Sing, Unburied, Sing by Jasmyn Ward

「これがぼくの見たものだ。水面を通り過ぎると、陸地がある。緑に覆われ丘が連なり、木々が濃く生い茂り、川が何本も裂くように流れている。川は逆方向に流れ、海で始まり陸で終わる。大気は朝焼けと夕焼けで、永久に黄金桃のような色をたたえる」
「そこには人がいる。ちっぽけではっきりとした姿をしている。彼らは飛び、歩き、浮かび、走る。彼らは独りぼっちで、一緒である。山頂をぶらぶら歩き、川と海を泳ぐ。彼らは手をとり合って公園を、広場を歩き、建物の中へと消えていく。彼らは決して無音ではない。彼らの歌声がつねにそこにある。(中略)それはぼくが今まで聞いた中で最も美しい歌だったが、言葉は理解できなかった」

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 2017年の全米図書賞受賞作。作者のジャスミン・ウォードは1977年生まれの黒人女性作家。2011年に『Salvage the Bones』(未訳)で全米図書賞を受賞、よって今作で二度目の受賞となる。

 ウォードの他の作品は未読なのだが、本作はストーリー、構成、テーマ、文体、ちょっとした工夫、どれもが一流の技で、紛れもなく傑作だ。フォークナーとつい先日亡くなったトニ・モリスンへのオマージュなり影響があるそうだが、そのへんの文学史的なことは他の人に書いてもらうとして(内緒なんですが、モリスンってまだ読んだことないんですよね)、あくまで小説の魅力のみを語ろう。


 主人公は、黒人の女性レオニーと、そのレオニーと白人の夫との間に生まれた13歳のジョジョだ。
 この一家の家族構成はかなり複雑なので、家族(+メインキャラクターの)関係をまとめた図を見てもらうのが一番早い。

※本作では「本名」と「通称」とで名前が二つあるキャラクターが複数おり、なおかつ語りによってどちらを使うかが分かれているのだが、分かりやすさのため通称のほうに限定して書いている。

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 この小説はジョジョとその母レオニーの二つの語りで進行するが、特に重要なキャラクターは名前を囲っている。その中でもジョジョの章で中心になる人物は点線で、レオニーの章で中心になるキャラクターは直線で囲っている。
 ジョジョと妹ケーラは母方の(つまり黒人側の)家で母レオニー、祖父ポップ、祖母マムたちと生活している。レオニーは薬物依存症で育児放棄の兆候があり、マムはガンを患っていたりと深刻な家庭環境だ。
 そしてレオニーの夫マイケルは現在パーチマンという刑務所に服役している。マイケルの父ビッグ・ジョセフはレイシストであり、マイケルを含め一家とは交流がほとんどないのだが、この家族関係が複雑な原因はそれだけではない。
 レオニーの兄であるギヴンは、学生のとき同級生たちと遊びで狩りをしていたところを銃殺される。その犯人がマイケルの従兄弟であり、当時保安官として現場に立ち会い「事故」と主張したのがビッグ・ジョセフなのだ。そんな曰く付きの両家だったが、レオニーとマイケルは恋に落ちて(二人は当時まだ高校生)ジョジョを産む。
 祖父ポップの近くにいるリッチーは、主人公一家と血縁関係にあるわけではないが重要な登場人物なので図に含めておいた。マイケルが現在服役している刑務所にポップも服役していたことがあり、そのときに出会い家族のように面倒をみてあげたのがリッチーだ。

 本作は、祖母マムの死へと向かう家族を過去のエピソードを挟みながら描き、人種差別、家族、ドラッグなど様々なテーマを書いた作品となっている。
 

 まずは13歳の誕生日の朝を迎えたジョジョの章から始まる。ジョジョは、飼育している羊を屠殺する祖父ポップに付いていくために、他の家族を起こさないように家を静かに出て行く。この家を出るシーン、非常に静かな雰囲気の出だしに合わせて、同居する妹、母、祖母、祖父をわずか1ページで紹介してしまうのだが、その滑らかな筆さばきにまず唸らされる。
 ジョジョとケーラ兄妹はポップと仲良しだ。とくにジョジョはポップのお話を聞くのが好き。そして以前に聞いたことがあるがもう一度聞きたいと、ポップがかつて服役していたパーチマン(Parchman)という刑務所の話を聞く。
これ以降ジョジョの章では、ジョジョが妹ケーラの世話をしつつ、ことあるごとにポップが話してくれたパーチマンとそこで出会ったリッチーという少年の話を思い出し、後半へ進むにつれてその核心へと迫っていく様が描かれる。
 
 代わって母レオニーの章、友人ミスティとともにドラッグ(コカイン)を吸うシーンがあるが、そこで出てくるのが死んだ兄(ジョジョからすると伯父)ギヴンの幽霊だ。レオニーはかつて母(ジョジョからすると祖母)マムから、未来予知など特殊な能力が備わった子が生まれる家系だと聞かされていたことがあり、自身にもその能力が少しあるだろうと考えていたので、幽霊ギヴンをそこまで不思議がることはない。
 こうしてレオニーの章では、マムやギヴンとの回想、夫マイケルへの熱烈な愛、それに反比例するように子供を愛せない苦しみ、そしてドラッグへの依存が残酷に描かれる。

 ジョジョの誕生日の夜、レオニーは服役中の夫マイケルから「もうすぐパーチマンを出所することが決まった」という電話をうける。そして当日、二人の子供ジョジョとケーラ、そして自身の友人ミスティの四人でパーチマンへ向かうドライブへと出発する。


 ところで冒頭、羊の屠殺に立ち会ったジョジョだが、まだ幼い彼には刺激が強すぎたのかthrow up、つまり吐いてしまう。この小説、throw upまたはvomit「吐く」という単語がこのあとも頻繁に使われる。
 妹ケーラは乗り物に弱いので、パーチマンへの道中で吐いてしまう。母レオニーは薬物を手に入れるため立ち寄った友人の家で、祖母マムの特技を真似て野草を調合し酔い止め薬を作る。それを飲んだケーラだったが、その調合が間違っていると考えるジョジョに吐かされる。父マイケルと再会した直後の車内でもケーラは吐いてしまう。
 もはやタイトルの「歌う」は「吐く」に変えるべきだったのではと思うほどだが、ここで大きく物語は動きだす。車内がケーラの嘔吐でパニックになっている中、ジョジョは何者かが車の側にいることに気付く。吐いたばかりのケーラは泣きながら「とりだ、とりだ」と言う。そこにいたのは祖父ポップのパーチマンでの話に出てくる少年リッチー、Unburied(埋葬されなき者)、幽霊だ。
「ぼくは家に帰るんだ」


