2020年の女性小説賞(オレンジ賞、ベイリーズ賞を経て今はこの名称)と全米批評家協会賞を受賞した『ハムネット(Hamnet)』。作者のMaggie O’Farrell(マギー・オファーレル)は1974年、北アイルランド生まれ。wikipediaでは大学で英文学を学んだ後、ジャーナリストとして働き大学で創作を教えていたと過去形で書かれているので、現在は専業作家ということなのだろうか?(書誌情報や彼女のHP見ても昔の経歴は分からず) 現在日本語で読める彼女の作品は、高い評価を受けた2000年のデビュー作『アリスの眠り』(原題『After You’d Gone』西本かおる訳、世界文化社)のみ。ちなみに夫のWilliam Sutcliffe(ウィリアム・サトクリフ)も作家。YA小説や風刺小説などを多く書いているようで、2008年の『Whatever Makes You Happy』は『アザーフッド 私の人生』として2019年に映画化もされている。 小説『ハムネット』は「歴史注釈(Historical note)」という頁から始まる。 1580年代、ストラトフォードのヘンリー通りに暮らしていた一組のカップルは、三人の子どもをもうけた。スザンヌ、そしてハムネットとジュディス。二人は双子だった。 男の子ハムネットは1596年、11歳で亡くなった。 4年ほど経ったあと、父親は戯曲『ハムレット』を書きあげた。 言わずもがな、父親とはあのウィリアム・シェイクスピアのこと。シェイクスピア一家、特に妻アン・ハサウェイ(Anne Hathaway)と息子ハムネットについての正確な情報はほとんど残っていない。だが、作者のオファーレルは想像を膨らませて、新しい家族の物語を作り上げたのだ。
この小説はどこから語ればいいのか難しい。それぐらいアイディア(あるいはテクニック)が詰め込まれている。 「シェイクスピア」が出てこない まず、この小説は『ハムネット』というタイトルだが、実際の主人公はハムネットでもその父ウィリアムでもなく、母アグネスだ。 (ウィリアム・シェイクスピアの妻はAnne Hathawayという名前が一般的だが、オファーレルは違う名前を充てた。この歴史的事実との違いについては最後の「著者注釈(Author’s note)」にまとめられている) ウィリアム・シェイクスピアというあまりにも巨大すぎる名前に物語の重心が奪われることを避けるため、ラテン語家庭教師、彼女の夫、彼(彼女)の父、などの呼称が使われている。家族が暮らすストラトフォードが舞台になっているが、ウィリアムは劇作家として活動し始める少し前からロンドンに単身赴任状態になってしまうので、結果的に一般的な「ウィリアム・シェイクスピア」の姿がほとんど描かれないのだ。 (正式な名前をストラトフォード=アポン=エイヴォンというその舞台は、ロンドンから電車で約2時間の位置にある街。現在ではシェイクスピアの故郷として一大観光地となっている) 「時の流れ方」が異なる二つの語り この小説は二部構成になっている。第一部はハムネットが亡くなるまでで、第二部はそれ以降の話。そして第一部の構成が面白い。 冒頭、少年ハムネットが早朝の邸を歩き回るシーンから始まる。ハムネットは家族を探そうとするが、どこにもその姿が見えない。ロンドンにいる父はもちろんだが、母、姉、メイドたちはどこへ行ったのか? この導入はハムネットを幽霊のように描くと同時に「あれ? ウィリアム・シェイクスピアは出てこないの?」と、肩透かしを食らった読者の気持ちをそのまま書いていると言ってもよく、抜群の掴みだ。やがてハムネットは双子の妹ジュディスが発熱しているだけでなく、喉や肩が腫れていることに気づき、助けを求めて医者を探しにいく。 読者は次の章に切り替わったところでさらに驚いてしまう。急に「ハムネットが医者の家へと走る15年前」の話が始まるからだ。そこではラテン語家庭教師が、窓の外でタカを手首に携えた謎の女性に目を奪われるエピソードが展開される。ここで読者の頭から完全に「シェイクスピア」のイメージが消えて、二人の男女の不思議な出会いの物語をひたすら追いかけることになる。