未翻訳小説を頑張って日々読んでいる日記

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まだ翻訳されていない英米文学をたまに紹介します。

「アメリカベスト短編集2021」The Best American Short Stories 2021(後編)

 ジェスミン・ウォードが2020年のアメリカ人作家の短編から編纂した「アメリカベスト短編集2021」。前回の更新からだいぶ時間が経ってしまったが、ようやく後半の残り10作を紹介。大物作家ソーンダーズや、デビュー長編が邦訳されたばかりのC・パム・ジャンなどが登場。




ジェーン・ペク「白と緑の衣を纏った二人の女性の図」(Portrait of Two Young Ladies in White and Green Robes (Unidentified Artist, circa Sixteenth Century) by Jane Pek) Best!!

 ジェーン・ペクはシンガポールで生まれ育ち、現在はニューヨークの投資会社で法律家として働きながら小説を書いている。The Best American Short Stories 2020にも選ばれており、2022年春にデビュー長編The Verifiersを発表。

 「数時間前、あなたの最後の子孫が亡くなった」から始まる異色の短編。女性である語り手は「あなた」との思い出を語り始め、現在のアメリカから、「あなた」が結婚式前夜に「私は子供が産みたいの」と語った瞬間へと時を遡る。それは、ななななんと明朝時代の中国! 
 語り手と「あなた」は永遠の命を持っていた女性同士で、自分の命と引き換えに子供を産むことができる……と言っても、旅先に出会った人に語った“ヴァージョン”と書いており、本当の設定はよくわからない。ともかくも「あなた」は子供を産んでからほどなく亡くなり、語り手は夫と子の行く末を見届けていく。
 数十年経ったあとにその夫と子に再会したり、結婚式以前に描いてもらった「あなた」と語り手の肖像画を300年後の大英博物館で見つけるなど、数十年、数百年の時を行ったり来たりするが、それらを何も違和感なく一本の語りとして成立させてみせる“情報の整理”が(最後のシーン、最後の一行まで含めて)驚異的だ。
 さらに、永遠の命の持ち主から見た人間の一生、というSF的な視点はもちろん、姉妹でもなくただの友人でもない「あなた」と語り手の関係、明朝時代の美術品がイギリスにある背景、子孫がアメリカに渡ったあと中国に戻らなかった理由……短編として面白いのはもちろん、様々な切り口があり11頁とは思えない「厚み」。
 20作あるこのアンソロジーの中で、私個人のベストはこの作品だ。


トレイシー・ローズ・ペイトン「ロドニー最後の日々」(The Last Days of Rodney by Tracey Rose Peyton)

 トレイシー・ローズ・ペイトンはイリノイ州シカゴ出身。テキサス大学オースティン校で創作を学び修士号(Master of Fine Arts)を取得。

 俳優であり、かつてはリアリティーショーに出演して人気を博したロドニー。もちろん誰もがその顔を知る有名人で、良い家に住み妻も子供もいる。しかし、本人はどうやら俳優業を辞めており、リアリティーショーに出ていた過去を忘れたい、別の人間になれたらとさえ思っている。そんなロドニーの何気ない一日を描いた短編。
 「最後の日々」とは言え、特筆することは起こらない。朝に立ち寄るコンビニの店員が顔馴染みから新人に代わっていて自分のことを知らない様子に笑いそうになったり(ここでロドニーが黒人であることが分かる)、新聞の一面に掲載された、警察に射殺された黒人男性の写真を見て「なぜお前(ロドニー)でなく私なのだ」と問い詰められている気がしたり、映画館での上映中に捕物に遭遇し身体が固まって動けなくなるなど、一つ一つの出来事に常に不穏な雰囲気が漂っている。
 最後、ロドニーは妻が隠れて飲んでいた酒の入った水筒を持ちながら、庭のプールに水を貯める。「ここにいない友人たちへ」と地面に酒を流し、残った酒を飲みながらプールへ浸かる。水嵩は徐々に上がってきて、いよいよロドニーの頭が水に浸かる。もう少しだけ水の中にいよう、そして顔を上げたとき、全てが変わっているはずだ……ここで、物語は終わる。

