未翻訳小説を頑張って日々読んでいる日記

未翻訳小説を頑張って日々読んでいる日記

まだ翻訳されていない英米文学をたまに紹介します。

Hot Milk by Deborah Levy

 作者のデボラ・レヴィは1959年生まれのイギリスの小説家であり詩人であり劇作家。80年代から詩人・劇作家としての活動をしているようで、彼女の演劇はロイヤル・シェイクスピア・カンパニーで上演されたこともあるそうだ。小説家としてのデビューは1990年。2011年の『Swimming Home』がブッカー賞の最終候補に残り、本作『Hot Milk』も2016年の最終候補に、2019年『The Man Who Saw Everything』は一次選考で落選(すでにレビュー記事が存在しており面白そうだ)、と惜しくも受賞とは至っていないわけだが、実力が本物の作家であることは間違いないだろう。なお、作品は全て未翻訳。

 この本を見つけたのは三鷹にある古本屋、水中書店。タイトルは聞いたことがあったのは前述したように2016年のブッカー賞の記事で目に入っていたからだろう(受賞作は前回紹介したポール・ビーティの『Sellout』)。開いてみると大きめのフォントに文章も読みやすそうで頁数も200ちょい、それこそ「大学一年生が初めて挑戦する洋書」なんかにピッタリだ。
 というわけで買って読んでみたわけだが……平易な文章とは裏腹になかなか一筋縄ではいかない小説だった。


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写真を中央に置く方法がやっとわかった笑。


あらすじ

Neither a god nor my father is the major plot in my own life.
I am anti the major plot.
(143)

 『Hot Milk』の舞台は地中海に面するスペインの街、アルメリア。多くの国が経済危機に陥っている描写が何度も出てくるので、時代設定は2010年代前半。
 そのアルメリアに、ローズとソフィアの母娘がやってくる。母ローズは原因不明の脚の病気を患っていて、たまに少しだけ歩けたりもするが基本的に車椅子生活。娘ソフィアは人類学の博士課程の大学院生だが、ローズの世話をするために学業を中断している。ローズの脚に対してイギリスの医者は全員匙を投げたため、母娘は評判を聞きつけ最後の望みをかけてアルメリアの整形外科医ゴメスの元を訪れたのだ。
 ローズの世話をしつつ何やら怪しいゴメスのクリニックを訪れる一方、ソフィアは不思議な魅力を備えた奔放な女性イングリッド・バウアー(Ingrid Bauer)、そしてビーチの救護室にいる医学生ファン(Juan)の二人とそれぞれ恋人のような関係になる。要はバイセクシャルだ。
 「私の脚は彼女(ローズ)の脚」という逆転した母子のような娘ソフィアと母ローズの絆。そしてイングリッド、ファンとの恋愛関係。ソフィアを巡る「親子」「恋愛」という二つの関係性が物語の軸となり、ソフィアはその関係性の中でアイデンティティーが常に揺れ動く。

 その揺れ動きを、直接的に書かずに「イメージ」を通じて表現する。「メデューサ」と呼ばれるクラゲの針、ダイビングスクールに繋がれた犬、裁縫師であるイングリッドがソフィアに作ったシルクの服、ゴメスの娘との会話、40歳年下の女性と結婚し子供まで作った父への訪問(つまりソフィアには24歳年下の妹がいる)、古い花瓶に描かれた女性奴隷の絵…こういった小さなイベントやモチーフ、何気ない会話の一言が、もちろんキャラクターたちの行動にも影響を及ぼすのだがそれと同時に、少しづつ変わっていくソフィアの内面を暗示していく。「イメージ」の小説ではあるが、よくあるように詩的表現や風景描写で伝えるのではなく、もっと曖昧に、ほとんど無形の形で伝える。平易な文体なのに内容が掴み難く、要約が難しいのはそのためだ。ジェンダーセクシャリティの問題も含みつつソフィアの内面の緩やかな変化を読む、という小説とまとめられるだろう。「女性の内面の緩やかな変化」と言われるとよくあるタイプの小説かと思うかもしれないが、ブッカー賞が最終選考まで残す小説はさすが。書き方も、書いている内容も凡百の作家とはレベルが違う。
 仮に翻訳されるとしたら「新潮社クレスト・ブックス」ではなく「白水社エクス・リブリス」から出そうな感じ。まぁ出ないと思うけど…。

結末(?)

 かなり曖昧な小説だが、一応ラスト40頁で起承転結の「転結」が待っている。翻訳の可能性はほぼ無いだろうからネタバレをしてしまおう。とはいえ、その「結」さえ曖昧なものだが。
 まず、「恋愛」の方に関しては、どちらとも距離をとるという流れになる。そのやりとりはとても美しいのだが、うまくまとめることができないので割愛。気になる人は是非手にとってみて。

 そして母娘の関係は急展開を見せる。ローズの脚の原因をゴメスも突き止められなかった。そしてローズは誰も治せないのならと、脚の切断手術をすると言いだしたのだ。それはつまりローズが死ぬまでソフィアがずっと面倒を見ることを意味する。アメリカで学問を再開し博士号を取ろうと考えるようになっていたソフィアはショックを受ける。
 その後、海で泳いでいたソフィアは海岸線を歩いているローズを偶然発見する。それは自分がずっと夢見ていた姿だったので、幻でも見ているのかと思ったが、確かにローズは他の人々たちと同じように歩いていて、洗い場で足についた砂を洗い流している。ソフィアは奇跡が起こって彼女の足が治った、この感動を彼女と味わいたいと思ったが、咄嗟に海へと隠れる。
 ソフィアが家に戻ると、ローズはいつも通り車椅子に座って生活していた。そしてソフィアはローズをドライブへと誘う。人気のない広い道に止めて、遠くからトラックが走ってくるのに気がつくと、ソフィアはローズを道の真ん中まで押していき、そのまま置き去りにした。
 そしてゴメスのクリニックを訪れるソフィア。そこでソフィアは自分のやったことに改めてショックを受ける。それに対してゴメスは「彼女の人生だ。もし生きたいと思うなら歩いて逃げるはずだ。あなたは彼女の決断を受け入れなければならない」と言う。
 帰宅したソフィア。ローズは家の側に立って海を見ていた。「あなたが私をすぐ近くで見ていたのと同じように、私もあなたを見ていた。私たちはお互い視線が強すぎるから、見ていないフリをしていたのよ」

 こう書くとアッサリしすぎたラストに思えるかもしれないが、これまで足が不自由なローズにソフィアが毎回やってあげていた水を持ってくる行為を、逆にローズがソフィアにやってあげるなど、これまでの関係がぶち壊しになったが、また新しい関係を手探りで作ろうとする二人の距離感がすごくよく書けていて、素晴らしいラストになっている。特にゴメスがソフィアに最後にかけた言葉がとてもよかったゼーバルトが似たようなことを言っていた気もするが)

"We have to mourn our dead, but we cannot let them take over our life."
(私たちは死者を悼なければならない。しかし、私たちの日常が死者に引きずられてはいけないのだ)





***




The Sellout by Paul Beatty


 2020年8月23日、ウィスコンシン州ケノーシャで黒人男性が白人警察官に射殺されデモが発生、そして26日にはわずか17歳の白人少年がデモ隊へ向けて発砲、3人が死傷した。人種差別が色濃く残っているアメリカだが、今回紹介するのはまさに人種差別をストレートに書いた小説である。早速引用してみよう。


ローザ・パークスが白人に席を譲るのを拒否してから数十年後、ホムニィ・ジェンキンスは白人に席を譲りたくてウズウズしていた。(127頁・意訳)


 これを読んで私は思わず吹き出した。正確には「また」吹き出した。読みながら何度笑ったことだろう。その小説とはPaul Beatty(ポール・ビーティ)『The Sellout(裏切り者)』。2015年の全米批評家協会賞受賞作であり、2016年イギリスのブッカー賞受賞作でもある(ブッカー賞は近年英連邦以外の作家にも対象を広げ、ビーティが初の受賞)。

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 英語版wikipediaによると、現在ニューヨーク在住のポール・ビーティーは1962年生まれ。ロスアンジェルスで育ち、ニューヨーク市立大学ブルックリン校で創作の、ボストン大学で心理学の修士号を取得。その後、詩人として作家活動をスタート。最初の長編は1996年『The White Boy Shuffle』、4作目の長編『The Sellout』が各メディアで絶賛され、文学賞受賞となったのは上述の通り。
 作品は全て未翻訳。作風の特徴は第1作目から共通していて”satire”、つまり「風刺」である。冒頭の引用はどういうことなのか? まずは衝撃のプロローグをじっくり説明していこう。
 なお、全て一人称で、名前は明かされない語り手が主人公だ。


衝撃(笑撃)のプロローグ

 黒人男性からこう言われても信じることができないと思うが、私は盗みをしたことがない。税金を誤魔化したことも、トランプでイカサマをしたこともない。映画館に忍び込んだことも、ドラッグストアで多めにもらったお釣りを返さなかったこともない。他人の家に不法侵入したことも、酒屋を襲ったこともない。混雑したバスや地下鉄で優先席に座り、馬鹿でかいペニスを出してマスタベーションしたこともない。だが私は今、アメリカ合衆国最高裁判所の洞窟のような執務室の中にいる。(3頁

 とんでもない書き出しである。しかしその2頁後、読者はさらにリアクションに困る文に出くわす。

 動物園に行ったとき、霊長類の檻の前に立っていた私は、女性が驚嘆の声をあげるのを聞いた。400パウンドを越える一頭のゴリラが、刈り込まれたオークの幹に跨り、険しい視線を群れのゴリラたちに送っていて、その姿が「大統領のよう(presidential)」だと感動していたのだ。そして彼女のボーイフレンドが、ゴリラの説明が書かれたプラカードを指で叩きながら「大統領のような」雄のゴリラの名前が偶然にも「バラカ(Baraka)」であると指摘すると、彼女は吹きだして大笑いした。だが、口の中にビッグサイズのアイスキャンディーかチキータ社のバナナか何かを詰め込んでいる部屋の中のもう一頭の400パウンドのゴリラ、つまり私を見つけると、すぐに笑うのを止めた。(5頁)


 とりあえずこれで風刺小説とはどういうものか分かってもらえたと思う。ビーティはこのように「黒人のステレオタイプ」をこれでもかとユーモアを交えて書き連ねていくのだ。そもそも表紙に描かれた黒人男性のイラストも「ローン・ジョッキー」という黒人のステレオタイプの1つなのである。
 さて、語り手は最高裁に召喚されているわけだが、果たして誰と何を争っているのか。裁判長は読み上げる。

 「訴訟番号09-2606、私対アメリカ合衆国(Me v. The United States of America)」吹き出す声は聞こえない。クスクス笑いと、軽蔑の眼差しと共に「こんなことを考えたバカは誰だ?」という大声が聞こえただけだ。認めよう。「私対アメリカ合衆国」というのは少しばかり自分を誇張しているように聞こえる。でも他になんて言えばいいんだ? 文字通り、私は私だ(I’m Me)。別にロスアンゼルスの南東に定住した最初の黒人の1人、ケンタッキー・ミー(Kentucky Mees)の子孫であることを誇りにしているわけじゃない。(21頁)

 彼(裁判長)は知りたがっている。この現代において、どうやって1人の黒人が神聖な憲法第13条に違反し奴隷を所有したのか。どうやって私が意思を持って憲法第14条を無視し、ときには隔離政策(segregation)が人々を結びつけるなどと主張するのか。(23頁)

 何と黒人である語り手は奴隷を所有し、隔離政策を再導入しようとしたという2つの憲法違反で最高裁に召喚されているのだ。
 こうしてこの小説は、その2つの憲法違反の経緯を説明していくことで進んでいく。


あらすじ

 プロローグだけでかなり説明してしまったのであらすじをサクサク説明していくと…次の章から語り手は、時計の針を幼少期の頃へと戻す。
 語り手はカリフォルニアのディケンズという地区(ググっても出てこないので架空の街だろう)で父親と二人暮らし。彼の父親はまだアメリカには人種差別が根強く残っていると強く主張する心理学者で、語り手を通常の学校には通わせず自宅学習させ、ときどき自分の社会実験にも参加させた(そのエピソードがどれも笑える)。また、ディケンズの住民から”Nigger Whisperer(黒人の助言師)”という相談役を任されることが多く、みんなの溜まり場であったダムダムドーナッツ(Dum Dum Donuts)で人種差別に対する勉強会を開いて「ダムダムドーナッツ有識者会議(Dum Dum Donuts Intellectuals)」を設立した。

 あるとき、そんな父が(やはりと言うべきか)警察官に誤って射殺されてしまう。語り手が父から引き継いだのは賠償金と2エーカーの土地、そして渋々引き受けた「黒人の助言師」の役割だった。そして父の死から5年後、「ディケンズ」の名が地図から消えることになる。治安が悪いことで有名なディケンズの名前を消すことで不動産価値を高めようというのがその狙いだ。語り手は大学で心理学ではなく農業を学び、父の遺産である土地を使って農家として生計を立てる。
 一方、語り手の周辺も変化していく。まず語り手が子供の頃に仲良しだった高齢の元俳優、それも黒人のステレオタイプの役ばかりを演じてきたホムニィ・ジェンキンス(Hominy Jenkins)だ。語り手は彼が自殺しようとしているところを間一髪で助けて、そのとき以来ホムニィは語り手のことを「ご主人様(Massa:マスターの黒人発音)」と呼ぶようになる。もちろん語り手はそれを拒否するが、ホムニィはそれでも自分をあなたの奴隷にしてください、鞭で打ってくださいとお願いしてくる。 
 「ダムダムドーナッツ有識者会議」はフォイ・チェシャー(Foy Cheshire)が実権を握るようになり、語り手は出席はするものの発言は全くしなかった。フォイは大学で都市研究を学んだ後ディケンズで実地調査をしていた人物で、語り手の父と一緒に「ダムダムドーナッツ有識者会議」を設立した主要メンバーだった。フォイは語り手の父から様々なアイディアを盗用し、漫画をヒットさせたりテレビに出演したりなど富と名声を得ていたが、語り手の父は一向に気にしていなかった。
 そして今フォイは、過去の名作を差別的表現がないように全て書き換えようという計画を立てる。語り手はその行為に対して、”N-word”に秘められた様々な歴史を説明する勇気をもたないでどうするというのか、その上でいざ”N-word”が発せられたときにどうするのかと考える。そしてついに「”Nigger”よりも軽蔑的表現はあるだろう」と語り手は発言する。そんな語り手をフォイは”Sellout(裏切り者)”と呼ぶ。 そして語り手は「ディケンズを復活させる」と宣言する。参加者の多くがその計画を笑って相手にしなかったが、語り手は実行に移していく。
 語り手の幼馴染であり学生時代の元恋人のマルペッサは、ギャングスタ・ラッパーと結婚して今はバスの運転手をしていた。ホムニィの誕生日パーティーの一環として語り手は、「ここは優先席:年配の方、障がいのある方、白人の方にお譲りください」というステッカーをホムニィにプレゼント、マルペッサの運転するバスに実際に貼ったのだ。語り手に激怒したマルペッサだったが、うっかりそのシールを剥がすことを忘れたまま営業を継続すると、それ以来マルペッサのバスで犯罪が起こることがなくなった。それを知った語り手は「ディケンズの復活」と並行し「再隔離」を導入しようとする。


 以上が大まかなあらすじだ。極めてシリアスでセンシティブな内容を扱っているにも関わらず著者ビーティの的確な視点とユーモアのセンスがしっかりかみ合っているので、笑いながらスラスラと読めてしまう。2010年代に文学賞を獲得した黒人作家というと、日本でも翻訳が出たコルソン・ホワイトヘッド、ジェスミン・ウォードが挙がるだろうが、差別の核心に最も近づいて書いているのはビーティのほうだろう。
 しかし、実際に読んだ私がこの小説の面白さを十分に理解できたかというと、話は別だ。実際、半分も理解できなかっただろう。その理由こそ、この小説がまだ翻訳されていない理由ではないかと思う。

背景知識の多さ=翻訳の難しさ?

 風刺に限らず、コメディというのは現実や常識をズラしてそのギャップから笑いの要素が生まれるのであり、前提となる情報がなければ何がズレているのか分からない。そして『The Sellout』も同じ。この小説には黒人の歴史・差別に関するものを中心にアメリカの歴史・文化の膨大な情報(ネタ)が書かれており、そのほとんどが一般的な日本人には馴染みのないものばかりなのだ。
 メインキャラクターに関するところで挙げてみよう。

  • 最初に語り手が育てた作物はスイカだが、実は黒人蔑視の際に使われる代表的な食べ物がスイカである。

  • 元俳優ホムニィの代表作は、子役時代に出演した『Our Gang』(出演者の総称”LIttle Rascals”とも呼ばれる)というドラマシリーズであらすじにも深く関わってくるが、これは実在のドラマである。なおホムニィという出演者はいない。
     

 細かいところだとさらに多岐に及ぶ。例えばこの頁。丸で囲った用語に注目してほしい。

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8頁(見辛くて申し訳ない)

 “Al Gore”はそのまんまアル・ゴア、そして”Confucius”と”Lao-tzu”はそれぞれ「孔子」と「老子」の英語表記だとわかれば問題はないだろう。だが、以下の3つは知っていただろうか。

  • The Scottsboro Boys(スコッツボロ事件)
    1931年、13歳から19歳の9人の黒人少年たちが、汽車の中で2人の白人女性をレイプした罪で逮捕され最年少の少年を除いた8人に死刑判決が言い渡される。いくつもの不審な点があり、被害者の1人は嘘の証言をしたと発言するものの、最高裁の判決は9人のうち5人に懲役75年から死刑までの有罪判決を出す。しかし1946年までに全員が釈放、または脱走。

  • Dred Scott(ドレッド・スコット、1799-1858)
    19世紀中頃に自由を求めて裁判を起こした奴隷。1857年に最高裁で「アフリカ系の人間はアメリカ合衆国の市民にはなれない」という判決が下される。南北戦争の要因の1つにも挙げられている。日本語版Wikipediaには本人ではなく裁判(ドレッド・スコット対サンフォード事件)の項目があり、他にも色々なサイトがあるので詳しくはそちらを参照。

  • Plessy v. Ferguson(プレッシー対ファーガソン判決)
    1895年、人種隔離政策(racial segregation)は合憲であるとした判決。こちらも日本語でたくさんのサイトがあるのでそちらを参照されたし。

 たまたまこのページは黒人に関する重要な歴史的事件が集中していたが、次のページはどうだろうか。

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29頁

 “Watson and Rayner”と”Little Albert”は本文に書いてある通り、ワトソンとレイナーが生後1年に満たないアルバートに条件付けの実験をしたというもの(心理学用語は直接本文で説明していることが多い)。“Padst Blue Ribbon”はアメリカのビール。”Richard Nixon”と最後の”Watergate tapes”はニクソン大統領のウォーターゲート事件のことで説明不要だろう。解説が必要なのは、その間に挟まれた曲名と人名だ。

  • Sweet Home Alabama
    70年代に活躍したアメリカのロック・バンド、レーナード・スキナードが1974年に発表したヒット曲。歌詞を読めば一目瞭然だが、とある曲のアンサーソングとして書かれたことでも有名。

  • Neil Youngニール・ヤング
    60年代半ばから活躍するカナダのミュージシャン。経歴を書こうとすると20万字を越えるので省略。1970年に、南部では黒人への差別が残っていると糾弾した曲”Southern Man”を発表、1972年に似たような”Alabama”という曲も発表している。レーナード・スキナードの”Sweet Home Alabama”はこれらの曲を意識して書かれた。

 仮に曲名と人名を知っていても、その2つにまつわるエピソードを知っていなければ「ニール・ヤングに不思議な親近感を抱いた」が理解できない。私なんかはこれを読んでフフッとなってしまったが、クラシック・ロックに詳しくない人はなんとなくで読み飛ばしてしまうはずだ(実際それで何も問題ない)。

 この他にもいくつかの頁に書かれた音楽ネタがなかなか細かいところを見るに、私が気がつかないだけで様々なジャンルのネタが散りばめられているのは間違いないだろう。実際、29頁を読んで以降、私は大文字を全て調べることは諦め、細かいネタはスルーして読むことに決めた。それら全てを解説しようとすると…とてつもない脚注の量になるんじゃないだろうか。それこそ翻訳なんて無理と思ってしまうぐらいの。そもそも”Nigger”を始めとした多くの黒人英語をどう訳すかが難しい。まさか2020年にもなって方言っぽい日本語で訳すのも違うだろうし…。

 とはいえ、ピンチョンの長編はもちろん、今年はデヴィッド・フォスター・ウォレスの『フェデラーの一瞬』という脚注まみれの本も出版された(あれを訳した阿部重夫さんの仕事はもっと評価されるべき!)。『The Sellout』だってやろうと思えばできるはず! 
 というわけで、これを読んでいる3人の…多く見積もっても7人の出版関係者の方々が少しでも興味を抱いてくれるように、冒頭に挙げたような、個人的に好きなフレーズをどんどん挙げてみようと思う。なお、わかりやすくするためにある程度省略・意訳してある。


『The Sellout』のキラーフレーズ集

〜「アンダーラインを引くのを諦めたんだ。なぜなら腕が悲鳴を上げ始めたからね」ドゥエイン・ガーナー(ニューヨーク・タイムズ)〜


最高裁大麻を吸った語り手)
俺は今、最高裁で最高にハイになっている。
(I’m getting high in the highest court in the land)
(7頁)

あの人たちは何でもジャズに例える。出産はジャズのよう、モハメド・アリはジャズのよう、フィラデルフィアはジャズのよう、ジャズはジャズのよう、私以外はみんなジャズのよう…(略)私は”A Hard Day’s Night”イントロのコードの響きを聞いて以来、イギリスのギターロックが好きなんだよ。(16頁)

(「バイスタンダー効果」の実験をしたら正反対の結果が出てしまった語り手の父)
「すまんな、バンドワゴン効果を考慮に入れるのを忘れてたわ」(30頁)

(不正解すると電流が流れる「ヒップホップ世代における奴隷状態と服従度テスト」にて。黒人の歴史に関する難問を2問連続不正解したあと)
語り手「神に感謝したよ。3問目の答えは分かる。『ウータン・クランのメンバーの数は?』」(33頁)

もし父親が「時々、生後8ヶ月のコービー、ジョーダン、カリーム、レブロン(いずれもNBAのスター選手)、メイウェザー(ボクシングのスター選手)のことを考えるんだ…俺が彼らの父親だったらいいなってね」と言おうものなら、母親は大笑いして赤ちゃんとうんち塗れのオムツを父親に投げつけるだろう。(60頁)

我々は「母親のように育てる」男性のことは話すけれども、「父親のように育てる」女性のことは全く話さない。
(We can talk about a man ‘mothering’ a child. But we would never talk about a woman ‘fathering’ a child.)
(73頁)

ホムニィの主な出演作品
・Black Beauty ─ 馬の世話をする少年(クレジットなし)
・War of the Worlds ─ 新聞配達の少年(クレジットなし)
・Captain Blood ─ 船上の給仕少年(クレジットなし)
・Charlie Cham Joins the Klan ─ バスの給仕少年(クレジットなし)
(75頁)