そして再びハムネットの視点へと戻る… この小説の第一部は、ハムネットが亡くなる一日と、ハムネットの父と母が出会い双子が生まれるまでの数年間との、時の流れが異なる二つの語りが同時に展開される。そして場面が切り替わる際に違和感がないように繋いでみせるのも素晴らしい。 母アグネスの特殊能力 森に伝わるおとぎ話のような人物だと噂されているアグネスは、不思議な能力を持っている設定。薬草のエキスパートであるだけでなく、未来を予知し死者の魂をも感じることもできる。その出自の不気味さからラテン語家庭教師の親から交際を猛反対されるが、「自分は二人の子に看取られて亡くなる」という未来を知っているアグネスは、それでも結婚へと突き進む。 アグネスが不思議な能力で人生を切り開いていく様は非常に面白いのだが、同時に読者は不安にならざるを得ない。なぜなら、この超人的なアグネスをもってしても「ハムネットが11歳で亡くなる」ことは避けられないことを読者は知っているからだ。果たしてアグネスの能力を掻い潜りハムネットを死に至らしめるものは何なのだろうか? 細かな描写 この小説は基本的には易しい英語でテンポよく進んでいくが、所々で細かい描写を入れてきてよいアクセントになっている。植物学のようなアグネスが育てる薬草の描写、物置小屋でラテン語家庭教師とアグネスが結ばれる中その振動で震えるりんごの描写、最終盤にアグネスが見たロンドンの悲惨な光景などなど、色々見せ場はあるのだが、特筆すべきはジュディスがペストにかかっていることが分かった後に突然挿入される蚤(ノミ)のエピソードだ。 エジプトの港町アレクサンドリアで、船乗りの少年は猿が売り物にされているところに出くわす。少年と猿は一瞬心を通わせ、猿は少年の頭に飛び移る。そのとき2匹の蚤が少年の身体に落ちた…この出来事がきっかけとなり、船と港の多くの人々が謎の死を遂げ、やがてその死の影は遠く離れたストラトフォードに住むジュディスという女の子に辿り着く。その過程が15頁ほどで描かれるが、コロナ禍を経たあとにこの箇所を読むと、強烈なリアリティを感じることができる。(出版が2020年3月31日なので、コロナ禍に合わせて加筆したわけではなさそう) 兄の献身という悲劇 ジュディスがペストだと診断され、家からでることが許されない一家。そんな中、双子の妹ジュディスを救うために双子の兄ハムネットが取る行動は……ある程度予測できるとはいえ、ハムネットが母アグネスの目の前で死ぬシーンは、その悲しみの大きさとその後に残された人たちの虚無感を完璧に描いており、展開が読めても読者を圧倒させる筆力は見事と言わざるを得ない。 やはり予習はしておいたほうが良い 第二部は母アグネスの視点を中心に、悲劇による喪失とそこからの再生が描かれるが、これ以上のネタバレはやめておこう。一応言っておくと、さすがに第二部からは『ハムレット』を先に読んでおいた方が楽しめることは間違いない。私は『ハムレット』しか読んでいないので分からなかったが、もしかしたら他のシェイクスピア作品のオマージュなりヒントが散りばめられているのかもしれず、他の作品も読んでいる人ならより楽しめるのかもしれない。
息子を失う母アグネスを中心に女性キャラクターが多く登場するので、本作を一種のフェミニズム小説と読むこともできるだろうが、基本的には前回紹介した『シャギー・ベイン』(2020年のブッカー賞受賞作)のような批評的な読みができるタイプの作品ではないと思う。むしろ本作の価値は、ガーディアン誌のレビューに書いてあるように、誰もが知っている世界的なモチーフを使って全く新しい豊潤な物語を作り上げた、その創造の可能性を示したことであろう。 あらすじをほとんど説明してしまったと思うかもしれないが、これはあくまで大枠に過ぎない。アグネスとその夫の家庭環境や出産など、書ききれなかった要素はまだまだたっぷり残っている。さながらメドレー形式のように異なるタイプの物語が次々と展開されていき、最初の一行から最後の一行までまさに一瞬の緩みもない、文句なしのクオリティだ。 是非とも翻訳を期待していただきたいところだが…どこか出してくれますよね?