 ペイトンによれば、この主人公のモデルは1992年のロサンゼルス暴動のきっかけとなった暴行事件の被害者のロドニー・キング。2014年のブラック・ライヴズ・マター運動のとき、ロドニー・キングの映像のことを思い出し、あれほどの恐ろしい出来事のあと本人の人生はどうなったのか興味を持ったのが始まりだったという。最初の2ページを書いたあと、このまま書き続けていいのかとても悩んだが、書くことを決意。もちろんフィクションではあるが、一部(というかラスト)はロドニー・キングの実際の記録に基づいている。


クリスタ・ロマノスキー「この手の世界で勝つのはクソ野郎」(In This Sort of World, the Asshole Wins by Christa Romanosky)

 クリスタ・ロマノスキーはアメリカ東部アパラチア出身。プロフィールを読む限りは奨学金の内容が多く、これまでに短編や詩を発表してきた媒体もそこまでメジャーなものはないので、今まさにキャリアを歩み始めた作家なのだろう。音楽活動もしていて、これまで2枚のアルバムを発表しているようだ。ロマノスキーの作品では、田舎の生活、トラウマ、血筋にまつわることを取り上げられており、今回の短編もまさにその内容になっている。

 主人公は子供の頃から自傷行為を繰り返し(もちろん)薬物もしている、破滅的なシングルマザー、ティフ。夫を亡くしたティフは定職に就かず、子供のバッキーとともに亡き夫の友人ジョンや実家などを行き来するフラフラした生活をしている。開始早々「みんなクソ野郎だった。クソ野郎たちが勝利する唯一の方法は、彼女を負けさせること。そして彼女はそれを拒否していた」という一文が出てくるが、まさに出てくる登場人物全員がティフの敵だ。ティフの親は彼女に生活する能力がないことに怒りつつ、児童相談所に連絡してバッキーを取り上げようと脅す。夫の友人ジョンは彼女を性的に搾取し、友人でありティフの願いを度々聞いてくれた“クソ女(Some Bitch)”にも最後に裏切られる。ティフの唯一の味方であり、愛するものはバッキーのみ。最後はバッキーの寝顔を見るシーンで終わる。
 
 ロマノスキーによれば、アパラチアは職も少なく薬物問題も深刻な地域であり、作品の舞台もアパラチアないしは同じ状況の地域を選んでいる。この短編で描きたかったことは、そういった状況で“生き残る(survive)”ことであり、ティフが嫌悪という感情をあらわにすることは、生き残ることに必須の条件なのだという。救いのない物語の中に、微かに宿る生への執着。


ジョージ・ソーンダーズ「ラブレター」(Love Letter by George Saunders)

 この短編アンソロジーの中で最も著名な作家がジョージ・ソーンダーズだろう。1958年生まれのソーンダーズはコロラド鉱山大学で地球物理学を学んだ後、ニューヨークのシラキュース大学で創作を学び、現在は同大学の教授をしている。2017年ブッカー賞を受賞した『リンカーンとさまよえる霊魂たち』(上岡伸雄訳 河出書房)をはじめ、これまでに短編集やエッセイを含め11冊の本を出版し、かなりの数が邦訳されている。

 「202_年、2月22日」と日付された、祖父から孫への手紙という形式の短編。孫から受け取ったEメールの返信を直筆の手紙で書いているのは「トピックを考えると、Eメールが一番良いやり方なのか自信がない(…)知っての通り、奇妙な時代だからね」と自ら冒頭に書いているからだ。この不穏な空気が漂ったまま読み進めていくと、孫からのEメールは友人を助けることに力を貸してほしい、というものであり、それに対して祖父は特定を避けるため、“J”というようにアルファベット一文字を使い助言をしていく。
 このディストピアな設定は何なのか。それは祖父が過去形で書き始めてから明らかになる。「なぜならこの破壊行為が出てきたのは、単なるふざけた悪党に(そのときは)しか見えなかった無能な人物が始まりで」「私が話しているのは2回目のことで、完全なデタラメでそれほど傷つきも(驚きも)しなかった3回目(息子の方)のことではない」。つまりこれはトランプが再選をし、さらにトランプの息子がその後に当選した未来の話なのだ。