語り手「ホムニィ、鞭で叩かれるのと(ディケンズの街の)標識を見るの、どっちが気持ちいい?」
ホムニィ「鞭は背中に染みますが、標識のほうは心に染みますなぁ」
(88頁)

フォイ「私は『ハックルベリー・フィンの冒険』の言葉遣いとプロットに手を加えた! そしてその新しいタイトルは『アフリカ系アメリカ人のジムと彼の被保護者で白人の仲間ハックルベリー・フィンによる、失われた黒い家族世帯を探す軽蔑的表現のない知的で精神的な冒険』だ!」(95頁)

語り手「そのタキシード、どこで手に入れたんだ?」
ホムニィ「50年代には黒人の俳優はみんな持ってたんですよ。スタジオが執事や給仕長の役を探してるときにこれでサッと現れると『おお! これで50ドル浮いたぞ! 採用だ!』ってなるわけです」(114頁)


ホムニィ「ご主人様、ご存知かとは思いますが、私の誕生日は来週なのです」
語り手「おお、いいね。ちょっと旅行か何かでもしようか。ところでお願いがあるんだけど、その子牛を出してくれないか?」
ホムニィ「動物の世話なんてしません」
(115頁)

(解雇されたという自称女優)
「私は主にテレビコマーシャルに出ていたんだけど、きつい仕事だった。プロデューサーが『あんまり郊外っぽくないな』って言うんだけど、それって業界用語では『ユダヤ過ぎる』って意味なの」(137頁)

「黒人女性が肌の色合いで表現されるのにウンザリなんだよ! これははちみつ色! あれはダーク・チョコレート色! 私の父方のおばあちゃんはモカ茶色、カフェオレ色! 何で白人たちにヨーグルト色とか卵の殻色、裂けるチーズ色とか言わないんだ?」(143頁)

ディケンズを地図上に復活させる計画の一環として、姉妹都市を結ぼうとする)
コンサル「もしもし、こんにちは。国際姉妹都市コンサルタントにお申し込みありがとうございます。ところで、ディケンズが地図上で確認できないのですが…ロスアンジェルスの近くなんですよね?」
語り手「かつては公式に街だったんですけど、今は占領されてます。グアムとか、アメリカ領サモアとか、静かの海(アポロ11号が着陸した月の場所)みたいに」
コンサル「つまり、海の近くということですか?」
語り手「そうそう、嘆きの海ね」


(中略)

コンサル「コンピューターがマッチングできそうな都市を挙げてくれました。チェルノブイリとフアレスです(※ボラーニョ『2666』の舞台にもなった世界で最も治安の悪い都市)
語り手「よし! それで行こう!」
コンサル「…残念ですが、拒否されてしまいました。フアレスは『ディケンズは治安が悪過ぎる』、チェルノブイリロスアンジェルス川の近くにある下水処理場の環境を問題視しているようです」
(146-147頁)

黒人男性が大統領に選ばれたからって、世界が俺たち(黒人)をどう見てるかは何も変わってない。実はむしろ悪い方向に進んでいる。なぜなら日常言語と俺たちの意識から「貧困」という言葉が消えてしまったからだ。白人の青年が洗車場で働き、ポルノ女優のルックスがかつてないほど綺麗になり、ハンサムなゲイの男性がヘテロのポルノに出演し、有名な俳優が通信会社や陸軍のコマーシャルに出演しているからだ。(261頁)




 これでもほんの一部だし、背景知識がわからないから見落としたユーモアもたくさんあるだろう。そしてこう見てみると、必ずしも黒人の問題だけを取り上げているわけではないことがわかる。黒人の問題とは差別の問題であり、ひいてはアメリカ建国の理念の問題である。オバマ大統領が当選してこれで差別の時代は終わったと多くの人が思った。そんな中で、ビーティは語り手を通して「人種差別後の時代に、人種差別を囁いた(I’ve whispered ‘Racism’ in a post-racial world)」のだ(262頁)。そして2020年現在のアメリカはどうなっているだろうか?

 後半、物語の時計の針は現在に追いつき最高裁のシーンへと戻る。アジア系とアフリカ系の血を引く女性の司法長官は言う。

 彼は、私たちがアメリカ人として「平等を理解している」と主張するやり方の、基本的な欠点を指摘している。「肌の色なんて気にしない。あなたが黒だろうと白だろうと茶色だろうと黄色だろうと、赤、緑、紫だろうと気にしない」私たちは皆そう言う。だが、もしあなたが私たちの誰かを紫や緑に塗ろうものなら、私たちは凄まじく怒り狂うだろう。彼がやったことはこういうことなのだ。住民とコミュニティを紫と緑で塗り、まだ平等を信じているのは誰かを見たのだ。(266頁)

 ちなみに小説の最後では、判決がどうなったのかは分からない。天気予報にディケンズの表記が復活する。ホムニィはある目的を達成すると奴隷を辞める。フォイは破滅する。これらはネタバレだがある意味ではネタバレではない。上記の曖昧な司法長官の言葉、ラストのオバマが大統領に就任した日のたった1頁のエピソードからわかるように、この小説は結末よりもその過程のほうが大事だからだ。

 そのたった1頁のエピソードがどんなかって? どこか翻訳して出版してくれー!!


Infinite Jest まとめその4(121-198頁)

最初に書いておくと、約200頁まで行ったところでですがこれが最終回です。理由は一番最後に…。



ハル・インカンデンツァ その12(121-126頁)
(マリオ・インカンデンツァ今のところ最初で最後のロマンス)
時期:大人用下着年(Y.D.A.U.) 10月
人物:マリオ、ミリセント・ケント

概要
 ハルとマリオは夕食の前に一緒に散歩していたが、ハルが1人になりたがっていることに気づいたマリオは、適当な嘘をついてハルを行かせてやった。マリオは木と木の間を、一本一本立ち止まりながらゆっくり歩いていた。時刻は19時。西の建物の喚起口から、焼けた草の違法で甘い香りが立ち昇ってくる。マリオの靴の裏では枯れた葉がクシャクシャと音を立てていた。
 エンパイア・ウエイスト・ディスプレイスメント社のゴミ回収箱がヒューと音をたてて、弧を描きながら頭上を越えていった。
 マリオは西のコートの方へと続く木の道を歩いていき、藪と柳の中を抜けると、なんと16歳以下女子シングル1位のミリセント・ケントがいた。マリオは以前ミリセントの練習の録画に何度か立ち会ったことがあり、心のこもった「こんにちは」を交わしたことがあった。ミリセントはマリオに、林の向こうにハスキー4ブランドのテレスコープ・トリポッド(Huskey 4-brand telescoping tripod)を偶然見つけたのだと言った。しかし足跡も何かが林を通ったあとも、証拠は何もなかった。彼女は目撃者になってほしいとマリオの手を取り歩き出した。
 やがてミリセントはマリオを信用し打ち明けた。実はテニスが全く好きじゃないこと、本当に好きなのは創作舞踊なこと、でもその才能は全くないこと、それでも好きだからコートの外の時間は実家の自室の鏡の前でレオタードを着ていたこと、才能があったのはテニスで、授業料免除で全寮制の学校からオファーがあったこと、全寮制の学校に入りたくてしょうがなかったことを話した。彼女がE.T.A.に入学したのは9歳のときだが、それはただ父親から離れたい一心だっただ。彼女は父親のことを「オヤジ(Old Man)」と呼んでいた。最後に会ってから6年が立っていたが、とてつもない巨漢だったことは覚えていた。母が家を出てすぐ、シンクロナイズドスイミングを熱心にやっていたほうの姉が高校生で妊娠し結婚した。
 陽の光はバーベキューの木炭の燃えかすのような色になった。ミリセントは8歳のときの話をした。放課後の練習が早く終わり、レオタードを着て創作舞踏をしようと思いながら帰宅した彼女が見たものは、彼女のレオタードを着た父親の姿だった。ミリセントはマリオに、今まで女の子のアソコを見たことがある? と聞いた。卑猥で斑模様で毛むくじゃらの部分がはみ出てたの。でもオヤジはただの服装倒錯者(cross-dressing transvestism)じゃなかった。親類の服でないとダメだった。いつも不思議だったの、どうして姉さんたちのワンピースやフィギュアスケートの衣装が斜めにぶかぶかになっていたのか。オヤジは彼女が入ってきたことにしばらく気づかず数分間鏡の前で踊り続け、彼のニヤついた目が私の目と会ったの、彼女は言った。そのとき今すぐここから離れなきゃと思い、そしてマリオのオヤジの入試課の女性が突然声をかけてきたの。ま、運命みたいなものね。
 ミリセントはスマック(sumac:ウルシの一種で香辛料として使われる)の林で立ち止まると、スマックの毒で目眩がしてマリオの大きな頭を胸の辺りに抱きかかえた。淫乱な空気が漂う中、ミリセントはマリオの服を脱がせようとしたが、マリオにはハルが呼んでいる声が聞こえていた。そしてミリセントがマリオの下着に手を突っ込みペニスを探し回ったそのとき、あまりにくすぐったいのでマリオは大笑いしてしまい、その甲高い笑い声でハルは2人を見つけることができた。
 3人は寮へ戻る途中にトリポッドに遭遇した。森でもなんでもない道の真ん中で。


解説・用語
 マリオと、将来有望な女子テニスプレイヤー、ミリセント・ケントとのエピソード。「マリオは以前ミリセントの練習の録画に何度か立ち会った」というのは、54-55頁でマリオが練習の録画を任されたという経緯があったから。
 何気ない青春ものの1シーンかと思ったら、ミリセントのトラウマ的な過去の話になる。ミリセントの過去の告白に対してもマリオはややズレた返事しかしないのだがミリセントはマリオにかなり好意を抱いていたようで、最後は強引に事に及ぼうとするが未遂に終わる。


  • エンパイア・ウエイスト・ディスプレイスメント:原文は、
    “An Empire Waste Displacement displacement vehicle whistled past overhead, rising in the start of its arc, its one blue alert-light atwinkle.”
    「大文字なので固有名詞、会社名だろうか? displacement vehicleとは?」と検索をかけたらDFWのファンサイトにこれのイメージ図があったので紹介する。

    f:id:nakata_kttk:20200724135156j:plain:w200
    出典:tradepaperbacks.wordpress.com


  • ハスキー4ブランドのテレスコープ・トリポッド(Huskey 4-brand telescoping tripod):トリポッドは三脚のことで、要は三脚カメラ。さすがにマリオはこの手の事には詳しいらしく、機能などについてミリセントにかなり説明しようとして、ミリセントとの会話がズレてしまうのが面白い。



レミー・マラートその3(126-127頁)
時期:大人用下着年(Y.D.A.U.) 4月30日
人物:マラート、スティープリー

概要
 スティープリーは言う。「あいつらは『ジ・エンターテイメント』のコピーを持っているぞ。あと、その致死性に対抗するための〈対エンターテイメント〉も作っていた。マジだぜ。この話はあんたとF.L.Q.(ケベック解放戦線)にとっては面白い話だと思うが」
 「〈ジ・エンターテイメント〉の解毒剤としての対抗映像(anti-film)について、我々はバカみたいな噂という情報しかないが。あと、どうして君は生身の姿で活動することを許されないんだ? つまり、1年前は──黒人だっただろ?」
 「ハイチ人だよ」スティープリーは言った。「前回の俺はハイチ人だったんだ」
 A.F.R.の仲間内では、マラートはほとんど完璧な映像記憶(eidetic)の持ち主だと思われていたが、マラート自身はそうではないことを知っていた。

 何度かマラートはスティープリーに対して、アメリカを「壁に囲まれた国」と呼んでいた。


解説・用語
 109頁の続き。マラートとスティープリーのとても短い章。

  • ケベック解放戦線:脚注47で説明されていて、正式な名前はLe Front de la Liberation de la Quebec. A.F.R.よりも若く、喧嘩っ早く、効率的な組織。ケベックが実質的にはアメリカの支配下にあるという考えへの皮肉として、ハワイの文化を取り入れているらしい。

難解な単語

  • Les salles de danser:踊り部屋(Dancing Rooms)という意味だが、正確なフランス語は“danser”ではなく“danse”   総じてフランス語はスペルや文法などに間違いが多い。さすがにチェックはしていただろうし意図的だと思うが…。


ヨガの伝道師ライル (127-128頁)

概要
 E.T.A.のウェイトトレーニングルームにいつも座っているヨガの伝道師(グル)ライルが登場する章。どこから来たのかなぜここにいるのか知るものはおらず、他人の汗で生きるという強烈なキャラクター。


ヤク中3人組(128-135頁)

概要
 よほどの英語力か解説がなければ理解することは難しい章。発音に基づき単語(aisle→aile)が変化しつつ、(解説サイトによればボストン訛りの)口語で文法がメチャクチャになっている。以下、簡単な単語の意外な意味を覚えておくことで、ようやく話の筋が見えてくる。

・crewed→ギャングの中で活動すること
・boosting→盗むこと
・map→顔
・slope→アジア人への蔑称
・cop→ドラッグを摂取すること

 語り手とC, Poor Tony, yrsturlyという人物がドラッグを求める章。やたらと”Everything like that”が使われるのは語り手の口癖か。ドラッグストアから風邪薬(NyQuilというアメリカではメジャーな飲み薬)を盗んだり、追い剝ぎをしたりする。前半はRoy Tony(ロイ・トニー)という人物から、後半はチャイナタウンにいるDr. Woという人物からドラッグを購入する。ところがこのDr. Woから購入したドラッグが何か別のものが混ざった粗悪なもので、Cが身体中から血を流して死んでしまう。残されたPoor Tonyは田舎へ、語り手とyrsturlyは薬物依存の治療を受けることにする。

解説
 ロイ・トニーは〈ウォーディンへの虐待(37-39)〉で登場済。過去に殺人を起こしていて仮釈放中、恋人の連れ子(ウォーデン)に性的虐待をしていた人物。口語で非常に読みづらい文体も〈ウォーディンへの虐待〉を思い起こさせる。


ハル・インカンデンツァ その13(135-137頁)
時期:YDAU 11月3日

概要・解説

 三人称の語りに戻り、まずオリンがハルに電話をかける。「なんで俺が電話をかけるときハルはいつも声が枯れてるんだ?アレの最中だったのか?」「アレってなんだよ」から始まる短い会話。オリンはハルがマスタベーションをしているのではという意味だったが、実際はハルがドラッグでハイになっているのだった。オリンに電話で話す内容はだいたい6割ほどが嘘なのだが、実はオリンも同じようにハルに嘘を交えて伝えていた。夕食の時間だからと電話を切るハルだが、「ああ、ちょっと待ってくれ、俺は特別な人に会ったんだよ。ハルは分離派についてどれくらい知ってる?」「それってカナダのこと?」「他に何かあるか?」と、今後の展開を匂わせて終わる。


 空行を挟んで、別のシーンへ。

エネット・ハウスその1 (137-138頁)

概要・解説

 引き続き三人称でEnnet House Drug and Alcohol Recovery Houseというドラッグとアルコール中毒者の更生施設の話になる。
 その創設者は自身も元依存症患者で、AA(Alcoholics Anonymousアルコール中毒更生会)の施設で過ごしていた。そんなある日のシャワー室で、彼は突然悟りを開く(a sudden experience of total self-surrender and spiritual awakening)。この経験を他の患者にも伝えようと決心し、エネット・ハウスを開く。彼はAAでは匿名を名乗るというやり方を評価していたため、自身のフォーストネームすら明らかにしなかった。
 その創設者は新しく施設に入所する者に対し、入所したければ岩を食べろ(eat rocks)という要求をしたそうな(マサチューセッツ州の保健局から止められたらしい)。ユシチュ年、創設者は脳内出血で死去。68歳だった。

用語

  • ユシチュ年:簡単に「ユシチュ年(Year of the Yushityu)」と書いたが、正確には、”Yushityu 2007 Mimetic-Resolution-Cartidge-View-Motherboard-Easy-To-Install Upgrade For Infernatron/InterLace TP Systems For Home, Office Or Mobile”.
     2007という数字は西暦。”Yushityu”というワードは、〈ドン・ゲイトリーその1(55-60)〉の最後、発明品の羅列のところでも出てきている。

これ以降、年月日だったタイトルが変化し、変則的な章が続く。


保険会社に届いたメール(138-140頁)
時期:アメリカン・ハートランド社の日用品年(Year of Daily Products From the American Heartland

概要・解説

 怪我をしたレンガ職人(Dwayne R. Glynn)からのEメールが保険会社のスタッフ同士で転送され、その文面がアドレスや件名とともにそのまま小説内に書かれる。(Eメールをそのまま書く手法は『ヴィトゲンシュタインの箒』でも見ることができる)
 内容としては、レンガを上へと運ぶのに自家製の滑車を使っていたが、それが壊れてレンガの下敷きになり下半身に深刻な傷を負ったというもの。


ハル・インカンデンツァ その14(140-142)
(ハルが8年生のときに〈娯楽学入門2〉で提出したテレビ放送の終焉から4年後でありジェームズ・インカンデンツァ博士が亡くなった1年後であるパーデュー社のワンダーチキン年の2月21日に書かれた現存するハルの最初のエッセイで、非常に好意的な反応にも関わらず結論が本文の中で提示されていないだけでなく直観とレトリックだけで書かれていたため評価はB/B+だった)

概要

 『ハワイ5-0(Hawaii Five-0)』と『ヒルストリート・ブルース(Hill Street Blues)』という、それぞれB.S.1970年代、80年代の人気刑事ドラマシリーズの主人公を通してアメリカのヒーロー像の変化を考察する。
 『ハワイ5-0』では主人公スティーヴ・マクギャレットのみに焦点が向けられ、サブプロットなどの要素も薄く、スティーヴ・マクギャレットは古典的な〈アクション・ヒーロー〉で〈モダン・ヒロイズム〉といえよう。
 それに対して『ヒルストリート・ブルース』の主人公フランク・フリロは、複雑で企業的な当時のアメリカを反映し、その振る舞いも官僚的で〈リアクション・ヒーロー〉、そして〈ポストモダン・ヒーロー〉である。エピソードも複数の回に渡る伏線や様々な背景を持ったキャラクターが登場している。
 では次に何が来るのだろうか? 予言するに、ボーッとしていて、あまりに落ち着いていて、刺激とは無縁の〈ノンアクション・ヒーロー〉だろう。

解説
 長い副題の通り、ハルのエッセイがそのまま書かれている。『ハワイ5-0(Hawaii Five-0)』と『ヒルストリート・ブルース(Hill Street Blues)』というドラマとその登場人物、作風などは英語版Wikipediaを見たが改変はないだろう。2月21日という日付はDFW本人の誕生日であり、そこからこのエッセイはメタ・フィクションではないかとする解説サイトもある。
 ここで”B.S.”という用語が出てくる。もちろん”B.C.=Before Christ”のように、年の名称がオークションされる前のことを指すのだろうが、”S”が何なのかはまだはっきりしない。


ティープリーのエッセイ(142-144頁)
(〈ジャーナリスト〉〈ヘレン〉スティープリーが、カージナルスのオリン・インカンデンツァの紹介記事を書く以前のおそらく唯一の、そして古き良きボストンに関する唯一の記事で、大人用下着年の8月10日、光学理論家で起業家でテニス研究家でアヴァンギャルド映画監督ジェームズ・O・インカンデンツァが自分の頭を電子レンジに突っ込んで自殺した4年後に出版された)

概要
 『モメント』誌は、北アメリカ大陸市民で2人目となる〈外部人工心臓ジャービック9(Jarvik Ⅸ Exterior Artificial Heart)〉を身につけた女性を襲った悲劇が、人々の間であまり知られていないことを知った。その女性は46歳、ジャービック9をエティエンヌ・アイグナーのハンドバッグの中に入れていた。人工血管が彼女の腕を通って血液を循環させるのだ。
 悲劇は彼女がマサチューセッツ州のハーヴァード広場でウインドウショッピンをしているときに起きた。前科持ちのドラッグ中毒者で服装倒錯のひったくりが彼女のバッグを奪った。彼女はひったくった〈女性〉を通行人に助けを求めながら追いかけた。「あの人を止めてください! あの人は私のハートを奪っていったんです!(Stop her! She stole my heart!)」
 女性は4ブロック追いかけたところで力尽きた。ひったくり犯は人工心臓が未だ動いているのを見つけのだろう。しかし彼は小さい石かハンマーか何かで人工心臓を破壊し、その残骸が数時間後ボストン公立図書館の裏の通りで発見された。
 

解説・用語
 ハルのエッセイはまだ物語そのものと関連がありそうに思えたが、この記事はどうだろうか…。ただし副題は気になるところ。この執筆者のヘレン・スティープリーとはB.S.S.のヒュー・スティープリーのことなのか? そしてさりげなくハルの父、ジェームズの自殺の(衝撃的な)方法が明らかになっている。

  • ジャービックとは、補助人工心臓を開発した科学者ロバート・ジャービック(Robert Koffler Jarvik, 1946- )のこと。1982年にJarvik-7を患者に埋め込み手術をしたことで有名になった。ただし、Jarvik-9というモデルは存在しない。

  • ひったくり犯は服装倒錯ということだが、〈ハル・インカンデンツァ その12(121-126)〉での女子テニス選手、ミリセントの父親と同一人物なのかは不明。

  • 〈エティエンヌ・アイグナー〉は実在するブランド。


各団体の政治姿勢一覧(144頁

 唐突に、O.N.A.N.やケベックをめぐる団体がどういうポジションを取っているかの表が出てくる。フランス語だが、一部ミススペルがある。ここで初めて名前が出てくる団体もある。ここは本文を見ればおしまい。


ビデオ電話(Videophoney)の凋落(144-151頁)
(高機能だったビデオ電話が登場したとき最初はすごく市場からも大好評だったけど1年半もしたら急激に売上が下がってしまったわけだがどうして消費者は古き良き声だけの電話のほうに戻ってしまったのか?)