 ここで語り手はリッチーに代わる。彼は記憶を無くしてとある松の木の下を彷徨っていた。そこで白蛇に出会う。「ここにいたのか」「おまえが望むなら、遠くへ連れていってあげるぞ」と言って白蛇は「鳥ではない鳥」へと姿を変える。羽ではなく黒い鱗で覆われた、角をもつ鷲だ。
 その鱗鳥(Scaly Bird)が落とした鱗を拾うと、彼の身体は宙に浮いた。鱗鳥を追って空を飛びながら、リッチーという自分の名と、ポップという自分の守護者の名を思い出し、そしてポップが自分を守ってくれた場所、自分が鞭で打たれた場所、パーチマンを見つける。そこでリッチーは自分と同じぐらい年齢の子供、ジョジョを見つけポップの息子だと確信し、ジョジョについていくことにする。リッチーを認識することができるのは、ジョジョとケーラの二人だけだ。
 もちろんジョジョはポップの孫であり息子ではない。そんなことはお構いなくリッチーはジョジョたちのドライブについてまわる。なぜなら、リッチーは自身が死んだ理由だけがどうしても思い出せなかったので、ジョジョを通してポップからその真相を聞き出したいのだ。ポップはパーチマンでの話を絶対に最後までは語らなかったので、ジョジョもそこまで知らないのだった。

 以降、
・警察に車を停められ所持品検査をされるところを、ケーラが警察官に吐いたことで難を逃れる。
・そのとき警察に見つかるとマズいからと薬物をそのまま飲み込んでいたレオニーが、夫マイケルと友人ミスティの助けを借りて薬物を吐く。
ジョジョにとってのもう一人の祖父ビッグ・ジョセフの家を訊ねて、差別発言を受けたレオニーが比喩として身体の中をすべて吐いてしまった気持ちになる
 など、やっぱりところどころで吐きながら物語は進んで行く。

 飲み込んだ薬物をゲーゲー吐くレオニーを見て、リッチーはジョジョに「あれ、きみのお母さんなの?」と聞くと、ジョジョは「いや」と否定する。
 この親子関係と同じように、ジョジョとその母レオニーの二つの語りは同じ場所・時間にいても交わることがない。まるで二つの川が平行しているかのようで、ジョジョの語りではリッチー、レオニーの語りではギヴンという、それぞれ互いには見えない幽霊とともに流れて行く。

 そして、御一行はポップと危篤状態のマムが待つ家へと帰ってきて、ここから怒涛のラストが始まる。


 先に書いてしまうと、このあとは三つのエピソードが待っている。つまり、
ジョジョ編のラスト=リッチーの過去が明らかに
〇レオニー編のラスト=マムの死
〇全体のラスト=その後
 というわけだ。


〇リッチーの過去
 帰宅すると危篤状態になっていたマム。戸惑う母レオニーとジョジョ。そして翌日、祖父ポップはジョジョにリッチーの最期を明かす。もちろんポップは全てを知ってるわけではない。すぐ隣で聞いている幽霊リッチーが思い出しながらポップの語りを補完していく。

 ある日、ブルーという黒人の囚人がパーチマンから脱獄する。そのとき不幸にもブルーに出くわしてしまったのがリッチーだ。おまえも一緒に逃げようぜと言われたリッチーは、ここで自分が拒否すればブルーに殺されると考えつつ、自分もパーチマンを出て家に帰りたかったので、そのまま一緒に脱獄することになる。
 パーチマンでポップは軍用犬の訓練と世話を任されており、ブルーとリッチーの追跡に同行した。
先に見つかったブルーが筆舌に尽くしがたいやり方で殺されたことを知ったポップは、リッチーにも同じことが起きるだろうと考える。
 そして、木の下で泣いていたリッチーを他の探索隊よりも先に発見したポップは、家に帰りたいんだと助けを求めるリッチーを抱きしめながら、
「リッチー、俺がおまえを家へ連れて行ってやる」
そう言うと、ブーツの中の隠しナイフを取り出し、一瞬でそれをリッチーの首に突き刺した。リッチーが死んだことを確認すると、ポップは軍用犬たちにリッチーの亡骸を食べさせたのだった。
「俺は毎日手を洗ったんだよ、ジョジョ。でもあのひどい血は絶対に落ちないんだ。両手を顔の前にもってくると、皮膚の下から臭ってくるのが分かるんだ」

 これを聞いていたリッチーは次第に黒い鳥へと姿を変え、ついにはひとつのブラックホールとなり、そして消えていった。


〇マムの死
 帰宅したレオニーは死期を悟ったマムに、儀式に使うから必要なものを集めてほしいと頼まれる。
それをうけて兄ギヴンの墓から石をいくつかもってきたレオニーが、「あの子がほしいのはマムだ!」と叫ぶケーラと一緒にマムの部屋に入ると、マムは身体半分がベッドから出て、シーツに包まれ宙吊りになっているような状態でうめき声をあげていた。
 そこにギヴンが現われる。その顔はレオニーが見たことがないほど厳しい表情をしていた。
「おまえの」「母では」「ない」
 そして儀式を始めるレオニー。部屋にはレオニーとケーラの泣き声、マムの祈り、ギヴンの叫び声が洪水のようにあふれていた。そこにジョジョとポップが入ってくる。
「もう欲しい物は手に入っただろ!」「ここにおまえの物語はもうないんだ!」
 ここに至り、ついに全員がお互いを認識する。レオニーはジョジョが叫ぶ方向に少年の姿を感じ、ジョジョもギヴンの姿と声が聞こえる。
「俺の甥の声が聞こえただろ」「リッチー、行け」
 ギヴンはマムのベッドへ近づき「母さん、迎えにきたよ」と声をかける。ギヴンとマムはお互い見つめ合い、愛に包まれて消えていった。

 大団円かと思いきや、そうは終わらないのがこの小説の凄さだ。平行して流れてきたジョジョとレオニーという二人の語り手は、最後まで合流することはない。

 全てが終わった部屋の中で、皆が泣いていた。ただしジョジョを除いて。ジョジョはレオニーのせいでマムとギヴンが行ってしまったではないかとレオニーを責め立て、二人は喧嘩になってしまう。そして息子と分かり合うことができないことに怒りと失望を感じるレオニーは、一人だけ部屋を出て、戻って来たばかりの夫マイケルに「友人の家に行って薬物をやろう」と言う。もう一度ハイになれば、ギヴンが現われるかもしれない、そんなことはないとは分かってはいるけど。
「私はこの世界に耐えられないの」