 ソーンダーズ本人のコメントによれば、危機の時代にあって自分がするべきことは何か考えつつも自分が特に何もしていないことに気づいていること、さらに自分にできることは書くことだけだが、それが危機に対してほとんど効力を持たないこと、その状況に自分がいることに分かる物語を書こうと決めたのだという。


シャンティカ・シガーズ「ビーといっしょに」(A Way with Bea by Shanteka Sigers)

 シャンティカ・シガーズは現在テキサス州オースティン在住。ノースウエスト大学を卒業後、ニューヨーク大学で創作科での修士号を取得。『シカゴ・リーダーズ』でいくつかの短編を発表している。

 小学校の教師で夫と不仲になりつつある女性と、その教え子である少女ビーとの関係を、女性教師視点の三人称で描いた短編。服装や身嗜みからビーはネグレクトを受けており、女性教師はビーを気にかける。そんな女性教師は夫の不倫を目撃しないかなと妄想したり、夫から教師という仕事について暴言を吐かれるなど関係は最悪の様子。女性教師のケアもあってビーは次第に女性教師に心を開いていく。
 あらすじではわからないが、非常に奇妙な雰囲気が漂う短編になっている。3〜10行程度で次のパラグラフ(シーン)へ行くという細かく分かれた構成で、多くのことが語られずに展開される(例えば女性教師の夫についてはほとんど何もわからない)。そもそも語り手である女性教師が夫の不倫を目撃したいと望むなど奇妙な人物だからだ。その結果として最後の1行「(夫に)あなたの猫の面倒は見ておくよ」が抜群の出来になっている。なぜこれが抜群なのかは是非直接読んでみて欲しい。

 元々、シガーズは大学院時代にハリ・クンズル(白水社から『民のいない神』が木原善彦訳で邦訳されている)の指導を受けており、そのとき書いた別の短編の主人公がビーだった。その後に先生を加えて別の物語に仕上げた。最後のオチの説明(由来)もしているがここでは割愛。


ステファニー・スワロー「ヘイグリラリー」(Haguillory by Stephanie Soileau)

 ステファニー・スワローはルイジアナ州出身で、様々な奨学金基金の援助を受けながら執筆。2020年にデビュー短編集 Last One Out Shut Off the Lightsを発表。現在はシカゴ大学で教鞭を取っている。

 2005年の夏、ハリケーン・リタとハリケーンカトリーナに立て続けに襲われたニュー・オーリンズに住む頑固爺さんのヘイグリラリーとその妻ドット(Dot)。妻に強引に買い物に付き合わされた先でヘイグリラリーはカニ釣り用の餌を買って二人でカニ釣りへ行く。カニ釣りをしていると、猫を探しているという一家に出くわす。母親が一生懸命探す中、父親からは実は猫が小さな子供のベッドでいつもおねしょをするから捨てたのだと聞かされる。一家はハリケーンの被災以来ずっとトレーラーで暮らしていた。ヘイグリラリーは一家の少年にポケットナイフを渡す優しさを見せる。一家とも別れて2人が帰ろうとすると、車の近くで一家が探していた猫を見つけてしまうのだった。
 あらすじは以上だが、主に描かれるのはハリケーンによって苦しくなった人々の生活と、保守的なヘイグリラリーの造形だ。息子が外国から受け入れた養子への冷たい態度や、「苦しんでいる奴らはそれを盾に他人を苦しめてもいいと考えてやがる」といった考えは読者にとって非常に不愉快なキャラクターとして映るが、そんな人物が最後にふと見せる優しさと妻に諭されるシーンが、ハリケーン直撃のニュー・オリンズと組み合わされることで不思議な余韻となる。

 スワロー本人が2005年のハリケーン襲来後に実際に見聞きしたことがストーリーの基になっているという。


マドゥリ・ヴィジャイ「親愛なる友よ」(You Are My Dear Friend by Madhuri Vijay

 マドゥリ・ヴィジャイはインドのベンガルール出身。ローレンス大学で心理学と英語を学び、卒業後はインドを離れて暮らす人々を研究していたようだ。カシミールを舞台にしたデビュー長編 The Far Fieldで、インドで最も権威のある文学賞(らしい)JCB賞を受賞している(英語で書かれたか、あるいはインド語に翻訳された作品が対象)。

