未翻訳小説を頑張って日々読んでいる日記

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まだ翻訳されていない英米文学をたまに紹介します。

ポストモダン文学と“ポスト”ポストモダン文学? デイヴィッド・フォスター・ウォレスのキーワード〈新誠実(New Sinceirty)〉について

 2018年4月に行われたリチャード・パワーズ『オーバーストーリー』(木原善彦訳、新潮社、2019年)出版直後のイベントの動画がYoutubeにアップされている1。ゲストは当ブログで前回紹介した『ヨーロッパ・セントラル』のウィリアム・T・ヴォルマン。まずヴォルマンが登壇し『オーバーストーリー』の一部を朗読したあと、パワーズが壇上に上がり「フィクションとノンフィクションで私に大きな影響を与えた」とヴォルマンを紹介するのだが、そこでパワーズはユーモアを交えてこう言う。

 「私が思うに、その流行(フィクションだけでなくノンフィクションも書く)を始めたのは、私たちの友人であるデイヴィッド・フォスター・ウォレスだろう。(…)私たちはみな共通の美学で結びついていたが、それはみなが同じ属性の人間だったからだ。つまり白人で、男性で、同世代で、身長180cm以上だったということだ」

 経歴を確認すると、生まれた年はパワーズが1957年、ヴォルマンが1959年、ウォレスが1962年。デビューの年はパワーズが1985年、ヴォルマンとウォレスがともに1987年。確かに同世代と言ってよく、3人とも物理的に重い小説を書き、日本語版wikipediaでは「ポストモダン文学の作家」とされている。しかし、3人の作品を読んだことがある人は、彼らより上の世代のポストモダン作家──トマス・ピンチョンドン・デリーロ、あるいはジョン・バース──とは作風がやや異なることに気が付くはずだ。
 その違いについてヒントとなる有名なエッセイが、デイヴィッド・フォスター・ウォレスが90年に書いた(実際に発表されたのは93年)"E Unibus Pluram: Television and U.S. Fiction”(イ・ユニバス・プルラム:テレビとアメリカ小説)2だ。今回はそのエッセイと、それに関連した研究などを紹介する。
 あらかじめ言っておくと50頁とエッセイとしてはそれなりの分量があるので、かなり端折ったまとめである。表現を書き換えたり、書いてある順番なども変えているので、正確に論理を把握したいという方は必ず原書を読むようにお願いしたい。

そもそもポストモダン文学とは?

 この問い自体がそもそも難問であり、研究者・批評家によって定義もそれぞれだが、ここではザックリ行かせてもらおう。日本の一般的な海外文学読者(研究者は含まない)の中では「ポップ・カルチャーなどを取り入れて」「複数の語り手や脱線など、複雑な構成をもち」「60年代以降に書かれた実験的小説」といったところではないだろうか。代表的な作家は、評価でも人気でもやはりトマス・ピンチョンになるだろう(ここに異論は出ないはずだ)。
 トマス・ピンチョンの『逆光』(新潮社、2010年)について、訳者である木原善彦が書いた『ピンチョンの『逆光』を読む ─ 空間と時間、光と闇』(世界思想社 2011年)の冒頭に、ポストモダン文学についてこんな説明がある。

 90年代初頭に話題になったポストモダンなテレビドラマ『ツイン・ピークス』(1990-1991)の雰囲気を思い出すというのも十分に参考になるでしょう。『ツイン・ピークス』には通常の「犯罪もの」のテレビドラマとは異なって、事件の本筋とは無関係な無数の挿話が盛り込まれ、シリアスさと笑いの混合や現実離れした誇張などが随所に見られました。あのドラマに感じられた変さこそ、ポストモダニズムの現れだと言えます。(4)

 私がこの箇所を読んだとき、なるほどわかりやすいと膝を叩いたものだ。さて、以上を踏まえた上でウォレスのエッセイの概要を説明しよう。

今回読んだ“E Unibus Pluram: Television and U.S. Fiction”は、Penguin Booksから出版されたDavid Foster Wallace Reader(2018)に収録されたヴァージョンである