〇その後

 最後はジョジョの語りになる。あれからしばらくの時間が経った。母レオニーとその夫マイケルは週末の二日間だけ戻ってくる生活だ。
 あるときジョジョが森の中を歩いていると、巨大な楢の木の上に、リッチーがいるのを見つける。
「歌の一部になれると思ってたんだけどね、できなかったんだ。何か必要なものがあるらしい。鍵穴みたいな感じだ」「間違った鍵をもって彷徨ってるやつはたくさんいるんだぜ」
 リッチーがそういって木を指さすと、木の枝いっぱいに幽霊が密集していた。女性、男性、男の子、女の子。中には赤ん坊に近い子もいる。幽霊たちは自分が死んだ理由を知らないが、彼らの目がその理由を語っていた。皆、リッチーのように凄惨な最期を向かえ、その瞬間をジョジョに語りかけていた。
 ジョジョがそこに立ち尽くしていると、妹ケーラを抱えて祖父ポップが現われた。帰ろうと促すポップから降りたケーラが幽霊たちに向かって「いえにかえりなさい」と言う。幽霊たちが動く気配を見せないので、ケーラは歌を歌う。すると幽霊たちは安らぎを感じて微笑んだ。

 ジョジョはケーラを抱えてポップとともにそこを立ち去る。その間、ケーラは幽霊たちのほうをみて「シーッ」と声を出し、やがてまた歌い始めた。
幽霊たちは言った。
「home」


 これら三つのエピソードではウォードのドラマチックな筆が全開で、是非とも全文を読んでもらいたいところだ。仮にこれらが別々の小説のラストだったとしても、そのどれもが「ラストが素晴らしくよく書けている」と称賛されるだろう。それほどのエピソードが最後に三つ連続で待ち構えている感動は、The Beatlesの『Abbey Road』のラスト、Golden Slumbers, Carry That Weightを経てThe Endまでを聴くときのそれに近い。
 リッチーの最期に関するポップの告白はあまりにも凄惨で悲しい。マムの死に際して、リッチーがマムを自分の母親にしようと連れ去ろうとしてギヴンがそれを止めるシーンはクライマックスにふさわしい。そして最後、大木いっぱいに止まっている幽霊たちの声なき声は、自分が死んだ理由を把握できない「Unburied(埋葬されなき者)」の群れであり、それは黒人の悲惨な歴史そのものだ。その声にはひたすら圧倒されるしかない。
 もちろんこの記事だけでは書けていないことがたくさんある。リッチーがその一部になりたかった「歌」とは何なのか。その「歌」は水が流れる音とともにやってくるのだが、それを想起させる文が様々な箇所に散りばめられている。レオニーが思い出す兄ギヴンとの過去は、自身の子どもであるジョジョとケーラ兄妹のそれと比べると非常に切ない。細かいところでは、ポップがパーチマンで軍用犬の世話をすることになった経緯にも黒人差別が関連している。



 ロードノベルの形式を取りつつ、二人の主人公の異なる視点に加えて鍵括弧なしで挿入される過去のエピソードという重層的な語り(ここがフォークナーの影響と言われる所以だ)と、そこに散りばめられた様々なテーマ。そこに幽霊リッチーが出現して以降の幻想的な文体と、ストーリー全体のドライブ感、そしてあまりハッピーエンドは言えないが、抜群のラスト(これもフォークナーっぽいか?)。
 アメリカ文学の伝統を踏襲しつつ、そのクオリティは過去のクラシックに勝るとも劣らない。まさにモダンクラシックだ。

Improvement by Joan Silber

  2017年の全米批評家協会賞と2018年のペン・フォークナー賞の受賞作。単語は易しめで227頁と、かなり読みやすい部類ではないかと思う。
 Joan Silber(ジョーン・シルヴァー? ジョアナ・ジルヴァー?)は1980年にデビュー作を発表、これまでに今作を含めて長編を五作、短編集を三作発表している。何度か全米図書賞や批評家協会賞のロングリスト、ファイナリストにはなっていたようで、今回でついに受賞に至る。これまでの作品は全て未翻訳。英語版のwikipediaもあっさりとしたことしか書いていない。書評などを読むと、彼女が2017年時点で72歳であり、「批評家向けの作家」であり、「アメリカのアリス・マンロー」であるといった情報が見つかる。今作が発表されるまでは、玄人向けでそこまで著名な作家ではなかったのであろう。
 

 人生とは不思議なもので、全く別の時期・場所で知り合ったAさんとBさんが実は昔からの友人だったり、ちょっとしたタイミングの違いで人生を左右する出来事が発生した、なんて経験は誰しもあるのではないだろうか。まさに"Stroke of Luck”「思いがけない幸運」というやつだ。そのワードが何度か出てくる『Improvement』は、人生の不思議を連作短編集のような構成で書いた小説になっている。
 

 
 本作は大きく三つの章立てがされているが、エピソードに応じて8つのナンバリングがされていて、そちらのほうが整理が簡単だと思う。
 主な舞台はニューヨーク。ハリケーン「サンディ」が迫っている2012年の秋だ。語り手はシングルマザーのレイナ。レイナの叔母にあたるキキがどれほどぶっ飛んだ人物か説明するところから小説は始まる。
 おおまかなストーリーとしては、とある事件が起きたことでレイナとその周りに大きな変化が起きる。それが叔母キキの過去など、人生の不思議が時間と場所を越えながら回り回って現代に舞い戻り、レイナのとある決断へと至る、という感じ。
 よって、頁数のわりには登場人物も出来事もかなり多いので、要約は難しい。以下の説明はあらすじのほとんどを書いたように見えるが、これでも「大枠」でしかない。
 

 
1
 キキは20代のとき(70年代)にトルコのイスタンブールを訪れた際に絨毯売りの男性オスマンと恋に落ち、そのまま現地で結婚する。しかし8年後、突然帰国。それからは様々な仕事をしつつ、自由に生きている女性だ。
 そんな叔母キキのことが好きだったレイナは両親とはウマが合わず、高校卒業後故郷のボストンからニューヨークへと出てくる。キキもニューヨークに住んでいたので二人は度々会うようになっていた。一人息子のオリヴァー(現在4歳)が生まれた時もキキはよくサポートをしてくれた。
 そんな二人だが、キキがレイナに関して良く思っていないことがいくつかある。増えていくレイナのタトゥー、そしてレイナの現在の彼氏、ボイドだ。
 