 この短編集の中では長めの、20頁の作品だ。イギリスからインドに移り住んでいるベイカー宅で、“au pair”をしている女性ギータ(Geeta)が主人公(“au pair”とは外国人の家で子供の世話や家事など住み込みで働きながら、語学を勉強する人。「家庭教師」とも違うし訳すのが難しい単語)。29歳のギータはベイカー宅のパーティーをきっかけに、宝くじを当てて裕福な暮らしをする53歳のインド人のスリカンス(Srikanth)と結婚することに。子供ができないことで、ギータは里親になることを決め、そしてふたりの前に現れたのが8歳のラニ(Rani)。ラニはギータの言うことを全く聞かず、あろうことか本当の両親のために家から高価なものを盗もうとすらしてしまう。そしてそのことに対してスリカンスは、自分は前の妻との間に子供が一人いる、子供が欲しいと言ったのはお前なのだからお前がなんとかしろ、と冷たく言い放つ……。
 テンポよくストーリーが展開されていき、細部を膨らませれば中編あるいは長編になってもおかしくない。家の仕事をひたすら押し付けられるギータの苦悩、スリカンスの男尊女卑的言動からこの作品の主題がフェミニズムであることは明白。さらにベイカー宅での快適な暮らしの影と、スリカンスからギータやラニへの言動には、インドのカースト制ないしは階級制の問題が描かれている。後半には物語的なカタルシスだけでなく、上記の問題を批判する強烈な文章も出てくるので、読み応え抜群だ。


ブライアン・ワシントン「おしゃべり」(Palaver by Bryan Washington)

 ブライアン・ワシントンはケンタッキー州生まれ。ヒューストン大学を卒業後、ニューオーリンズ大学で創作科での修士号を取得。2019年に短編集 Lot、2020年に長編 Memorialを発表。Lotでは若手作家を対象とするディラン・トマス賞を受賞している。ワシントンはゲイであり、LGBTQの作家を対象とするランブダ文学賞のゲイ・フィクション部門の受賞歴もある。

 東京の新大久保に住むゲイの息子の元を、遠路遥々アメリカから訪れた母。そこで息子は、順番にお互いの話をしよう、という提案をする(少しジュンパ・ラヒリ「停電の夜に」を思い出す設定だ)。
 「昔々、私は既婚者の男性と恋に落ちました」と語りだす息子。驚く母に対して、次は母の番だよと息子は言うので、母は今は離婚した夫との出会いを語りだす。親子が(ときに母一人だけで)東京の様々な街を訪れる(もちろん歌舞伎町2丁目も訪れる)のと並行して、2人の話も徐々に核心に近づいていく。
 興味深いのは、アメリカ人向けに書かれた東京の描写だ。日本文学なら当たり前すぎて書かれない電車内のサラリーマン、コンビニの店員、夜の街などの描き方は、外部から見た東京という街のエッセンスが抽出されていると言うこともできて、一周回って新鮮。
 もちろん親子の会話劇もとても上手く書けている。セリフが鉤括弧なしで書かれているので二人の会話と東京の描写がシームレスに繋がる。これによって、断片的に語られていく2人の話が東京の乱雑さと印象的に重なるのだ。最後は代々木公園でピクニックをして爽やかに終わる。これも日本文学ではなかなか見られないラストだろう。ベタと言えるが、ベタにはベタの良さもあるのだ。

 どうしてもワシントン自身の日本滞在の話が気になるが、作者のコメントには特に書かれていなかった。
 

ケヴィン・ウィルソン「生物の授業」(Biology by Kevin Wilson)

 ケヴィン・ウィルソンはフロリダ大学で創作科での修士号を取得し、現在はテネシー州のサウス大学、通称「スワニー」で創作を教えている。これまで2冊の短編集、3冊の長編を発表している。