概要
 理由を簡単にまとめると、(1)感情的ストレス(2)身体的虚栄心(3)消費者のミクロ経済学におけるある種の奇妙な自己抹殺、である。
 昔ながらの電話のとき、利用者はいたずら書きをしたり別のことにも集中力を割くことができた。大事なのはそれが相手に気づかれないことであり、自分が何をしていようとも相手は自分との会話に集中しているだろうと信じることができたのだ。だがビデオ電話はそうはいかず、画面の向こうの人物に集中していることを伝えなければならなかった。そのことが非常にストレスなのだ。
 さらに悪いことに、ビデオ電話では自分の顔が画面(テレピューター)にどう映っているかを人々は気にし始めた。それはVPD(Video-Physiognomic Dysphoria:ビデオ人相不安)と呼ばれ、通信業界はその解決策として〈高精度マスク(High-Definition Masking)〉を売り始めた。電話をしているときに自分の顔を少し加工したマスクを被るというものだが、やがて顔だけでなく身体を覆うマスク〈2-D〉が現れ、その後ほぼ別人の顔とも言えるほど加工された顔を身につけるのではなくTransmittable Tableau(The Tableaux)が市場に登場した。しかしそこがピークだった。
 やがて人々はストレスに耐えられなくなり、やがてビデオ通話利用者は自分の顔を写すのをやめて、最後にはカメラに覆いを被せた。そのとき人々は気づいたのだ。相手の顔が見えない、古き良き電話がどれほど快適だったかを。しかし、通販など在宅で受けられるサービスが好調なことから、やはり多くの人々は対人コミュニケーションを苦手としていることがわかる。


解説
 技術革新についての章で、副題だけで1ページになる。テレビ電話がどうして一時的なヒットで終わってしまったのかという章だが、インスタグラム文化の現代で読んでこそという内容。是非とも原文でしっかり読んでもらいたい箇所。
 “Tableaux”は、64頁、ハルの父ジェームズが持っていた特許一覧の中に出てきている(Videophonic Tableaux)。


ハル・インカンデンツァその15(151-156頁)

概要
 年に4回、O.N.A.N.T.A.はランキング64位以上のジュニアテニス選手全員に尿のサンプルを提出を義務付けている。E.T.A.の生徒はかなりの人数がそのテストに引っかかる可能性があるので、選手たちはなんとかテストにパスするためにぺミュリス(とトレヴァー・アクスフォード)から清潔な尿を買うのだ。2人は3ヶ月間に渡って10歳以下の選手たちから尿を集めて、それをヴァイジン(Visine:アメリカでメジャーな目薬)の容器に入れて保管している。
 ぺミュリスのテニスのランキングは芳しくなく、実際彼の本当の才能はテニスではなく数学と科学(hard science)だった。またジェームズ・O・インカンデンツァの幾何光学を学んでもいたので、彼は先生たちが使う特殊なレンズや機器の使用許可を持っている2人のうちの1人でもあった。もう1人はマリオ・インカンデンツァだ。ぺミュリスはマリオと他の生徒たちとは違った絆で仲良くなり、またハルとも良い関係を築いていた。ぺミュリスはハルに、口語の授業を手伝ってくれることを条件に無料で尿を譲ってあげていた。友人とはいえペミュリスは貸しを作ることを嫌がったのだ。

解説
 ドラッグ中毒者が多いE.T.A.の生徒が、尿検査をどう切り抜けているかという章。とりわけ深く説明するところはなさそうだが…

  • Wienerman:ウインナーマン。つまりホットドッグを売る人。

ハル・インカンデンツァその16(157-169頁)

時期:B.S.1960年

概要
 ジム、息子よ。よく聞け。お前のかあさんはお前が生まれる前にカリフォルニアに戻ってきたのだ。息子よ。お前の母さんはマーロン・ブロンドと共演したことがあるんだ。母さんはマーロン・ブロンドに惚れていたかもしれないが、彼のことを理解してはいなかった。マーロン・ブロンドにはテニスのセンスがあったんだ。だが、私は知っている。お前もだということだ、ジム。お前は将来偉大なテニスプレイヤーになる。私は偉大に近いプレイヤーだったがね。
 君は10歳だ、そして科学の神童だ。そんな10歳の子には難しい話だと思うが、お前は〈身体〉なんだ、息子よ。ニューロンが運動しているだけで、君が考えていることというのは頭の思考回路が回転している音で、頭も身体なんだ。君は機械であり身体であり物体なんだ(you’re a machine a body an object,)。あのモントクレアに同じなんだ。お、あそこにクロゴケグモがいるぞ。さあラケットを持って優雅に舞ってあのクモを殺しておくれ。この共用ガレージにクモのためのスペースはないんだ。ああ、ここは身体ばかりだ。テニスボールは究極の身体なんだ、息子よ。完璧な球状で、中は真空、変化を受けやすい。ん、お前も飲むか? もう飲んでもいい年齢だろう。飲まないのか? いいか、君はテニス選手になるんだ、商売として、多くの身体に囲まれた身体になるんだ(A body in commerce with bodies)。俺は上手くいかないときこれを飲むんだ。あと息子よ、本は置いた方がいい。母さんからこの春にカリフォルニアに戻るって聞いたか? いまのうちに学校の人たちにさよなら言っておけよ。このトレーラーハウス専用の駐車場に来たときのお前はうろたえたもんな。父さんのせいだよな。父さんがお前と同じ年頃のときテニスを始めていたが、お前にとっておじいちゃんは全く試合を観に来なかったんだ。トロフィーを持って帰っても父さんがいないかのように振舞っていた。彼はゴルフだったんだ。彼がゴルファーだったんだよ。こっちに来なさい、これがJ・O・Iだ。母さんは欠かさず観に来たのに彼はずっと観に来なかった。でもある日、突然彼がやってきたんだ。あれは地方の小さな予選会の試合だった。彼の顧客の子供が出場していてそのために来たんだ。グロテスクなほど背が高くて一度も座らず、汗もかいてなかったよ。父さんは対戦相手、彼の顧客の子供を、文字通り叩き潰した。だが、ネットプレーのときに、クモか羊歯のどちらかがあったのだろう、足を滑らした。膝をやってしまったんだ。傷を見てみるか? 父さんはそのときに〈身体〉であることとはどういうことかを理解したんだ。


解説
 12頁に渡る独白。語っているのは誰か? その息子であるジムとは? もちろんインカンデンツァ一族であることは明らかで、〈ハル・インカンデンツァ その7(63-65)〉と照らし合わせて読む必要がある章。
 その〈ハル・インカンデンツァ その7(63-65)〉に戻って確認すると、ハルの父、ジェームズ・インカンデンツァが54歳で自殺したとある。この章のジムは1960年時点で10歳、つまり1950年生まれ。この作品の主要な時間軸は2000年前後であるので、ジムはハルの父ジェームズ、そして語り手はハルの祖父ということになる(そしてハルの曽祖父がJ・O・インカンデンツァという名前であり、曽祖父もまた”Himself”と呼ばれていることがわかる)。
 他にも〈63-65〉を読み返せば、ここで語り手が飲んでいるものは何か、10歳のジェームズに勧めた結果どうなるのか、この後一家がカリフォルニアに戻ってどうなるのか、といった「その後」が何となく掴めるようになっている。


用語

  • The Beats:ビート・ジェネレーションのこと。

  • 1956 Mercury Montclair:〈身体〉の例として語り手が挙げた車。

  • Latrodectus Mactans:クロゴケグモ。これは学名で一般的には”Black Widow”と呼ばれる。45頁のオリン・インカンデンツァのエピソードのところで、父親(ジェームズ)がクロゴケグモを異常に嫌っていたという記述がある

ハル・インカンデンツァその17(169-171頁)
(マダム・サイコシスその0


概要
 ぺミュリスはバスを何度も乗り継ぎ、ボストンの中心街へ向かった。もし尾行されていたときのためだ。彼が求めているのはDMZと呼ばれる凄まじい効き目のドラッグ。LSDを偶然発見したサンド製薬(Sandoz Pharm)で、B.S.1960年代の終わりにとあるカビから偶然生成された。
 DMZはボストンの地下ドラッグ愛好家の間で「マダム・サイコシス(Madame Psychosis)」と呼ばれていた。由来はMIT(マサチューセッツ工科大学)の学生が運営するラジオWYYY-109でカルト的な人気を誇ったラジオパーソナリティーで、彼女の番組”Largest Whole Prime on the FM Band”は、マリオをはじめE.T.A.の落ちこぼれたちが熱狂的に聞いている番組だ。
 ぺミュリスはエネットハウスからバイトしにきている少年に門を開けさせた。ぺミュリスはE.T.A.に直接雇用している人物とは取引しないようにしている。寮に着くとぺミュリスはインカンデンツァ兄弟の部屋に電話をした。


解説
 ぺミュリスがDMZというドラッグを仕入れてくる章。「まえがき」を読む限り主要登場人物と思われる4人のうちの最後の1人、マダム・サイコシス(の名前)が初登場する。
 最後、電話をしたぺミュリスとハルが意味不明なやり取りをするのだが、どうやらドラッグを手に入れたという暗号らしい。

用語

  • DMZ:架空のドラッグだが、DMZとは本来”demilitarized zone”(非武装地帯)のことを指す。 ”Sandoz Pharm”は「製薬」と訳してみたが「サンド社」の方が良いかもしれない。サンド社は実在したスイスの会社で現在は合併されノバルティスという製薬会社となっている。原文で”Sandoz Pharm”をはじめLSDに関連する人物名・地名等はほぼ史実通りのようだ(LSDwikipediaの記事を参照した)。ただ、”utopian LSD-25 colony in Millbrook NY on what is now Canadian soil.”の箇所、LSD研究所があったニューヨークのミルブルック(ここまでは事実)がカナダの土地になっているのはもちろんフィクションで、「アメリカ領にあたる地帯がカナダに“gift or return”される(58頁)」のことを指すのだろう。


  • WYYY:実在するニューヨークのラジオ局。だが学生が運営しているということはないようだ。

  • Riverside Hamlet:ぺミュリスが電話をかけたときにハルが読んでいた本。Riversideとは出版社のことで、要は「リバーサイド版ハムレット」。解説サイトによれば定番らしい。実は『Infinite Jest』自体が『ハムレット』と重要なつながりを持っている。このブログの「Infinite Jestまとめその0」で訳した「まえがき」の最後にハムレットからの引用があるが、その引用箇所前後を原文を確認してみると…

ハル・インカンデンツァその18(172-176頁)
(『テニスと野生的な神童』ナレーションはハル・インカンデンツァ、11分半のデジタル・エンターテイメント・カートリッジ、録画・編集・脚本はマリオ・インカンデンツァ。ユシチュ2007…(中略)…年の若手映画監督コンテストで佳作賞を受賞)


概要
 これがグレイの生地にETAと書かれたシャツの着方だ。
 サポーターに慣れてゴム紐をきちんと調節するしなさい。これが怪我した踝をキツくガードするやり方だ。
 これが後に試合に勝つ方法だ。古いボールを持ってまだ誰もいない夜明けのコートへ行き、誰もいない相手コートに向かってサーブを打て。
 これがスティックの持ち方だ。ラケットをスティックと読むのさ、ここではね。伝統なんだ。ほら、こうやって持つんだ。西側のバックハンドスライス・グリップのことは忘れて。
 朝食前の練習が終わった後の特別個人練習をどうすればいいか教えてあげよう……これが野生的神童であることとどう付き合っていくかということだ……

解説
 “Here is …” “This is …” という出だしで次々とハルが語るのはE.T.A.での生活をどう生き残っていくかというもの。その中には父親(これまで通り”Himself”と呼ばれている)の話だったり、母親が22時までO.E.D.を読んで聞かせたり、”See yourself in your opponents”というシュティット的なテニス観が出てきたりするが、これといって新しい情報が出てくる章ではない。

用語


エネット・ハウスその2(176-181頁)

(常務取締役ミス・パトリシア・モンテシアンの口述記録、エネットハウス、13時から15時、大人用下着年11月4日)

概要・解説

〈ハル・インカンデンツァ その14(135-138)〉の後半で出てきたエネットハウスの住民たちにパトリシア・モンテシアンという人物がインタビューしていく、という構図。対話というよりは住民の独白が数十行のものから2-3行のものまで10個ほど続く。内容は、別の住民がテーブルを叩く音への文句だったり、アル中の定義を巡るものだったり、なかなか理解しづらいものが並ぶ。

 注目点は3つ目の独白に主要登場人物の1人と思われる”Gately(ゲイトリー)”という名前が入っていること。そして179頁下部「その少年は口唇裂だった」から始まる独白だ。「彼は蛇を飼っていた」「ドゥーシー」という内容から〈ウォーディンへの虐待(37-39)〉の後半のエピソードと完全に重なる。”He had a thing for Mildred. My girlfriend.”という記述をそのまま受け取れば、語り手はミルドレッドの恋人であったブルース・グリーンということになる。

用語

  • Kemp and Limbaugh:ともに保守派のアメリカの政治家。Kempは本作発表時の1996年に副大統領候補だった。

マダム・サイコシスその1、ハル・インカンデンツァその19(181-193頁)

時期:大人用下着年 前の10月

概要
 マダム・サイコシスの番組に直前に放送しているのは”Those Were the Legends That Formerly Were”という番組で、学生におかしなキャラクターの声真似をしてお話ししてもらうというものだ。
 WYYYのエンジニアはM.I.T.の学生が務めている。彼がブースから見つめる先に、マダム・サイコシスがいる。彼女の姿は三つ折りのシフォン生地のカーテンで隠れていてシルエットが見えるだけだ。マダム・サイコシスはギャラが発生している唯一のパーソナリティーで、自身のヘッドフォンとマイクを持ち込むことが唯一許されていて、カーテンもその中の1つだ。
 マダム・サイコシスの”Largest Whole Prime on the FM Band”が始まる。ほとんど彼女1人だけで進行し、ゲストが来るときもあるが紹介だけしてあとは何も喋らない。何か通底するテーマがあるとしたら、映画(film and film-cartridge)だろう。

 マリオ・インカンデンツァは熱心なリスナーの1人だが、母と過ごすため校長棟(”HmH”は“Headmaster’s House”の通称)へ行かなければならないときは、タツオカのチューナーを持っていくようにしている。アヴリルは人の頭部以外から発する声を聴くと気が狂ってしまう(the howling fantods)のだが、マリオの好きにさせていて、マリオは音をできるだけ小さくして番組を聴くのだった。マダム・サイコシスのアクセントはボストン訛りではない。南部の喋り方を忘れたか、発展させたかのような具合だ。彼女の抑揚のない喋りに合わせてかかる音楽は奇妙にも引き込まれる。マリオは一度会って話してみたいと思うが、同時に怖いとも思っている。
 マリオとハルは週に2回ほど校長棟で母アヴリル、叔父のC.T.と食事をする。食事の最後はプロテインたっぷりのゼラチンが出てくる。そして別れる際にハルが"make trouble"と言ってアヴリルが"Do not, under any circumstances, have fun"というおきまりのやり取りをするのだった。

解説
 実際はこの本筋に、WYYYがある建物をはじめとしたアンテナ事情、学生エンジニアの話、マダム・サイコシスの番組の詳細(彼女が紹介する映画、本)、アヴリルが大学を辞めて作ったE.T.A.のカリキュラムについて…などなど細かい話が付随する。その一部は医学系の専門用語の連続だったりとかなり難解。
 この章で姿を明かさないパーソナリティー、マダム・サイコシスが本格的に登場。マリオを筆頭にE.T.A.の学生もファンであるとのことで、やはり4人いる主要登場人物の1人ということなのだろう。
 最後の母子のおきまりのセリフ、どう訳せばいいのだろうか…。いや、どう訳すのだろうか…。


用語
 前述した通り、専門用語は数が非常に多く、全て説明するとキリがない。
 マダム・サイコシスが紹介する映画・本、著名人は、オズ(小津安二郎)、タランティーノ、ブレット(イーストン)エリスという馴染みのある名前もあるように、全て実在。
 マダム・サイコシスが流す音楽だが、「音楽は奇妙にも引き込まれる」についている脚注66で「親たちが午後の全てを歌詞の分析に費やすようにではなく、M.I.T.の学生たちは番組を録音して何度も曲を聞いて店や大学の資料館から探し出そうとした」としてR.E.M.Pearl Jamが挙げられている。もちろん実在のバンドで、両バンドとも歌詞が曖昧なことで有名。特にR.E.M.は80年代にネイティヴでも聴き取れない歌詞ながらカレッジ・ラジオで徐々に人気が広がっていったバンドなので、いかにもこの文脈にぴったりのバンドと言える。『IJ』発表直後のDFWを題材にした映画『The End of Tour』でもR.E.M.が使われている。

エネット・ハウスその3(193-198

概要・解説
 エネット・ハウス(Ennet House Drug and Alcohol Recovery House)の周辺について詳細に語っていく章。

 死んだ惑星の周りに浮かぶ7つの月のように、エンフィールド・マリーン・パブリック・ホスピタルの外側に7つの別棟(units)があって、その6つめがエネット・ハウスになっている。
 第1棟はベトナム戦争に参加したベテラン向けのカウンセリング。第2棟はヘロイン中毒のクリニック。第3棟は現在は空いているが、貸し出せるように準備をしている。第4棟はアルツハイマー病の患者。エネット・ハウスの窓から患者の様子を見ることができて、エネット・ハウスの住民たちを気が狂ったようにさせてしまう(the howling fantods)。第5棟は強硬症の、同じ姿勢を保ち続ける統合失調症患者。そして第6棟がドラッグ、アルコール依存症のリハビリを行うエネット・ハウス。そして第7棟は空。リハビリに耐えられなくなったエネット・ハウスの住民が薬物を持って第7棟に忍び込む。実はこの棟はE.T.A.が権利していて、家賃を払い続け、修理もせずそのままにしているだった。

 これらの棟を、エネット・ハウスのドン・ゲイトリーの視線を借りつつ三人称で説明していく。

用語
・VA:United States Department of Veterans Affairs(アメリカ合衆国退役軍人省)




 …とここまで読んで読破率が19.7%! ようやく5分の1!
 インカンデンツァ一家がどんどん掘り下げられてきて、ケベックを巡る陰謀も徐々に明らかになりつつあり、謎だったマダム・サイコシスとドン・ゲイトリーも登場してきて、これからさらに面白くなることは間違い無いのだが…ここでこの企画は終了です。

 なぜなら、非公式ながら『インフィニット・ジェスト』の翻訳が進んでいて、この辺りまではもうすぐ、そしておそらく来年には全て読むことが可能になりそうだからだ!素晴らしい!(インフィニット・ジェスト 翻訳で検索すれば出てくるはず)

 ここで終了とはいえ、極めて複雑な物語が軌道に乗るまでの解説としては十分役立つとは思う(多少誤読もあるとは思うが…)。海外ファンサイトの図解はもちろん、細かなネタの解説などはさすがに訳者もカバーしていないと思われるので(キリがない)、邦訳を入手したら復習を兼ねてこれまでのブログを参照していただけたらありがたい。もちろんこのブログではDFWの仕掛けの10%もカバーしていないと思うが…


予告をしておくと、次回はアメリカ人初のブッカー賞を受賞した、Paul Beatty(ポール・ビーティー)の『The Sellout』(2015年)を紹介します。

Infinite Jest まとめその3(79-121頁)


これまでのあらすじ
 エンフィールド・テニス・アカデミー(E.T.A.)の創設者の子供であり生徒でもあるハル・インカンデンツァは、テニスの才能だけでなく辞書を丸暗記するほどの頭脳を持つ天才。なにやらケベック州を中心にアメリカとカナダの国境で陰謀がうごめいていて、ハルの母親もそれに関与しているようだが、そんなことを知らないハルはE.T.A.内にある地下トンネルで1人ハッパを吸ってハイになっているのだった…


Youtubeにアップされているオーディオブックを聞いてみたところ、何人かの登場人物の発音が明らかに間違っていることがわかったので、今回からこっそり修正しています(過去のまとめもあとで修正予定)。


ハル・インカンデンツァ その9(79-85頁)

時期:大人用下着年 Year of the Depend Adult Undergarment(以降「Y.D.A.U.」と略す)
人物:シュティットとマリオ

要約
 ゲイハルト・シュティットはE.T.A.のヘッドコーチ。齢は70近い。軍隊式で非常に厳しいコーチだが最近はめっきり丸くなったと言われている。
 ランニングするE.T.A.の生徒たちと並走するとき、シュティットは革のヘルメットとゴーグルを着用し、古いBMWのバイクのエンジンを吹かす。そんな彼の隣のサイドカーにはいつも18歳のマリオ・インカンデンツァが、その薄い髪を巨大な頭の後ろまでなびかせ、知ってる顔たちに笑顔で手を振りながら座っている。痩せすぎてボールを打つどころかラケットのグリップを握ることさえできないマリオ・インカンデンツァが、シュティットにとって率直な話ができる人物だというのは不思議に思えるかもしれない。マリオは特段シュティットと親しいわけではないし、他の先生たちにもおちょくるような態度で接してきた。ただ、彼らは校内の休憩所で一緒になることが多かったのだ。マリオは校内に生えている植物の匂いが好きで、またシュティットの香水の香りも好きだった。シュティットが喋って、マリオが聞く、だいたいこんな感じだ。
 今は亡きハルの父ジェームズ・インカンデンツァがシュティットをE.T.A.に連れてきた理由の1つが、シュティットがテニスに対して技術者よりも数学者として向き合ってきたことだ。テニスは限界要因や確率曲線に還元することができないし、チェスやボクシングとも違うスポーツである。むしろその2つのスポーツを掛け合わせたものが真のテニスなのだ。シュティットは統一前のギムナジウムでカント・ヘーゲル的な概念である、ジュニア選手は市民権のためにトレーニングをする、つまり個を全体のために捧げるべきだという教育を受けてきた。しかし、国家における市民権の道徳的混乱はさらに回折されている。不足、困窮、そして規律を忘れた植民地主義的(experialist)で廃棄物を輸出し続けるこの国家のために奉仕することなど想像できるだろうか? この国はチームでもなければ体系だってもいない、願望と恐怖が乱雑に絡みあう交差点だ。平坦で視野が狭い個人の利益をひたすら追い求めること。これこそ、この国の若い子供たちが歩むべき唯一の道なのだ。
 だが、マリオはこうも考えていた。では、個人はより大きな共同体に奉仕せよというその考えが、テニスのような一対一の個人スポーツにどのように作用するのか? シュティットの要点はこうだ。真の対戦相手とはプレイヤー自身。ネットの向こう側にいるのは、敵ではなくダンスの相手というほうが近い。テニスの無限の美は、この自己との闘いが起源なのだ。そして人生もまた同じ。
 マリオはまたこうも考えていた。ならば、自己と闘い勝利することは、自分を破壊することと同じではないのか?
 「多分、違いはない。プレイするチャンスがあるということをのぞいて」

解説
 E.T.A.の厳しいコーチ、シュティットと、ハルの兄弟マリオのちょっとおかしなコンビのやりとり。ここでマリオの年齢が18歳と判明し、ハルより年上だとわかる。これまで勝手に弟だと思ってしまっていたのは、マリオはラケットを使えないほど虚弱体質で、それが兄弟の会話に反映されていたからか。
 テニスを数学的に捉えるというシュティットのテニス観は、DFWのエッセイ集『フェデラーの一瞬』(阿部重夫訳・河出書房)収録、自身のジュニアテニスプレイヤー時代を数学・物理・化学の知識を縦横無尽に駆使して回想する「「竜巻回廊」の副産物スポーツ」と重なる部分が多い。

 この精確無比な分割と境界は(中略)テニスを教科書的な平面幾何学にする。これは球が止まらないビリヤード、走りながら打つチェスなのだ。(『フェデラーの一瞬』14頁)

 「己との闘いと自殺は同じではないのか?」というマリオの問いが、前章の父ジェームズの自殺とリンクしているのは間違いないだろう。

用語
* カント・ヘーゲル的概念:両者の思想ともに、全体主義的傾向が見られると指摘されている。(「全体主義」とカント or ヘーゲルをセットで検索するとブログ、論文などいろいろ出てきます)
* 「国家における市民権の道徳的混乱はさらに回折されている」:〈回折〉とは物理学。波が伝わる先に障害物があった際、波が障害物の背後などに伝わっていく現象のこと。防波堤によって変化する波がその一例。

(本文に出てくる難単語)

  • Experialist:造語。 Imperial(帝国)の語源”in(中に)”を”ex(外へ)”と変えたものだろう。直後の”waste-exporting nation(ゴミを外へ運び出す国)”から考えるに、「外部を支配する」→「植民地?」とイメージしたが…プロならなんて訳すのだろう。
  • Verstiegenheit:マリオとシュティットの会話のシーン、Schtittがこの言葉を発してマリオが”Bless you”と返す箇所がある。マリオはくしゃみだと思ったわけだが、古いドイツ語で「奇行」といった意味。


