未翻訳小説を頑張って日々読んでいる日記

未翻訳小説を頑張って日々読んでいる日記

まだ翻訳されていない英米文学をたまに紹介します。

Hot Milk by Deborah Levy

 作者のデボラ・レヴィは1959年生まれのイギリスの小説家であり詩人であり劇作家。80年代から詩人・劇作家としての活動をしているようで、彼女の演劇はロイヤル・シェイクスピア・カンパニーで上演されたこともあるそうだ。小説家としてのデビューは1990年。2011年の『Swimming Home』がブッカー賞の最終候補に残り、本作『Hot Milk』も2016年の最終候補に、2019年『The Man Who Saw Everything』は一次選考で落選(すでにレビュー記事が存在しており面白そうだ)、と惜しくも受賞とは至っていないわけだが、実力が本物の作家であることは間違いないだろう。なお、作品は全て未翻訳。

 この本を見つけたのは三鷹にある古本屋、水中書店。タイトルは聞いたことがあったのは前述したように2016年のブッカー賞の記事で目に入っていたからだろう(受賞作は前回紹介したポール・ビーティの『Sellout』)。開いてみると大きめのフォントに文章も読みやすそうで頁数も200ちょい、それこそ「大学一年生が初めて挑戦する洋書」なんかにピッタリだ。
 というわけで買って読んでみたわけだが……平易な文章とは裏腹になかなか一筋縄ではいかない小説だった。


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写真を中央に置く方法がやっとわかった笑。


あらすじ

Neither a god nor my father is the major plot in my own life.
I am anti the major plot.
(143)

 『Hot Milk』の舞台は地中海に面するスペインの街、アルメリア。多くの国が経済危機に陥っている描写が何度も出てくるので、時代設定は2010年代前半。
 そのアルメリアに、ローズとソフィアの母娘がやってくる。母ローズは原因不明の脚の病気を患っていて、たまに少しだけ歩けたりもするが基本的に車椅子生活。娘ソフィアは人類学の博士課程の大学院生だが、ローズの世話をするために学業を中断している。ローズの脚に対してイギリスの医者は全員匙を投げたため、母娘は評判を聞きつけ最後の望みをかけてアルメリアの整形外科医ゴメスの元を訪れたのだ。
 ローズの世話をしつつ何やら怪しいゴメスのクリニックを訪れる一方、ソフィアは不思議な魅力を備えた奔放な女性イングリッド・バウアー(Ingrid Bauer)、そしてビーチの救護室にいる医学生ファン(Juan)の二人とそれぞれ恋人のような関係になる。要はバイセクシャルだ。
 「私の脚は彼女(ローズ)の脚」という逆転した母子のような娘ソフィアと母ローズの絆。そしてイングリッド、ファンとの恋愛関係。ソフィアを巡る「親子」「恋愛」という二つの関係性が物語の軸となり、ソフィアはその関係性の中でアイデンティティーが常に揺れ動く。

 その揺れ動きを、直接的に書かずに「イメージ」を通じて表現する。「メデューサ」と呼ばれるクラゲの針、ダイビングスクールに繋がれた犬、裁縫師であるイングリッドがソフィアに作ったシルクの服、ゴメスの娘との会話、40歳年下の女性と結婚し子供まで作った父への訪問(つまりソフィアには24歳年下の妹がいる)、古い花瓶に描かれた女性奴隷の絵…こういった小さなイベントやモチーフ、何気ない会話の一言が、もちろんキャラクターたちの行動にも影響を及ぼすのだがそれと同時に、少しづつ変わっていくソフィアの内面を暗示していく。「イメージ」の小説ではあるが、よくあるように詩的表現や風景描写で伝えるのではなく、もっと曖昧に、ほとんど無形の形で伝える。平易な文体なのに内容が掴み難く、要約が難しいのはそのためだ。ジェンダーセクシャリティの問題も含みつつソフィアの内面の緩やかな変化を読む、という小説とまとめられるだろう。「女性の内面の緩やかな変化」と言われるとよくあるタイプの小説かと思うかもしれないが、ブッカー賞が最終選考まで残す小説はさすが。書き方も、書いている内容も凡百の作家とはレベルが違う。
 仮に翻訳されるとしたら「新潮社クレスト・ブックス」ではなく「白水社エクス・リブリス」から出そうな感じ。まぁ出ないと思うけど…。

結末(?)

 かなり曖昧な小説だが、一応ラスト40頁で起承転結の「転結」が待っている。翻訳の可能性はほぼ無いだろうからネタバレをしてしまおう。とはいえ、その「結」さえ曖昧なものだが。
 まず、「恋愛」の方に関しては、どちらとも距離をとるという流れになる。そのやりとりはとても美しいのだが、うまくまとめることができないので割愛。気になる人は是非手にとってみて。

 そして母娘の関係は急展開を見せる。ローズの脚の原因をゴメスも突き止められなかった。そしてローズは誰も治せないのならと、脚の切断手術をすると言いだしたのだ。それはつまりローズが死ぬまでソフィアがずっと面倒を見ることを意味する。アメリカで学問を再開し博士号を取ろうと考えるようになっていたソフィアはショックを受ける。
 その後、海で泳いでいたソフィアは海岸線を歩いているローズを偶然発見する。それは自分がずっと夢見ていた姿だったので、幻でも見ているのかと思ったが、確かにローズは他の人々たちと同じように歩いていて、洗い場で足についた砂を洗い流している。ソフィアは奇跡が起こって彼女の足が治った、この感動を彼女と味わいたいと思ったが、咄嗟に海へと隠れる。
 ソフィアが家に戻ると、ローズはいつも通り車椅子に座って生活していた。そしてソフィアはローズをドライブへと誘う。人気のない広い道に止めて、遠くからトラックが走ってくるのに気がつくと、ソフィアはローズを道の真ん中まで押していき、そのまま置き去りにした。
 そしてゴメスのクリニックを訪れるソフィア。そこでソフィアは自分のやったことに改めてショックを受ける。それに対してゴメスは「彼女の人生だ。もし生きたいと思うなら歩いて逃げるはずだ。あなたは彼女の決断を受け入れなければならない」と言う。
 帰宅したソフィア。ローズは家の側に立って海を見ていた。「あなたが私をすぐ近くで見ていたのと同じように、私もあなたを見ていた。私たちはお互い視線が強すぎるから、見ていないフリをしていたのよ」

 こう書くとアッサリしすぎたラストに思えるかもしれないが、これまで足が不自由なローズにソフィアが毎回やってあげていた水を持ってくる行為を、逆にローズがソフィアにやってあげるなど、これまでの関係がぶち壊しになったが、また新しい関係を手探りで作ろうとする二人の距離感がすごくよく書けていて、素晴らしいラストになっている。特にゴメスがソフィアに最後にかけた言葉がとてもよかったゼーバルトが似たようなことを言っていた気もするが)

"We have to mourn our dead, but we cannot let them take over our life."
(私たちは死者を悼なければならない。しかし、私たちの日常が死者に引きずられてはいけないのだ)





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