 語り手のパトリックは、facebookの投稿で中学生の頃(eighth grade)に生物を担当していた男性教師レイノルズが亡くなったことを知り、レイノルズとの思い出を語る。いわゆる陰キャのパトリックはクラスに居場所がなかったが、そんなパトリックにもレイノルズは優しくしてくれた……という比較的ストレートな構成。しかし、この短編が優れているのはパトリックが“自分で考案した”カードゲーム「デス・カード(Death Cards)」を常に持ち歩いている、という設定だ。
 「デス・カード」は、幼年期、青年期、大人期、老人期にそれぞれ分けられたカードの山があり、それぞれ「高校を卒業した」「宇宙飛行士試験に合格」「初めてのセックスをする」などのライフイベントが描かれている。幼年期から数枚を引き、次は青年期と進んでいくが、カードの山の中には恐ろしい死に方が描かれたデスカードが含まれており、途中でデスカードを引くとそこでゲームが終了となる。最後までデスカードを引かずにゲームを終えれば「眠るように亡くなった」となる。こうして色々な人生を体験する、というゲーム。パトリックはずっと1人で「デス・ゲーム」をプレイしていて、仲良くなり始めたレイノルズにそのことを話すと、レイノルズは馬鹿にせず一緒にプレイしてくれるのだった。
 冒頭からなのだが、パトリックがゲイであること、あるいは非異性愛を暗示させる箇所がいくつか散りばめられており、レイノルズのベトナム従軍経験もその一つだ。前述のように構成はストレートで非常に読みやすいが、同性愛、いじめ、トラウマなど重要なテーマを非常に上手く折り込んでいる。最後、とある理由で怪我をしたレイノルズを訪ねるパトリック。現実があまりにも辛いと告白するパトリックに対しレイノルズは、パトリックの「デス・カード」からデスカードを一枚ずつ取り取り除き、死の恐れがない状態でプレイすることで、人生とは何かを教える。面白い設定を100%活かしたラストと言えるだろう。


C・パム・ジャン「小さな獣」(Little Beast by C Pam Zhang) Good!

 C・パム・ジャンは、2022年夏に『その丘が黄金ならば』(藤井光訳、早川書房)が発売されたことで名前を聞いたことがある人がいるかもしれない。ジェスミン・ウォードとコーマック・マッカーシーを合わせたようだと評される作品で、ブッカー賞をはじめとした多くの文学賞の候補に残り、将来が期待される若手アジア系作家のひとりだ。

 「自分の身体がこぼれていくのを感じたのは13歳のときだった。(…)私の姿勢は液状で、33個の脊椎があるが背骨は存在しなかった」と、身体への違和感から始まる。語り手は、アルタと呼ばれる女子校に通う女の子。アルタは超エリート校で、政治家や芸能人の子どもなどが在籍しているが、語り手は奨学金で入学しており、父はアルタの用務員だ。父は語り手のことを、かつては「おチビちゃん(Inch)」と、今は「お嬢ちゃん(Girlie)」と呼び、何かと過干渉してくるので語り手は父のことを嫌っている。
 学校の環境に馴染めない語り手は、「サイレント・ガールズ(Silent Girls)」と呼ばれるグループに興味を抱く。部活にも入らず授業中に勝手に抜け出する彼女たちは、まさにアルタにいながら別の世界の住民だ(日本でいうところの、不良と中二病を足したような感じ?)。偶然包丁で手を切ってしまった語り手は、教師から保護観察グループに入れられると同時に「サイレント・ガールズ」の仲間に入ることになる。やがて、仲間へのアピールのために語り手は取り返しのつかないことをしてしまう……。
 
 冒頭への身体への違和感は、一人称にも関わらず三人称のような俯瞰的視野で最後まで語り続ける文体に繋がる。またパム・ジャンは女の子たちを取り囲む現在の状況、例えばメディアでの理想的女性像、若い女性に向けられる性的まなざしによって、女の子たちが無意識的に歪められてしまうとし、その薄気味悪さを増幅した、と語っている。



 こうして全20作を振り返ると、人種、LGBTQ、抑圧される女性など、社会の周縁に追いやられた人物を扱った作品が多い。全て読んだ者の感想としては、それは選者が女性黒人作家のウォードであるからというよりも、それらの作品が短編としての完成度が非常に高かったから、と言うことができるだろう。
 ではなぜ社会の周縁を扱った作品の方が魅力的だったのか。全くの偶然なのか、それともそれが「文学」の常なのか。その問いに答えを出すには、俯瞰的な文学史の知識と最新の情報をチェックし続ける根気が必要で、私にはちと荷が重いですなあ……。