未翻訳小説を頑張って日々読んでいる日記

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まだ翻訳されていない英米文学をたまに紹介します。

20世紀の独ソの中で揺れ動く人々を正確に採譜した重奏曲(Europe Central by William T. Vollmann)

 いわゆる「ポストモダン文学」に興味がある人なら、ウィリアム・T・ヴォルマン(William T. Vollmann)という名前は聞いたことがあるだろう。90年代以降のアメリカを代表する作家の一人で、ピンチョンのように長大で難解な作品を書く人物……というイメージを持っている方が多いはず。実際に経歴を調べてみると、ヴォルマン本人がピンチョンの小説に登場するような、とんでもないキワモノであることがわかる。
 1959年に生まれたヴォルマンは、大学で比較文学を学んだあとコンピュータープログラマーとして働きながら、87年にYou Bright and Risen Angelsを完成させデビュー。704頁もある長大なデビュー作が「ヴォルマンは、ピンチョンとトム・ウルフ※1の間という誰もいない場所を歩き回っている」と評されたように、ヴォルマンは、小説家とジャーナリストの要素を持った珍しい作家だ。
 ヴォルマンはノンフィクションの要素が色濃い小説を書いているだけでなく、ノンフィクションそのものも多く発表している。本人の戦地での経験も含め、暴力についての20年間の考察をまとめたRising Up and Rising Down: Some Thoughts on Violence, Freedom and Urgent Means(03年)は彼の最も長い作品で、全7巻で計3352頁もある(のちに1冊にまとめた圧縮版も出版された)。ヴォルマンが女装を始めたことで生まれた女性人格「ドロレス」について書かれたThe Book of Dolores(13年)なんて本もある。さらに、彼はイラストを多く描いては自作に使用し、87年に自費出版したThe Convict Bird: A Children’s Poemは、鉄の板で綴じられて売春婦の髪の毛で作られた栞がついているという。
 様々な活動をしているヴォルマンだが、有名なのは北米大陸への移住の歴史を書き記す「七つの夢」シリーズだろう。90年に第1作The Ice-Shirtが発表されたあと、現在までに5作が発表されており、そのうち94年の『ライフルズ』(The Rifles)は国書刊行会から栩木玲子訳で01年に邦訳されている。
 そして、現在手に入る日本語のヴォルマンの著作は『ライフルズ』含めてたったの3冊。他の2冊はいずれも90年代に邦訳されて絶版。あとは短編などがアンソロジーに少し紹介されているだけ。
 当然、ヴォルマンの05年のあの小説も未邦訳──というわけで、今回はその800頁の大長編にして全米図書賞受賞作Europe Central(ヨーロッパ・セントラル)を読んでみたわけである。

811頁なので『インフィニット・ジェスト』ほどは重くはない。

『ヨーロッパ・セントラル』のあらすじ

 小説冒頭、ナチス親衛隊の電話交換手の語りから始まるからといってピンチョン『重力の虹』のようなスケールのデカイ話を期待すると肩透かしを食らってしまう。『ヨーロッパ・セントラル』は、20世紀初頭から第二次世界大戦、戦後までのナチス・ドイツソビエト連邦の実在の人物たちの痕跡を記述していく、歴史小説と言ってもよい体裁になっている。もちろん徹底的な歴史的資料に基づいて書かれており、本書の最後50頁は出典に使われている。

 作中での扱いが特に大きい人物を登場順に列挙していくが、以下がそのまま「目次」であり「あらすじ」になっている。

 レーニン夫妻とファニィ・カプラン(1918年レーニン暗殺未遂事件の犯人)
 カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルク(1919年に殺された革命家)
 ケーテ・コルヴィッツ(ドイツの貧しい人々を扱った彫刻家)
 アンナ・アフマートヴァソ連の詩人)
 ドミートリイ・ショスタコーヴィチソ連の作曲家)
 ロマン・カルメンソ連のドキュメンタリー映像作家)
 アンドレイ・ウラソフ(ソ連からドイツへ渡った軍人)
 フリードリヒ・パウルス(ドイツからソ連へ渡った軍人)
 ゾーヤ・コスモデミヤンスカヤ(ソ連パルチザン
 クルト・ゲルシュタイン(ホロコーストを告発したナチス親衛隊)
 ヒルデ・ベンヤミン東ドイツの司法相)※2
 
