2020年の全米図書賞フィクション部門の受賞作。チャールズ・ユウ(游朝凱)は1976年生まれ。カリフォルニア大学バークレー校で分子物理学と細胞生物学、そして創作を学んだ後、コロンビア大学のロー・スクールで法律を学び、法律事務所で働く。2000年代初頭から短編やエッセイを発表し、2010年『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと(原題:How to Live Safely in a Science Fictional Universe)』を発表。2014年に円城塔訳で出版されている。今作『Interior Chinatown(インテリア・チャイナタウン)』は2作目の長編。
『セルアウト』のプロットは私が以前に書いた記事を読んでいただくとして、青木耕平が『アステイオン093号』で同書の書評を書いていてそこから引用すると…… 「アメリカで黒人男性に寄せられる偏見を、知識として読者も共有していることを前提に構成され、ありとあらゆるステレオタイプだけでなく、歴史的、政治的、文化的な固有名詞が羅列されていく」(『アステイオン093号』205頁) つまり、黒人へのステレオタイプをどストレートに書いていくことで「皮肉」として黒人差別を表象する小説だ。その小説内でとりわけ印象的(準主役とも言える)のが、ホムニィ・ジェンキンスという高齢の黒人男性。彼は元俳優で、これまでに出演した作品とそこで演じた役柄は以下の通り。 ホムニィの主な出演作品 ・Black Beauty ─ 馬の世話をする少年(クレジットなし) ・War of the Worlds ─ 新聞配達の少年(クレジットなし) ・Captain Blood ─ 船上の給仕少年(クレジットなし) ・Charlie Cham Joins the Klan ─ バスの給仕少年(クレジットなし)(『セルアウト』75頁) ホムニィは「白人が中心」のスクリーンの中で、セリフがほとんどない黒人のステレオタイプの役をずっと演じてきたのだ。 "INTERIOR" Chinatown そして『インテリア・チャイナタウン』に戻る。チャイナタウンで撮影しているドラマのタイトルは『BLACK AND WHITE』。「白人と黒人が中心」のスクリーンの中で、ウィルスはじめチャイナタウンの住民は、アジア人のステレオタイプの役を演じるのだ。その役柄はだいたい以下の順に変わってくる。 5. 背景の東洋人男性 4. アジア人男性の死体 3. アジア人男性3 / 配達員 2. アジア人男性2 1. アジア人男性1(25頁) 「アジア人男性1」まで行けば、ようやく何かセリフがもらえるかもしれない。そしてさらにその先に…「カンフーの使い手」の役がある。かつてチャイナタウンからそこまで登り詰めた人物として、まずカンフーの達人である父、そしてその父の一番の教え子で「長兄(Older Brother)」と呼ばれた男がいた(別に誰かの兄弟ではない)。彼はカンフーはもちろん、ムエタイ、柔道、テコンドー、しまいにはブラジリアン柔術も使いこなせた。さらに… 数値上、彼の身長はアジア人として完璧だった。白人女性が振り向き、バーテンダーに無視されないには十分で、だけど姚明(NBAで活躍した中国人選手)と呼ばれたりモンゴルの巨人だとは思われない程度の高さだった…(略)…日本のサマリーマンのカラオケにも付き合うことができたし、トッポギをソジュで流し込むこともできた。(41-42頁) ここはまさに「文化的な固有名詞の羅列」をすることで、皮肉りつつも笑いを取りにきている箇所だ。 さて、そんな完璧だった長兄だが、突然チャイナタウンから姿を消してしまう。彼はどこへ行ったのか誰も知らない。主人公ウィリスは長兄のように「カンフーの使い手」の役をゲットするため日々精進し、ついにセリフを与えられるところまできた。ウィリスがセリフを読み上げると… そしてまた銅鑼の音が鳴った。君は辺りを見渡すが、どこから音が聞こえてきたのか分からない。(106頁)