小説家とテレビとの関係

 ウォレスによれば、小説家とはいやらしい目つきをしている類の生き物だ。生まれながらの観察者であると同時に、人のことはじろじろ見るくせに人から見られることは嫌う、自意識過剰な生き物でもある。そんな視点から“テレビを観る”という行為について説明をする。
 テレビドラマを観ている私たち(視聴者)は、さながら“のぞき見”をしているように思えるが、テレビとは視聴者を必要としている、つまり、そもそも見られることを前提に“作られた”ものである。もし作家が創作の資料としてテレビを観ているならば、実はそこで観ているものはすでに創作として作られているキャラクターなのだ。むしろ、観ているものはキャラクターですらなく俳優であり、さらに言えば電波による画面上の現象であり家具である。テレビを観るという行為は何重もの“錯覚”によって成立しており、そのためには観ている人とテレビ側との共犯関係が必要となる。

 ここでウォレスが言いたいのはテレビへの猜疑心ではない。結論を先取していうなら、ウォレスは小説家とテレビとの閉鎖性を問題視している。

 ウォレスは、重要なのはアメリカ社会とテレビとの関係に問題があるということではなく、今やそれに対して何ができるかという段階に来ていることだと述べる。ウォレスが過去5年で素晴らしかったと評価するテレビコンテンツ(ドラマ、ミュージックビデオなど)はアイロニックな自己言及に関するものだったという。テレビが外の(現実)世界と関連していないことを批判することは、それが間違っているということではなく、的外れなのだ。
 60年代に表出してきたメタフィクションは批評家などにラディカルな美意識と迎え入れられたが、ウォレスはメタフィクション(の作家たち)の仮想敵であるところの「リアリズム」の順次的な拡大でしかないと考えている。高級文化(High Culture)としてのポストモダンというジャンルは、テレビの出現によって読者の意識(好み)が変化したこと、自意識的な視聴が生まれたことと関係がある。ポストモダンと自意識的な視聴者、そこに共通し連関しているものが自意識的なアイロニーである。他人と差別化する方法を大多数に向けて発信することに象徴されるように、テレビはその存在自体が極めてアイロニーであり、それはテレビを観ることで生まれる罪悪感と安心感というアンビバレンスを養分として成長するサイクルに繋がる。(この「テレビの根本にあるアイロニー」は、かなり長く説明していてかなり難解であるが、後半でもう一度アイロニーを説明するときにもう少し理解しやすくなる)

 さらにポストモダン文学の顕著な特徴である“ポップ文化(ブランド名、有名人、テレビ番組など)”の導入のメリットについても、「読者が皆、レファレンスを知っている」「皆が知っている状況に対して、少し不安になる」というアンビバレンスをもって説明する。現代の作家が低級文化(Low Culture)を小説に登場させると、不遜な雰囲気を醸し出し読者を不安にさせ、アメリカ文化の空虚さに物申した気持ちにさせ、何よりそれが現実(リアル)である、という点で非常に効果的なのだ(具体例として、ピンチョン、バース、ギャディスが挙げられている)。
 そして、ポストモダン文学の次なる展開の預言者としてウォレスはドン・デリーロを挙げ、『ホワイト・ノイズ』の「アメリカで最も写真に撮られた納屋」のエピソードを引用する。これは、とある納屋を見るため、そして写真を撮るために多くの人が集まっているのだが、その理由とは「この納屋が多くの人に撮られた」からであり、その閉鎖的状況を正確に捉えたシーンである3

 アメリカ文学はポップ文化を、60年代には指示対象や象徴として“利用”し、70年代から80年代前半は“言及”し、大量消費社会の神話に入れられたものを世界として使うようになった。80年代後半からは“反応”する作品、例えば実在の人物の私生活を、言わば「ガラスケースの中」を書いたものがたくさん出てきたと述べる(ヴォルマンのデビュー作をここに位置付けている)。ウォレスは、これらの作品は文学上のテクニックではなく社会・芸術的な意図で識別することができるが、そこでのポップ文化の扱い方は、ビート・ジェネレーションの作家やポストモダンが抵抗として効果的に使っていたアイロニーメタフィクションのそれと同じであり、やがてテレビによって吸収され中和されてしまうと警告する。

