現実」とぶつかることに興味があったと述べている。


デイヴィッド・ミーンズ「犬のクレメンタイン、カルメリタ」(Clementine, Carmelita, Dog by David Means

 デイヴィッド・ミーンズは1961年生まれ。コロンビア大学で学び、詩でMFAを取得している。すでに5冊の短編集を発表しているように短編を得意とする作家だが、唯一発表した長編Hystopia(2016)はその年のブッカー賞にノミネートされている。

 主人公はダックスフントのクレメンタイン。犬の視点を中心とした三人称で書かれた、かなり珍しいスタイルの短編。クレメンタインは仲の良い夫婦に飼われていたが、妻を失くし意気消沈している飼い主が目を離してはぐれた一瞬に、迷い犬だと思われた別の人物に連れて行かれてしまう。そこでカルメリタと名付けられ新しい生活を始めるが、あるときに元の飼い主の臭いを見つけて、元の家へと帰る。
 もちろんこの短編の特徴はプロットよりも文体。犬の認知過程や感情を言葉で表現しようとする、一種の実験小説だ。犬好きなら絶対に読んでおきたい作品だワン。

 もちろんデイヴィッド・ミーンズも犬を飼っていた。ミニチュア・ダックスフントバートルビー(いい名前!)と14年間一緒に暮らしていたミーンズは、バートルビーが亡くなって数年後ついに犬の物語を書くことにする。犬の心情を嗅覚を中心として表現し、そして究極的には人間の話であるもの、を書こうとしたという。


イクスタ・マヤ・ミューレイ「パラダイス」(Paradice by Yxta Maya Murray)

 イクスタ・マヤ・ミューレイは1970年生まれ。創作科ではなくロー・スクール出身という変わった経歴を持つ(現在もロー・スクールで教えている)。長編、短編、ノンフィクションなどすでに9冊の本を出版している。

 大規模な山火事から避難しようとする家族のお話。ネイティヴ・アメリカンとメキシコの血を引くフェルナンダは、警察官の男性と恋に落ち結婚、子供も生まれる。だが数年後に夫も義理の母も亡くなり、残ったのはフェルナンダと息子のジェシー、そして有色人種であるフェルナンダを認められない義理の父ウェズの3人。そのバラバラの家族を山火事が襲う。
 すぐそこまで迫ってきた炎を前に、ウェズは死を覚悟してでも自らの家に残ろうとするが、フェルナンダはそれを必死に説得し、3人で逃げようとする。人種によって分断された3人が天災を前に融和を見出す、という比較的わかりやすい構図だ。もちろん、山火事は地球温暖化を連想させるので、ウェズがトランプ支持者だったことを匂わす(後悔する)会話もある。なお、タイトルの「パラダイス」とは3人がとりあえずの目的地とする街の名前だ。
 炎から逃げ切ったかどうかはわからず、渋滞に巻き込まれたところで結末を迎える。この締め方もトランプ時代の混沌としたアメリカを象徴していて、とても良い。

 モデルとなっているのは2017年から18年にかけてのカリフォルニアの山火事。約150人が亡くなり45億ドルもの被害となったが、当時のトランプ大統領は被災者への支援を拒否。
 ミューレイ本人は被災していないが、ヘリからの空撮映像を観て「白人至上主義は西洋文化が生み出した最悪の方便」だと感じたという。


エロゴサ・オスンデ「グッド・ボーイ」(Good Boy by Eloghosa Osunde)

 エロゴサ・オスンデはナイジェリア出身。創作はワークショップに通っていただけで、ニューヨーク・フィルム・アカデミーで映像制作を学ぶ。というわけで、オスンデは作家だけでなくビジュアル・アーティストという顔も持ち、他の作家の装丁やファッション・ショーのポスターも制作している。インスタグラムを見てみるととても作家とは思えない投稿ばかり。短編をいくつか発表し、2022年に第一長編 VAGABONDS! を発表。多くの新人賞レースにノミネートされている。

 ナイジェリアはラゴスのとある商人の一人称語りで始まる。家からとある理由で追い出された語り手は、父より成功することを目標に、様々なビジネスを経て徐々に成り上がっていく。広大な家と何台もの外車を手に入れた語り手が、自らのパートナーを「彼(He)」と言ったとき、そこで読者は初めて、語り手が追い出された理由が同性愛者だったからだと分かる。語り手の周りには様々な性的マイノリティーが暮らすようになる。
 家から追い出されて以降初めての連絡が語り手の元に来る。父が病気で入院しているのだという。語り手は入院費を全て払い父の元へといく。父は語り手に、成功しているそうでよかった、あと一つだけお願いがあるんだ、結婚する予定の女性に合わせてくれないか? と語り手に言う。わかったと頷いた語り手は、パートナーの男性を連れていくが……そのシーンは泣いてしまう人も多いだろう。素晴らしいラスト。同性愛者と父との衝突、父(あるいは家父長制)への反骨心、そして父との和解を描いた短編だ。