ウィリスは、いや、読み手も含め、この小説では現実と芝居の区別がついていない。「脚本仕立て」の語りの真の意図がここにある。『セルアウト』のホムニィがそうだったように、エンターテイメントは差別が顕著に表象されている場であり、本作は作品全体をメタ・フィクションとすることで、『セルアウト』のさらに背景にいる、アジア人を逆説的に前景化する。本作のタイトルが『インサイド(INSIDE)・チャイナタウン』ではなく『インテリア(INTERIOIR)・チャイナタウン』である理由も理解できよう。 果たして、ウィリスは「カンフーの使い手」になれるのか? 白人と黒人が中心の物語(ストーリー)の中で、ウィリスは何を掴むのか? 本作はフールー(Hulu)での実写化が決まっていて、脚本仕立ての語りをどう映像化するか非常に楽しみだ。最初に書いたように著者の前作がすでに翻訳されているし、ここ数年の全米図書賞、ブッカー賞受賞作はほとんど翻訳されているので(『セルアウト』を除き…涙)、『インテリア・チャイナタウン』も間違いなく翻訳されるだろう。 これより先は、結末まではいかないが8割方のネタバレを含むので、実写化・翻訳を楽しみにする人は読まないでほうがいいです。
「ストーリー」とアジア人 ここまで来た人なら、ウィリスがその後どうなるか、なんとなく察しをつくだろう。 が、その前にウィリスの母親を経由して、1947年、台湾での「白色テロ」から始まるウィリスの両親のエピソードがはじまる。『セルアウト』のようにゲラゲラ笑いながら読める小説かと思ったら、ここから一気に暗く辛い話になる。 ウィリスの父であり師匠、ミン・チェン(・ウー)は若い頃必死に勉強し、台湾からアメリカはミシシッピの大学院に留学する。下宿先では日本人、韓国人からパンジャーブ人(パキスタン最大の民族)など様々な国からの留学生がいて、彼らは親しくなり、お互いがどのようなあだ名で呼ばれているかを教えあったりした。侮辱語から見た目に関することまで様々なあだ名が挙がるが、ミン・チェンはずっと「中国人(Chinaman)」と呼ばれ続けていた。しかしそれが全て吹き飛ぶ事件が起こる。彼らの仲間のうちミン・チェンと同じ台湾人が、通りすがりのアメリカ人に「ジャップ、これはパール・ハーバーのお返しだ」と殴られて病院に運ばれたのだ。 住民全員が理解した。それは皆のこと。彼ら全員のこと(it was them. All of them)。大事なのはそういうことで、彼らは皆同じなのだ。(163頁) もう机を囲んで、あだ名を比較することもなくなった。なぜなら、彼は今自分たちが何であるかを知ったのだ。これからもずっと。 アジア人男性(Asian Man)(164頁) 先日、映画『ダイ・ハード』を観ていた友人が「日系企業のビルが舞台だけど調度品がことごとく中国製なのがさすが!って感じ」とツイートしていたのがまさにこれだ。「白人と黒人の物語」の中では、日本だろうが中国だろうが同じ「アジア人」としか描かれない。「白人と黒人の物語」の中でミン・チェン・ウーたちは「アジア人男性」という役しか与えられない。この残酷な事実が「脚本仕立て」の語りによって、より鮮明になる。現実と芝居の区別がついていない、のではなく、現実も芝居も同じなのだ。 そしてミン・チェンは「ガラスの天井」にぶつかる。大学院を卒業しても職を得られなかった彼が流れ着いたのはチャイナタウンの食堂。そこでやはり「白人と黒人の物語」の背景で損な役を生きてきた(演じてきた)ウィリスの母、ドロシー(a yellow girlとだけ書かれていて民族的ルーツは不明)と出会う。 ミン・チェン・ウー こうして僕たちは出会ったんだ。そして恋に落ちたわけ。 ドロシー この場所で? ここはロマンスの場所じゃない。ここは警察が死体を発見する場所。 ここは昼と夜の境目がなく、日によって私たちが何になることを許されているのか分からない場所。こんな場所で私たちはどうやってラブストーリーができるっていうの? ミン・チェン・ウー その通りだ。