 カウンターカルチャーであった60年代のロックがテレビCMのBGMに使われるように、テレビは一般に浸透しているイデオロギーのその形式を見抜き、吸収し加工し、購買欲を掻き立てる勧誘として再提示する。テレビ(とCM)は「自分自身を表現しよう!」「この商品を買って群衆から飛び出そう!」と1人の個人でいることを保証してくれるが、ここにおける集団は個人を飲み込み消失する恐ろしいものとして描かれる。よって、1人でテレビを観ている視聴者は、1人でいることを礼賛される一方で自分もまたテレビで非難される受動的な大衆の1人であるという罪の意識を持っている。このアンビバレンスの真のメッセージとは、個人の実現は究極的には“観られる対象になること”で達成されること、つまり、テレビの外ではなく中へと手招きしているのだ4
 テレビを観る大衆の1人でありながら、その大衆を抜け出すようなことはできないだろうか──それを可能にする(と思い込ませる)のが、大衆を超越するような“テレビの見方(=視聴するときの態度)”であり、アイロニーなのである。ウォレスは、テレビがそのアイロニーポストモダン文学から引っ張ってきた(吸収し中和した)とする。
 このあと、80年代以降、アイロニーを持つキャラクターが増えたとして様々なドラマを挙げるが、その中に『ツイン・ピークス』の主人公、FBI捜査官クーパーも含まれている。
 冒頭で、ポストモダン文学の分かりやすい例として挙げられた『ツイン・ピークス』(1990)だが、それは「ポストモダニズムの現れ」であると同時に、ポストモダン文学がテレビに吸収されたことの現れでもあるのだ。(もちろん著者の木原さんもそんなことは分かっているとは思うけど)

 現在のアヴァンギャルド作家が扱う文化において、アイロニーや挑発や反抗は、なぜ解放へと向かわずに先細りしていってしまうのか。ひとつには、アイロニーが30年経過しても未だに最新の表現法として至るところにありふれているからだ。文化批評家ルイス・ハイド(Lewis Hyde)は「アイロニーは緊急時にしか使えないものだ。長い時間使われ続けると、それは、罠に掛かりその檻の中を楽しんでいる声でしかない」と言っているが、まさにアイロニーはエンターテイメントであるものの、ほとんど否定的な機能しか果たさない。アイロニーは批判的で破壊的であり、たとえ偽善者の嘘を暴いたとしてもそこに更地を残すだけで、代わりに建設的な何かを打ち立てるときにはさっぱり役に立たないのだ。

 では、テレビが有する反逆の美学にどう抵抗するのか。読者の頬を叩いて、テレビ文化がシニカルで、ナルシスティックで、本質的に空虚な現象である事実に目覚めさせるにはどうすればよいのか。ウォレスは次の「真の反逆的文学は“反反文学”」となるだろうとする。アイロニー的な見方はせずに、単一の意図で書くこと(single-entendre principles:単義主義5アメリカに古くからある、平凡で流行とは関係のない人間の苦しみや感情を、敬意と信念を持って扱うこと……を中心としたいくつかの項目を挙げて、このエッセイは終わる。

 最後は、個人的に最も重要でわかりやすいフレーズのみを抜粋したので、結末部だけでも原文を読んでみるのもいいかもしれない。
 最初に述べておくが、本記事ではこのエッセイの「概要」は説明しているかもしれないが「魅力」はまったく説明できていない。「典型的な単身世帯のアメリカ人」として“Joe Briefcase”なる人物を設定、あるいは「レイモンド・カーヴァーワナビー小隊の自意識的緊張病」といったフレーズのようなユーモア、「芸術は、真の価値を持つものの“創造的精製”から、偽の価値を持つものの“創造的拒絶”へと変わった」などキレ味抜群の批評眼と筆力、ピンチョンをはじめとした作家への言及などなど、読みどころがたくさんあるのでもし英語力に自信があればチャレンジしてみて欲しい(あるいは後述する“Consider the Lobster”のようにどこかの文芸誌が邦訳を……)。