2
 ボイドは物語が始まった時点ではどうやら大麻か何かの不法所持で服役中。そのボイドがシャバに戻りレストランで働きはじめ、新しい生活が上手くいくかに思われた頃、ボイドはいとこのマックスウェル、その友人のクロードらとまた怪しいことを始めようとする。
 それが「タバコの密売」だ。州によって異なるタバコの税金を利用し、税金が安いバージニア州でタバコを大量に仕入れて、税金が高いニューヨークで売り捌きその差額を頂く、というものだ。レイナはボイドにそんなことからはもう足を洗ってほしいと思っているが、彼らは何度も密売を行う。
 そして、あるときレイナはボイドたちからトラックの運転手をしてくれないかと頼まれる。一度は引き受けたものの、出発直前に考え直し、車を降りたレイナ。そのままマックスウェルとクロードだけでトラックは出発、レイナは帰宅した。ボイドはそんなレイナに冷たくあたり、そのまま家を出て行ってしまい、二人の愛も終わってしまった。
 6日後にようやく会えたボイドから、レイナは衝撃的な事実を告げられる。レイナが降りたあと、クロードの運転するトラックが別のトラックと衝突、クロードは死亡、マックスウェルは一命は取り留めたものの重傷を負って現在も入院中だというのだ。すでにクロードの葬儀は済み、クロードの姉リネッタは完全に打ちひしがれていたという。そんな話を聞いて、レイナは不仲ではあったがリネッタが不憫でならない。そしてクロードには仕入れ先のヴァージニア州に恋人がいると言っていたが、その女性はどうしているのだろうか…
 というところまでが前半の大筋だ。ここまではレイナの一人称語りだったが、次章から三人称語りとなり様々なエピソードが次々と語られる。
 
3
 まず、クロードのヴァージニア州の恋人、ダリセのエピソード。ダリセもまたシングルマザーとしてヘルパーの仕事をしている女性だ。一人娘のジェショナ、終末期にある患者アマンダ、クロードの後に現われる男性サイラスとの日々が語られる。
 
4
 次はクロードの起こした交通事故の相手方のテディー。長距離トラックの運転手であるテディーは57歳。事故によってトラックはしばらく乗ることができないが本人は無傷で済んだ。このことをテディーは二人の女性に伝える。一人は妻リア。もう一人は最近関係が再開した元妻サリーだ。
 
5
 そして、約40年前のキキのエピソードになる。キキと夫のオスマンは結婚後しばらくしてからイスタンブールを離れて農業を始めていた。オスマンを愛してはいるが身体的にも精神的にも辛い生活が続くある夏の日、英語が堪能なドイツ人の若者(男2人、女1人)が農場に現われる。3人はトルコで骨董品を集めてヨーロッパに戻ってから売りさばこうとしていたのだった。彼等と久々に楽しい時間を過ごしたキキは、今の生活を抜け出したい気持ちが本格的に芽生えてきて、翌秋、ついにオスマンの元を離れて、ひとりイスタンブールに戻り悪戦苦闘の日々を送る。
(このあたりから非常に面白くなるのだが、詳しく書くとネタバレになるので、詳細は記事のラストに)
 
6
 キキのエピソードが終わると、ドイツ人の3人組がキキとオスマンの農場を出発した後どうなったのかが語られる。そのエピソードは70年代後半のトルコ、ベルリンから現代のニューヨークまで繋がっていく。
 
7
 舞台は2012年のニューヨークに戻る。ここで語られるのはモニカという女性のエピソード。モニカは幼少期をベルリンで過ごし、現在はメトロポリタン美術館でちょっと特殊な仕事をしており…
 
8
 最後は再びレイナの一人称語りになる。時系列的には2のあとだ。ネタバレになるので詳細はラストに。
 
 最後の8では、表紙にも書かれている「絨毯」(rug)が重要な役割を果たす。それはキキがトルコから持ち帰った数少ない品の一つで、今はレイナが持っている絨毯だ。それは同時にこの小説をも象徴している。
 これまで簡単なあらすじを書いていったが、そのいずれもが、人同士の繋がりだけでなく暗示的にも関連しあっている。それを読み進めていくことは、さながら編んでいく作業のようだ。
 例えば、3のダリセ、患者アマンダ、男性サイラス、娘ジェショナは、1と2のレイナ、キキ、ボイド、オリヴァーの関係性と対応する。ボイドたちのタバコの密売は、ドイツ人三人組による骨董品探しだ。一見、全く関係ないように思えるテディの章も、テディが昔の恋と現在を語ることが、キキの昔の恋への絶妙な導入になっている。そして、後半でこれまでのエピソードが絡み合い、絨毯が出来上がるというわけだ。
 
 ひとつ間違えてはいけないのは、今作のエピソード同士の関連は「伏線回収」とは少し異なることだ。
 今作への賛辞に(大抵、英語の小説の冒頭は様々なメディア・評論家・作家による賛辞が書かれてある)
「ジョーン・シルヴァーの『Improvement』には、常に余白がある―ヴァニティ・フェア
 というものがあったが、全く正しい評だ。確かに暗示的に関連しているエピソードはあるのだが、それはただの「暗示」であって、明確な解釈を提示しているわけではない。意外な人物同士が繋がっていることが分かっても、それを知るのは読者だけなので、小説内で急展開があるわけではない。文体としても淡々と語りがすすむだけであり、ラストの章以外にはビビッ!とくるようなフレーズもない。しかし、だからこその余白なのであり、読者はその余白に「微かだが、確かな何か」を感じることができる。
 ただし、ここが好き嫌いの別れる点であることは否定できない。物語にカタルシスを求めるような人にはサッパリで終わる可能性は高いだろう。しかし、張り巡らされた縁を、絶妙な力の抜き加減で書くのは、相当至難の技であるように思う。これこそがこの小説の最大の特徴だ。
 


以降ネタバレ

 
 さて、『Improvement』が大きく動きだすのは、やはりキキの過去が語られる5からだ。農場を訪れた骨董品を探すドイツ人三人組が、キキがオスマンの元から去るきっかけになったのは述べた通り。その三人組とは、ブルーノ、ディーター、そしてブルーノの恋人のシュテフィ。
 