タイニー・イーウェル(85-87頁)
時期:大人用下着年(Y.D.A.U.)
人物:タイニー・イーウェル

要約
 タイニー・イーウェル(Tiny Ewell)という名に皮肉の意味は込められていないが、彼はエルフサイズに小さい(tiny)男性だ。妻に接近禁止命令を出されている彼は、リハビリのスタッフと一緒にタクシーに乗って、ボストンの西のウォータータウンを通り抜け、アルコール依存症のリハビリのためセイント・メルズ病院へと向かった。
 タイニーはそこで数日間過ごした後、リハビリのスタッフとともにタクシーに乗った。スタッフはエンフィールド・マリーン・総合病院に向かいよう運転手に指示をした。

  大人用下着年4月2日深夜、医務官、その妻、医務官と連絡が取れないことを不審に思ってホテルへ向かったQ ──王子の個人内科医の助手、助手が帰ってこないことを不審に思った個人内科医、Q ──王子から派遣された2人の大使館警備員、冊子を配ろうとしていたところリビングに人の姿を確認し扉が開いていたので中に入ってきた2人のキリスト再臨論者…全員がテレピューターに釘付けになっていた。

解説
 タイニー・イーウェルは新しい登場人物だが、やはり依存症持ち。また「小さいバール・アイヴスに似ている」という描写がある。パール・アイヴスはアメリカの歌手・俳優で『大いなる西部』(1958年)でアカデミー助演男優賞も受賞。
 後半に再び医務官。彼を心配して見に来た関係者や宗教勧誘の人たちまでもが、ラベルのないカートリッジが映ったテレピューターで動けなくなってしまったようだ。

レミー・マラートその1(87-95頁)

時期:大人用下着年(Y.D.A.U.)4月30日
人物:レミー・マラート、スティープリー

要約
 夕焼けを背にレミー・マラートは砂漠の上に座っていた。彼の妻が治療を受けているケベック南東部のパピノーと比べると、ツーソンの夕焼けはより爆発しているように見える。
 カスタマイズされた車椅子に座って街へと伸びる自分の影を眺めているマラートに、Unspecified Services(ケベック分離派からいつもBSS “Bureau des Servicessans Specificite”と呼ばれている)の諜報員M・ヒュー・スティープリーの影が降りてくる。スティープリーは滑ってマラートの位置まで降りようとしたが道を外れそうになり、マラートはブランケットの下の銃から手を離し、スティープリーの腕を掴んであげてようやく止まった。スティープリーの穿いていたスカートがめくれ上がった。
「君らしい隠密っぷりだな」
「くそったれが(“Go shit in your chapeau” )」
 A.F.R.(Assassins des Fauteuils Rollents:車椅子暗殺者)のリーダー、M・フォーティアーはマラートにケベックのフランス語を使うよう要求していたが、2人が秘密裏に外であっているとき、彼らは大部分をアメリカ英語で会話する。スティープリーのケベック仏語はマラートの英語よりも上手いのだが、今使っているのはスティープリーの好みのアメリカ英語だ。
 かつて、マラートは妻に先進的な治療を受けさせるため、AFRを裏切ってBSSに情報を流すフリをして──実は本当に裏切ったのだ。
「奥さんの調子はどうだ」
「変わりなくだよ。それであなた方は何が知りたいんだい?」
「驚くようなことは起きてないよ。ただ、北東のほうでちょっとしたバカ騒ぎがあっただろ。あんたも知っているはずだ」
「騒ぎ?」
「知らなかったとは言わないでくれよ。俺たちが『ジ・エンターテイメント』と呼んでるモノが通常配送である人物の元に突然送られたんだ。そいつは特に政治的な人物ではない、ただひとつサウジアラビアの娯楽省の人間だってことをのぞいてな」
「消化器系が専門の医務官(Medical Attache)のことだろ、君が言っているのは。あなた方はそれに私たちの組織が絡んでいると思っているのかい? 私たちは被害者の数さえ知らないよ」
「20人まで行ったんだぜ、レミー。医務官、医務官の妻…大使館のパスを持っているやつが4人もいた。俺たちが聞きたいのはAFRが医務官を見せしめにしたんじゃないかってことだ」
「消化器系の医務官も大使館員も、私たちのリストに名前はないね」
「まだあるぞ、レミー。その大使館員はトランス・グリッド・エンターテイメントの主要なバイヤーと関係があったんだ。ボストンのオフィスからからの続報では、『ジ・エンターテイメント』の監督(autear)の未亡人と以前に関係を持っていた疑いが強いって話だ。その奥さんは、夫がA.E.C.(Atomic Energy Commision)にいたときに、色々な人物を関係があったと言われている」
「君が言っているのは性的な関係ってことだろ。政治的ではない」
「その夫人はケベック人なんだよ。オタワの“Personnes à Qui On Doit”リストと3年間過ごしていた。政治的セックスってやつがあったんだ」
「私たちが知っていることは全部伝えたはずだ。一個人をO.N.A.N. への警告とするのは私たちの望むことではない」
「俺は個人的に確認してみたかっただけだよ」
「我らがM・タインには聞いたのかい? 君はなんて呼んでたっけ? 『ロッド・ア・ゴッド(Rod, a God)?』」
(ロドニー・タイン ⦅Rodney Tine⦆はUnspecified Servicesの長官で、O.N.A.N.と北アメリカ再配置⦅continental Reconfiguration⦆の立案者。ホワイトハウスと繋がっている人物でもあり、書記ルーリアを愛していたと言われている)
レミー、『ロッド・ザ・ゴッド(Rod, the God)』だよ」

「それで、俺と君が会ったことはフォーティアーに報告するんだろ?」
「もちろん(’n sur)」
「君はすでに三重スパイだよな? もしくは四重か。俺とあんたがここにいることをフォーティアーとA.F.R.が知っていることを、俺たちは知っている」
「でも俺の車椅子の仲間たちは、それを君が知っていることを知っているよ…私は裏切るフリをするフリのフリをしていたということかな」
「別に悪意はないんだよ。強迫的な警告というやつさ。あんたのとこのデュプレシは、タインがルーリアに渡してしまった情報を取り返そうとしているって疑ってたよな?」
「デュプレシなら先日突然この世を去ってしまったよ」
 マラートが作り笑いをしながらそう言うと、しばらく2人の間に沈黙が流れたやがてマラートは腕時計を確認して言った。
「思うに、僕らは君のB.S.S.の連中よりもシンプルなやり方で、この問題に取り組んだ方がいいね。もしタインが情報を取り戻そうとしているのなら、ケベック人は気がついているだろう」
「ルーリアのおかげでね」
「ああ。ルーリアも知っているだろう」


解説・用語
 メインキャラの1人、車椅子の暗殺者(A.F.R.)レミー・マラートが初登場。会話の相手スティープリーは所属する組織(B.S.S.)からの命令で女装をさせられていて、会話の最中に偽の乳房がズレて顎にあたるなど、女装がめちゃくちゃになっている描写が挟まれる。また、途中に野生のハムスターの説明が突然挿入されるのだが省略。
「くそったれが(“Go shit in your chapeau” )」は“F--k off”のちょっと丁寧な言い方“Go shit in your hat”の“hat”(帽子)だけをフランス語に言い換えたもの。このようにこの章の会話では英語とフランス語が混ざるところがいくつかある。それはケベック州公用語がフランス語だからであり、そこから誰がアメリカ側で、誰がケベック側なのかを察することができる。
 この章では、今までの無関係と思えるエピソードが繋がることでどこかまとめ的な役割を持つ(といってもまだ10分の1だが)。

  • 医務官(Medical Attache)と謎のビデオ

    医務官に送りつけられた謎のビデオ、それを見たものは固まってしまう、という事件(初回は33頁)。スティープリーはこのビデオが「ジ・エンターテイメント」と呼ばれていることを明かし、この事件をA.F.R.の仕業ではないかと疑うが、マラートはそれを否定。そして重要なのがその後だ。
    「『ジ・エンターテイメント』の監督(autear)の未亡人と以前に関係を持っていた疑いが強いって話だ。その奥さんは、夫がA.E.C.(Atomic Energy Commision)にいたときに、色々な人物を関係があった」
    ハルの父ジェームズ・インカンデンツァの章(63-65頁)と合わせると、「ジ・エンターテイメント」の監督がジェームズであることがわかり、ハルの母アヴリルケベック分離派と関係があったということにもリンクする。

  • 「あんたのとこのデュプレシは、タインがルーリアに渡してしまった情報を取り返そうとしているって疑ってたよな?」「デュプレシなら先日突然この世を去ってしまったよ」

     この世を去ったデュプレシとは、55-60頁、ドン・ゲイトリーに押し入られて不運にも命を落としたのはギョーム・デュプレシ(Guillaume Duplessis)のことで間違いない。〈ハル・インカンデンツァその2(27-31頁)〉の父ジェームズと子ハルとの会話にも出てくる。
     そのジェームズとハルの会話「悪党どもと君の家族の、下劣な不義を私が知らないとでも? 汎カナダ・レジスタンスの悪名高いデュプレシと彼の邪悪な書記であるルーリア・P…」(30頁)に出てくるもう1人の人物名〈ルーリア・P〉。これがB.S.S.の長官タインからB.S.S.の情報を流出させたルーリア(Luria Perec)のこと。反O.N.A.N.側だと思われるが、A.F.R.の人間なのだろうか?


     ここで、これまでの情報を整理してみよう。

     これまでケベック州を中心に様々な団体が登場してきた。まず、

  • O.N.A.N.アメリカ、カナダ、メキシコから成るOrganization of North American Nationsのこと。訳すなら「北アメリカ(大陸)連合」といったところ。 
    O.N.A.N.の長官はロドニー・タインという人物で、「北アメリカの再配置」の主導者でもある。その中心にあるのが〈巨大な凹面地帯(the Great Concavity)〉〈巨大な凸面地帯(the Great Convexity)〉(55-60頁)なのだろう。前回も引用した図を再掲載。

    出典:infinitesummer.org

    この地帯がアメリカ側から見ると凸面に、カナダ側からは凹面に見えるということ。この本来ならアメリカ領にあたる地帯がカナダに“gift or return”される(58頁)。それに関連して様々な組織活動が行われているようだ。

カナダ側の組織

  • A.F.R(Assassins des Fauteuils Rollents:車椅子暗殺者):脚注42において解説がされていてケベックで最も恐れられている反O.N.A.N.テロリストグループ」とのこと。団体名がフランス語なのもそういう理由だ。
  • ケベック分離派、アルバータ州の極右団体:上記の〈巨大な凹面地帯(the Great Concavity)〉〈巨大な凸面地帯(the Great Convexity)〉に関連して55-60頁で言及された団体。

    カナダ側の人物
  • レミー・マラート:メインキャラの1人。車椅子暗殺者。妻が難病。
  • フォーティアー:マラートの上司。
  • アヴリル(ハルの母親):ジェームズと結婚前にケベック分離派と関係あり。
  • ルーリア・ペレック(Luria Perec):B.S.S.の長官ロドニー・タインに接近し情報を漏洩させた。
  • ギョーム・デュプレシ(Guillaume Duplessis):55-60頁にて、プロの盗人ドン・ゲイトリー(メインキャラの1人)に不運にも殺されてしまった「カナディアン・テロリズム・コーディネーター」

    アメリカ側の組織

  • O.N.A.N.:全体の流れから推測するに、O.N.A.N.にはアメリカの意向が大きく反映されているのだろう。

  • Unspecified Services(=B.S.S.):日本語訳はさっぱり思い浮かばない。正式名称は英語だが、マラートを含めケベック側からフランス語で“Bureau des Servicessans Specificite”と呼ばれている。

    アメリカ側の人物
  • ティープリー:女装してマラートと会話していたUnspecified Service(B.S.S.)の人物。
  • ロドニー・タイン:Unspecified Service(B.S.S.)の長官であり、O.N.A.N.と「北アメリカの再配置」の中心人物。ルーリアに惚れてしまい情報を漏洩する。ホワイトハウスにもつながりを持つ。
  • ジェントル大統領:物語内におけるアメリカ大統領。まだ言及されるだけで登場はしていない。


    ハル・インカンデンツァ その10(95-105)

    時期:大人用下着年(Y.D.A.U.)11月3日 火曜日
    人物:ハル、E.T.A.の生徒たち

    要約
     「…彼らが座りながら感じているものが不幸だって気づくことでさえも? それとも最初から感じることさえ?」
     16時40分、男子ロッカールームで午後の練習試合を終えた生徒たちはくたくたに疲れていた。
     「それで」ジム・トレルチが言った。「お前はどう思う?」
     「テストはトルストイ統語論についてだっただろ。不幸な家族についてじゃない」ハルが静かに言った。
     「よし、じゃあ」トレルチは言った。「抜き打ちテストだ。明日のリース先生のテストのね。問題、過去の放送受信テレビセットとカートリッジ型TP(テレピューター)の決定的な違いは?」
     ディズニー・R・リースはE.T.A.の「エンターテイメントの歴史Ⅰ・Ⅱ」の教師だ。
     「陰極発光パネル。陰極銃はなし。光覚スクリーンもなし」
     「お前が言ってるのは、高解像度ってこと? 一般的にはビューア(viewer)、具体的にはTPコンポーネント・ビューアのこと?」
     「アナログじゃないってことさ」ストラックが言う。
     「画面がザラつかない、幽霊みたいに多重に見えない、飛行機が飛んでいるときに垂直な線が入らない」
     「アナログ対デジタルだな」
     「それはTPに対比するネットワーク内としての放送という意味? それともネットワーク・プラス・ケーブル?」
     「ケーブルテレビってアナログだったの? ファイバーフォンより前(pre-fiber phones)のやつみたいに?」
     「それがデジタルだ。リースがアナログからデジタルへの移行に対してその言葉をよく使うね。1時間に11回は使ってないか?」
     「実際、ファイバーフォンより前って何を使ってたの?」
     「昔ながらの糸電話の原理……

     ロッカールームの中で、ピーター・ビーク、イヴァン・インガーソル、ケント・ブロットもタオルをかぶって肘を膝につき、木のベンチに座っている。それぞれ12歳、11歳、10歳だ。E.T.A.の18歳以下の選手は、それぞれ4人から6人の16歳以下の子供たちの世話を任される。E.T.A.からの信頼が厚ければ、より若くてより未熟な子供たちが割り当てられる。これがチャールズ・テイヴィスが設けた「ビッグ・バディ・システム」だ。テニス焼けのため、彼らは裸だとちょっとおかしく見える。夏から、腕と脚はキャッチャーミットのように深い黄土色で、足首から下はカエルの腹のように白く、胸、肩、上腕部はオフホワイトだ。最もひどいのは顔で、ほとんど赤く輝いている。隔世遺伝で初めから顔が黒っぽいハルを除き、白と黒のまだらの顔をした者は外でのプレーの前にレモン・プレッジ(木材用のワックススプレー)を吹きかけることを我慢できた選手たちだ。

     「こんな疲労まみれの日々を言い表すために、全く新しい統語論が必要だ」ストラックは言った。「この問題に対してE.T.A.で最高の知性を持った人物がいるぞ。類語辞典を消化して、分析したやつが。なあハル?」
     ハルは自嘲的に笑ってみせたが、誰もがそこに彼の余裕を感じた。父方に当たる北部アメリカの血によって5世代前のイタリア、ウンブリア地方の血はほとんど薄められてしまったが、その名前は引き継がれ、曾祖母には南東のピマ族とカナダ人の血が流れていた。存命のインカンデンツァ一族では、ハルはどこから見ても民族的な要素をもっている唯一の人物だった。亡き彼の父は不気味に背が高く、ピマ族風の頬骨、黒い髪をもっていた。対してハルはカワウソのような光沢を持った黒といった感じで、背は少しだけ高く、目は青いが黒みも帯びていた。妊娠期には全面的な染色体戦争が起こっていたに違いない。長男のオリンは母のアングロ・ノルド・カナディアンの特徴が強く、深い目の彫り、ライトブルーの目、完璧な体型で、運動神経も抜群だ。
     次男のマリオはインカンデンツァ一族の誰とも似ていないように見えた。
     ハルは、ビッグ・バディの世話をしなくても良い非遠征日の大半で、皆がシャワーやサウナで忙しいタイミングを狙ってE.T.A.の地下トンネルへと降りていき、居眠りをする。そして誰かに気付かれる前にさりげなく戻ってきて、年少の生徒たちと一緒にシャワーを浴びる。
    午後のロッカールームは底なしのようだ。以前も、そして明日も、彼らはこのような疲れ果てた姿でこの部屋にいるだろう。外の明かりは悲しく、嘆きは骨の髄まで響き、伸びていく影の縁は鋭い。
     「こんなにキツい練習をさせているのは、テイヴィスだと思う」フリーヤーが言った。
     「いや、シュティットだ」ハルは言った。
     「シュティットは忠実なナチ党員のように、言われたことをただやっているだけさ」
     「じゃあ『ハイル!』はどんな意味合いになるんだ?」シュティットに忠実なことで知られるスティスがそう尋ねたタイミングで、彼らは突然タオル投げを始めた。


    解説・用語
     E.T.A.の日常を描く章だが、前半は作中の科学技術について、途中からハルに血筋に関する情報が説明される。ここでE.T.A.の登場人物がさらに増えるが、書ききれないので特に説明はしない。
     注目すべきはやはりハルの複雑な血筋だ。インカンデンツァというファミリーネームはイタリアに由来し、ピマ族というアメリカ南西部のネイティヴ・アメリカンの血も引いている。E.T.A.の卒業生で現在はNFLの選手としてプレーする長男オリンは母親似、三男ハルは(やや)父親似、次男で虚弱体質のマリオはどちらにも似ていない。

    (本文に出てくる難単語)
  • semion(101頁):DFWの造語。文脈からサインやジェスチャーの意味。


    レミー・マラートその2(105-109頁)

    時期:大人用下着年(Y.D.A.U.) 11月3日
    人物:レミー・マラート、スティープリー

    (前章「ハル・インカンデンツァその10」から空行を挟んで始まる。なので前章と同日時)

    要約
     女装したアメリカ人(スティープリー)はマラートから少し斜めの位置に立って、今や彼らを飲み込んだ夕日の影と、万華鏡のように煌めき出したツーソンの街を見つめていた。
     マラートは眠りの淵にいるようだ。
     「偉大な、あるいは永遠の愛とさえ言われてるかもな。ロッド・タインからルーリアへの愛は」
     マラートは低い声で返事をして、ほんの少し座り直した。
     「歌の中で不滅の存在となるやつだよ。バラードやオペラの形でね。トリスタンとイゾルデランスロットと誰だっけ。アガメムノーンとヘレン、ダンテとベアトリーチェ
     マラートは眠たそうな笑みをしかめっ面に変えながら顔をあげた。「ナルキッソスとエコー。キュルケゴールとレギーネカフカと郵便受けを気にする女の子」
     「この流れで郵便受けの例は面白いね」スティープリーは小さな作り笑いをした。
     マラートに集中力が戻ってきた。「ウィッグをとってその上に座りなさい。君の無知にはゾッとさせられるね。アガメムノーンとその女王は何の関係もない。ヘレンの夫はメネラウス、スパルタの王。君が言いたいのはヘレンとパリスだろ、トロイの王子の」
     スティープリーは面白がっているように見えた。「ヘレンとパリス、争いのきっかけとなった者。木馬、贈り物ではない贈り物」
     「私はアメリカの歴史の純朴さに驚き呆れているところだよ。ヘレンとパリスは戦争の〈言い訳〉さ。貿易をめぐる戦争だったんだ」
     「君は全て政治の話にするからな。あの戦争はただの歌じゃなかったのか? 実際に行われた戦争だってみんな知ってるのか?」
     「大事なのは、戦争を始めるのは国家であり共同体であり、それらの関心事ということだ。君は1人の女性の愛が国をも動かせることを信じ込んで、それを楽しみたいだけだろ」
     「どうだろうね。ロッド・ザ・ゴッドの周りの奴らが言うには、彼は彼女のためなら2度死ねるだろうって話だぜ。政治的なものを超越する悲劇的な要因、あんたならわかるだろ?」
     メラゼのA.F.R.への裏切りは、妻の治療のためだった。
     「熱狂的愛国者である南ケベックの車椅子暗殺者はこの種の対人感情を軽蔑するってことかな」
     マラートは車椅子に深く座り直した。「英語の〈熱狂(fanatic)〉はラテン語での〈聖堂(temple)〉に由来するって習ったかい? 正確には〈聖堂の礼拝者(worshipper at temple)〉を意味する。私たちが愛着を感じるものが聖堂だ。それは慎重に選ばれなければならないが、君が悲劇の愛として歌いたいものはそうではないだろ。1人の人間のために死ぬなんて狂っている。女性への愛は、人を小さい器に納めてしまう。国家への愛は、より大きな存在へとしてくれる」
     「だけど、選択肢がそれだけ、つまり決断もなしに愛したらどうなんだ? あんたは実際にそうだっただろ、彼女を見てその瞬間に愛さざるを得なかっただろ?」
     マラートは軽蔑を込めて鼻であしらった。「そういった場合は自己とその感傷が、聖堂となる。個人的で狭い自己の感傷の奴隷となり、無の個人となるのだ。自分自身に跪く、たった1人だけの存在に」
     沈黙が2人に訪れた。


    解説
     〈レミー・マラートその1〉(87-95頁)でのやりとりの続き。ロッド・タイン(スティープリーの上司、つまりアメリカ側)からルーリアへの愛と裏切りについて2人が議論する。愛をテーマにした作品についてのやりとりはコミカルだが、次第に個人への愛、国家への愛へと話が移る。

  • カフカと郵便受けを気にする女の子:人形を無くしたという女の子に、カフカが「人形は旅に行っているのだよ」と嘘をつき、その人形からという体で女の子へ手紙を書いていたというエピソードのこと。村上春樹海辺のカフカ』、ポール・オースター『ブルックリン・フォリーズ』などにも登場する。


    ハル・インカンデンツァ その11(109-121頁)