 もちろんこの短編の一番の主題は「家族」であるが、オスンデは「クィアが禁じられる国でクィアが遭遇する暴力を描いた作品はすでにたくさんある」と述べ、「クィアは自分に対して起こること(暴力)を選ぶことはできないが、自分が何に耐えるかなら選ぶことができる」として、この物語を書いたという。他のクィア文学よりも語り手がたくましく、読んだ印象が異なるのは、この重心の置き方に由来するのだろう。


 以上が前半10作。現在、20作のうち16作まで読んでいるので、後半もなるべく早くアップしたい。ジョージ・ソーンダーズの名前もあるよ。

「現代のジョイス」が書いた1000頁を越える伝説のメガノベル(Infinite Jest by David Foster Wallace)

 編集者である知人Mがこんな話を聞かせてくれたことがある。Mがとある寿司屋に入り、たまたま隣に座ったアメリカ人と話してみると、なんとそのアメリカ人は学生時代にポストモダン文学を専攻、しかもトマス・ピンチョンを研究していた人物だった。Mは自分がリチャード・パワーズのファンであること、パワーズ作品の魅力を熱く語ったのだが、そのアメリカ人は「ごめん、パワーズって誰?」と答え、最近の好きな作家としてジョナサン・フランゼン、そしてデイヴィッド・フォスター・ウォレスの名を挙げたという。

 邦訳が少なく日本の読者にとって未知の存在、しかし本国では現代を代表する大物作家、デイヴィッド・フォスター・ウォレス(David Foster Wallace, 以下DFWと略す)。そのDFWの代表作であり、アメリカにセンセーションを巻き起こし未だに読み継がれる小説こそ、1996年に発表された1079頁のメガノベル、Infinite Jest(インフィニット・ジェスト)だ。
 「『インフィニット・ジェスト』を頑張って読みつつその凄さと面白さを紹介したい…」と思い、当ブログ内で「Infinite Jestまとめ0〜4」を掲載(200頁まで精読)していたのが2019年12月から2020年7月。そして今年2月から再開し(精読はせずにとにかく読み進め)、この6月についに読了! 長年の宿題からやっと解放された気分である。

 さて、「Infinite Jestまとめ0」でも書いているが『インフィニット・ジェスト』については桑垣孝平「戸山翻訳農場」というサイトで既に紹介されている。「先に書いておくがネタバレする」と書いてあったので、キッチリ全て読み終わったあとに記事を読んだのが……DFWの対談やファンサイトの情報も網羅し、タイトルの深い解釈までまとめた内容の前では、もはや私が書くことは何もないようだ。
 いや、まだ書くことはある。なぜなら『インフィニット・ジェスト』は他のメガノベルと同じように読者の数だけ読み方がある類の小説であるからだ。そしてまだ読んでいない人のために、(致命的な)ネタバレを避けながら本書について紹介してみようと思う。そして、本書には本質的な意味において「ネタバレは存在しない」ことを説明してみたい。


デイヴィッド・フォスター・ウォレスの基本情報

 まずはDFWについて。これについても当ブログ「Infinite Jestまとめ0」でも説明しているが、一応改めて簡略に説明しておこう。
 デイヴィッド・フォスター・ウォレスは1962年生まれ。大学で哲学と文学を学び、24歳でThe Broom of the System(『ヴィトゲンシュタインの箒』講談社 宮崎尊 訳)で作家デビュー。大学の創作科で教えながら34歳の1996年に『インフィニット・ジェスト』を発表。エッセイ・短編・ノンフィクションを発表しつつ、3作目の長編The Pale King執筆中の2008年に自殺。長年双極性障害に悩まされていたという。享年46歳。
 DFWの作品はいくつか日本語に訳されているが、そのほとんどが絶版、あるいは文芸誌やアンソロジーに収録されたもので、図書館に行かなければ手に取りにくいのが現状だ。2022年6月現在、容易に入手可能なのはテニスのエッセイを集めた『フェデラーの一瞬』(河出書房 阿部重夫 訳)と、大学でのスピーチを収録した『This is Water(これは水です)』(田畑書店 阿部重夫 訳)の2冊であろう。

 DFWの作品を実際に読んでみるとすぐにわかるのだが、ピンチョンやパワーズ同様、DFWの文章は非常に難解だ。これについては『すばる』2018年9月号に収録されたDFWのエッセイConsider the Lobster(『ロブスターの身』)の解説で、訳者である吉田恭子が非常に的確にまとめているので、そのまま引用したい。