6
 実は、ブルーノは旅の最中に何かとトラブルを巻き起こす恋人のシュテフィを内心ウザいと思っていて、関係は冷めかけていた。そんなあるとき、ディーターがシュテフィと関係を持ってしまう。ブルーノはシュテフィはもう用無しだからここに置いていこうと冷酷な主張をするが、ディーターは、俺がシュテフィを連れて行くということにする、だから三人でドイツへ帰ろうと説得する。そんなわけで再び三人での旅が続き、無事にドイツに到着する。トルコで仕入れた骨董品もそれなりに売れて、密売は成功を収めた。
 ディーターはそのままシュテフィとセックスフレンドなのか恋人なのか曖昧な関係を続けるが、次第にシュテフィのわがままについていけなくなってきた。そんなある日、ブルーノとディーターがたまたま入ったトルコ料理屋で、ディーターは別の女性とまさに運命的な出会いをする(Stroke of Luck!)。ディーターはその直後シュテフィと別れて、その女性と交際をスタートする。
 
 …そして五十代になったディーターは、仕事で初めてアメリカを訪れるためニューヨーク行きの飛行機の中にいた(!)。ディーターはトルコで会ったキキのことを考えていた。キキはまだトルコにいるのかそれともニューヨークにいるのか。もしキキに会えたら、私とトルコ料理屋で出会った女性、今は妻である女性との間に生まれた子供たちの写真を見せてあげたい。
 ディーターにとっての初めてのアメリカはあまりよい体験ではなかったが、メトロポリタン美術館は素晴らしかった。そこでは中東の品々が展示されていて、中には約40年前にディーターたちがトルコで仕入れてドイツで売りさばいたものとそっくりな品もあった。
 
 
7
 前章のラストで舞台が現代のニューヨークに戻ったところで、モニカという女性が出てくる。彼女は、2の交通事故で弟を失ったリネッタが働く眉毛専門美容院の常連客だ。(この時点ではまだ弟クロードは死んでいない)。二人の会話を挟みながら、モニカのエピソードが語られる。
 モニカの職場は、なんと6でディーターが訪れたメトロポリタン美術館であり、その仕事とは展示品の来歴を調べること(!)、つまり誰によって購入されたか、そのルートを調べることなのだ。それが盗難品だったとしても犯罪はすでに時効になっているが、「正義のために」調べているのだとモニカは言う。
 やがて、モニカの母はシュテフィであり、父はどうやらブルーノらしいということが分かる(結局ヨリを戻したんかい!)。モニカはすでに結婚しているが、シュテフィはそんな人とは別れてドイツに帰ってきなさいと言っている。
 そしてある日、ブルーノからシュテフィが心臓発作で倒れたとの電話がきて、モニカは急いでドイツへと向かう。ここでの母との交流は、やはりレイナとキキとの関係を彷彿とさせる(ともに娘のパートナーを認めない)。
 アメリカに帰ってきたモニカは事の顛末をリネッタに話す。帰り際にモニカはチップを渡そうとするが、間違えてユーロを出してしまう。(自分のように)間違えて海外のお金を出しちゃう人が他にもいると思うよ、と言うモニカに対して、リネッタは「私にそんなことをやろうとするバカがいたら同情しちゃうね」と答える(195頁)。
 
8
 そしてレイナの一人称語りに戻る。これまで時系列的には過去の話だったが、ここでようやく2のあとの話になる。つまりリネッタの愛する弟クロードが交通事故で死んだあとの話だ。
 ボイドとは別れてしまったレイナだが、彼らを知る別の友人(ママ友)づてに近況を知ることができた。リネッタはいつか自分の眉毛専門美容院を持つのが夢で、クロードはそんな姉のためにお金を貯めていたらしい。未だにレイナの家に残っているタバコの密売の売り上げ、これをリネッタに全部譲ろうと考える。しかしお互い仲が悪いので、リネッタは受けとらないかもしれない。そうして悩んでいたある日、レイナはリネッタがさらに酷い状況にいることを知る。事故を起こしたトラックはリネッタの名義になっていたので、それによってリネッタは借金を抱えてしまっているのだ。
 リネッタを救う方法、それはキキから譲り受けた絨毯を売ることだ。
 絨毯を売って手に入れた現金を、レイナはリネッタが好きなお菓子会社からの宅配ということにしてリネッタ宅に送る。リネッタからすれば、まさに"Stroke of Luck!”だ。それを元手にリネッタは故郷のフィラデルフィアに戻って自分の店を開くことに。ボイドはニューヨークに残ったが、交通事故から回復したマックスウェルはリネッタの経営を手伝うためにリネッタとともにフィラデルフィアへ向かう。
 絨毯を売ったことは誰にも言ってなかったが、さすがに息子オリヴァー経由でキキにバレる。しかし、キキは「あの絨毯をあげたのは、あなたがあれでやりたいことを何でもできるようによ」と言って、怒ったりはしない。レイナは「お金に困っている友人を救うため」と名前は伏せて目的も伝えたが、キキは、彼女がそれで救われてレイナに感謝しているのなら、それでよい、と器の大きなことをみせる(215)。
 ボイドだが、レイナは最後の一度だけ偶然彼と会う。しかしありきたりの「元気でね」といった"meaningless conversation about love”(223)を交すだけで終わる。ボイドの足に絡みつくオリヴァーをボイドは肩車するが、その姿を眺めるレイナの視線はとても切ない。
 小説の最後は、リネッタに付いていったマックスウェルから届いたメールで終わる。アドレス全員に一斉送信したのだろう、件名は「フィラデルフィアで最高の眉毛美容院、オープン!」だった。お店のサイトへ行くと、オーナーとしてリネッタの顔写真とコメントが載っている。それを見てレイナは満足するし、事故死したクロードも喜んでくれているはずだ。
 
 
 …このように、この小説は最後まで伏線回収をせず「暗示的に関連」するだけで終わる。ディーターは初めて訪れたニューヨークで40年前トルコの農場で会っただけのキキに再開したいと思うが、再開することはない。ディーターがメトロポリタン美術館で旧友たちの娘モニカと会うことはない。モニカは、展示品のひとつが30年前に両親が盗んだ品かもしれない、などとは気づかないし、両親が罰せられることもない。レイナはボイドとヨリを戻さないし、もちろんリネッタは自分を救う“Stroke of Luck”がどこから送られてきたのかは知らない。
 普通の小説ならば、これらの繋がりは伏線として回収されてしまうだろう。あえてそれをしないことは、ある意味でリアリズムの極致とも言えるかもしれない。
 この小説のように、我々も想像を越える様々な人たちと見えないかたちで繋がっており、それによって(良くも悪くも)様々な出来事が起っているのだろう。
 
 我々は決して一人ではないのだ。
 
 