 これ以外にもヒトラースターリンをはじめ、登場する政治家、軍人、芸術家、その家族たちは、すべて合わせれば100人近くになるのではないか。この多種多様な人々を、ドイツ側からは先述のナチス親衛隊の男が、ソ連側からはソ連の秘密警察NKVD(内務人民委員部)の男(アレクサンドロフという名前がつけられている)が、さながら歴史の目撃者として交互に語っていく。それぞれの章はほぼ独立した構成になっているが、さながらタコの足のように広がる電話線で密かに繋がっているかのように、どこかで共鳴し合っている。
 そして最も多くの頁数が割かれ最も多くの章に顔を出す中心人物こそ、ショスタコーヴィチとその最愛の女性、エレナ・コンスタンチノブスカヤ(Elena Konstantinovskaya)である。ショスタコーヴィチの経歴について詳しい方は首をかしげたであろう。恋多きショスタコーヴィチは生涯で3度結婚したが、そこにエレナという名前の女性はいなかったはずだと。それもそのはず、このエレナはモデルこそあれど、作中で名前が与えられている中で唯一、創作の人物なのだ。
 バイセクシャルで男性/女性問わず多くの人物から言い寄られる恋多き女性で、名前を変えてショスタコーヴィチ以上に様々な章に顔を出すエレナは、ヨーロッパの象徴として描かれており、本書で最も読者の関心を惹く存在だ。ソ連のコムソモール(共産主義青年団、密告などを行う)のメンバーでもあったエレナは英語に長けて翻訳をしていたが、大粛清が巻き起こる34年の夏にショスタコーヴィチの英語の家庭教師となり、そこで彼と恋に落ちる。ショスタコーヴィチは同時に交際していたニーナとの関係に悩むが、エレナはNKVDに逮捕されて強制収容所に送られてしまう。そのあとエレナはロマン・カルメンと結婚するなど(これは史実)2人はともにソ連の政治・芸術の世界に身を置くが、人生の軌跡は接近はすれど再び交わることはない。
 やがて戦争が終わり、両国の語り手は戦争を生き延び、ドイツは東西に分裂する。語り手の1人であるナチス親衛隊の男は、西ドイツの対ソ連諜報機関であるゲーレン機関に捕まり、ソ連に魂を売り渡していないのならばその証明としてある男を殺せと命令される。
 その男とは、青白く、髪が薄く、分厚い眼鏡をかけた男、ソビエトの作曲家ショスタコーヴィチ


暴力と倫理へのヴォルマンの意識

 ナチス親衛隊の語り手が戦争を生き延びてショスタコーヴィチ暗殺の依頼を受ける章は、非現実的なシーンが多く、最もフィクション性が強い箇所だが、ここまで来ると同時期に書かれた別の小説のことを考えられずにはいられない──物語の中盤でナチス親衛隊の男の頭を弾丸が貫き、錯乱した夢を語るあのシーン──『ヨーロッパ・セントラル』の1年後、アメリカ生まれのジョナサン・リテルがフランス語で書いた『慈しみの女神たち』だ。※3
 第二次大戦を生き延びたナチス親衛隊の語り手が戦争を回想していく『慈しみの女神たち』は『ヨーロッパ・セントラル』との共通点が多い。どちらも同じ時期に書かれ、物理的に重量級(英語版の『慈しみの女神たち』は約990頁)で、長期間の綿密な取材に基づき、音楽の要素があり、20世紀の巨大な「暴力」を中心に据えている。
 事実、『慈しみの女神たち』の英語版The Kindly Onesが09年に出版されたとき、両者を比較した書評がある。「ワシントン・ポスト誌」のMelvin jules Bukietの書評では両者の共通点を挙げたあとで、リテルに厳しめにこう書いている。