 ことばだけを通して事象を読者に伝えようとするくどいほどのこだわり、脚注を単なる補足としてだけでなく、直線的ナラティヴを解体し脱線によってトーンやペースを自在に制御しつつ作品に劇的な効果をもたらす仕掛けとして用いる先述、衒学的な学術用語とやたらと頭の回転が速い若者が気ままに喋っているかのようなのびのびとしたことば遣いを絶妙に掛け合わせた文体、時として戯画的なほどのコミックセンスに皮肉とユーモア(『すばる』2018年9月号、299頁)

 『インフィニット・ジェスト』もまさにこの形容が当てはまる。「Infinite Jestまとめ」を掲載していた頃、私も数行に渡る長文と格闘し、英英辞書を調べ、それでも見つからなければファンサイトで調べ、脚注にだけ書かれた重要な情報に驚嘆し、様々なトーンで書かれたいくつものエピソードに笑い、心を揺さぶられ……ミチコ・カクタニがDFWを称したあの言葉を理解したのだ。

 「この達人的才能を持った作家に書けないものはないようだ」

自宅用と職場で暇なときに読む用
(解説である「まえがき」以外、中身は一緒)


インフィニット・ジェストのあらすじ(ネタバレなし)

 『インフィニット・ジェスト』の時代設定は執筆当時の90年代から見た近未来の、高度資本主義がさらに発達した00年代後半と推測される。なぜ推測なのかというと、西暦の代わりに使用する年号が毎年オークションされていて、“YEAR OF THE ◯◯◯◯ ” と表記されているからだ。
 アメリカはメキシコ、カナダと“Organization of North American Nations(O.N.A.N)”という「超国家(supernation)」を成立させ、人々は電話、テレビ、コンピュータ、そして「カートリッジ(Cartidge)」と呼ばれる映像娯楽のプレーヤー、それら全ての機能を兼ね備えた「テレピューター(Teleputer or TP)」で各々好きなコンテンツを消費し続けている。
 そしてマサチューセッツ州にある架空の街、アンフィールド(Enfield)にあるテニスアカデミー「アンフィールド・テニス・アカデミー(E.T.A.)」と、その麓にあるアルコール・ドラッグ中毒者の更生施設「エネットハウス(Ennet House)」が主な舞台となる。
 
 主要登場人物は以下の4人、見方によっては3人か。正確な言い方をすれば、以下の人物を中心にするとストーリーの筋が追い易くなる。

 まず、E.T.A.に所属する優秀なジュニアテニス選手であり辞書を丸暗記するほどの天才でもある、ハル・インカンデンザ。実はハルは隠れて大麻を吸うことが習慣になっており、ハル同様多くのE.T.A.の所属選手が何らかのドラッグ中毒になっている。
 ハルの父ジェームズはE.T.A.の創設者だが既に亡くなっており、文法学者だった母アヴリルが弟のタヴィスと共に現在のE.T.A.の運営を担っている。ハルは三兄弟の三男で、長男オリンは元ジュニアテニス選手だったが現在はプロのアメリカン・フットボールの選手、次男マリオは障害を抱えながらE.T.A.の寮でハルと同じ部屋に住んでいる。
 E.T.A.を舞台にした語りはこのインカンデンザ一家を中心に、E.T.A.に所属する様々なジュニアテニス選手が入れ替わり立ち替わりして進んでいく。

 更生施設エネットハウスの中心となるのは、侵入の達人だが心優しい人物でもあるドン・ゲイトリー。ドラッグ中毒のドン・ゲイトリーは様々な家に不法侵入を繰り返していたが、とある出来事をきっかけにエネットハウスに入ることにする。
 ドン以外にも、小説の前半部で様々なドラッグ中毒者のエピソードが唐突に始まるが、それらは皆エネットハウスに集うことになる。

 マサチューセッツから遠く離れたアメリカ南西部、アリゾナの砂漠の夕焼けを見つめるのがレミー・マラート。車椅子暗殺者と紹介されるマラートは、同じような謎のエージェントとアメリカとカナダを巡る陰謀の話をする。この2人は一向に砂漠から動こうとせず、夕焼けはやがて朝焼けへと変わっていくのだが、前半部における彼らの役割はさながら狂言回しに近く、前述したO.N.A.N.など『インフィニット・ジェスト』全体の設定や、観ると画面から目が離せなくなりやがて死んでしまう謎のカートリッジ、通称「ジ・エンターテインメント(The Entertainment)」の情報を読者に提供する。

 そして最後の1人が、学生ラジオの人気DJとして紹介されるマダム・サイコシス、またの名をジョエル・ヴァン・ダイン。彼女もやはりドラッグ中毒でエネットハウスに入ることになるのだが、実はインカンデンザ一家とも繋がりのある人物で、エネットハウスのストーリーとE.T.A.のストーリーとを繋ぐ役割を持つ。
 