 全く余談になるが、世界という複雑に織られた絨毯、これを「この絨毯を織っている誰かがいる」と解釈することもできるだろう。そして、その視点だけですべてを見るようになると、陰謀論に発展する。
 そのとき、その絨毯はレメディオス・バロの「大地のマント」になり、舞台は2012年のニューヨークから1960年代のカリフォルニアになり、主人公はレイナでもキキでもなく、エディパになり、タイトルは『競売ナンバー49の叫び』になるだろう笑。

Shadowbahn by Steve Erickson

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 未翻訳のアメリカ文学を紹介する書肆侃侃房の連載にて、藤井光がエルヴィス・プレスリーを扱う「2018年」の二つの小説について紹介している。

第12回 “America” feat. Elvis Presley, 2018 Remix(藤井光)|書肆侃侃房|note

 その中で、デニス・ジョンソンの遺作となった短編集には、死産だった双子の兄弟ジェシーが実は生きていたという設定で登場し、エルヴィスと入れ替わる小説が収められているそうではないか。ここまでくれば、なぜ藤井光が「2018年」という括りを使ったのかが明らかになる。2017年にスティーヴ・エリクソンが『Shadowbahn(シャドウバーン)』という、とんでもない小説を出版していたからだ。

 

「もし俺たちが歴史について本当に何でも知っているのなら、俺たちは受け入れなくてはいけない…気まぐれを…」

「え?なんだって?」

「でたらめ、ってことさ。その事実をよく呑み込まなくてはいけない。もし…チャーチルリンカーンがいた場所を同じ時代の上で100キロメートルか100マイルずらすことができたら、あるいは10年かそこらか。そしたら、何もかもが変わってしまう」(169

 

 スティーヴ・エリクソンは時空や空間を越える作風で知られ、それはしばしば「歴史改変小説」という形をとる。現実の歴史とは別の歴史を並立させることで、エリクソンは現実の、とくにアメリカの意義や問題点を浮き彫りにする。そんなエリクソンが『シャドウバーン』で提示したのは「エルヴィス・プレスリーがいなかったアメリカ」だ。

 

 『シャドウバーン』の舞台は2021年。二つに分かれて内戦状態に陥っているアメリカはサウスダコタ州のバッドランドという荒野に、20年前崩落したはずのツインタワーが突然現われる。その93階で目覚めた建物内唯一の人物こそ、死産したはずのジェシープレスリーだ。

 目覚めたジェシーはなんだかんだあってツインタワーの最上階から飛び降りる。するとジェシーは全く違う時代へと移動していた。そんな中、肌の色が違う兄妹パーカーとジーマは母親に会うためにアメリカ横断のドライブをしていた…ii

 物語はジェシープレスリーによるエルヴィスがいなかった架空のアメリカ史と、パーカーとジーマの家族という2つの語りを軸に進むのだが、まず「エルヴィスがいない架空のアメリカ史」が抜群の発想で、ハンパじゃない面白さなのだ。

 

 現代のポピュラーミュージックのルーツをたどっていくと、最重要アーティストとして当然ビートルズが挙がるだろう。そのビートルズが憧れたのがエルヴィス・プレスリー。ではそのエルヴィスがいなかったらどうなるか…

 …なんとビートルズはデビュー前のハンブルク時代で解散しており(!)、ポールはイギリスに戻ってシュトックハウゼンに影響を受けたアヴァンギャルドな音楽家になっている。ジェシーはそんな「シルヴァー・ビートルズ」(もちろんドラマーはピート・ベスト)を記事にする音楽ライターとして生活している。

 そして影響は音楽だけではない。

 アメリカではジョン・F・ケネディは大統領に落選、信じられないほど老けこんでアンディ・ウォーホールのスタジオでたむろしている。ジョン・レノンはそんな中、漫画家になったりレコード屋で働いていたりする。もちろん80年に拳銃で撃たれることもない。

 巽孝之は『パラノイドの帝国』(2018年)にて、この架空のアメリカ史を「クリントン政権以降に体制化してしまった団塊の世代60年代対抗文化(カウンターカルチュア)があらかじめ失われたもうひとつの世界史にほかならない。それは、トランプが掲げた『反エスタブリッシュメント』への痛烈な皮肉である」iiiとしている。つまりエルヴィスがいなければ、反体制としてのロックミュージックも、革新的な政治家ケネディも誕生しなかったということだ。

 

 そして、終盤に登場する「ツイン・プレイリスト」を見てもらおう。

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 さて、知っている曲が何曲あるだろうか? 少しだけ触れるならば、物語中で重要な役割を果たす2曲、“Oh Sheandoah(オー・シェナンドー)”と“O Superman(オー・スーパーマン)”だ。

 「オー・シェナンドー」はミズーリ川を歌ったアメリカの民謡であり、隣の「オー・スーパーマン」は実験的音楽家ローリー・アンダーソンルー・リードの配偶者でもある)が1981年に発表した代表曲だ。ちなみに、古くからのアメリカの民謡はともかく、なぜ“O Superman”が重要な曲なのかは、ツインタワーを思い浮かべながら歌詞を調べてみるとすぐ分かる。

 スタンダードナンバーからカントリー、フォーク、ロックはもちろん実験音楽からヒップホップ(ヒップホップは大物の代表曲という分かりやすい選曲だが笑)まで多彩なリスト。これらはパーカーとジーマの父親である小説家(エリクソン本人の分身といえる)によって「本人にしか分からない根拠でもって」作られた。音楽ファンならこのリストの関連を考えたり、知らない曲を調べるだけでいくらでも時間をつぶせるだろう。

 ここまでくれば分かると思うが、この小説には音楽ネタがとんでもなくわんさか出てくる。上記のリスト内外からの曲の歌詞が、色々なところに散りばめられている。もちろん、それはジェシーの架空のアメリカ史のパートだけではない。

 

 さて、パーカーとジーマの世界ではどうなっているかというと、エルヴィスのいないアメリカがこちらの世界にも干渉してくる。こちらの世界ではツインタワーの出現後、音楽が消えてしまうのだ(!)。Youtubeから、ストリーミングサービスから、もちろんCD、レコード、カセットも全部ダメ。唯一、音楽が流れてくるのはジーマの身体からという奇想天外っぷりiv。よってアメリカ中の話題はツインタワーと、パーカーとジーマの兄妹の二つに集中する。兄妹の元にはゾンビさながら人々が音楽を求めて集まって来る。車にしがみつきながら「ケイティ・ペリー! コールドプレイ!」(130)と群集が叫んでリクエストするシーンは爆笑せざるを得ない。 

 やがて、パーカーとジーマは二つに分断されたアメリカを貫く「シャドウバーン」へと到達するが、そこで語りは作家である父親へと移る。一方、ジェシーはと言うと、とある秘密のレコードを探すことになるのだが…。