“New Sincerity” 新誠実

 このエッセイには、『インフィニット・ジェスト(IJ)』内に登場する架空の多機能デバイス「テレピューター」の元ネタ、小説内で言及される実在のテレビドラマが引用されているなど、IJの理解に非常に役立つ情報が満載だ。特に結論部での主張はIJ全体に貫かれていると言ってよいだろう。IJの登場人物のほぼ全員が何らかのコト・モノ(多くが酒とドラッグ)に依存しており、その苦しみがひたすら変奏されていく。なぜウォレスが執拗にその苦しみを書き続けたのか──ここで使われるのが、“New Sincerity”〈新誠実〉である。
 “New Sincerity”というキーワードは、元々は映画や音楽で使われていた用語だ。ウォレスの今回のエッセイにNew Sincerityという単語そのものは出てこないが、結論部での主張を元に文学へと援用されるようになった。その1人として挙げられるのが批評家アダム・ケリー(Adam Kelly)だ。
 そんなアダム・ケリーのDavid Foster Wallace and the New Sincerity in American Fiction”(2010)6というエッセイをネットで読むことができる。こちらも大雑把に説明すると、ケリーはデリダを引き合いに出しながらウォレスのテクストへの姿勢を検証しつつ、この複雑な社会・文化の中で自身の作品が読者に受け入れられると思っている作家は、本当に誠実であると言えるのか、そのとき作家の書いたものや発言と実際の感情とは一致しているのだろうかと問う。ウォレスのテクストと発言から、ウォレス作品において作家の真の意図は表出の裂け目に潜んでいる秘密のようなものだとする。ウォレスにとって最大の恐怖であり真の安らぎでもあるのが、自己を他者からの評価へと放棄する受動的決断であり、読者へのその対話的な訴えによって〈新誠実〉の作品は成り立っている。ページの外でのその双方向の対話(a two-way conversation)こそが〈新誠実〉の特徴だとする(リチャード・パワーズもこれに当てはまるとしている)。
 『すばる』2018年9月号に収録された吉田恭子訳のウォレスのエッセイ「ロブスターの身(Consider the Lobster )」は、訳者解説でも触れているが〈新誠実〉の典型的なテクストと言えるだろう。アメリカはメイン州「ロブスター祭り」のグルメレポートのはずが、やがてロブスターは痛みを感じるのか、生き物を食べるのはどういうことなのかという倫理的な問いへと展開されていく(ちなみにウォレスは菜食主義者ではない)。あるいはウォレスのテニスのエッセイ集『フェデラーの一瞬』(阿部重夫訳、河出書房、2020年7)の「トレーシー・オースチンになぜ失恋したか」を挙げてもよい。テニスの元祖天才少女であるトレーシー・オースチンの自伝を読んだ経験から、なぜ人々はスポーツ選手の「生の声」を聞きたがるのか、人々にとってスポーツ選手とは何なのかと掘り下げていく。
 これらのエッセイを読んだ読者は、自分にとって「生き物を調理すること」「好きなスポーツ選手(あるいは有名人でもよい)」が何なのかと、まさにページの外で考えてしまう。IJも同様だ。登場人物の苦しみを読んだ読者は想像する、その苦しみはどれほどのものなのだろうかと。その苦しみに自分が直面したときどうなるだろうかと。
 ピンチョンを読んだ読者は、テクスト内の繋がりや小ネタの参照元などを考えるだろうが、それはページの外に出ているとは言えないだろう。どちらが良い悪いとかではなく、ウォレスとピンチョンの大きな違いと捉えることはできる。
 さらに、前回紹介したウィリアム・T・ヴォルマンの全米図書賞受賞作『ヨーロッパ・セントラル』(2005年、未訳)も〈新誠実〉の作品と位置付けることができるかもしれない。20世紀前半の独ソで人生の決断を迫られた人々を書いた小説だが、歴史的資料を大量に用いて、こちらもありのままの苦しみを執拗に描こうとする。アイロニーメタフィクションの要素は皆無で、彼/彼女らの決断について、自分に置き換えて思いを馳せてしまう。