 
 ご覧の通り、登場人物のほとんどがアルコール、ドラッグ、セックス……何らかの依存症に陥っている。謎のカートリッジ「ジ・エンターテインメント」にまつわる陰謀が密かに展開する中、様々な中毒者の笑いあり涙ありの無数のエピソードが超絶技巧の1000頁ノンストップで展開されるのが、『インフィニット・ジェスト』だ。


 DFWのインタビュー集David Foster Wallace The last Interview(Melville House, 2012年)の冒頭には、『インフィニット・ジェスト』発表の1ヶ月後(96年3月)に行われたインタビューが載っており、そこでDFWは、アメリカ人の悲しみを、物質的・経済的なものではなく腹の奥底からの悲しみ(stomach-level sadness)を書きたかった、と発言している(6頁)。
 E.T.A.の生徒たちは、厳しい練習の毎日に耐えながら卒業後に”The Show”と呼ばれるプロテニスの世界に入っていくことを期待されている。しかし実際にプロテニス選手になれるのはほんの一握り。隣で一緒に汗を流している仲間を蹴落としていかなければならない。さらに海外を転戦する一流選手になるには、今以上の苦しみが待っている。一流選手になれたところで敗北と嫉妬の恐怖から逃れられない。さながら檻の中に閉じ込められたようなもの。その孤独に安らぎを与えてくれるのは、ドラッグだけ。
 E.T.A.は常に競争にさらされる新自由主義を象徴していると言えるが、現代はあらゆる人々が孤独を感じ、ドラッグやアルコールだけでなく、さまざまなモノ・コトに依存しながら生きている。終わりのない無限の欲求。そのエンドレス・パーティーは空虚でどこかジョークのようでもある。まさにInfinite Jest(無限の戯れ、道化)だ。

 では、謎のカートリッジ「ジ・エンターテインメント」について説明しながら、本書についてもう少し深く入り込んでみよう。


無限の読書体験

 それにしても『インフィニット・ジェスト』は読みづらい。前述のとおり、語彙が難解なのはもちろんなのだが、そもそもの英文の難易度がえげつない。阿部重夫や桑垣孝平が書いているように文法的には正しいに違いないのだろうけど、翻訳家・研究者のような専門家レベルの英語力がなければスラスラ読むことはできないだろう。私は何度なんとなくで読み飛ばしただろうか……。
 そして1079頁という数字でわかるように、とにかく長い。まさに「ことばだけを通して事象を読者に伝えようとするくどいほどのこだわり」であり、DFWこそ文章を書かずにはいられない中毒症状になっているのではないかと感じてしまう。あまりに長すぎるゆえ全体像も掴みづらい。重要な人物であるマダム・サイコシスについて初めて言及されるのが170頁、実際に登場するのはもう少し後なわけだが、一般的な長編小説の長さならそこに到達するまでに完結している。

 しかし「ポストモダン文学あるある」とでも言うのだろうか、物語の構造について自己言及するような箇所がある

 作中とある映像作家が紹介され、その作風として”nondramatic ('anti-confluential') ”という言葉が使われる。confluent(合流する)からの造語で「反合流的な」とでも言えるか。その実験的すぎる作風について「致命的な弱点はプロット」(375)など度々言及がある中、この映像作家が最後に作ったものこそ、観ると死んでしまう謎のカートリッジ「ジ・エンターテインメント」であり、その正式なタイトルはなんと「インフィニット・ジェスト」。この自己言及から分かることは、この小説がひとつひとつのエピソードは面白くても全体像が掴みづらい(構造が特殊)のは初めから「反合流的」な物語を意図しているからで、おそらくはピンチョン『重力の虹』やボラーニョ『2666』のように明確なエンディングも用意されていないのだろう、という推測もできる。
 だが、残り100頁というあたりから物語はそれまでとは全く予想できない方向に進んでいき、”abandonment of anticonfluetinalism”(944頁)という言葉も出てきて……さすがにそれ以上は書けないが、『重力の虹』『2666』がそうであるように『インフィニット・ジェスト』も読了後すぐに読み直したくなる衝動に駆られ、一回目では気が付かないいくつもの仕掛けに驚愕し、そして何度も読み直してしまう……まさに作中の謎の映像作品「インフィニット・ジェスト」のごとく、一度読んでしまうとそこから目を離すことができなくなってしまう、そんな本なのだ。