「(…)リテルは末端の小役人と怪物のどちらを生み出そうとしていたのだろうか、あるいはその両方なのかという疑問が浮かぶ。しかし、1000頁近くを読んだあとになってもその意図が分からないのは、ヴォルマンが1940年代のドイツとロシアで重要局面にいた実在の人々の、多面的な視点で描いた倫理的ジレンマを、リテルは掘り下げようとしなかったからだ」※4

 この倫理的ジレンマこそ、一見バラバラに見える『ヨーロッパ・セントラル』の登場人物たちに共通する要素であり、本編終了後に出典の冒頭で作者が直接説明しているキーワードだ。

 この複数の物語は、私の『七つの夢』ほど歴史的事実に厳密に基づいているわけではない。実際、私のここでの目的は、有名、無名、匿名のヨーロッパの倫理的行為者たちがある決断をした瞬間、その寓話の連なりを書くことだった。この本の登場人物のほとんどが実在した人物であり、私は彼らの人生を細部まで可能な限り調べあげたが、あくまでこれはフィクションである。(753)

 『ヨーロッパ・セントラル』の登場人物たちは命の分水嶺を経験しており、ヴォルマンはその決断に至るまでの過程を書いていく。小説中盤でショスタコーヴィチと直接関係がない軍人たちが(それも数奇な最後を迎えた者が)取り上げられているのはそれが理由だ。自分の信念と組織からの要求とのジレンマに悩み、人智を越える歴史の流れが彼/彼女らに決断を迫る。先述したヴォルマンのRising Up and Rising Down(03年)は、ナポレオン戦争から本人によるイラク戦争のレポートまで多くの暴力を徹底的に分析することで、「暴力の微積分(moral calculus)」を試みた本なのだという。この言い方を使えば、前作で暴力について書いたヴォルマンは、その暴力を行使する前提条件である倫理に着目し、『ヨーロッパ・セントラル』では全体主義という暴力の時代において倫理的ジレンマに挟まれつつ決断する瞬間を捉えようとした──つまり倫理の微分を試みたのだと言える。
 ならば暴力の時代における「倫理の積分」は? 本書での一応の結末がそれに当たるのかもしれない。本書の後半は、最も長い章のタイトルでもある「作品番号110」が完成するまでに焦点を当てている。その作品こそ、ソ連共産党からの圧力と芸術の自由との狭間で悩むショスタコーヴィチファシズムと戦争の犠牲者のために捧げた曲」なのだ。


リテルとヴォルマン、それぞれのベクトル

 ショスタコーヴィチ、ロマン・カルメンと恋の三角関係となるエレナはもちろんだが、本書では多くの女性が印象的に描かれる。「あらすじ」で挙げた女性たちは言うまでもなく、中盤での軍人たちの章でも女性たちが登場する。将校としての成功を祈った夫が敵国へと寝返ってしまった妻、ナチス親衛隊を悩ませる死んだ女性の幻……これは男性性で語られることが多い歴史に、失われた女性のナラティブを取り戻していく試みとも言える。
 だが、ここで厳しい意見を言わせてもらうなら、女性のナラティブを取り入れたとしても「倫理的ジレンマ」(あるいは「倫理の微積分」)をヴォルマンがそこまで克明に捉えているかと言われると、疑問が残る。それぞれの登場人物の分水嶺とは言うものの、彼/彼女のほとんどがWikipediaの日本語版があるほどの著名人であるがゆえに、それは歴史的事実の集積の枠を出ていない。1人あたりせいぜい数十頁という短さもその要因だ。
 ラストも近くなりショスタコーヴィチがついに「ファシズムと戦争の犠牲者のために捧げる曲」を完成させようとするところで印象的な一文が出てくるが、これはある作家を彷彿とさせる。