    時期:大人用下着年(Y.D.A.U.) 11月3日
    人物:E.T.A.の生徒たち

    要約
     「だって、誰もそんなこと意図していないからだ」ハルがケント・ブロットに言った。「俺たちがシャワーのあとこうして一緒に座り込んでいることをシュティットとデリントが知らないとでも? 全部計画されてるんだよ」
     「俺はここに6年も7年も8年もいるやつらを考えてみたんだ。ずっと苦しみ、傷つき、痛めつけられ、疲れている。今の俺たちみたいにね。そんな生活が毎日これからも続くのになんでこんなことをしているかというとプロになるためだが、この忌々しい感情はプロになるともっと苦しいくなるってことだろ」
     5人は寮の中にある小さな第6視聴室の中で、もふもふしたカーペット(shag carpet)にクッションを枕にして大の字になって寝ていた。
     5人皆が疲れているとき、ハルはお気楽な視覚化カートリッジ(visualizaton-type cartridge)を選ぶようにしている。お題目を聞かなくて済むように音は消しておくが、映像はまるで飛び出たかのように鮮明だ。選んだカートリッジはスタン・スミス。ピーター・ビークは目をあけたまま寝ているが、この奇妙な能力はE.T.A.が幼い生徒に刷り込ませているようだ。ちなみにオリンは自宅の夕食中にもすることができる。
     ハルはクッションの上にさらに両手を枕にしてスタン・スミスの映像を観ていた。瞼は重い。
    「17歳の今の苦しみとそっくりそのままの苦しみが、これからも待っていると感じているのかい、ケント?」
     ピーター・ビークは鼾をかいている。
     「でもブロット、こう考えたことあるだろ? なぜ毎日がこんなに恐ろしいにも関わらず俺たちはまだここにいるのか、と」
     「毎日じゃないよ、でもしょっちゅうだな」
     「みんながここにいる理由は、ここを出れたとき〈ザ・ショー〉にいるためさ」インガーソルが言った。〈ザ・ショー〉とはATPツアーのことで、旅行し、賞金を受け取り、スポンサーを得て、出場手当を貰い、雑誌に載って、自分の写真が公式グッズになることだ。
     「でも〈ザ・ショー〉に行けるのは1人のトップ・ジュニア選手だけってみんな知っている。残りの大半はサテライトツアーや地域ツアーを這いつくばるように回るだけで、そうでなければ弁護士か学者になる」ハルがささやくように言った。「大事なのは、俺たちはみんな一緒に、座って同じ気持ちを抱いてるってことさ」
     「連帯感ってこと?」
     「俺たちはお互いに蹴落そうとするし、お互いを守ろうともする。俺たちはそれぞれ今どこにいるのか、ランキングという相互関係のシステムで知ることができる。俺たちはみんな、食物連鎖の中にいるんだ。個人種目のスポーツだからね。ようこそ〈個人〉の真の意味へ。ここではみんな孤独だ。この孤独こそ、俺たちが共通して持っているものさ」
     「イ・ユニバス・プルラム(E Unibus Pluram)」インガーソルがつぶやいた。
     「そして問題は、じゃあどうやって俺たちは友人になれるのか、ってことだ」
     「俺は疎外(alienation)だと思うな」アースラニアンが顔をインガーソルの方へ向けて言った。「しばしば西洋で参照されてきた実存的個人、独我論
     「つまりだな」ハルが言った。「ここで話してるのは、孤独(loneliness)ってことだ」
     「犬が恋しいなあ」インガーソルがうなだれた。
     「あ」ハルが言った。「でもすぐに集団が形成されるということもあるよ。苦痛が俺たちを結びつけるんだ。先生たちは俺たちにダラダラして悪口を言うことを許している。共通の敵だよ。彼らからの贈り物みたいなものだな。共通の敵ほど人を結びつけるものはない」
     そこから2つ角を曲がったところの第5視聴室では、ジョン・ウェインがラモント・チュー、〈ねぼすけテレピューター〉ピーターソン、キエラン・マッケナ、ブライアン・ヴァン・ヴレックに停滞期を迎えた生徒が3つのタイプに分けられることを説明していた。
     第2視聴室ではぺミュリスがトランプを使って子供たちをからかい、シャハトは巨大な歯の模型でフロス(糸ようじ)の説明をし、トレルチは寮の自室(?)で反復について熱弁をふるい、第8視聴室ではストラックが試合中にオナラをすることについて説明をし、その2階下の広間ではスタイスがシュティットが説く献身さについて解説していた。
     「つまりわざと嫌われるようにしてるってことですか?」ブリークが訪ねた。
     しかしもう夕食の時間だ。ハルは左側の歯にズキズキする痛みを感じた。


用語・解説
 前章で説明があった〈バディ・システム〉内の会話。ハル、ジョン・ウェイン、ぺミュリス、トレルチ、ストラック、スタイスのグループが出てくる。総じて登場人物が多い!
 テニスに関連していながらも抽象的な会話は、その射程が広い。例えば、
「俺たちはお互いに蹴落そうとするし、お互いを守ろうともする。俺たちはそれぞれ今どこにいるのか、ランキングという相互関係のシステムで知ることができる。俺たちはみんな、食物連鎖の中にいるんだ。個人種目のスポーツだからね。ようこそ〈個人〉の真の意味へ。ここではみんな孤独だ。この孤独こそ、俺たちが共通して持っているものさ」
 この箇所なんかは、自己責任論が蔓延し競争こそが唯一の真理とされる現代の資本主義(新自由主義)とも重なるだろう。

 プロテニスのシステムについてだが、ATPツアーといった用語はテニスに詳しくなくても知っているだろう。「サテライトツアー」というのはATPツアーよりさらに下のランクの選手たちが参加するツアーで、地域ツアー(regional tour)も(おそらく)似たようなものなのだろう。
 ニュースにも中継にも映らない選手たちがどういう環境でプレイしているかは…是非とも『フェデラーの一瞬』収録の「マイケル・ジョイスの一流「半歩手前」」を読んでもらいたいところ!必読です!

  • インターレース(InterLace):部屋の中にある試合のカートリッジについて、"motivational, visualization cartridges ── InterLace, Tatsuoka, Yushityu, SyberVision"という文章があり、これまでも何回か出てきた〈インターレース〉が、タツオカ・ユシチュ(?)なる人物が作った「サイバーヴィジョン」だったということがわかる
     …と言われても結局なんのことかよく分からないのだが。

  • スタン・スミス(Stan Smith):アディダスのスニーカーのモデル名でもお馴染みのテニス選手。1946年生まれ。グランドスラムでは全英オープンウィンブルドン)と全米オープンで一度ずつ優勝している。

  • イ・ユニバス・プルラム(E Unibus Pluram):アメリカ合衆国のモットーとして知られるラテン語、イ・プルリバス・ユヌム(E pluribus unum)の言葉遊び。本家は「多数はひとつへ(One from many)」を意味するが、ここでは“From one, many”の意味になる。

  • 疎外:マルクスの「疎外された労働」という言葉が有名だが、元々はヘーゲルに由来するらしい。

    (本文に出てくる難単語)

  • kertwang:文脈から、審判がいないセルフジャッジのときにわざと誤審をすること。

  • mein kinder:ドイツ語で“My children”と言いたかったと思われるが、“mein”は単数であり、正確には“meina kinder”でなければならない。

  • aperçu:英語で“an insight” 日本語なら洞察力。



    これで現在の読破率、12.2%!


    …これまでは「重要な箇所をピックアップ→訳してみる→まとめる」と、ある程度原文を尊重しつつまとめるという形を取っていたが、よく考えたら著作権的にどうなんだろう? という気がしてきたので今回からざっくりまとめることにした。
     次回以降は原文を無視してもっとざっくりまとめていくのでペースが上がっていくはず。

Infinite Jestまとめその2(32-79頁)

 ところで2020年2月末、待望のデイヴィッド・フォスター・ウォレスの翻訳が河出書房から出版された。DFWのテニスに関するエッセイを集めたもので、タイトルは『フェデラーの一瞬』。訳者は『This is a water(それは水です)』を訳した阿部重夫

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買ったばかりなのにすでにボロボロ笑

 とりあえずDFWの入門書として最適な一冊には間違いないので、この記事をクリックしたアメリカ文学好き、DFWに興味がある人は間違いなく買うべき本だ(敢えてAmazonのリンクを貼らないのは、書店で直接購入または注文してほしいからだ)。
 『フェデラーの一瞬』に収録のエッセイのうち「「竜巻通廊」の副産物スポーツ」(“Derivative Sport In Tornado Alley”)と「フェデラーの一瞬」(“Federer Both Flesh And Not”)は、毎度お馴染みPenguin Booksの『The David Foster Wallace Reader』に収録されているので、原文と翻訳を読み比べることも可能。
 その素晴らしい仕事を読めばすぐわかるが、あくまでこのブログは(これでも)簡易的なまとめでしかない。

ハル・インカンデンツァ その3(32-33頁)

時期:ディペンド社大人用下着年(Year of the Depend Adult Undergarment)5月9日
人物:ハル


内容
 電話に出るとき、息子は父と同じ言い回しやイントネーションをしてしまうのものだ。
 ハルは朝練のために6時に寮を出ないといけないが、夕食まで戻らないことが多いためテニス道具から勉強道具まで全ての荷物をまとめなきゃいけない。それも朝練をする必要がない同室の兄弟マリオを起こさないために真っ暗な中で、だ。
 そんなとき電話が鳴った。マリオの身体がベッドの上で跳ね上がり、ハルはすぐに電話を取って透明なアンテナを出した。
「君に教えたいんだ(I want to tell you)」電話の向こうから聞こえてきた。
「伝えたいことで頭がいっぱいだ(My head is filled with things to say)」
ハルは優しく呟いた。「気にしないよ、いつまでも待つから(I don’t mind, I could wait forever)」
 マリオがへなへなと崩れ落ちた。マリオはしばしば寝たまま起き上がったりするのだ。「それがお前の考えてることってわけか」そこで電話が切れた。電話をかけてきたのはオリンだ。ホールからブラント(Brandt)がハルの名を呼ぶ声が聞こえた。
「ハル?」マリオが起きた。マリオの大きな頭蓋骨を支えるには枕が四つ必要だ。
「寝てていいよ、まだ6時だし」
「さっきの誰だったの?」
「多分、マリオの知らない人」


解説
 アーディディーの章と同じ年。ここでハルの兄弟がオリンだけでなく、巨大な頭を持ったマリオもいるということがわかる。しかもE.T.A.の寮で同部屋のようだ。冒頭の「父と子の電話対応が似ている」というのはここだけではよくわからない。

用語

  • (午前)6時:基本的に『IJ』では時間は24時間表記(Mililtary Time)。原文では0600h( = zero-six-zero-zero hours)となっている。

  • “I want to tell you, My head is filled with things to say”
    “I don’t mind, I could wait forever”
    というマリオとハルの会話は、The Beatlesの“I Want to Tell You”の歌詞。作曲はジョージ・ハリスンで『Revolver』(1966年)に収録。

医務官その1(33-37頁)

時期:ディペンド社大人用下着年(Year of the Depend Adult Undergarment)
人物:医務官

内容
 アラブ人とカナダ人の混血である医務官(medical attachés)は、ホーム・エンタテイメントのサウジアラビア代表、Q ──王子(Prince Q ──)のインターレース・テルエンタテイメント(InterLace TelEntertainment)と巨大な契約を結ぶための訪米にプライベート耳鼻科医として同行、研修医のとき以来8年ぶりにアメリカ大陸の地を訪れていた。Q ──王子はトブラローネ(Toblerone)しか食べないためにカンジダ・アルビカンスに悩まされていて、副鼻腔炎や鵝口瘡の予防のために排膿法でほぼ毎日膿を出す必要があるのだが、医務官はその技術において無比の人であると石油産業国家の間では知られていたのだ。
 報酬はとてつもない額だったが、今回の同行で医務官のやることはQ ──王子の膿を取ることだけという、まあ吐き気を催すような内容。そんな医務官のリラックス法は、豪華なアパートに帰ってリラックスして過ごすことだ。しかし敬虔なイスラム神秘主義者の医務官は、ドラッグもお酒も、化学薬品も摂取してはいけない。なので医務官は100%ハラルの夕食をリクライニングシートのトレイに置き、事前に選んでセットしておいたエンターテイメント・カートリッジを妻と一緒に寝落ちするまで見続けるのだ。
 しかし水曜日の夜は違う。なぜなら水曜日は医務官の妻が他の公使館員の妻たちと一緒にアラブ女子テニスリーグに参加する日であり、またアメリカでは店頭に新鮮なトブラローネが並ぶ日のため医務官が一日中付きっきりで世話をせねばならない日だからだ。そんなY.D.A.U. 4月1日の水曜日、医務官は処置に失敗し、Q ──王子から大目玉を食らってしまう。18時40分に帰宅した医務官を待っていたのは、薄暗い部屋と冷めた夕食と、そしてカートリッジが用意されていないという最悪の状況だった。
 イライラしながら何かカートリッジはないかと医務官が探し回ると、いつもは妻が先に簡単なチェックをしている郵便物の中に一本変わったカートリッジを見つけた。ブラウン一色のカートリッジケースに入っていてタイトルはなし。差出人欄には、小さな笑っている顔の絵とともに「HAPPY ANNIVERSARY!」とだけ書かれていた。「Anniversary」が「Birthday」の意味に使われることはないし、医務官と妻が結婚したのは10月で4年前のことだ。それにQ ──王子関連の配達物なら外交用の印が押されてあるはず。中身は通常の黒のエンターテインメント・カートリッジでやはりラベルはなし、登録・時間情報が刻印されているところには代わりに笑った顔文字がある。医務官はそのカートリッジをもう少しで捨てるところだったが、他に選択肢もないのも事実。
 彼がハラル料理をトレイにおいて、カートリッジをセットし、リクライニングシートに座ったとき、テレピューターの時刻は19時27分を指していた。

解説
 唐突に中東の王族と付き添いの医務官が登場。「ハル・インカンデンツァ その2(27-31頁)」で少しだけ触れられる「医務官」(「君のお母さんが30も年の離れた医務官(medical attachés)と遊び回っているんだよ?」)と同一人物なのだろうか?

用語

  • トブラローネ(Toblerone):細長い三角柱型のチョコレート菓子。画像検索すればすぐわかるはず。

ウォーディンへの虐待(37-39頁)

時期:ダヴ・お試しサイズの年(Year of the Trial-Size Dove Bar)
人物:子供たち─Wardine(ウォーディン), Reginald(レジナルド), Clenette(クレネッテ), 大人たち─Wardineの母, Roy Tony(ロイ・トニー)

内容
 ウォーディンが母が私の面倒をみてくれない、と言っていたとレジナルドが教えてくれたので、レジナルドとクレネッテ、私とで彼の住んでるビルへ行った。私が泣いているウォーデンの顔を拭き、レジナルドが慎重に服を脱がすと、ウォーデンが背中の傷を見せてくれた。母にハンガーで打たれるんだ、母の男、ロイ・トニーが私と一緒に寝ようとするんだ。レジナルドは、ウォーデンの母が仕事でいない夜、ロイ・トニーが彼女の横にやってきて息を吐くんだと言った。ウォーデンは、母がお前がロイ・トニーを誘っているんだとハンガーで叩くんだ、と言った。私の母は、ウォーデンの母は正気じゃないのよ、と言っていて、ロイ・トニーを恐れていた。レジナルドはウォーデンを愛していて、彼女を救いたいが、そんなことをしたらロイ・トニーに殺されるだろう。ロイ・トニーは4年前に殺人をしていて仮釈放中だ。ロイ・トニーはウォーデンの父親の兄弟でもある。ウォーデンは言った、レジナルド、私の異父母の姉よ、絶対にあなたたちの母親には言わないで。
 でもレジナルドは言うだろう。ウォーデンに手を出すのをやめろと言うだろう。そしてロイ・トニーはレジナルドを殺して、ウォーデンは母に叩かれるだろう。知っているのは私だけになる。そして私のお腹には赤ちゃんがいる。

 8年生になったとき、ブルース・グリーンはクラスメイトのミルドレッド・ボンクという美しい女性に恋に落ちた。
 10年生になったとき、ミルドレッド・ボンクは校内でタバコを吸い、授業中に抜け出して車を飛ばしビールを飲んで大麻を吸うワルになってしまった。
 卒業するはずの年になると、ブルース・グリーンはミルドレッド・ボンク以上のワルになっていた。2人はハリネット・ボンク・グリーンと、さらに他のカップルや水槽に大きな蛇を飼っているトミー・ドゥーシーたちと、オールストン(Allston)のトレーラーで暮らしていた。ミルドレッド・バンクは家で連続ドラマのカートリッジを観ながらハイになっていて、ブルース・グリーンはレジャー・タイム・アイスで仕事をしていた。人生ってのはつまりはひとつのデカいパーティーなんだ。

解説
 また唐突に初登場キャラの話が始まるだけでなく、文体もこれまでと全く違う。三単現と時勢を無視し、動詞はずっと原型(例:“she be cry”)の語り。実はこれ、黒人英語。最初は面食らうが、読んでいくとなんとなく意味は掴めてくる。そして分かってくるのが、母のパートナーからの性的虐待という重い話。

用語

  • Trial-Size Dove Bar:“Dove”というと誰もが石鹸のことを思い浮かべると思うが、実はアメリカに全く別の会社で表記は同じ“Dove”というチョコレート会社がある(2019年に日本に初上陸したそうで、その際の日本語表記は「ダブ」。阿部重夫訳『フェデラーの一瞬』収録の「マイケル・ジョイスの一流「半歩手前」」にも出てきていて、ここでは「ドーヴ・バー」と表記している)。“Bar”という単語は「平面で囲まれた固形物」という意味であり、石鹸の“Dove”にもチョコレートの“Dove”にも取れる。とりあえず“v”の字があるので「ダヴ」としたが、フォーラムサイトでも「どちらの“Dove”なのか」明確な答えは出ていないようだ。

  • Allston(オールストン):マサチューセッツ州ボストン市内の地区。

ハル・インカンデンツァ その4(39-42頁)

時期:ディペンド社大人用下着年(Year of the Depend Adult Undergarment)
人物:ハルとマリオ

内容

「ハル」
「…」
「ねえ、ハル?」
「何? マリオ」
「もう寝たの?」
「もういいでしょ。ずっと喋ってたら眠れないよ。目を閉じてぼんやり考え事でもしてて」
「それ、いつも母さんが言ってたことだ。ハルは僕がかわいそうだから一緒の部屋にしてくれたんだよね。ねえ、また同じこと聞くけど、ハルは神様を信じているの?」
「また?一週間に一回は聞くよね」
「でも理由は聞いたことないよ」
「しょうがないな。これ聞いたらもう寝ろよ。俺は死刑反対派だけど、どうやら神は死刑賛成派なんだ。この問題に関しては彼と意見が一致するとは思えないんだよな」
「彼自身が死んでからその話してるよね」
「…」
「そうじゃなかったっけ?」
「ああ、言ったことある」
「僕にはハルが神を信じていないっていうのがよく分からないんだよね」
「マリオ、俺たちにもお互い分からないところはあるんだ。横になって静かに考えてみな」
「ハル?」
「…」
「どうして母さんは彼自身が死んだときに泣かなかったの? C.T.も泣いてたし、ハルも〈トスカ〉を聴きながら泣いてたよね」
「…」
「彼自身が死んでから、母さん幸せそうに見えない? 飛び回るのもやめたし」
「あの人はどこにもいかないよ。校長の建物とオフィスとその間のトンネルにいて、もう地上を離れることはないよ。これまで以上にワーカホリックになったし」
「どうして母さんは悲しくないの?」
「悲しんだよ。彼女なりのやり方で悲しんだのさ。間違いない」
「ハル?」
「あのとき、正門の前で半旗を掲げたのを覚えている?」
「ハル?」
「半旗を掲げるのには二つ方法があるんだ。あと数秒で寝落ちするからよく聞いてろよ。ひとつは旗を半分の位置まで下げること。もうひとつは、ポールを元の高さの二倍高くすることだ。マリオ、言ってることがわかるか?」
「ハル?」
「とても悲しかったのさ、本当さ」

 ディペンド社大人用下着年、4月1日、時刻は20時10分、医務官はラベルが貼られていないエンターテイメント・カートリッジをまだ観ていた。

解説
 E.T.A.でのインカンデンツァ兄弟の会話。父(彼自身)がこの時点で亡くなっていることがわかる。半旗の話は不思議な余韻がある。

用語

  • トスカ:ジャコモ・プッチーニ作曲によるオペラ。ナポレオン戦争直前の1800年のイタリアを舞台に、画家カヴァラドッシとその恋人トスカの悲劇を描いたもの。画家カヴァラドッシは脱獄した政治犯を匿った罪で死刑を宣告される。トスカはカヴァラドッシを拷問した警視総監に彼の命を助けるよう懇願すると、警視総監は彼女の身体を要求。それを受け入れたトスカは「銃殺刑は空砲で行う」という約束を取り付ける。その後、トスカは警視総監を殺害、カヴァラドッシに「刑は空砲で行われるから死んだフリをするように」と伝える。そして刑が執行され、トスカがカヴァラドッシの元へ行くと彼は死んでいた。実は警視総監の約束は嘘で、当初の命令通り銃殺せよという指示が出されていたのだ。そのときトスカによる警視総監殺害が発覚し、絶望したトスカは自ら命を絶つ。

ハル・インカンデンツァ その5(42-48頁)

時期:ディペンド社大人用下着年(Year of the Depend Adult Undergarment)10月
人物:オリン・インカンデンツァ

内容
 背番号71、オリン・インカンデンツァは7時30分に起きた。いつもようにベッドには汗の染みができていて、香水の香りと電話番号が書かれた女性のノートが残されていた。
 彼は朝食を作ってマンションの中央にあるプールで食べることにした。ガラスを抜けて入ってくる日差しは暑い。そよ風でプールの端に浮かんでいたビーチボールが反対側へと流れていき、ロッド・スチュワートの髪型のようなヤシの木が揺れた。
 オリンがシカゴの試合からここに戻ってきたのは二日前でそれよりさらに三日前のこと、プールに隣接したジャグジーにオリンが浸かっていたら、突然空から鳥が降ってきた。彼はサングラスの角度を下にしてよく見てみたが、確かに鳥だ。プレデターではない。これは何かよくないことが起こる兆候なのだろうか。
 オリンはシャワーを浴びるときはいつも温度を高めに設定していて、これには理由がある。オリンには苦手なものがいくつかあり、高いところ、朝、そしてゴキブリだ。ゴキブリはオリンに“the howling fantods”を感じさせる。何度業者を呼んで駆除してもらっても出てくるし、しかもこの地帯にいるゴキブリはこっちに飛んできやがる。熱湯でシャワーを浴びれば排水管からゴキブリが出てくる可能性が少なくなるからだ。
 虫と高いところの組み合わせの夢なんか見た朝は、コーヒーを3杯、シャワーを2回、たまにはランニングをして締め付けられた魂をほぐしてあげないといけない。最近は悪夢にもうなされる。大抵そんな夢はテニスの試合が舞台になっている。昨夜は、自分の顔の周りを母、アヴリル・M・T・インカンデンツァの顔が覆いかぶさったままテニスを試合をするという夢だった。
 昨夜一緒に寝た女性のノートによれば、オリンは腕を伸ばしてタックルにきた相手を押しのける動きを彼女に対してしていたそうだ。彼女は発達心理学を専攻するアリゾナ州立大学院生で、2人の子持ち、許しがたい額の扶養手当を受給されていて、好きなものは尖ったジュエリー、キンキンに冷やしたチョコレート、睡眠中に叩いてくるプロスポーツ選手、そしてインターレース教育カートリッジだった。
 オリンは彼女と一緒に統合失調症に関するインターレース教育カートリッジを観たことがある。患者の脳波を測定するためジェームズ・キャメロンフリッツ・ラングがデザインしたようなすっぽり頭を覆う測定器が出てきて、患者の脳波が赤と青で画面右下に表示される内容だった。オリンはそれを見て、早く彼女が出て行ってくれればゴキブリを始末したり彼女の子供に何をプレゼントに送ればいいか決められるのにと思っていた。
 雑誌のインタビューに協力しろという知らせでオリンはまたストレスを感じ、ハリーにまた電話したくなってしまうのだ。