 桑垣孝平も書いているように、この作品の魅力は無数のエピソードの集積である。虚弱体質でラケットを持つことすらできないマリオ・インカンデンザとスパルタ教師との不思議な友情、負けたらいつでも死ねるように片手で銃を頭に押しつけながらテニスの大会に出場し快進撃を続けたエリック・クリッパートン、元芸能人でアメリカ大統領になってしまったジェントル大統領……魅力的なキャラクターたちと、あちこちに張り巡らされたいくつものキーワード(例えば1頁目で動詞として使われる「蜘蛛(spider)」)、エシャトン(Eschaton)と呼ばれる奇妙なゲームの意味、そして”Infinite Jest” という言葉の引用元である『ハムレット』との比較、注意しなければ重要な情報を見逃してしまう膨大な脚注……それらバラバラの要素が奇跡的なまでに小説として成立しているのは、どの頁を開いても作者であるDFWの閃きが感じられるからだ。彼は言語表現と小説の可能性に挑み、その拡張に成功したのだ。この意味で、DFWに最も近い先行作家は、ピンチョンよりもジョイスではないかと思う。
 まさに『インフィニット・ジェスト』は無限の読み方と魅力を秘めた小説であり、だからこそ要約は不可能で、同時にネタバレという概念も存在しないのだ。



*余談その1

 私が200頁までの概要をチャプターごとにまとめた「Infinite Jestまとめその1〜4」だが、今読み返してみると”The Great Concavity”や「ジ・エンターテインメント」に関する情報など、作品全体に関わる重要な設定が200頁までにほとんど出揃っているので、原文で読もうとしている場合に理解の補助となるのは確かだと思う。


*余談その2

 E.T.A.で行われるエシャトン(Eschaton)という奇妙なゲーム、私は読んでるとき全くイメージできなかったのだが、The Decemberistsというバンドの"Calamity Song”という曲のMVがそのエシャトンを忠実に再現している。エシャトンの件に入ったら観てみるのが良い。

黒人差別を衝撃のメタフィクションで描いた『ヘル・オブ・ア・ブック(素晴らしい本)』(Hell of a Book by Jason Matt)

 2021年の全米図書賞受賞作。本書の紹介の前に、ここ数年のアメリカの文学賞受賞作で差別を扱った作品について考えてみよう。つまり、オバマ大統領当選によって「人種差別は終わった(ポスト・レイシャル)」と言われた時代以降に「人種差別(レイシャル)」を扱った作品だ。私はそこに2つの潮流が存在すると考えている。

 まず思い浮かぶのは、コルソン・ホワイトヘッドとジェスミン・ウォードであろう。いずれもすでに日本で紹介され人気も高いので説明は省くが、この2人はいずれも(設定は異なれど)人種差別をストレートに書いている。フォークナーの影響濃いウォードのように、ある種の伝統的な作風ともいえるだろう。ネイティヴ・アメリカンを書き続けたルイズ・アードリックの2021年のピューリッツァー賞受賞作 The Nightwatchman などもその流れに加えられるか(過去記事参照)。
 もうひとつは、人種差別をアイロニーやコメディとして、変化球的に書いた作品たちだ。2015年の全米批評家協会賞・2016年イギリスのブッカー賞受賞作のポール・ビーティ『セルアウト(The Sellout)』、そして2020年の全米図書賞受賞作チャールズ・ユウ『インテリア・チャイナタウン(Interior Chinatown)』(いずれも過去記事参照)。この2作品は2022年2月現在いずれも未翻訳。すべて素晴らしい作品群だがその片方しかまだ日本に紹介されていないことは残念としか言いようがない。

 そして2021年の全米図書賞を『ヘル・オブ・ア・ブック(Hell of a Book)』が受賞したことで、その2つの潮流が確立されたと言える。『ヘル・オブ・ア・ブック』は後者の潮流に属する作品であり、人種差別をコメディのメタフィクションに絡めているからだ。
 とにかく本書は笑える。私は英語・日本語問わず、本を読んでここまで笑ったことはない。とにかくまずは本書35頁の書き出しだ。ちょっと訳してみよう。

 申し訳ない。まだ俺の自己紹介をしていなかった。俺は著者、名前は────。俺の名前を聞いたことがあるかどうかはわからないが、俺の本のことは聞いたことがあるはずだ。かなり売れてるからね。その本のタイトルは『ヘル・オブ・ア・ブック(素晴らしい本)』。そしてレビューによれば、それは素晴らしい本なんだそうだ。
 店舗販売されているし、オンラインでも買うことができる。Kindlekoboにもあるし、iPadにもオーディヴルにもある。映画化できるようオプションもつけられていて──ジョセフ・ゴードン=レヴィットドナルド・グローヴァーの2人が興味があると公言している。さらにはコミック化も検討しているところだ。