俺たちは境遇を選べない。恋ができるときに恋しないといけない。仕事の合間、シーンの合間の、盗まれた瞬間に。ラブストーリーじゃない、俺たちのストーリーだ。(171-172頁) この「ストーリー」は重要なキーワードとして機能する。どうやって「白人と黒人のストーリー」から抜け出して「私たちのストーリー」を獲得するのか。 「トラップ」と白人化(white-ish) ウィリスが「アメリカ人になるために(to become Americans)」必死に努力してきたように、父ミン・チェンも少しでもいい役を得るために必死に努力した。そしてついにミン・チェンは「カンフーの達人」の役を得る。しかし、役のクレジットは「フー・マンチュー、イエローマン(Fu Manchu, Yellow Man)」だった。「フー・マンチュー」は調べるとすぐにわかるが、悪役アジア人の代名詞的な役名だ。しかしミン・チェンはもう後戻りはできない。彼は与えられた役を演じ続け、ドロシーの夫でなくなり、ウィリスの父でもなくなり、彼はブルース・リーの劣化版になってしまった。 ミン・チェンは「トラップ」に引っ掛かったのだ。この小説では「白人と黒人のストーリー」の中で、絶対になれない白人になろうとして搾取され、文化的な背景とコミュニティまでをも失うことを「トラップ(閉じ込める、罠に掛かる)」と呼んでいる。原文では”They’ve trapped us”のように動詞として使われることが多いが、この”They”が誰のことなのかは説明の余地もない。 そして再び、ウィリス・ウーへと戻る。ウィリスは以前に共演したことがあるカレン・リーという女性と食堂で再会する。祖母が台湾出身というカレンは大学を卒業したあと特にやりたいこともないので俳優業をしている。彼女は、ブラジル人、フィリピン人から日焼けした少し異国風の「白人女性」まで、色々な役を演じてきた。ウィリスはそんなカレンと恋に落ちる…というかカレンと話しているうちに、「アジア人男性のラブストーリー?」というテロップが加わる。 ラブストーリー:君とカレン、シーンが設定される。位置につけ。彼女は旅行客で、君は配達員。君は彼女から目を逸らすことができない。 ロマンティックな演出はじまる カレン これもう始まってるってわけ?(183頁) 時は流れ、そんなウィリスとカレンの間に娘ファービー(Phoebe)が誕生する。と同時に、カレンは大役をゲットする。若き母親の役を演じるその舞台は、チャイナタウンから離れた郊外。カレンはウィリスに、このままここにいても父のように「トラップ」に引っ掛かるだけ、一緒に来るよう言うが、カンフーにこだわるウィリスは拒否。家族はバラバラになる。 やがて、ウィリスはついに「カンフーの使い手」の役を掴む。しかし、やはり父のときと同じだった。「トラップ」に引っ掛かってしまった。自分が間違ってカレンが正しかった。ウィリスは(撮影クルーの)車を奪って撮影現場=チャイナタウンから逃亡する。 …ウィリスはカレンと娘フィービーがいる場所(舞台)へとたどり着く。そこは漫画のような背景に中国王朝や台湾の古い村をごっちゃ混ぜにしたアメリカの架空の街(移民の、文化変容の、同化政策の古い夢の語り直し)を舞台にした、メイ・メイ(Mei Mei)という中国人の女の子の冒険を描くストーリーだ。そこでウィリスが目にしたのは、まだ人種のことも知らず、演じることも知らない、純粋無垢な娘フィービーの姿だった。時折、子供の合唱団による「シェイシェイ・メイメイ♪」という歌が流れてくる。 フィービー なにかおはなしして? カンフー父さん やり方わからないんだよね。誰もそういうお願いしてこなかったから。 フィービー ためしにやってみたら? カンフー父さん わかった。やってみるよ。 (深呼吸する) あるところに女の子がいました。その女の子は…… ここがこのストーリーで大事なポイント。 この次の言葉、たとえその後に何を付け足したとしても、その言葉がものすごくたくさんの物事を決定してしまう。