 

 というのが『シャドウバーン』のだいたいの概要だが、他にも読みどころはある。

 

 後半の展開はこれまでのエリクソン作品に親しんだ人なら大満足のクオリティなのだが、その中でとある人物にジェシー

 

 「一方で、私たちは彼を…解放者とでも呼べるのかもしれない。

(中略)彼が別の彼と入れ替わったことで、私たちを悪魔の白人どもから救ってくれたのだ。私たちの音楽を盗み、私たちのスタイルを盗み、私たちの耳からサウンドを、口から歌を盗んだものどもから」(269

 

と評させている。「ポピュラーミュージックは全て黒人が発明したもので、白人はそれをパクっただけ」という意見は今でもたまに目にする。ブルースも、ジャズも、ロックンロールも、テクノも、ヒップホップも全部黒人が発明したじゃないか、ということだv。そしてエルヴィスこそはロックンロールを黒人から白人の手へと奪った張本人なのだ。また、ヒップホップを好むパーカーに対して、父が「Nワード」を白人がどうして使ってはいけないのかと諭すシーンも印象的だ。

 アメリカを書くということは人種問題を書くことでもある。つまり、白人であるパーカーと黒人であるジーマの兄妹という組み合わせも、非常に示唆的だ。二人の旅は単なる兄妹以上の物語として読むことができる。またジーマがエチオピア出身の養子ということも忘れてはならない。

 パーカーとジーマ、ジェシーとエルヴィスのように、『シャドウバーン』には「対」としての「ツイン」が多く登場する。ツインタワーはもちろん、二つの語り、分裂したアメリカ、ロバートとジョンのケネディ兄弟、ジョンとポール、作家である父親のエージェントがSearch & DestroyOne Nation Under a Grooveという名前(笑)の二人組などなど、探せばいくらでも出て来そうな感じ。そしてそれらをひとつに貫くのが、秘密のハイウェイ「シャドウバーン」であり、秘密のレコード「ルナ・レコーディン…

 

 …しかし、これ以上のネタバレはやめておこう。どうせ柴田元幸訳で近々出るはずだ(多分)。エリクソン97年に初来日をして、日本のファンのリアクションに驚いたと言われているし、直近では2016年に国際文芸フェスティバルで来日をし、今作の一部を披露してくれた。

 それにしても、これだけアメリカを書いてきた作家が日本で人気というのも不思議な話だ(今作にはそれを自虐的に書いた大爆笑フレーズがある)。同時期にデビューした白人男性長編作家、例えばリチャード・パワーズと比べると、アメリカと日本での扱いの違いは大きいviエリクソンのムック本なども読んでみたが、エリクソンが日本での人気に戸惑う箇所はあれど、エリクソンの日本人気の謎は分からなかった。日本の人気作家との共通点は聞いたことがないし、エリクソンの時空を越える「幻視力」は本人が公言しているとおりフォークナーとガルシア=マルケスの影響が色濃いが、そもそもその二人はビッグネームすぎるのであまり理由にはならないし。

 

 …個人的な感想としては、エリクソンの小説って熱いんだよね。まず文体。細かいテクニックというより(そういうのはパワーズのほうがはるかに上手い)、魂で書いている感じがする。そして、いわゆるマジック・リアリズムといわれる幻想文学的ストーリーだが、エリクソンの現実と幻想との境界からも、やっぱり熱を感じるのだ。ガルシア=マルケス、もっと最近なら村上春樹や『紙の民』のサルバドール・プラセンシアとかと比べると、エリクソンマジック・リアリズムには「人の魂が時空を歪めた」感がするからだろうか。『百年の孤独』の世界には人知を越えた力があるが、今作のジェシーの誕生には「誰か」の何らかの意思を感じるのだ。他の作品はその傾向がより顕著だと思う。 

 もしエリクソンがまた来日することがあったら、そんな話を本人にしてみよう。

 

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 前回の来日時にサインをしてもらった『黒い時計の旅』のペーパーバック。家宝。

 

 

 

i 88年の『黒い時計の旅』(柴田元幸訳、白水社2005年)ではヒトラーがバルバロッサ作戦(ソ連侵攻)を決行せず世界大戦が延々と続く20世紀を、91年の『Xのアーチ』(柴田元幸訳、集英社96年)ではアメリカ初代大統領トーマス・ジェファーソンの奴隷サリーを書いてきた。

 

ii 実はこの兄妹とその両親は、エリクソンの前作『These Dream of You(邦題:きみを夢みて 越川芳明訳)』の主人公たちである(なぜか妹だけ明確に名前が変わっている)。

 超強引に『きみを夢みて』の内容を説明すると、作家のザンは妻のヴィヴ、10歳の息子のパーカー、そしてエチオピアから養子として迎えた2歳の女の子シバの4人で暮らしていた。時はオバマが大統領に当選したシーンで始まるので2008年。妻のヴィヴはシバの実親の調査のためエチオピアに、他3人はロサンゼルスからロンドンに一時滞在するのだが…。そこでエリクソン得意の幻想文学が炸裂し、ロバート・ケネディとベルリン時代のデヴィッド・ボウイのお話になる、というもの。タイトルがヴァン・モリスンの曲名から取られているように、こちらも音楽ネタがかなり出てくる小説。

 一応、続編という扱いになるのかもしれないが、今作の中で家族の過去について説明されるシーンがいくつかある。それらのおかげで前作を読まなければ分からない情報はほぼないので、未読でも全く問題はない。

 もちろん、オバマ政権時に書かれた前作とトランプ政権時に書かれた今作とを比較して読む意義はあるだろう。

 

 

iii 巽孝之『パラノイドの帝国』大修館書店、2018年、214頁。

 

iv この一家が前作の主人公たちであることは脚注2で述べたが、前作でもジーマ(前作ではシヴァという名)は、身体から音楽を発する「ラジオ」である。

 

v 今でこそダンスミュージックはEDMに象徴されるように白人のイメージがあるが、元々のルーツは80年代にゲイの黒人が集まるシカゴのクラブで流れていた音楽「シカゴ・ハウス」だと言われている。

 

vi 二人とも85年にデビューし、ほとんどの作品が日本語に翻訳されている。しかし、エリクソンがいわゆる文学賞には縁がないのに対し、パワーズ06年に『エコー・メイカー』(黒原敏行訳で新潮社から刊行済み)で全米図書賞を、最新作『The Overstory』でピューリッツァー賞を受賞している。『The Overstory』は年内に新潮社から刊行予定らしい。