 なんと語り手は、小説内で『ヘル・オブ・ア・ブック』という本を書いている著者なのだ。内容を簡単に要約すると、本書『ヘル・オブ・ア・ブック』は、作中内小説でベストセラーの『ヘル・オブ・ア・ブック』のブックツアーのお話だが、作中内小説『ヘル・オブ・ア・ブック』の内容は説明されず、分かることは誰もが作中内小説『ヘル・オブ・ア・ブック』を「ヘル・オブ・ア・ブック(素晴らしい本)」だと認めているということだけ。なんてこった。

 作品内小説『ヘル・オブ・ア・ブック』の著者は名前を最後まで明かされることはないが、本書『ヘル・オブ・ア・ブック』の著者の名前はJason Matt(ジェイソン・モット)。ノース・カロライナ州のボルトン生まれ。ノース・カロライナ大学で芸術や詩を学び、2013年、The Returnedで作家デビュー。この作品は、Resurrectionというタイトルでドラマ化されシーズン2まで放送された。このドラマは『よみがえり〜レザレクション〜』として日本でも観ることができ、同名のタイトルでハーパーコリンズ・ジャパンから新井ひろみ訳で邦訳もされている。『ヘル・オブ・ア・ブック』は4作目の小説となる。


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全321頁。スラングもほとんどなく、かなり読みやすい英語だ。


冒頭の紹介

 では『ヘル・オブ・ア・ブック』の導入部を、かるく訳しつつ説明していこう。本書『ヘル・オブ・ア・ブック』は「煤」と呼ばれる少年と、ベストセラーの作品内小説『ヘル・オブ・ア・ブック』のブックツアーをしている「著者」の2つのプロットが交互に語られていく。なお、頁数では圧倒的にブックツアーのプロットの割合が多い。「煤」の語りは黒人差別をストレートに描いた悲劇になっているが、「著者」の語りはブックツアーを巡る喜劇になっている。
 まず始めは「煤」と呼ばれる少年の語りからだ。

 カロライナの青い空の下、荒れた道の突き当たりにある小さな田舎家、その小さなリビングルームの一角、黒い肌をした5歳の少年は両膝を胸まで引き寄せ、黒い両腕で脚を包んで座り、鼓動を打つ胸の籠の中へ笑い声を押さえつけるのに精一杯だった。(3頁)

 少年はリビングルームで隠れているのだが、少年の両親はすぐ近くにいる息子がどこにいるのかわからない。この両親は息子が「見えないもの(The Unseen)」になれるようずっと願っており、父は魔法をかけるような仕草をしながらこう伝えていた「お前は生きてる間ずっと、透明で安全な存在になるんだ」と。そしてついに息子は両親の願いどおり「見えないもの」になることができた。
 父は「見つからないから、別の子どもを探しに行こうか」と冗談を飛ばし、少年の母は「あの子の好きな料理を作って待っていよう」と提案、調理を始める。美味しそうな料理に胸をときめかせたまま少年は寝てしまう。少年が目を覚ますと、父に見つかり抱き抱えられていた。

 父が少年を離すと、母は少年にキスをして尋ねた。
「どこにいたの?」
「できた!」少年は喜び叫んだ。「ほんとうにできたんだよ!」
「できたって、何が?」父が言った。
「透明になれたんだ!」

 それを聞いて踊りながら喜ぶ3人。その翌朝、本当に見えていなかったのかと聞く少年に対して、父は「見えたか見えなかったはどうでもいいんだ」「本当に大事なのは、お前が安心していたかどうかなんだ」と答える。


 覚えておいて欲しいこと:何よりもこの話はラヴ・ストーリーだということ。このことは絶対に忘れないで欲しい。
 でもいまはそれよりも、まず俺のことを知ってもらおうか。今は午前3時だ。
 午前3時。
 午前3時、俺が今いるのは中西部のどこか──誰もが本来より素敵に見える、平原広がる州のひとつ。俺がいるのはホテル、そのホテルの廊下だ。そして俺は走っている。いや、正確には全力疾走。つまり俺は中西部のホテルの廊下を全力疾走している。俺が裸だってことは伝えたっけ? なぜならいま俺は裸だからだ。
 追記:俺は追いかけられている。
 俺の約15フィート後方には──俺のように全力疾走している、裸ではないが──非常に大きな体格をした男性が、非常に大きな木製のコートハンガーを握っている。バトンを握っているように見えるし、頭の上で振り回すと戦斧のようにも見える。あのサイズの男性にしては驚異的な足の速さだ。(中略)「妻だ! 俺の妻だったんだぞ! 子どもだっているんだぞ!」
(10-11頁)

 語り手である「著者」はどうやら不倫しているところを見つかり慌てて逃げている最中。そこに運よくエレベーターが到着、青い髪をした80代に見える高齢の女性が乗っていたが滑り込んだところで扉が閉まりなんとか難を逃れる。その女性ととりあえず会話を始める語り手。やがて女性はこう尋ねる。