 死は常に私たちの回りにいたんじゃなかったのか? もしショスタコーヴィチが500年前に生きていたなら、壁が羊歯に覆われて暗闇の同心円が不気味に広がっている深い井戸の中から、作品番号110を幸運にも見つけ出したかもしれない。(718)

 ここでの「井戸」は、村上春樹ねじまき鳥クロニクル』での「井戸」に非常に近い。もしかすると、ここだけを取り上げるのはアンフェアだと感じたかもしれない。私だってヴォルマンほどの意趣卓逸な作家ならば、格調高雅な言葉を駆使して人間の存在を捉える彼独自の世界観を提示することはできると思う。しかし、会話の中に実際の発言が組み込まれるほどノンフィクションの要素が強いこの小説に、その筆致を発揮できそうな箇所がそもそも少ないのだ※5。私が思うに、歴史的事実に忠実すぎるがゆえに本書は物語的なカタルシスに欠ける面があり、さらに「倫理的ジレンマ」のような抽象的で壮大な概念を捕まえるに十分な、言わば、創造的な跳躍が足りていないように思える。
 そして先程の書評に反してリテルの肩を持つなら、『慈しみの女神たち』では創作物である主人公マックス(末端の小役人なのか怪物なのかはともかく)による冒頭の宣言、そしてそのあとに延々と続く破壊の筆致、あのラストは、人間とそのシステムが孕む狂気を、他の現代作家の誰よりも捉えていると感じる。ヴォルマンとリテル、それぞれ方向性は違うが、より突き抜けている作品はリテルの『慈しみの女神たち』ではないか。これが『ヨーロッパ・セントラル』を読み終わったあとの正直な感想だ。


これはポストモダン文学なのか? そもそもポストモダン文学って?(次回予告)

 ここまで読んでくれた「ポストモダン文学に興味がある人」の多くは、消化不良を起こしているのではないだろうか。「ノンフィクション? メタフィクションではなく?」「サブカルチャーからの引用はないの?」「マジック・リアリズムの導入は?」──こういった「ポストモダン文学」のイメージはピンチョン、デリーロ、ギャディスら、ヴォルマンより一回り上の世代の作家たちに負うもので、『ヨーロッパ・セントラル』を、少なくともピンチョンらの世代と同じような「ポストモダン文学」とはカテゴライズするのは難しいだろう。
 それもそのはず、80年代にデビューしたヴォルマン、パワーズ、そしてデイヴィッド・フォスター・ウォレスらは先輩作家たちとは違うものを書こうとしていたからで、それについて書かれたDFWの有名なエッセイがあり……次回はサクッとそのエッセイの概要を書こうかと思っています。


※1:トム・ウルフとは1930年生まれで「ニュー・ジャーナリズム」の中心人物の一人と見なされている作家。「ニュー・ジャーナリズム」を乱暴にまとめるなら「取材を元にしたノンフィクションではあるけれど、小説のような演出を駆使して書く」という作風のこと。日本で言えば沢木耕太郎などがそれにあたる。

※2:ヒルデ・ベンヤミンの夫でありマウトハウゼン強制収容所で亡くなったゲオルグベンヤミンは、あのヴァルター・ベンヤミンの弟。つまり、ヒルデ・ベンヤミンはヴァルターの義理の妹である。

※3:原題はles Bienveillantes。日本語訳は、菅野昭正、星埜守之、篠田勝英、有田英也の共訳で2011年に集英社から出版。

※4:英語版のAmazonの商品紹介ページには、ワシントン・ポストをはじめ各媒体の書評が載っている。引用もそちらから。

※5:本書の特徴は「いつどこで何をした」という史実だけでなく、記録に残っている発言さえも組み込むことだ。例えば682頁では、ショスタコーヴィチとその友人たちが会話している中に「(交響曲)7番をレニングラードと呼ぶことに反対はしないよ。だけど、あの曲は包囲されたレニングラードについてではなく、スターリンに破壊され、言わば、ヒトラーによって消滅されたレニングラードについて書いた曲なんだ」という有名な発言が引用されている。