あまりに多すぎて数えきれないくらいの部屋、廊下、階段、隠し壁や隠し通路までを備えた宮殿につながるドアの鍵のようにそのストーリーが展開されるだろうし、あるいは次の言葉が壁そのものになり、壁が2つになり、囲んで迫ってきて、ストーリーの展開を制限してしまうこともあるだろう。(220頁) 女の子の話が続けられないので自分の話をしようとするが、ファービーは眠ってしまう。このファービーの夢のような部屋でこう語られる。 彼女は、歴史もなく、ここまで何があったのかも知らず、次のことを伝える君(ウィリス)が誰なのかも知らずに、ここにいる。これは終着点ではなく、これがゴールだったことなんて一度もなく、中国人の鉄道労働者とアヘン窟の女将と着物の女性と懸命に働く移民と尊敬すべきアジア人男性の死体とカンフーの使い手すべてのその先が、「シェイシェイ・メイメイ」だったことなんてないということを。それは同化という夢で、やっと気づいたがその夢とは、リアル・アメリカン・ガールのことだ。 (223頁) カレンとフィービーが向かった先にあるのは、ホワイトウォッシュされ(原文ではwhite-ish)歴史を忘却した「リアル・アメリカン・ガール」のストーリーだったのだ。そこは調和された夢。そこにいれば「アジア人男性」からただの「男性」になれる。でもここにずっといることはできない。なぜならこれはリアルではないから。そしてそこに警察のサイレンが聞こえてくる。ウィリスは警察が来るのをわかっていたし、むしろ待ち望んでもいた。 サイレンが止まる。メガホンから、君が知ってる声が聞こえてくる。 黒人男性警官 手を挙げて出てきなさーい。(225頁) そして小説は最後の舞台へと移る。フィービーとの対話の中で、移民の歴史と同化(assimilation)を読者の面前に持ってきたわけだが、そうなると次の展開はもちろん「アメリカを問い直す」ことだ。これはまさに『セルアウト』と同じであり、当然の帰結として最後の舞台も『セルアウト』と同じ場所が選ばれる。アメリカの歴史、法、そして自由を司る場所。裁判所だ。 Exterior Chinatown そこでどんな裁判が繰り広げられるかは…さすがにこれ以上のネタバレは控える。アジア人だけでなく、黒人、太っている人、ルッキズムまでに射程を広げて平等とは何かを問う。そしてラストに待ち受ける衝撃のラスト、涙が出てくるようなそのシーンは文句なしに最高だし、まさに映像向きとも言える。繰り返すが英語は易しめなので、英語がそこそこできる人は翻訳が出るまでに読んでしまうのはアリだ。 脚本仕立てのメタ・フィクションにすることで、一般的な小説では不可能な手法をいくつも用いたエンタメ性抜群のストーリー。その上で人種差別とその構造的問題を提示する。読みながら何度も唸ってしまった、間違いなく傑作だ。また、様々な方向に話を広げていくことも可能だろう。
たとえば、ミン・チェンらを絶望させた「全員同じアジア人」という括り方。日本でも似たような現象があると言えるだろう。日本社会の構成員として外国人労働者を見ない日はないほどだが、ときに彼/彼女たちの文化的背景を全く無視して無理やり「東南アジア系」として括っていないだろうか? 文化現象ならば、ウー父子がこだわり続けた「カンフーの使い手」。ここ最近ヒットしたカンフー映画ってあっただろうか? ここ数年で私が目にしたカンフーは、なんということだろう、音楽界のスーパースター、黒人のケンドリック・ラマー扮する「カンフー・ケニー」だけなのだが。
私が挙げた例を見ればわかるように、『インテリア・チャイナタウン』が私にここまでヒットしたのは、自分が「海外(主にアメリカ)文学と洋楽好き」という人間だから、ということはあるだろう。どんなに原書で読んでも、どんなに洋楽を聴いても白人には絶対になれないのであり、またそれは自分のルーツを蔑ろにすることにも繋がる。 とりあえず、積読になっていた最新の日本の小説を読んでいくことから始めるか。