解説
 ハルの兄弟、オリンのエピソード。同じインカンデンツァ一家であるので、メインキャラのハルと同じ括りとして「ハル・インカンデンツァその5」としておいた。冒頭で、ハルの回想に出てきた人物だ。
 オリンは過去にE.T.A.に在籍していたが、現在はアリゾナ・カーディナルス(Arizona Cardinals)に所属するアメリカンフットボールNFL)の選手になっていることがわかる。ちなみに14頁に“The brother’s in the bloody NFL”という箇所もあった。相当な女好きの様子。夢の内容から、ゴキブリと同じくテニスと母にもトラウマめいたものがあるのだろうか?
 ヤシの木をロッド・スチュワートに例えたり、突然空から降ってきた生物を「プレデターではない」と言ったりと、ポップカルチャーに絡めたネタは思わず吹き出してしまう。最後のハリーとは「電話したくなる」ということからも昨夜を一緒に過ごした女性の名前だろう。

用語

  • オリンはゴキブリをみると“the howling fantods”を感じるそうで、このキーワードが少し感覚的にわかるようになったかもしれない。

ハル・インカンデンツァ その6(49-55頁)

時期:ディペンド社大人用下着年(Year of the Depend Adult Undergarment
人物:ハル・インカンデンツァとE.T.A.の面々

内容

 ハル・インカンデンツァは17歳。E.T.A.地下のポンプ室でひとりワンヒッターで大麻を吸ってハイになっている。ハルが大麻を吸っていることは秘密で、ワンヒッターを使っているのも、ポンプ室で吸っているのもこれがもっともバレないやり方だからだ。
 ハルが大麻を吸っているのを知っているのは、マイケル・ぺミュリス, ジム・ストラック、ブリジェット C・ブーン、ジム・トレルチ、テッド・シャハト、トレヴァー・アクスフォード、カイル D・コイル、そしてトール・ポール・ショー、あともしかするとフラニー・アンウィン。バーナーデット・ロングリー(Barnadette longley)、Kfreerも知らないわけがない。ハルの兄弟のマリオも多少は知っているようだ。オルソー・スタイス(Ortho Stice), パートリッジ・KS(Partridge KS)は知っている。そしてハルの兄、オリンは遠いところにいながら知っている。
 ハルの母、アヴリル・インカンデンツァと義理の兄弟チャールズ・テイヴィスはハルがドラッグ、特にボブ・ホープ(Bob Hope)をやっていることは知らないが、彼が時々お酒を飲むことは知っている。特にアヴリルはハルの父親、ジェームズ・O・インカンデンツァ博士が生きていた頃の飲み方を知っているので心配しているが、カウンセラーのラスク先生の助言もあって、テニスと学業の成績から大丈夫だろうと考えている。
 快楽用の薬物はアメリカの高校では多かれ少なかれ慣習になっているが、それはおそらくとてつもない不安から逃れるためなのだろう。児童期の終わり、思春期、将来への不安、目前に迫る成人期。E.T.A.の生徒が飲酒や薬物の使用がわかると即除籍処分になるのだが、指導するスタッフ(prorector)も自身の試合をこなしつつ指導するという激務に追われて薬物依存になっているのだ。ハルは薬物でハイになることよりも、それを隠すことにどうしてこんなに執着しているのか自分でもわからなかった。

 4月2日、0時15分。医務官はまだラベルのないカートリッジを見続けていた。
 5月18日、マリオ・インカンデンツァはコーチに言われて、E.T.A.の生徒のプレイを記録するための装置の製作を手伝っていた。

 

解説
 E.T.A.関連の登場人物が一気に増える章。ハルの友人たちはもちろんだが、両親の名前(父ジェームズ、母アヴリル)も判明する。そしてE.T.A.だけでなくアメリカ中の多くの若者がドラッグ中毒になっているという。この章では脚注を使いつつ多くのドラッグ、化合物が専門用語を使って説明されている。分からない名詞があればほぼそれだと思っていい。
 内容には書かなかったが、中盤にE.T.A.の敷地内の説明がある。非常にややこしい文章と単語で書かれているので(脚注3「E.T.A.はカージオイドのように広がっている」)、以下のイラストを参照してもらいたい。これらの建物のいくつかがトンネルでつながっている。

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出典:thehowlingfantods.com

 医務官は謎のカートリッジを19時27分に見始めたので、この時点で約4時間45分見続けていることになる。


用語
 とにかくドラッグと化学用語が多いので省略。ボブ・ホープ(Bob Hope)は少し後にも登場するので書いておいた。
 ここでも“howling fantods”が出てくる。マイケル・ぺミュリスとジム・ストラックに対して母アヴリルが“the howling fantods”を抱いている(“both of whom Avril a howling case of the maternal fantods”)。



ドン・ゲイトリーその1(55-60頁)

時期:アメリカンハートランドの日用品年
人物:ドン・ゲイトリー

内容
 ドラッグ中毒者はドラッグを買うお金を得るために犯罪に走るが、殺しではなく強盗を選ぶものだ。27歳、巨大な頭を持つドン・ゲイトリーはその中でも才能に溢れたプロの強盗。例えば、地方検事補によって3ヶ月刑務所に入れられてしまったゲイトリーは、公選弁護人によって訴えが取り下げられたあと、信頼できる仲間と一緒にとある復讐を行った。
 地方検事補夫妻が外出しているときを見計らい、2人は電源を切断し侵入、そしてゲイトリーは警報機を細工し、約10分後にアラームが作動するように仕掛けた。あたかも盗みの途中でアラームが鳴り慌てて逃げ出したような印象を残すためだ。警察と夫妻が家に戻ってくると、盗まれたのは硬貨のコレクションとアンティークのショットガンだけ。高価な品々は床にまとめられていたものの、持ち出す時間がなかったのだと考えた。
 それから約1ヶ月後、検事補夫妻の元に一通の封筒が届く。封筒の中に入っていたのは、アメリカ歯科医協会による日頃の口腔衛生の重要性を説くパンフレット、そして2枚のポラロイド写真。その写真にはそれぞれハロウィンの被り物をしたゲイトリーと仲間が写っていた。2人ともパンツを下げて膝を折り曲げていて、写真の焦点は彼らのお尻から突き出ている夫妻の歯ブラシに向けられていた。
 ある日、そんなゲイトリーと仲間が誰もいないだろうと思ってマサチューセッツはブルックラインのとある家に侵入すると、1人だけに家に残っている人物がいた。その小さな男は家主であり、風邪で1人だけベッドに寝ていたのだ。しかしドラッグが欲しくてたまらないゲイトリーはそのまま盗みを強行することにし、家主をキッチンの椅子に縛り上げ、猿ぐつわを噛ませた。やめてくれ、いまひどい風邪をひいていて、鼻だけじゃ呼吸できないんだ、なんなら高価なものがどこにあるかも教えてもいい、しかし家主の言葉はゲイトリーには海のカモメが鳴いている程度にか聞こえなかった。
 実はこの縛られている男、「巨大な凹面地帯」の反O.N.A.N.の幹部として悪名高い人物で、アメリカとO.N.A.N.同盟国にとっての「巨大な凸面地帯」を「返還」されることがカナダの主権、名誉、そして衛生を踏みにじる行為であると意見が一致している本来は対立する2つの団体、ケベック分離派とアルバータ州の極右団体との連絡役を務めるためにボストンに引っ越してきた、「カナディアン・テロリズム・コーディネーター」だったのだ。  ゲイトリーとその仲間は盗みを終えると、その男、ギョーム・デュプレシスを縛ったまま家を去った。デュプレシスはそのまま窒息死し、警察がデュプレシスの遺体を発見した時、椅子に座り続けているかのような姿勢のまま運ばねばならなかった。

 ディペンド社大人用下着年:インターレース・テレエンターテイメント、932/1864 R.I.S.コンピューター、新型OS “Pink2”、新型衛星システム、ピクセルフリー・インターネット・ファックス、ユシチュ(Yushityu)・ナノプロセッサー

解説
 メインキャラの1人と思われるドン・ゲイトリーが登場。こちらもドラッグ中毒。原文では「Burglary」(強盗あるいは住居不法侵入)と「Robbery」(強盗、強奪、略奪)を使い分けている。つまり「Burglary」の達人ゲイトリーが仲間と一緒にとある家に押し入ると住民が残っていて、「Robbery」になってしまったということ。そして彼が誤って殺してしまった人物が実は反O.N.A.N(後述)の重要人物だった。
 被害者のギョーム・デュプレシス(Guillaume Duplessis)と似た名前が「ハル・インカンデンツァその2(27-31頁)」の父ジェームズと子ハルとの会話に出てくるが(「悪党どもと君の家族の、下劣な不義を私が知らないとでも? 汎カナダ・レジスタンスの悪名高いM・デュプレシと彼の邪悪な書記であるルーリア・P…)、ファーストネームが異なるし、M・デュプレシは実在した政治家のことだと思われるので、別人物には間違いないが何か関係はあるのかもしれない。
 最後に唐突に出てくる単語の羅列は、(解説サイトによると)ディペンド社大人用下着年の発明品の羅列だそうだ。ディストピアを感じさせるそうだが、私にはさっぱり何がな何だか…。

用語

  • ゲイトリーと一緒に盗みを働く「仲間」には脚注がついていて、ゲイトリーの小さい頃からの友人、Trent (Quo Vadis) Kiteという人物だという。Quo Vadisとはラテン語で「お前はどこへいく?」の意味。

  • ブルックライン:マサチューセッツ州ボストン市内の地区。「ウォーディンへの虐待(37-39)」で登場するオールストンの隣。

  • O.N.A.N:アメリカ、カナダ、メキシコから成るOrganization of North American Nationsのこと。訳すなら「北アメリカ連合」あたりか。ちなみに小説冒頭に出てきたのは「O.N.A.N.C.A.A.」で、「O.N.A.N.」に大学競技協会がついたもの。

  • 「巨大な凹面地帯(the Great Concavity)」「巨大な凸面地帯(the Great Convexity)」:解説サイトによると、ここで話題になっている土地はアメリカとカナダの国境線を含むニューイングランドメイン州バーモント州マサチューセッツ州)からニューヨーク州に渡る土地の一部を指す。この地帯が、アメリカ側から見ると凸面をしていて、カナダ側から見ると凹面をしているということ。以下の画像を参照。

    f:id:nakata_kttk:20200315184108j:plain:w300
    出典:infinitesummer.org
     この土地がカナダ側に“gift or return”されることに対して、なぜカナダ側(ケベック分離派、アルバータ州の極右団体)が怒っているのだろうか?(解説サイトでは理由を説明しているが、この時点ではまだ言及はないはず。見落としがなければだが…)

ハル・インカンデンツァ その7(60-63頁)
時期:ディペンド社大人用下着年(Year of the Depend Adult Undergarment)11月3日
人物:ジム・トレルチ、悪夢

内容
 B寮204号室のジム・トレルチは、E.T.A.内のランキングは18歳男子で8位でシングルではBチームで2位。しかし彼はまた風邪をひいてしまった。昨日のランチのときにグラハム・レイダーに移されたのではと疑っている。レイダーにバチが当たるように熱でうなされる中お祈りした。2人のルームメイト、Schachtとぺミュリスは部屋にはいない。トレルチは半分寝て半分起きながら、東側のコートからシャンパンのコルクを開けるような音を聞いていた。
 すると霊的なガチャという音がして、君は白昼夢から目を覚まし起き上がる。寮の中に誰か部外者がいると確信するが、君はまた横になり天井を見上げる。

 悪夢の感覚は、最悪の夢の形式と一致する。悪夢の本質とはいつも君のそばにあるのだ。起きている時でさえも。君の最初の悪夢は家や友人から遠く離れた、アカデミーの最初の夜のことだ。突然、この暗くて奇妙な寮の部屋の中に悪の真髄がいるという感覚に襲われる。君以外誰も気がついていない。そして注意深く床を照らしてみると、そこにひとつの顔を見るだろう、悪の顔を。
 そして君は目覚める。起きたあと床にあるのは、散らかった用具と汚い服、木目の床。 そして顔はどこにもない。

解説
 前半は三人称で「ハル・インカンデンツァ その5(49-55頁)」で登場した生徒の話。途中から人名ではなく“you”が多用されてきて、空行のあと「悪」による一人称になる。「君」と訳したが、風邪をひいているトレルチだけに語っているのではなく、E.T.A.の生徒全員が「悪夢を見たのは自分だけ」と思っているということだろう。個人的な話だが、最近『ツイン・ピークス』を観ているのでこの「悪夢」のパートからリンチっぽいものを感じてしまう。
 ハルは登場しないが、E.T.A.の話なので「ハル・インカンデンツァ」に加えている。



ハル・インカンデンツァ その7(63-65頁)

時期:ディペンド社大人用下着年(Year of the Depend Adult Undergarment)現在
人物:ジェームズ・O・インカンデンツァ

内容
 E.T.A.はジェームズ・オリン・インカンデンツァ博士によって設立され、その後、チャールズ・テイヴィスに引き継がれた。ジェームズ・オリン・インカンデンツァの父親はテニスの神童で優秀な若き俳優でもあったのだが、結局プロテニス選手としては成功せず俳優としても全く落ち目になりアル中になった。
 ジェームズ・インカンデンツァもまたテニスの神童であり、その傍、光物理学で博士号を取得、海軍の研究所に入ることに。そこでフォードからパパブッシュの時代にかけて、彼が大いに貢献したリチウムの陽極酸化レンズにおけるガンマ線屈折率は、常温輪状核融合の実現とアメリカとその同盟国がエネルギー面での諸外国への依存から脱却することを可能にした重要な発見のひとつとみなされている。その後、民間に活躍の場を移し、光学に関する様々な発明の特許を取得、その成功によって教育学上実験的なテニスアカデミーを作った。やがて彼は自身に成功をもたらした科学の世界から身を引き、実験的な後衛芸術映画製作を始めた。時代を先取りとも時代遅れとも言えない彼の作品は、彼が亡くなったダヴ・お試しサイズの年(Year of the Trial-Size Dove Bar)でも評価されることはほとんどなかった。
 インカンデンツァ博士がトロント大学の学会で出会った女性こそ、北アメリカの学術界では類稀な美貌と実績の持ち主だったマギル大学アヴリルモンドラゴンだった。彼女は大学院時代にケベック分離派のメンバーと接点を持ち、RCMP(カナダ騎馬警察隊)の“Personnes à Qui On Doit Surveiller Attentivement(フランス語:常に監視が必要な人物)”リストに入っていたので、アメリカの永住権はもちろんビザの取得も厳しかった。第一子オリンの誕生がそれをクリアする法的な策略のひとつだったことは否めない。
 ジェームズ・インカンデンツァは最後の5年間、資産や特許を整理しE.T.A.の彼の妻の義理の兄弟に譲り、54歳で自殺した。彼の訃報は少なくとも3つの世界に深い悲しみをもたらし、ジェントル大統領からも弔辞が送られてた。彼の遺体はケベック州リスレット群に埋葬された。

解説
 ハルの父親ジェームズ・(オリン)・インカンデンツァの章。父(ハルにとっての祖父)と子と同じくテニスの神童で本作に出てくる科学技術に多大な貢献をした。
 チャールズ・テイヴィスは小説冒頭に出てきたC.T.であり「彼の妻の義理の兄弟」のこと。母アヴリルケベック分離派と繋がっていたという情報は、直前の章と「ハル・インカンデンツァ その2(27-31頁)」の会話にもリンクし、ケベックを巡る様々な陰謀が全体のストーリーに絡んでくるのは間違いない気がしてくる。
 ジェームズの自殺で深い悲しみをおぼえた「3つの世界(in at least three worlds)」とは何を指すのだろうか? ちなみに作者ウォレスが自殺したのは46歳のとき。

脚注
 しかしここで読者を驚愕させるのが、脚注24(985-993頁)だ。地名やドラッグを説明するためだったこれまでの脚注と比べると、脚注24は凄まじい。映画を撮り始めたジェームズの長い一文に付けられた脚注24、そのページに行ってみるとドキュメンタリー、未完成、未発表作も含むジェームズの撮った映画リストが始まるのだ。全部で73作品、長さは8頁にもなる(連作は1作品とカウント)。狂気の沙汰とはまさにこれのこと。

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JAMES O. INCANDENZA: A FILMOGRAPHY

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脚注はさらにフォントが小さい

 その作品の中には『Infinite Jest』もあり、ジェームズの死の際に取り組んでいた作品は『Infinite Jest 5』だ(『IJ5』の説明にはメインキャラクターの1人と思われる、マダム・サイコシスの名前も出てくる)。

用語

  • フォードからパパブッシュ:およそ1974年から1989年にかけて。

  • 常温輪状核融合(cold annular fusion):常温核融合(cold fusion)は、1989年にイギリスのマーティン・フライシュマン教授とアメリカのスタンレー・ポンズ教授によって発表された。本来、膨大なエネルギーを必要とする核融合反応(核融合反応を利用した兵器である水素爆弾は、原子爆弾を起爆装置として利用している)を常温で観測したという衝撃的な発表だったが、それ以降観測に成功した追試はなく、当該の実験環境が杜撰だったという指摘もされ、現在ではほぼ否定されている「夢の技術」。『IJ』で成功したのは“cold annular fusion”(脚注24からジェームズが『Annular Fusion Is Our Friend』という映画を撮ったことも分かる)だが、「輪状核」または「輪状核融合」という用語は現在のところ存在しない。

  • 後衛芸術(aprés-garde):“avant-garde”(前衛芸術)の反対語としての意図があるので「後衛芸術」としてみた。「後衛芸術」で検索すると表示されるキッチュ(Kitsch)と同じかどうかはちょっとわからない。原文では“ ‘aprés-garde’ experimental- and conceptual-film work”.



ハル・インカンデンツァその8(65-68頁

時期:ディペンド社大人用下着年(Year of the Depend Adult Undergarment)11月1日
人物:オリン → E.T.A.のぺミュリス → ハル

内容
「こういうの大嫌いなんだよ!」オリンは近くを滑空する人に手当たり次第叫んだ。赤い作り物のナイロン製の翼がカタカタ音を立てている。嘴のせいで呼吸がし辛い。最悪なのはスタジアムの縁から飛び降りる瞬間だ。マイル・ハイ・スタジアムのうるさいスピーカーは鉄が擦れる音がしてグラウンドに降り立っても何が流れているのか分からない。オリンはチームメイトはもちろん、チームのカウンセラーにもヴィジュアル化療法士にも、自身の高所恐怖症と滑空恐怖症のことは教えていなかった。
「俺はパントをするんだ! 俺は毎試合長く、高く、上手にパントをするから給料をもらっているんだ! 俺はアスリートで、見世物小屋パフォーマーじゃねえ! 交渉のときに空を飛ぶなんて誰も言ってなかったじゃないか」

 有機幻覚ムッシモール(The organopsychedelic muscimole)、イソオキサゾールアルカロイド(isoxazole-alkloid)を含むベニテングダケAmanita muscaria)を、決してタマゴテングダケ(phalloides)やシロタマゴテングダケ(verna)や、北米に生息するその他「食べたら死ぬ」テングダケと混同してはならない、マイケル・ぺミュリスはそう熱弁した。聞いている小さな子供たちはビューイング・ルームの床にインディアン・スタイルで座っていて、うるうるした目であくびをしないように我慢していた。

 残念なことなのだが、よりギリギリのランクにいる選手は多分12歳ぐらいから始める人もいる。僕が始めたのは15歳、いやほとんど16歳になるころで、消灯前に16歳以下の人たちが集まっている部屋でやってみるかと誘われたんだ。何週間も同じ不快な夢を見ては途中で起きるを繰り返して、パフォーマンスもランクも落ち始めていたときで、なんとか眠れるようにと薬物を使ったんだ。
 その夢というのは、今でもみることがあるんだけど、とにかく壮大なテニスコートのベースラインに僕が立っている夢なんだ。明らかに対抗戦(competitive match)なんだけど、コートがサッカーのフィールドぐらいあるし、ラインも色々な方向にしかも斜めに走ったりして複雑な図を描いている。そして観客もいるしアンパイアもいるんだ。僕がその観客の中に母がいるのを見つける。母は拳を上げて、あなたを無条件に支えると伝えていた。
 アンパイアがプレーを始めてくださいと言ったので、僕たちはプレイした。「僕たち」というのは仮説で、なぜなら相手がいるかどうか見えないし、この試合の仕組みもわからないからだ。

解説
 オリンが出場しているNFLの試合のシーン。チームにちなんだコスチュームをまとって入場しているところまでは確実だが、タッチダウンしてコスチュームが剥がれ落ちる描写があったり(“first player touches down and sheds the red-feathered promotional apparatus”)、別のチームでのコスチュームの話(“In New Orleans it was just robes and halos once a season a zither”)があるので、どうやら着たまま試合をしているらしい。もちろん実際のアメフトでそんなことはしない。
 そのあとはE.T.A.内で年下の子に向かって幻覚作用を起こすキノコについてぺミュリスが指導しているシーン。その様子を「パウワウ(powwow)」のようだとも書いている。
 そしてハルの一人称で、ドラッグ使用歴と夢の話が始まる。

用語

  • Mile High:オリンが所属するアリゾナ・カーディナルスが対戦しているのはデンバー・ブロンコス(Broncos)。そのブロンコスの本拠地スタジアムがマイル・ハイ・スタジアム。最も騒がしいスタジアムと言われていた。老朽化のため2000年に閉場、2001年に取り壊し。すぐ隣に新スタジアムが建設されて跡地は現在駐車場。
     ちなみにアリゾナ・カーディナルスのロゴは赤い鳥をモチーフにしていて、ブロンコスは馬、オリンがかつて所属していたニューオリンズ・セインツはフランス国王の紋章。

  • 毒キノコ:ぺミュリスが説明しているのはハラタケ目(Agaricales)テングダケ科(Amanitaceae)のこと。猛毒をもつキノコが多いが、ベニテングダケアメリカでの通称はフライ・アガリック・マッシュルーム)は毒性が比較的弱い。ベニテングタケを乾燥させるとイボテン酸(イソオキサゾールはこの中に含まれている)の毒性が薄まったムッシモールに変化する。ムッシモールを摂取すると酒に酔ったとき近い症状が現れ、摂取し過ぎると、腹痛・下痢・嘔吐を起こす。より重い症状が出る場合もある。