「あの少年の話は聞きました?」
「どの少年ですか?」
「テレビでやっている子ですよ」彼女が頭を振ると、寄せては返す波を長いあいだ見過ぎてしまった人魚のように、青い髪が優しくなびいた。「恐ろしいこと、本当に恐ろしいことです」
「そうですよね、奥様」俺は言った。
 本当のところ、突然彼女が悲しみを現したテレビの少年が何なのか聞いたことがなかったし、どれくらいの悲しみや配慮を伝えるのが適切なのかもわからなかったのだが。
(15頁)

 語り手はエレベーターを降り自分の部屋の前に立つが、荒れ狂う男性の妻の部屋にパンツごとルームキーを忘れていたことに気がつく。語り手は裸のままフロントまで行き、部屋に入れてもらうよう頼む。

「では、身分証などはお持ちでしょうか?」
 俺はフロントから離れて雑誌の棚の近くまで行き、『ウィークリー・エンターテイメント』を一冊取り出した。俺の美しい顔が実物よりも大きく表紙に映っており、ニコラス・ケイジの最新作でいかにもニコラス・ケイジ的映画の見出しが隠れるほどだ。その上にデミヘルベチカ書体で大きく書かれた見出し:アメリカでいま一番熱い作家。その表紙を顔の隣に掲げて言った。「これでどう?」
(17頁)

 そのあとも様々なハプニングが起きて翌朝、「アメリカでいま一番熱い作家」である語り手はホテルで朝食を食べている。そこで語り手はとある少年(The Kid)に話しかけられる。その少年はありえないほど黒い肌をしていた。

「あなたとお話したかったんです」少年は言った。
 俺は最上級の「ファンに会うのはいつも最高だぜ」という笑顔をして言った。「君の本にサインしてほしいのかな?」
 少年はにっこりした。「ううん」そして言った。「ファンじゃないんだ。ただあなたに会いにきただけ」
「かまわないよ」俺は言った。このブックツアーを始めてからというもの、この手のファンにも少しだが会ったことがある。臨機応変ってものを学びつつあるようだ。「うん、君に会えてぼくも嬉しいよ」
(24頁)

 少年の黒さと雰囲気にどこか恐怖を感じながらも簡単な会話を続ける2人。少年は最後に「あなたにぼくのことを見てほしかったの。それだけなんだ」と伝える。

 俺は少年へ最後の笑顔を返した。彼の穏やかで豊かな言葉遣いに敬意を表して。「あなたに私のことを見てほしかった」人にそう伝えるのは実に美しいことだ。つまり、俺たちはみんな誰かに見ていてもらいたいものなんじゃないだろうか?
 俺は席を立つ前に少年の近くまで屈み、心を込めてこう言った。「ぼくには君のことが見えるよ」
 それから自分の部屋へと戻った。
(25頁)



 少年の章へと戻る。10歳になった少年だったが、1章での出来事以降、透明になれることはなかった。そのあまりにも黒い肌から少年は「Soot(煤)」というあだ名で呼ばれ、スクールバスで揶揄われる様子が描かれる。



 再び「著者」の章となり、冒頭に引用した場面になる。「著者」は自己紹介を済ませたあと、かつて作家になる前にコールセンターで働いていた昔話を始める。爆笑のエピソードが次々と語られるが、最後は友人と「あの少年に起こった悲劇」の話になり、「著者」はなんのことかわからないまま適当に話を合わせるのだった。


何層にも重なる「ヘル・オブ・ア・ブック」

 「著者」は、ブックツアーで訪れる街で同じことを何度も聞かれる。それは『ヘル・オブ・ア・ブック』の内容についてと、エレベーターでの老婆と昔話での友人から話を振られた「少年のニュース」について。この小説が「ヘル・オブ・ア・ブック(素晴らしい本)」である理由は、その2つの質問が一向に説明されないことだ。
 「著者」が書いた『ヘル・オブ・ア・ブック』には何が書かれているのか、「少年のニュース」とは何なのか、そして「著者」の前に何度も現れる少年(The Kid)とは何者なのか。そのプロットに「煤」と呼ばれる少年がどう絡んでいくのか……。この強烈な引きによって読者は頁をめくり続けていく。

「それでどう思うんだ?」
「それでって何が?」
「あれについてどう思ってるんだ? あんたは作家だろ。あれについて何か言うべきだと思われてるんだよ。あんた黒人だし!」
「え、俺?」俺は自分の腕を見た。ああ、ほんとだ、レニーの言ってるとおりだ。俺、黒人じゃん!
 今更ながら驚くべき発見だ!
「ええっと、まあ」俺は言った。黒い腕の先にある黒い手と、その先についた装飾のような黒い指を見つめながら。「これは本当に、本当に面白いな。俺の読者はこのこと知ってたのかな?」
(76頁)