 

The Friend By Sigrid Nunez(シークリット・ヌーネス)

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 アメリカにも日本と同じようにいろいろな文学賞があるが、主なものをあげると全米図書賞、全米批評家賞、ピューリッツァー賞の三つだ。これらは、新人もベテランも短編も長編も関係なく、同列に選考される。

 そして2018年の全米図書賞のフィクション部門を受賞したのがSigrid Nunez(シークリット・ヌーネス)の『The Friend』だ。

 著者のヌーネスについては、wikipediaから抜粋しよう。

 シークリット・ヌーネスは1951年、ニューヨーク生まれ。ドイツ人の母親と、中国系パナマ人(19世紀にパナマへ移住した中国人の子孫)の父親との間の子だそうだ。95年に作家デビュー。過去にスーザン・ソンタグの息子David Rieffと恋人関係にあり、ソンタグ一家と交流があったそうで、そのときの経験をもとにソンタグの回想録も書いている(2011年)。

 調べて驚いたが、95年のデビュー作『神の息に吹かれる羽根』、98年の三作目の小説『ミッツ‐ヴァージニア・ウルフのマーモセット』が、いずれも08年に杉浦悦子訳で水声社から出版されていた。名前の日本語読みも、これで初めて知った。

 『The Friend』は七作目となる。

 

***

 

 

 冒頭、カンボジアのクメールルージュを生き延びた女性のエピソードのあとに、以下の文が続く。

 

「これが、あなたが生きている間に私と交わした最後の話題だった。そのあと、私の調査に役立つかもしれないと、あなたが考えた資料のリストがメールで送られてきた。そして、そういう季節だったからなのだけど、そこには来年もよろしくと締めくくられてあった。

 

 あなたの死亡記事には間違いが二つあった。ひとつはロンドンからニューヨークへと移った時期。一年ずれていた。もうひとつは最初の奥さんの旧姓の綴り。どちらも大した間違いではないし、すぐに訂正された。でも私たちは、もしあなたがこれを知ったら怒り狂うことを知っていた。」(2)

 

 『The Friend』は、男性の友人を自殺で失った女性作家が主人公。基本的にI(女性作家「私」)がYou(友人「あなた」)に語りかける一人称視点で進む。こんな文体だと「『私』と『あなた』は恋人関係だった」と予想してしまうが、どうもそうではない。

 「あなた」は「私」と同じ作家だが、「私」の創作科時代の先生でもあり、教え子と何度も関係を持ち、三度の結婚をした“womanizer”(女たらし)であり、かなり保守的な考えをする人物と、簡単に言えばクソ野郎だ(愛読書はクッツェーの『恥辱』というのが笑いどころ)。多くの女性と関係を持ちながらも「私」と恋人関係はおろか、肉体関係も持ったことはなかった。だからこそ「私」と「あなた」は“The Friend”だったのだ。

 序盤、「私」が第三夫人と会った際に、「私」は半ば無理やり「あなた」の忘れ形見である老犬を預かることになってしまう。老犬の名はアポロ。「私」の言うことをまったくきかないアポロ。しかも今住んでいるアパートはペット禁止だ。そんなアポロとの困難な生活の中で、「あなた」との思い出を反芻しつつ、思索がいろいろな方向へ流れていく。喪失について、自殺について、友情について、動物について、創作について、愛について…これらを古今東西、文学から映画まで様々な作品を引用しながら語っていくという内容。

 

***

 

 『The Friend』のポイントは二点ある。まず一点はその「思索」。連想ゲームのように次から次へと展開される思索が、とても読みやすい。アポロが「私」になつかない様を見て、『忠犬ハチ公』を引用しながら犬の生態について語れば、「私」が先生をしている創作のワークショップでは、性差別の構造に苦しんだ女性の体験談だったりと、かなり重いテーマを扱っている(ワークショップの場面はかなりの頁数を割いて多くのことを語っており、どれも読み応え抜群)。

 

そしてその思索の先に、ある疑問が読者の頭の中に残り続ける。

 

「いや、『私』は『あなた』のことを愛してたんちゃうん?」

 

ということだ。これが二点目のポイント。

 これを「私」は直接的に言及しない。つまり、認めようとしない。かたくなに「愛していた」ことを避けながら「あなた」について語る様が、どこかおかしくもあり、ピュアでもあるのだ。

 そしてラスト40頁ほどで小説が突然動きだす。シークリットは比較的淡々と進んできたこの小説の最後に、二つ仕掛けを用意している。

 

 

***以降、ネタバレ***

 

 

 「あなた」は自分の文章を朗読するのが好きで、それこそが推敲のコツだと常に言っていた。それを思い出した「私」は朗読を始めてみると、それに反応したのか今までなつかなかったアポロが「私」に心を開くようになってきた。「私」と「アポロ」は、互いに喪失感を埋め合わすことで関係を深めていった。

 そんな中、「私」は通っていたセラピスト(日本語なら「カウンセラー」のほうが適切か?)との面談の中で、「あなた」のことを好きだったのではないか(問われたとしか書かず、「私」はその問いについての答えを出していない)、「あなた」について何か書いてみてはどうか、と言われる。

 

 そして、ラスト手前の第11章、三人称視点での語りが始まる。つまり、「あなた」の自殺が未遂に終わり、「私」と恋人関係になっているというメタフィクションだ。「私」が実際に書いてみたということなのだろう、この章でもアレクシエーヴィッチなどを引用し、創作について二人が討論などをする。しかし、この章が唐突に終わることで「私」が書けなかったことが分かる。この章の終わらせ方は、頁数の調整などもあって見事だった。

 

 そして最後の第12章、再び「私」による一人称語りになる。しかし、数ページ読むと今までと何か違っていることに気がつく。最後の章では“You”が「あなた」ではなく「アポロ」を指しているのだ。ここにきて「私」はようやく気持ちを整理(正確には、整理がつかないことを受け入れる)できたように思える。

 

「何も変わっていない。ずっとシンプルなことだった。あなたがいなくて寂しい(I miss him)。毎日あなたが恋しい。あなたのことが、本当に、恋しい。

 でもこの感情が去ってしまったら、どうなってしまうの?

 そんなこと起こってほしくない。」(209)

「私はいまだに、彼に恋していたのか、そうでないのか、はっきり答えることはできない」(210)

 

 最後は老犬アポロと海岸線(?)を散歩する、非常に爽やかなシーンで終わる。

 

「私たちが失い、嘆き、恋しく思うものこそが、真に深いところで私たちを形成するものじゃない?」(211)