  • パウワウ(powwow):このブログの「Tommy Orange『There There』」の記事を参照。


ケイト・ゴンパートの鬱と自殺願望(68-79頁

時期:ディペンド社大人用下着年(Year of the Depend Adult Undergarment)
人物:ケイト・ゴンパート → 医務官

内容
 医者は暖かい個室に顔を突っ込み、開いていた扉を優しく叩き、横になっている彼女の姿を目にした。膝をお腹まで抱えたその姿勢は、エフトゥシェンコ(Yevtuschenko)の『臨床症状図鑑(Field Guide to Clinical States)』の口絵に使われたヴァトー(Watteau)時代の憂鬱な絵のようだ。
 患者はキャサリン・A・ゴンパート(Katherine A Gompert)、21歳。マサチューセッツ州ニュートン在住。ウェルズリー・ヒルズ不動産会社で事務として勤務。3年間で4度目の入院。診断は単極性うつ病。これまで3度の自殺未遂。医者─実はまだ医学博士ではなく研修医なのだが─は、彼女にこれまで使用した薬に関してなど、いくつかやり取りをしていった。
 ケイト・ゴンパートは言った。「私は自分を傷つけようとはしていない。自分を殺そうとしたの。その2つは別々のことなの」彼女は続けた。
「自殺にはいくつか種類があると思う。私は自己嫌悪型じゃない。いわゆる『私は最低、世界に私みたいな存在はいない方がマシ』タイプのことね。この病棟でも何人かそのタイプの人がいたわ。あとは『かわいそうな私、私は自分が大嫌い、私を罰して、私の葬式に来て』タイプ、つまりバカみたいな自己憐憫タイプ。別に悪気があって言ってるわけじゃないんだけど。これらのタイプは全部、自傷行為に行き着く」
 医者は、話の続きを促すという意図を込めて小さくうなずいた。ドレツキが言うところの運動量化する者というやつだ。
「私は自分を傷つけようなんて思わないし、罰したいとも思わないし、自己嫌悪もない。私はただ出たいだけ、意識ある存在であることを止めたいだけなの。私は他の人とは全然違うタイプ。もうこれ以上、こんな感覚には耐えられない。この感覚が無くなるなんて信じられなかった。もちろん今も信じていない。これなら何も感じなくなる方がマシ」
 医者は言った。「死ぬことで感じることを止めたいというその感覚、それってつまり…」
 突然、彼女が首を猛烈に横に振った。「その感覚はどうして私が望むのかってことなの。その感覚とは私が死にたい理由なの。私はここにいる、なぜなら死にたいから。だから私は今こんな監獄みたいな部屋にいるのよ。だけど、あの人たちもこの感覚を取り除くことなんてできないに決まっているわ」
「あなたが今説明してくれた感覚は、これまでの鬱のときに経験してきたものと一緒ですか? つまり、あなたがつながっているその感覚は、あなたが鬱と付き合う感覚と同じなのかどうかってことです」
「うーん、これは」彼女は自身を指し示して言った。「状態じゃなくて、感覚なの。腕から足、頭、喉、お尻から胃まで体全体。それをなんて呼べばいいのかはわからないわ。悲しみと言うよりも恐怖に近いの。何かとてつもない恐ろしいことが、想像以上に恐ろしいことが起きようとしている、それを止めなくてはいけないけど何をしたらいいのかわからない」
「つまりあなたが言っているのは、不安があなたの鬱の大きな部分を占めていると」
 彼女が医者の言葉に反応しているかどうかはもう分からなくなっていた。「全てが恐ろしいの。そう、『身の毛がよだつ(lurid)』だ。ガートン先生が言ってたわ、『身の毛がよだつ』が的確な言葉だわ。この感覚が何より恐ろしいの。痛みよりも、母が死ぬことよりも、環境汚染よりも」
「恐怖が不安の主な要素だからね」医者はそう言った。
「気持ち悪くなるって感覚わかる? 吐き気ってことね」
 医者はもちろんというジェスチャーをした。
「でもそれは胃だけでしょ。想像してみて、あれを身体中から感じるの。全ての細胞が、全ての核細胞が、脳細胞が吐き気をもよおしている。でも吐くことはできない。そしてその感覚がずっと付きまとうの
「ああ、言おうと思ってたんだけど、もしかしたらボブ・ホープがこの感覚に関係してルカもって思ったことがあるの」
ボブ・ホープ?」
「私が買ったところでは、売人がボブ・ホープって呼ばせるようにしてたの。『街にボブはいますか?』と電話して、もし持ってるなら『希望は永遠に湧き出る(hope springs eternal)』って返ってくる。暗号みたいなものね。ある男の子は『犯罪をしてください』と尋ねるようにさせているし、オールストンのトレーラーの水槽で蛇を飼っていたあの男は…」
「つまりドラッグだね。あなたが言いたのはドラッグが原因だったかもしれないということ」医者は彼女の言葉を遮ってそう言った。
「ドラッグじゃなくて、大麻よ。大麻は天然由来の成分だし『ホープ』で人生狂わせたって言ったらみんなに笑われるわ。世の中にはもっと強力なドラッグがあるわけだし」 「私はあなたのことを笑ったりはしませんよ」
「本当に大麻が大好きだったの。人生の中心だったと言っても過言ではないわ。先生からパルネート(the Parnate)と大麻を同時に摂取してはダメって言われたけど、我慢できなかった。吸ったあとは毎回、これで最後、もうおしまいって思うの。でも数週間経つとまた吸ってしまう。また止めて数週間経つと、あの感覚が忍び寄ってくる。そしてどんどん悪くなっていって、完全にその感覚に飲み込まれてしまうの。私はもうボブを吸いたくないし、仕事もしたくないし、外にも出たくないし、読書も、TPを観ることも、何もしたくない。この感覚が出ていくこと以外何もしたくない。でもそれは無理。わかったかしら? 私は自分を傷つけることを望んでいないの。むしろ、私は自分を傷つけたくないの」

 ディペンド社大人用下着年4月2日1時45分、帰宅した彼の妻は髪を隠す布を取って部屋に入っていくと、座っている医務官を見つけ彼の元に駆け寄った。医務官は正面を見つめたまま何も反応を示さず、彼の妻はその視線の先にあるカートリッジを映す画面の方へ顔を向けた。

解説
 これまでの多くの人物が薬物中毒で、しかも自殺した父ジェームズの話のすぐあとに、ケイト・ゴンパートという新しい登場人物が自身の自殺願望と、薬物(大麻)との関係を語る。重要な章のような気がして(英文も優しめだったので)多めに書いてみた。
 ついに医務官の妻が帰宅、医務官は死んでしまったのか? ラベルのないカートリッジには何が映っているのか?

用語

  • ニュートンとウェルズリー:ボストンの近くの街。マサチューセッツ州

  • パルネート(the Parnate):トラニルシプロミンという抗うつ剤のことで日本では未承認。その商品名がパルネート。

  • エフトゥシェンコ(Yevtuschenko):エフゲニー・エフトゥシェンコ(1933-2017)という旧ソ連・ロシアの詩人のことと思われるが、『臨床症状図鑑(Field Guide to Clinical States)』という本は存在しない。

  • ヴァトー(Watteau):アントワーヌ・ヴァトー(1684-1721)フランスの画家。

  • ドレツキ:フレッド・ドレツキ(1932-2013)アメリカの心理学者。ただし「運動量化する者(momentumizer)」という用語はDFWの造語だと思われる。

  • ボブ・ホープ(Bob Hope):51頁でハルが吸っているのもボブ・ホープ

  • 希望は永遠に湧き出る(hope springs eternal):アレキサンダー・ポープ(1688-1744)というイギリスの詩人の『人間論(An Essay on Man)』からの引用。本来は“hope springs eternal in the human breast”.

  • 「オールストンのトレーラーの水槽で蛇を飼っていたあの男は」:「ウォーディンへの虐待(37-39)」の最後に、これと同じ特徴を持った人物トミー・ドゥーシーが出てきている。


…今回はここまで!
これで現在の読破率、(まだたったの)8.2%!

 それにしても、小説オリジナルの用語や設定だったり(巨大な凹地帯・凸地帯)、オペラ、核融合NFL、毒キノコについて調べていると、それだけでかなり時間を取られてしまってびっくりする。『フェデラーの一瞬』やピンチョンの小説などを読めば分かる通り、こういった細かい脚注にも膨大な労力が使われていることを身を以て実感。これからは脚注も読み飛ばさずちゃんと読もう…。

Introduction of “Roberto Bolaño The Last Interview”

 洋書を扱う書店に行って海外文学の棚を眺めていると、表紙が似顔絵になっている薄い本を見つけることができると思う。それが『The Last Interview』シリーズで、その名の通り、すでに亡くなった作家のインタビューを集めたものだ。このシリーズにはアーネスト・ヘミングウェイカート・ヴォネガットフィリップ・K・ディックなど英語圏の人気作家を始め(『インフィニット・ジェスト』のデイヴィッド・フォスター・ウォレスもある)、ガブリエル・ガルシア=マルケスホルヘ・ルイス・ボルヘスなどの非英語圏作家、作家ではないがキング牧師ジャック・デリダ、デイヴィッド・ボウイ、ルー・リードなどなどと幅広い。

 そんなコレクションの中に、私の大のお気に入り作家、ロベルト・ボラーニョも含まれている。


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 今回書いたのは『Roberto Bolaño The Last Interview(ロベルト・ボラーニョ:ラスト・インタビュー)』の冒頭に収録された、マルセラ・ヴァルデス(Marcela Valdes)による解説 “Introduction──Alone Among the Ghosts”(2008)の拙訳(9-40p)だ。

 というのも、これが実質『2666』の解説に近いものとなっていて、あの大長編を読み終えた読者には是非とも一度目を通して欲しいと思っていたからだ。


※マルセラ・ヴァルデス:『ニューヨーク・タイムズ』や『ワシントン・ポスト』など多くのメディアに寄稿しているラテンアメリカの政治や文化を扱うジャーナリスト。



「幽霊の中でたったひとり」

マルセラ・ヴァルデス



作者の部

 2003年7月、肝不全で亡くなる直前のことだが、ロベルト・ボラーニョは作家よりも探偵になってみたかった、と発言した。そのときボラーニョは50歳、すでにガブリエル・ガルシア=マルケス以来最高のラテンアメリカ人作家だと広く認識されていたが、そのメキシコ版「プレイボーイ」でのモニカ・マリステインによるインタビューでのボラーニョはそんなことを気にも掛けない。「殺人専門の探偵になりたかった。作家よりも断然ね」。さらにこう続ける。「本当にそう思っているよ。そして連続殺人事件だね。夜に、殺人現場へ、ひとりで戻って行ける人物。それも幽霊を恐れずに」

 探偵物、挑発的な発言、これらはいつもボラーニョが情熱を注いでいたものだ(かつてボラーニョは存命の英語圏作家ではジェイムズ・エルロイが最高だと発言していた)。しかし謎を探し求めるストーリーへの彼の熱意は、プロットやスタイルといった要素を越えている。その本質において、探偵物とは暴力の動機や仕組みを調べていく物だが、ボラーニョ(トラテロルコ事件が起きた1968年にメキシコに移り、1973年の母国チリでのクーデターで監禁された作家)の場合は、事件そのものに取り憑かれている。彼の全作品に渡る大きなテーマは、芸術と悪名との関係、職人の技と犯罪との関係、そして作家と全体主義体制との関係なのだ。

 事実、彼の成熟した作品全てに、圧制的な権力に作家がどのように反応するかが綿密に書かれている。『はるかな星』(1996)で書いたのは、チリの暗殺部隊の歴史と連続殺人犯に変貌した詩人によって浮かび上がる行方不明者たち。『野生の探偵たち』(1998)では、メキシコの「汚い戦争」(訳注:「汚い戦争」とは、70年代から80年代にかけてアルゼンチンで行われた軍事政権による弾圧のこと)の時代に、政府お墨付きの作家たちへ決闘を申し込んだ若い詩人たちを崇めた。『Amulet』(1999、未翻訳)において物語の軸になるのは、1968年、メキシコ自治大学に政府が軍隊で突入した際、トイレに隠れて生き延びた中年の詩人だ。『チリ夜想曲』(2000)で描いたのは文学サロンだが、彼らが集まりパーティーを開く屋敷は、実は反体制派への拷問が行われていた場所でもあった。そしてボラーニョの最後の小説であり、死後に出版された『2666』でも、幽霊のニュースが紡がれている。それは1993年から主にシウダー・フアレスを中心にチワワ州で起きた、430人以上の女性と少女が殺された事件だ。

 被害者の多くは登校中、または学校や仕事からの帰り道、あるいは友人と夜に遊んだ帰りに忽然と姿を消した。そして数日または数ヶ月後に、彼女たちの死体が発見される──溝、砂漠のど真ん中や街のゴミ捨て場に放り投げられた状態で。ほとんどが窒息死だが、刺されたり、焼かれたり、撃たれていたものもあった。被害者の3分の1はレイプされた痕跡があり、拷問された痕がある死体もあった。確認された中での最年長の被害者は30代で、最年少はまだ小学生の年齢だった。2002年以降、一連の殺人事件はハリウッドで映画化され(ジェニファー・ロペス主演『ボーダータウン』)、多くのノンフィクション本、ドキュメンタリーとしてまとめられ、メキシコ国内外で何度もデモ行進が行われた。アムネスティ・インターナショナルによると、いわゆる「フェミサイド(femicide)」の半数以上に無罪判決が下されたとされる。

 ボラーニョは一連の連続殺人事件が注目を浴びるかなり前から、この未解決事件に取り憑かれていた。1995年、彼はスペインからメキシコの古い友人カルラ・リッピー(『野生の探偵たち』で美しいカトリーナ・オハラのモデルとなった人物)に手紙を送っている。その手紙で触れているのが、彼が長年取り組んでいる小説『真の警察官の悲哀(The Woes of the True Policeman)』だ。彼は出版社に送った原稿を他にもいくつも持っていたが、この本は「『私の』小説だ」と書いている。メキシコ北部のサンタテレサと呼ばれる街を舞台にし(訳注:サンタテレサは架空の地名)、14歳の娘を持つ大学の文学部の教授を中心に物語が進む。原稿はすでに「80万ページ」を越えて「間違いなく誰も理解できないであろう、狂気のもつれ」だと豪語していた。

 もちろん、その時はそうだったのだろう。この手紙を送り、これまで通りの失敗が近づいていたとき、ボラーニョは43歳だった。詩集を2冊、友人との共作で小説を1作発表し、5年間スペイン中の文学賞に短編小説を送り続けていたが、ボラーニョは電話線を引けないほど金欠であり、彼の作品はほとんど全くと言っていいほど知られていなかった。これより3年前にボラーニョと彼の妻は離婚をしており、ほぼ同じ頃、彼は肝臓癌だと診断されている。8年後、彼が命を落とすことになる病だ。ボラーニョはいくつかの短編小説コンテストを受賞してはいたが、彼の長編は出版社から拒否され続けていた。しかし1995年の終わり頃、彼は驚くべき飛躍を遂げる。

 ターニングポイントはアナグラマ社の創設者であり社長であるホルヘ・エラルデとの出会いだ。エラルデは『アメリカ大陸のナチ文学』の権利を買うことはできなかったが(セイス・バラル社がすぐに飛びついた作品だ)彼はボラーニョをバルセロナに招待した。そこでボラーニョは自身の金欠っぷりと、作品が拒否され続けたことで味わった絶望を彼に伝えた。「私は彼に教えたんだ…私は君の他の原稿を読みたくてしょうがないと。そしてその後すぐに彼は『はるかな星』(のちにわかったことだが、この作品もセイス・バラル社を含めた他の出版社から拒否されていた)を送ってくれた」とエッセイで回顧している。しかしエラルデにはその本がとてつもない作品だということが分かった。それ以来、彼はボラーニョのフィクション、7年間で9冊を全て出版した。

 その期間、ボラーニョは作品が出版される度に前作より多くの読者を獲得していき、せっせと狂気のもつれに取り組み続けた。その仕事には書くことだけでなくもちろん調査も含まれていた。小説の舞台をフアレスよりもソノラ州の架空の街サンタテレサに設定することで、彼が知ることと彼が想像したこととの境界線をぼかすことができた。しかし、彼が本当に関心を抱いていたのは、フアレスとその住民が直面している状況を理解することだった。ボラーニョはその地域の荒れ果てて、乾燥した風景にすでに馴染みがあったが(彼は1970年代にメキシコ北部を旅している)、フェミサイドが始まるのは彼がヨーロッパへ渡ってから16年が経過したあとだった。ボラーニョはその街に住む人を誰も知らなかったため、彼の知識は新聞とインターネットで入手できる情報に限られていた。彼はそれらの情報から、犯罪を行うにはフアレスは完璧な場所だと考えたのだろう。

 禁酒法の頃、アメリカ人のための飲み屋街であったフアレスは、NAFTA(訳注:北米自由貿易協定)が施行された1990年代に急速に発展した。数百もの組立工場が乱立し、それに誘われるように数十万人もの貧困者が時給50セント程度しかない仕事を求めてメキシコ中からやってきた。製造業にとってフアレス市が魅力的だった理由(整理された道路、すぐ近くにある大規模な消費者市場、大量の組織化されていない労働者たち)が、同様に麻薬密売業者にとってもフアレス市が理想的な中心地として魅力的に映ったのだ。1996年まで毎年4200万人と1700万台もの自動車がフアレスを通過した。フアレスはアメリカ・メキシコ国境線で最も交通量が多かったトランジットポイントであり、不法入国にも人気の場所となっていた。そして街は安い密貿易の中心地へと変貌し、貧しく勤勉な女性たちの死体が見つかり始めた。

 現実のフアレスとフィクション上のフアレス、つまりサンタテレサは、ボラーニョが他のほとんどの作品で舞台に設定する文化の中心地とあまり似ていない。『はるかな星』ですら、チリ南部の最も有名な大学都市が舞台だ。サンタテレサのスラム街には創作のワークショップもなければ、反抗的な詩人たちのグループもない。他の全てのボラーニョ作品と同じように、『2666』は作家、アーティスト、知識人であふれている。しかし、それらの登場人物はどこか別の土地からやってくるのだ。ヨーロッパから、南米大陸から、アメリカやメキシコシティから。彼らが閉じ込められるメキシコ北部の荒地は、コーマック・マッカーシーの『ブラッド・メリディアン』で陽気な殺人集団が暴れ回った舞台と同じであり、サンタテレサは文字通り、文化的に干上がっているのだ。

 砂漠の工業地帯と従来のボラーニョ作品の舞台との関連は、緋文字のように、小説の表紙に描かれている。悪魔的な2666という年(『2666』のどのページにも出てこない数字)は、私たちに『Amulet』を隅から隅まで再読させるよう迫り、その数字が突然現れるのはアウクシリオ・ラクチュールという女性の白昼(悪)夢の中だ。小説の序盤から地獄のヴィジョンがアウクシリオを取り囲み、彼女が花瓶をのぞき込んだとき彼女は「人々が失った全てのもの、痛みをもたらし忘れてしまったほうがよい全てのもの」を見る。

 その後、彼女がメキシコシティの通りを歩き回っていると、彼女は別の悪魔的な幻覚に襲われる。真夜中の通りでは彼女の他に人影はなく、強い風が吹いている。そんな時刻に、アウクスリオは言う。レフォルマ通りが「透明なチューブに、街の想像上の息を感じられる楔形の肺へと変わってしまった」。そしてゲレロ通りが「墓地そのもののように見える…それは2666年の墓地、死者、または生まれなかった赤子のまぶたの裏で忘れ去られた、何かを忘れることを望み結果的に全てを忘れた目の冷めた液体に浸った墓地だ」

 他のボラーニョ作品と同じように、『2666』は墓場なのだ。ボラーニョは1998年のロムロ・ガジェーゴス賞授賞式のスピーチにて、自身が書いた全ての作品はある意味でラテンアメリカの汚い戦争で若くして亡くなった者たちへの「愛の、もしくは別れの手紙」だと明かしている。彼の過去の作品は1960年代、1970年代の死者を記念するものだ。そして『2666』での彼の野望はもっと大きい。それは死体解剖を書くことだ。それも過去、現在、そして未来の死者のために。


犯罪の部

 ボラーニョは肝臓移植の提供を延期して『2666』の完成を目指したが、病魔は急速に広がってしまい完成させることができずに亡くなってしまった。葬儀の後、彼の友人であり文学的な後見人である批評家イグナシオ・エチェバリアによって、ボラーニョのオフィスにあった原稿がくまなくチェックされ、2004年アナグラマ社から出版された形にまとめられた。そして、才能溢れる翻訳家で『野生の探偵たち』の訳者でもあるナターシャ・ウィンマーが英語圏の読者へと届けた。

 ボラーニョは自身の原稿を細かく管理していた。彼は無鉄砲だったかもしれないが、愚かではなく、そして自分が死に向かっていることも知っていたのだ。しかしアナグラマ社は彼の望みをひとつだけ破った。長年に渡って、ボラーニョは『2666』は1冊の本であり、「世界で最も厚い本」になると吹聴していた。ところが最後の数ヶ月になると、彼はその物語を5つのセクションに分け、それぞれ別々に出版することに決めた。この衝動的行動の背景には現実的な理由がある。ボラーニョは、『2666』の献詞にも書かれている2人の若い子供たちを残してこの世を去らねばならず、死後も子供たちに不安を残したくなかった。彼は短い5冊の小説という形のほうが、読むのが肉体的にキツい1冊の化け物よりも多くのお金を稼いでくれるだろうと考えたのだ。ありがたいことに、遺族とアナグラマ社は彼のオリジナルの構想に従うことにした。エチェバリアがエピローグに書いたように、「『2666』を構成している5つのセクションはそれぞれ独立して読むことができるかもしれないが、それぞれが多くの要素を共有しているだけでなく(反復するテーマが僅かに絡み合っている)、明確に統合されたデザインの一部でもあるのだ」。その一方で、アメリカの出版社シュトラウス・アンド・ジルーは両面作戦をとった。つまり、2.75パウンド(訳注:1.2キロ)のハードカバーと、専用ケース付き3冊のペーパーバックと2種類に分けて出版したのだ。

 いずれにしても『2666』は弱気な人向けの本ではない。長さは900ページ近くにわたり、物語の舞台をチャート化していくと、さながら航空機のフライトマップのようになる。着陸を示す赤い点はアルゼンチン、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、メキシコ、ポーランド、ペルシア、ローマ、ロシア、スペイン、そしてアメリカまで続く。世界旅行だけでは足りないかのように、その小説はたくさんの登場人物とほとんど1世紀分の歴史をも内包している。

 ボラーニョはかつて、南北アメリカ大陸において全ての近代小説は2つの源流『ハックルベリー・フィンの冒険』と『白鯨』から生まれている、と書いた。『野生の探偵たち』は、大騒ぎする登場人物たちから分かるように、ボラーニョの友情と冒険を描いた小説である。一方、『2666』は白鯨を追いかけていると言える。ボラーニョは、メルヴィルの小説には「悪の大地」を書く鍵があると考えていた。メルヴィルの大長編のように「スルメ」な作品が好きかどうかで『2666』は驚異的作品にも睡眠導入剤にもなりうる。私はこれまでに3回読み、散りばめられた知的で愉快なシーンを含め、濃く、燦然と輝き、恐ろしい小説であると感じた。


(訳注:これより先は『2666』の深刻な、他のボラーニョ作品の軽いネタバレを含みます)

 1ページ目から4人のヨーロッパの文芸批評家たちの生活に引き込まれる。4人は皆、正体が謎に包まれたドイツ人作家ベンノ・フォン・アルチンボルディを崇拝しており、またアルチンボルディへの熱意とほとんど同じぐらい、お互いをベッドに誘うことに夢中になっている。連続殺人についてボラーニョは最初の2章(「批評家の部」と「アマルフィターノの部」)では、もったいぶって曖昧にしか触れない。彼はパトリシア・コーンウェルスティーブン・キングのようにいきなり血糊を見せるようなことはしないのだ。殺人への遠回しな言及が初めて出てくるまで、我々は43ページも読まねばならず、第1部では3人の教授のうちサンタテレサを訪れるのは2人だけ、それも連続殺人が起こっていると耳にするだけだ。彼らはただのメキシコへの旅行者でしかなく、現地で売春をしていたとしてもその富と無関心さが彼らをサンタテレサの現実から隔離している。