 「『著者』の人種を勝手に設定してなかったか?」と読者に問いかけるシーン。「著者」は自分でも『ヘル・オブ・ア・ブック』に何を書いたか把握しておらず、自分の過去さえ不正確なことが判明していくが、そうすることで「著者」は読者の容れ物と化し、「おまえはあの少年のニュースについてどう思うんだ?」の問いは直接的に読者への問いになる。
 こうして、読者は本書を読み進めていくことで作中内小説『ヘル・オブ・ア・ブック』だけでなく本書『ヘル・オブ・ア・ブック』の内容を補完していくような、自分も一緒に『ヘル・オブ・ア・ブック』を書いているような感覚に陥る。なんてこった。

 以降、若干のネタバレを含みつつもう少し本書を説明していこう。邦訳を待ちたい人などは注意。


「少年」の正体が作品全体に及ぼす影響

 ストーリーとして中心になるのは、作中内小説『ヘル・オブ・ア・ブック』の内容と「少年(The Kid)」の正体だ。中盤あたりで何度も突然現れる「少年」を、「著者」は「幻」だと思うようになる。「少年=幻」がこの小説にもたらす効果は2つある。
 人種差別をコメディの枠組みで書いた先行作『セルアウト』『インテリア・チャイナタウン』と異なる点は、『ヘル・オブ・ア・ブック』には伝統的なモチーフがいくつか登場するところだ。「煤」の語りでの「見えないもの(The Unseen)」がラルフ・エリスン『見えない人間(Invisible Man)』を連想させるのもそのひとつだが(「煤」の語りも非常によく書けており、読者は強烈な怒りと悲しみを抱くだろう)、本書で最も重要なのはトニ・モリスン『ビラヴド』からウォード『歌え、葬られぬ者たちよ、歌え』へと連なる子どもの幽霊、つまり「少年=幻」だ。『ヘル・オブ・ア・ブック』に登場する「少年」はある特定の少年のことであるが、それと同時にこれまでの悲劇とこれからも繰り返されるであろう悲劇の象徴にもなっている。「著者」が時と場所に関係なく「あの悲惨なニュースを聞いたか」を耳にする理由も納得するであろう。こうして「少年=幻」の設定は黒人差別小説としての『ヘル・オブ・ア・ブック』をその伝統と結び付ける。
 そして「少年=幻」によるもうひとつの効果。「著者」は、他の人物には「少年」が見えていないことで、いま自分が目にしているのは現実なのか非現実なのか(real or unreal)が揺らいでくる。これこそメタフィクションが最も得意とするテーマであり、この要素が加わることでメタフィクション小説としての『ヘル・オブ・ア・ブック』の強度が高まる

 後半に差し掛かる頃、航空機のファーストクラス内で「著者」はとあるハリウッド俳優から『ヘル・オブ・ア・ブック』にサインを求められる。ここでハリウッド俳優は「著者」に様々な言葉を伝える。

「あなたが何かを見たとき、そいつはあなたの脳内でストーリーを作り上げる。やがてそのストーリーはあまりに説得力に溢れているので、結果的に現実を飲み込んでしまうのだ」(194頁)

 この「見る(see)」という言葉がラストに向けて重要なキーワードになっていく。この小説の始まりを思い出して欲しい。「煤」の両親による「見えないもの(The Unseen)」になるという願い、「著者」の前に現れた「少年」の「あなたにぼくのことを見てほしかったの」という言葉……「見る」というキーワードは、現実か非現実というメタフィクション的な問いに差別とどう向き合うのかという問いを加える。もちろんその問いも匿名の「著者」を通して読者の眼前に現れる。「あなたには何が見えているのか?」と。

 冒頭の会話が重要なキーワードとして伏線になっていたように、一見関係ないような記述が後半になって回収されたりしていて、その辺りも非常に良く練られている。この記事を書くためにパラパラ読み直したら様々な気づきがあり、もしかしたら2回目の方が面白いんじゃないかという気もしてくる。冒頭の「何よりもこの話はラヴ・ストーリーだということ。このことは絶対に忘れないで欲しい」という宣言、ホテルで裸の著者が突然エレベーターに入ってきたのにどうして老婆は平然としていたのか? 190頁で唐突に出てきたハリウッド俳優は序盤ですでに……ここら辺で止めておこう。
 黒人差別の悲劇と爆笑のメタフィクションとを完璧に両立させた『ヘル・オブ・ア・ブック』文句なしにヘル・オブ・ア・ブック(素晴らしい本)です!!