取り扱いには注意

 ここで言っておかねばならないことは、ポストモダン文学〉が終わって〈新誠実〉の時代が来たのではないということだ。あくまで切り口の一つとして認識しておくのが良いだろう。事実、アダム・ケリーの論文を読んでもわかるように〈新誠実〉とはどこかふわふわした概念だ。ケリー本人も必ずしもポストモダン的なアイロニーから逃れることができたとは考えてはいないようで、その概念も曖昧なままである。〈新誠実〉の代表としては挙げられる作家がウォレスの他、ジョナサン・フランゼン、ゼイディー・スミス、デイヴ・エガーズなどなど。このリストが90年代以降のビッグ・ネームを挙げただけとも言えるのも、〈新誠実〉の曖昧さゆえだ。
 また、アメリカ文学の主流からメタフィクションアイロニーが無くなったわけでもない。2020年と2021年の全米図書賞受賞作『インテリア・チャイナタウン』と『ヘル・オブ・ア・ブック』(いずれも未訳、詳細は当ブログの過去記事参照)はメタフィクションアイロニーそのもの。しかし、この2作に今回のエッセイに書かれた批判は当てはまらない。
 なぜなら、いずれもアジア系と黒人の人種差別をテーマにしており、アメリカで非白人でいることは未だに〈緊急時〉であり、アイロニーが社会へのカウンターとして機能しているからだ。ピンチョンの初期3作が輝いていたのも、アイロニーカウンターカルチャーだった時代だからであり、それはそのままピンチョンが2013年に発表した『ブリーディング・エッジ』(佐藤良明、栩木玲子訳、新潮社、2021年)にまったく切れ味が感じられない理由である8

 しかし「イ・ユニバス・プルラム:テレビとアメリカ小説」に読む価値がないわけではない。ウォレスが指摘した人間とメディアとの関係、アイロニーへの批判は〈ポストモダン文学〉を考える上での貴重な視点であるだけでなく、SNSのエコー・チェンバーによって陰謀論あふれる時代だからこそ、その重要性は衰えていないばかりかさらに増しているようにも思える。
 そして何より、デイヴィッド・フォスター・ウォレス、『インフィニット・ジェスト』という、日本にほとんど紹介されていない最後の大物作家とその代表作を理解する上で、必須のテクストであることに間違いないのだ。


最後に

 今回のエッセイを読んでみようと思ったのは、2023年に幸運にもウォレスを扱ったことがある研究者(あるいはそのままウォレス研究者)とお話する機会に恵まれたことが大きな動機となっている。この場を借りてお礼を申し上げるとともに、ネットで閲覧可能な論文を発表している方の紹介をして終わりたいと思う。

 桑原拓也の論文は、ウォレスの短編「帝国は進路を西へ」(短編集『奇妙な髪の少女』(白水社)収録だが、絶版)を題材に、メタフィクションと閉鎖性への批判を読むもの。実際にウォレスがポストモダン文学批判をどのように小説の形へ落とし込んだのかが分かる内容。
「David Foster Wallace 初期作品における後期ポストモダン文学批判と他者の探求」(2019年)

 さらに桑原は、日本でも人気のイギリスのロックバンド、The 1975の楽曲“Sincerity is Scary”を〈新誠実〉から分析した論文も書いている。ちなみにThe 1975のフロントマン、マシュー・ヒーリーはリハビリ施設にいるときに『インフィニット・ジェスト』を読んでいたことを公言している。
「脱ポストモダンの誠実さ : The 1975の“Sincerity Is Scary”におけるアイロニーと誠実」(2019年)

 小倉永慈の論文は、邦訳され日本でも人気だったオーシャン・ヴォン『地上で僕らはつかの間きらめく』(木原善彦訳 新潮社)を、本記事冒頭の「見ること」「見られること」から読んでいこうとするもの。このブログを最後まで読んでくれるような方の中には『地上で僕らはつかの間きらめく』を読んだ方も多いだろうから、興味深く読めるのではないだろうか。
「見られたら嬉しい──オーシャン・ヴオン、デイヴィッド・フォスター・ウォレス、 死への態度と他者への倫理──」(2021年)

 林日佳里の発表原稿は『IJ』内に登場する架空の映像作家の作品から、ポストモダン批判を読み解くもの。『IJ』を読んでいないと理解が難しいかもしれないが、「誠実さ」には4つの論文の中では最も触れているもの。
「「父なるポストモダニズムへ 心を込めて、デイヴィッド」―Infinite Jestと世代のジレンマ」(2021年)



  1. Richard Powers | The Overstory with William T. Vollmann | No Immediate Danger
  2. タイトルはラテン語で、アメリカ合衆国のモットーとして知られるラテン語、イ・プルリブス・ウヌム(E Pluribus Unum)の言葉遊び。本家は「多数はひとつへ(Out of many, one)」を意味するが、ここでは“From one, many”の意味になる。実は同じ言葉が『インフィニット・ジェスト』の序盤に登場している。
  3. このシーンについては『現代作家ガイド7 トマス・ピンチョン』(麻生亨志、木原善彦 編著, 彩流社, 2014)において、長澤唯史訳で邦訳・掲載されているブライアン・マクヘイル「ピンチョンのモダニズム」の中でも、ジョン・ボードリヤールの「シミュラークル」を用いて取り上げられている。
  4. Instagramtiktokは、ウォレスの指摘をさらに加速させたメディアだと言える。
  5. 単義主義という日本語訳は、吉田恭子訳「ロブスターの実」の訳者解説から引用した。
  6. “David Foster Wallace and the New Sincerity in American Fiction.” Consider David Foster Wallace: Critical Essays, edited by David Hering, Sideshow Media Group Press, 2010, pp.131-46.
  7. こういうのも野暮だが盗用と言われぬように一応述べておくと、『フェデラーの一瞬』のAmazonレビューは私が書いた。
  8. ウォレス作品のように脚注で長々と書かせてもらうなら──評価があまりよろしくない『ブリーディング・エッジ』だが、私はそこまで嫌いではない。むしろピンチョンのファンなら必ず読むべき作品だとさえ思っている。ピンチョンは初期3作のあとの沈黙を経て、90年に『ヴァインランド』(邦訳は新潮社から98年、2011年)を発表。84年を舞台にしたこの小説を三浦玲一は、レーガン新自由主義下においてピンチョン自身の行き詰まりを書いたものと評したが(詳しくは脚注3の『現代作家ガイド7 トマス・ピンチョン』内に収められた「ピンチョンにみるポストモダン小説の変遷──『ヴァインランド』の必然」三浦玲一を参照)、私は似たような感想を『ブリーディング・エッジ』に抱いた。
     『ブリーディング・エッジ』は『ヴァインランド』以来にピンチョンが現代を舞台に設定した作品で、911を巡る陰謀論とインターネットを主題にしたものだ。「百科全書的」とも呼ばれるピンチョンの作風はいつしかインターネット的とも呼ばれるようになったが、言わば『ブリーディング・エッジ』は、自らの作風の実体化を書くという前代未聞の文学的格闘であり、そしてピンチョンは敗北した。911に関する陰謀論は昔からありふれたものであるし、インターネットの深奥に光明を見出すのもあまりにも楽天的と言わざるを得ない。主題が空回りしている小説の中で豊富な知識による言語遊戯を繰り広げたところで、文字通りただの「遊戯」でしかない。これは原文が出版されたトランプ以前の2013年に読んでもこういう評価をしていると思うし、邦訳が出版された2020年なら言わずもがなだ。
     この小説の興味深い要素は、ピンチョンのプライベートのようなものを垣間見ることができることだろう。ピンチョン一家が住んでいると思われるニューヨークの高級住宅街が舞台のひとつになっており、後半には家族愛が強く描かれている。全く人前に出ることをしなかったピンチョンが自作に自らの存在を「チラ見」させるのはなぜか。もちろん911を書くことはニューヨークを書くことなので、自身がよく知っている舞台を書くのは当然とも言えるが……私には、どこか読者へのサービスのように映った。
     私にとって『ブリーディング・エッジ』は、サッカーや野球のスター選手の「引退試合」のような読書体験だったのだ。全盛期に遠く及ばないこと、今の自分にできることは何もないことをファンとともに確認し、スピーチのあとに家族が現れて花束贈呈である。ピンチョンという滅多に姿を見せなかったアメリカ文学界の巨人が、最後に家族とともに自身の老いた姿を「小説という形で」我々に見せたことは、ファンにとっては感動的だ。(無論、これらをピンチョンが意図していた確証はない)