 「アマルフィターノの部」(1995年、ボラーニョがリッピーに説明した本から明らかに派生したものだ)では、殺人事件からまだ距離を置きつつも、より現場へと近づいている。第1部が知的なラブロマンスだとしたら、第2部は実存的なドラマだろう。ヨーロッパを去りサンタテレサ大学へとやってきたチリ人の哲学科の教授は、静かな絶望に沈んでいる。彼が恐れているのは自分が狂ってしまうのではないかということであり(夜中、どこからともなく彼に語りかける声がする)、街の暴力が自分の娘にまで及ぶのではないかということだ(自宅の外で黒い車を頻繁に見かける)。

 注意深い読者なら、まるで赤い指紋がびっしりついていたかのように、最初の2章から何がくるかのヒントを見つけるかもしれない。そしてサンタテレサの暴力が紙面へと滲み出てくるのは、第3部「フェイトの部」からだ。ナイーブなアメリカ人記者がバーで立っていると、店の向こうで男性が女性を殴っているところに出くわす。「最初の一発は女性の頭を危険なぐらい跳ね上げ、二発目で女性は倒れてしまった」。記者は別の種類の「一撃(Blow)」(アメリカ人ボクサーとメキシコ人ボクサーとの試合)を見るためメキシコへ車を走らせるが、すぐに本当の「一撃」はリングの外で放たれていたことを知る。彼は街のみすぼらしい顔に慣れてきたことで、女性がレイプされるビデオを見せられる。彼は街の殺人事件の最重要容疑者と面会するが、警察を恐れて街から急いで車を発進させる。

 このノワールからの逃走は、挽歌へのプレリュードだ。「犯罪の部」は1993年、13歳の少女の死体の記述から始まり、108体目の死体で見つかる1997年のクリスマスで終わる。一連の殺人事件の記録は状況証拠が臨床的に細かく記述され(この第4部が最も長く、264ページにまでのぼる)、4人の刑事、1人の記者、複数の事件に関わる最重要容疑者、そしてそれに付随する様々な登場人物たちによって編み巡らされていく。このコラージュはボラーニョの手により、登場人物たちのやり取りと忌々しい反復(「事件は一件落着した」が頭から離れなくなる)の、恐怖のフーガとなるのだ。

 ボラーニョは、切れ味あるブラックユーモアと時折愛情が見られるサブプロットで、この残酷なストーリーに明るさを出す。しかし全体的には「犯罪の部」は深淵を覗くような読書である。絞殺、射殺、刺殺、焼殺、強姦、鞭打ち、切断、賄賂、裏切り…これらが全て無感情な散文で詳細に語られる。「11月の中旬…」から始まる段落は典型的だ。


「13歳のアンドレ・パチェーコ・マルティネスは、第16職業訓練校からの帰り道に誘拐された…2日後に彼女が発見されたとき、遺体には明らかに絞殺の痕が残され、舌骨は折れていた。彼女は肛門と膣の両方からレイプされていた。手首は縛られていたかのように腫れていた。両くるぶしには裂傷があり、脚が縛られていたことが推測される。エルサルバドルからの移民が、マデロ区のアラモス区近くにあるフランシスコ第I学校の裏で遺体を発見した。着衣に乱れはなく、衣服もシャツのボタンがいくつかなくなっていることを除けばそのままだった」

 ボラーニョの他の小説を読んできた人なら、この文章から異常なほどの冷静さを感じるだろう。しかし、詳細なおぞましさのレベルは他の作品の比ではない──あるいは、彼が読むことのできた新聞記事さえもだ。殺人事件の調査、最重要容疑者の足取りに関連する出来事などの彼の記述は、正確であると同時に並外れている。

 どうやってボラーニョは海の向こう側にいながらにして、一連の事件の詳細と地元警察の捜査にここまで近づくことができたのか? 彼の他の探偵小説は、歴史の鮮血が乾いたのちに書かれている。その場合でも、ボラーニョは必ずその出来事から直接か、もしくは彼の友人からネタを引き出していた。しかし彼が「犯罪の部」を書いていた当時、フアレスの殺人事件に関する情報は厳しく制限されていた。この種のハイパーリアリズムを成功させるために、彼は誰かの助けを借りねばならなかった。スアレスの内部にいて、死体解剖に対する執拗な関心を持っている誰かの助けを。



ジャーナリストの部

 ボラーニョがカルラ・リッピーに手紙を書いた1995年の夏、フアレスの南の空港の近くで、絞殺された若い女性の半裸の遺体が複数体発見された。その年の9月、街は犯人に関する情報に1000ドルの報奨金を与えると発表した。1ヶ月後、警察は性的攻撃の経歴を持つアラブ系アメリカ人の薬剤師、アブダル・ラティフ・シャリフを逮捕。5つの殺人事件と、9月のいくつかの犯罪に関わったとして起訴した。しかし2ヶ月後、シャリフが裁判を待っている間に、殺害されたばかりの遺体が発見され始めた。警察は、シャリフが独房の中から殺人を指示、女性1人の殺害につき1200ドルを払っていたと主張。警察によればナイトクラブの一斉摘発で彼の協力者である10代の少年8人を逮捕し、彼らは「反逆者たち(The Rebels)」と呼ばれていた。

 このニュースは、およそ1000マイル離れたメキシコシティのセルヒオ・ゴンザレス・ロドリゲスという記者の興味を引いた。小説家でもあり芸術のジャーナリストでもあったゴンザレス・ロドリゲスは1980年代にそのキャリアをスタートさせ、カルロス・モンシバイスという文化批評を牽引しメキシコのニュー・ジャーナリズムのパイオニアとされる作家の批評を書いていた。レフォルマ紙が声を掛けてくる1993年までに、ゴンザレス・ロドリゲスは政治家の怒りを買うことを恐れない中道派の批評家としてその名が知られるようになっていた。というのも、彼は1988年に不正投票だと多くの主張がある中で当選した当時の大統領、カルロス・サリナス・デ・ゴルタリに協力する知識人たちの倫理観を疑う記事をレフォルマ紙に書いたことで、ナクソス誌をクビになっていたからだ。この独立心は熱心な調査報道をしてきたレフォルマ新聞にとってゴンザレス・ロドリゲスがうってつけの人材だったということであり、彼はレフォルマ紙週末版の付録となる文化系冊子『エルエンジェル』の編集の1人として雇われた(ゴンザレス・ロドリゲスは最近でもこの冊子の編集に顧問として携わっており、レフォルマ紙にも定期連載のコラムを3つ書いている)。

 ゴンザレス・ロドリゲスはフアレスのニュースを知り、何年か前に観た『羊たちの沈黙』を思い出した。シウダー・フアレスに本物のハンニバル・レクターがいるだなんて、そんなこと本当にありえるのだろうか? この問いに答えるのは彼の本来の持ち場ではないのだが、何回かインタビューで私に説明してくれたように、彼は暴力を描いた文学にいつも興味を持っていた。彼のお気に入りの本は、トルーマン・カポーティの『冷血』、ノーマン・メイラーの『死刑執行人の歌』、そしてハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーの『政治と犯罪』だ。彼はゼミで教えるためにチワワ州へ飛ぶという計画をすでに立てていた。レフォルマ紙を説得してフアレスへのフライト代を出させるのは簡単で、彼は最重要容疑者が刑務所内で開く記者会見に参加し、その内容を報告することができた。1996年4月19日のことだ。

 ゴンザレス・ロドリゲスはその日、背が高く、緑の瞳を持った中年の男が、30人ほどの記者を相手に演説をするのを目撃した。シャリフはほとんどスペイン語が喋れなかったので(メキシコには1年も住んでいなかった)、二ヶ国語喋れる記者が通訳しながらシャリフは英語でプレゼンテーションをした。彼の喋る内容はさながらメロドラマのようだった。シャリフによれば、フェミサイドは金持ちのメキシコ人2人組によって行われているという。1人はフアレスに住んでいて、もう1人はエル・パソの国境を越えたところにいる(訳注:エル・パソアメリカ、テキサス州の街)。彼はその内の1人と、フアレスに住む貧しく美しい女性とのラブストーリーを語った。記者団は顔を見合わせたりジョークを言ったりとイライラしている様子だった。ゴンザレス・ロドリゲスはとても胡散臭いと感じたが、彼の批評家としての一面はシャリフのスタイルに興味をそそられていた。胸を叩いて己の無実を訴えるのではなく、容疑者が90分に渡って物語を詳しく語る。まるで、もし犯人が別にいるという新しい説明をできたのなら、彼に対する告発が取り下げられると信じているかのようだった。

 会見が終わったあと、ゴンザレス・ロドリゲスは地元の記者の1人へ自己紹介をした。刑務所の近くの公園で2人が容疑者の奇妙な会見について話していると、ある母と娘が近づいてきた。

 あなたたちはジャーナリストですか? 母が尋ねた。

 そうですよ。

 あなたたちに教えたいのです、絶対に知っておくべきだと思うことを。

 母の傍らにいる14歳の女の子は、Tシャツにジーンズ、スニーカーという格好だった。彼女は記者たちに、フアレスの警察署長が彼女に「反逆者たち」を訴えるよう強制しているのだと話した。彼女は言った。署長は私の髪を掴み、言うことを聞くと約束するまで壁に打ちつけたのです。

 突然、ゴンザレス・ロドリゲスの中で事件への見方が変わった。これまでの事実(ナイトクラブの摘発、急増したシャリフへの訴え)が、新しい光によって輝き始めた。警察は目撃者に対して暴力を振るっている。「これは」彼は思った、「氷山の一角だ」。のちに彼は、シャリフが刑務所で長々と喋っている一方、州の人権委員会が反逆者たちの目撃者8人のうち6人がフアレス警察によって不法に拘留されたと発表していたことを知る。

 ゴンザレス・ロドリゲスはメキシコシティに戻り、彼からの報告と目撃者の処遇に関する疑惑の記事を発表した。その後すぐ、レフォルマ紙は彼にフアレスの事件の特別調査部に加わるよう要請した。調査部長ロザンナフエンテス・べレインは、被害者の多くが働いていたという工場に潜入捜査としてジャーナリストを送り、他の記者は警察の捜査を事件ごとに細かく追うように指示した。そしてゴンザレス・ロドリゲスは、規則性と動機を探るために事件の全体像を描く仕事を任された。彼女はゴンザレス・ロドリゲスに対して他の記者と同じように校閲したが(情報源の裏付けや、彼の批判的な主張を支えるさらなる証拠を求めたこともあった)、彼女は彼の記事にかなりの独自裁量を認めていた。

 3年間、彼はフアレスとメキシコシティ間を飛び続けた。本と映画のレビューもなんとかこなしつつの犯罪の調査は1999年の夏まで続いたが、彼の調査はある推論にたどり着きつつあった。それはフアレスの警察、自治体、そしてドラッグの密売業者までもがそれぞれ繋がっていて、フェミサイドに関わっている、というものだ。この年の初め、シャリフの担当弁護士の息子が襲われる事件が発生し、彼の疑いをさらに強いものにした。彼は思った、司法制度が適切に機能しているならば、どうして弁護士の息子が襲撃されるのか? そして6月12日、ゴンザレス・ロドリゲスはエル・パソ紙の記者と一緒に、フェミサイドには地元警察と大物上院議員が絡んでいるとほのめかす囚人へインタビューを行った。

 自身の著書『Huesos en el desierto』(訳注:直訳は「砂漠の骨」英訳も日本語訳もされていない)においてゴンザレス・ロドリゲスは、囚人へのインタビューの3日後にメキシコシティで誘拐、暴行された経緯を詳しく書いている。彼は深夜のコンデサの高級住宅街でタクシーに乗り、家に向かっていた。タクシーはしばらく走ると突然停車、すると2人の武装した男が車に乗り込んできた。彼らはロドリゲス・ゴンザレスに、目を閉じろ、後部座席で俺たちの間に座れと命令した。そしてタクシーは出発した──運転手は共犯者だったのだ。ロドリゲス・ゴンザレスは抵抗しなかったが、男たちは彼を罵り、殴り、拳銃で叩き、アイスピックで脚を突き刺した。首都から南へ行ったところの砂漠でお前を殺すんだよ、と彼らは言った。タクシーが再び停車すると、2人のうち1人が外へ出て、もう1人も外へ出て、彼らからボスと呼ばれる人物が乗り込んで座った。そして再び暴力が始まり、レイプと死の恐怖が彼を襲った。パトロールカーが光を放ちながら近くを通り過ぎ、男たちはゴンザレス・ロドリゲスを通りに投げ捨てた。彼は警察に届け出て、医者に行き、鎮痛剤を処方され安静にするよう言われた。6月18日、彼の記事「警察は共犯者」がレフォルマ紙に掲載された。

 それから2ヶ月、ゴンザレス・ロドリゲスはゾンビのような生活を送った。彼の視界は灰色がかり、発声も聞き取りづらく、記憶もまばらになりながらも、レビューを書き、編集し、友人たちと外出した。ついに8月11日、自宅で彼が一杯のコーヒーすら入れられなくなったとき、友人2人が彼を病院へ担ぎ込んだ。そして脳を圧迫していた血腫を取り除く緊急手術を受けた。

 全ての予想を覆して、彼は完全に回復した。しかしこの暴行は彼の人生にとってターニングポイントとなった。襲撃を受ける前、ゴンザレス・ロドリゲスは自宅や携帯電話に奇妙なノイズが聞こえたり、使えないサービスがあったりといった問題を抱えていたが、襲撃後はよく尾行されるようになった。彼の友人パオラ・ティノーコは、手術から数ヶ月間、彼とレストランで食事するときはいつでもイヤホンをつけた人たちに監視されていたと、当時のことを語ってくれた。その状況は恐ろしく、何もできることはなく、2人はユーモアに逃げるしかなかった。見知らぬ人間が近くにいるときはお互い馬鹿げた話を言い合っていた。例えばある夜は、2人は有名な童謡「The Ducky」の歌詞を朗読したという。

 アヒルちゃんは走り回り、自分のハンドバッグを探している

 彼女の小さなアヒルちゃんたちを食べさせる銅貨のために

 だって彼女は知っている 彼女が戻ったとき

 アヒルちゃんたちがみんな寄ってきてこう聞くことを

 何を持ってきてくれたの、ママ、クワックワッ?

 何を持ってきてくれたの、クワックワッ?

 ハリウッド映画のような連続殺人犯を探してフアレスに飛んだ1995年を思い出し、ゴンザレス・ロドリゲスはこう語る。「自分が何に足を踏み入れようとしているのか、全くわかっていなかったんだ」ハンニバル・レクターの代わりに彼が見つけたものは、冷酷かつ裕福だからという理由だけでフアレス最悪の犯罪を隠蔽してしまう免罪のシステム、そして警察、司法機関、州、国がグルになっているというシステムだ。こんな結論を導き出してしまった以上、後戻りはできなかった。「地獄にいるんだよ」と彼は言う。「なぜ自分が生かされているのか分からない、そんな地獄に」。その地獄の炎は、彼が責任と正義について抱いていた多くの古い幻想を焼き尽くし、メキシコの黒い心臓をあらわにしたのだ。

 彼は、被害者の数が誇張され、事件は痴情のもつれであり、被害者は売春婦だったのではないかと権力が思わせることで、故意にフアレスの現実を混乱させ覆い隠そうとしたと確信していた。彼はそういった権力による憶測を否定するために、見つけた事実を永久に記録として残したかった。1週間の終わりに古紙として捨てられることのない記録として。



書簡の部

 ゴンザレス・ロドリゲスが初めて襲撃されたのと同じ年、ボラーニョは「狂気のもつれ」と5年以上も格闘していた。ボラーニョはフアレスの情報を求めて、メキシコの友人たちにもっともっと殺人事件に関する詳細を教えてくれとメールを送った。このおぞましい要求にうんざりした友人たちは、彼らがメキシコでこの犯罪に最も詳しい人物であると一致する、ゴンザレス・ロドリゲスを紹介することにした。ボラーニョが彼に最初のメールを送ったとき、ゴンザレス・ロドリゲスは調査をまとめたノンフィクションを執筆しようと決めていた頃だった。

 今にして思えば、2人がもっと早く接触しなかったのは不思議なことに思える。2人はだいたい同じ年齢であり(ゴンザレス・ロドリゲスは1950年生まれで、ボラーニョは1953年)、2人とも70年代メキシコシティカウンターカルチャーの一員で(ボラーニョはインフラリアリズム(訳注:もちろん「はらわたリアリズムの元ネタ」)の詩人として街を闊歩し、ゴンザレス・ロドリゲスはグルーポ・エニグマというヘヴィーメタルバンドのベーシストだった)、2人とも小説を書き始めた年齢が遅く、2人とも文学への慧眼を持っていると誇りを持っていた。ホルヘ・エラルデ、批評家であり小説家のフアン・ビジョーロなど共通の友人も多かった。そして、2人とも人生の中年期をフアレスに費やした。

 ゴンザレス・ロドリゲスはボラーニョの事件への興味がふとした思いつきなどではないと見抜いた。「多くの小説家が書くような、短期間バイトじゃなかった」とゴンザレス・ロドリゲスは言った。「人生をかけた激しい感情だった。彼はこんなことを言っているようだった、このテクストについてどう思う? これについては? これは? 彼は全部読んでいたんだ」

 ゴンザレス・ロドリゲスの説明によれば、ボラーニョが必要としていたのは事件と捜査の詳細への協力だった。なぜならあまりにも漠然とした報道ばかりだったからだ。フアレスの麻薬組織がどのように活動しているか、彼らが乗っている車種は、彼らが携帯している武器は何か、彼はこういった情報を知りたがった。ゴンザレス・ロドリゲスは言う。「彼が求めていたのは、正確性なんだ」。武器の話をするならば、ボラーニョは銃のメーカーだけでなく、型番や口径までも知りたがった。

 彼はまた、警察の職務と不正の特殊性を理解するためにチワワ州警察の心理にも関心を抱いていた。彼は殺人事件の報告書がどのように書かれたかを正確に知りたがり、科学捜査の報告書のコピーを欲しがったので、ゴンザレス・ロドリゲスは被告人弁護士から入手した1枚のレポートを掘り出してきた。ボラーニョの要望で、ゴンザレス・ロドリゲスは被害者の傷を描写した部分を複写した。「彼は科学捜査用語を知りたかったんだ」。ゴンザレス・ロドリゲスは思い出す。それこそ「犯罪の部」で使われた専門用語である。

 「彼が私に頼んだことから考えると、彼は私と意見交換をしたかったのだと思う」とゴンザレス・ロドリゲスは言う。「思うに、野生の探偵は、私というもう1人の野生の探偵を求めていたのだろう。似たような結論を引き出すためにね」。しかし作家なら皆知っているように、結論を共有しても、しばしば最後は書き換えることになってしまう。ゴンザレス・ロドリゲスと意見交換したことによって、ボラーニョは長年温めていた考えも変えていたのかもしれない。例えば、2人の野生の探偵たちがロバート・K・レスラーについて意見を交わしていたときだ。元FBIの犯罪学者は捜査に協力するため1998年にフアレスを訪れて、事件はメキシコ議会と司法長官との間の取引のせいだとしていた。ボラーニョはレスラーの有名な本はすでに読んでいて(『Sexual Homicide』『Crime Classification Manual』など)、レスラーが事件を解決できなかったことに驚いていた。

 どうしてレスターは犯人を捕まえられなかったんだ? 彼はそう尋ねた。

 ただの見せかけだったのさ。ゴンザレス・ロドリゲスはそう教えたのを覚えている。彼は、レスラーが何の準備もない状態でフアレスにやってきたと説明した。専属の通訳を連れてこなかったし、彼にお金を払った当局の関係者は後の調査で犯罪に絡んでいる可能性が高い人物だったし、事件の記録は彼が全く読めないスペイン語で読まねばならなかったし、ボディーガードを与えられて一挙一足全てを監視されていたのだ。ゴンザレス・ロドリゲスは覚えている。この話を知ったボラーニョは冷たい水を浴びせられたかのような衝撃を受けた。

 「彼は事件を無事に収めることのできる理性的な力があると信じたかったのだ」彼はそう言った。事実、全てのボラーニョ作品に謎を解いて勝ち誇る人物が登場する──『2666』を除いて。『はるかな星』では、探偵アベル・ロメロが知性ある詩人の助けを借りて連続殺人犯を捕まえる。『チリ夜想曲』では、名もなき若き探偵たちが文学サロンでの犯罪を明らかにする。それとは別の名もなきインタビュアーがアルトゥーロ・ベラーノとウリセス・リマの痕跡を追うのが『野生の探偵たち』で、2人の若い詩人は謎の作家セサリオ・ティナへーロを見つけることに成功する──サンタテレサに近い街で。

 『2666』のみ、犯人は投げ縄や罠をすり抜けて、目の前に現れる全ての詮索好きを打ちのめし殺している。意味ありげに、『2666』の最終稿でレスラーがモデルの登場人物(アルバート・ケスラー)がずる賢い探偵として登場するが、数ページ後に調査を突然打ち切られる。

 より根本的なこととしてゴンザレス・ロドリゲスは、彼の調査結果がいかにしてフアレスでの殺人事件に地元警察、政治家、麻薬カルテルを形成する金目当てのギャング全てが関わっていることを示しているかをボラーニョに教えた。彼は説明した、警察が真剣に捜査をしない理由は、彼らがろくにトレーニングされていないからか、女嫌いからか、あるいは麻薬犯罪を見逃すように取引をしているかだ。

 つまり連続殺人犯はいないということか? ボラーニョがそう聞いてきたとゴンザレス・ロドリゲスは言った。

 いや、もちろん連続殺人犯はいる。ゴンザレス・ロドリゲスはこう返した。しかし、連続殺人犯は1人ではない、私が思うに少なくとも2人いる。

 ゴンザレス・ロドリゲスは言う。この新事実にボラーニョは狼狽していたようだ。この作家はこのときまでに精巧で見事なまでの物語構成を作り上げていたのだが、それはある程度「連続殺人犯は1人である」という考えに基づいていたのだ。現実のシャリフが無罪か有罪かは彼にとって問題ではない。問題はどうやって事件に関する正確な情報を『2666』に落とし込むかだ。

 ボラーニョの解決法は、フアレスに関するゴンザレス・ロドリゲスの調査結果を数多く取り入れて、ボラーニョのやり方でそれらを大いに脚色することだったのだろう。「犯罪の部」のストーリーとゴンザレス・ロドリゲスの著書『砂漠の骨』との共通点は驚くべきものだ。ゴンザレス・ロドリゲスは指摘する。「私の本に忠実に書いているものは1つもなかったよ」。名前は変えられ、国籍も変わり、新しい登場人物が出てきて、全体のプロットは想像によって尾ひれがつけられ、スタイル、雰囲気も変わっていた。ボラーニョはゴンザレス・ロドリゲスが教えたことを全て利用したかもしれないが(彼は『砂漠の骨』の原稿を出版の数ヶ月前に読んでいる)、自分の結末に沿うように書き直したのだ。



愚か者の部

 メールのやり取りをしてから数年後、ゴンザレス・ロドリゲスが『砂漠の骨』の出版イベントでバルセロナを訪れた2002年11月に、ついに2人の野生の探偵たちは直接顔をあわせることになった。アナグラマ社は『砂漠の骨』を権威あるCrónicasシリーズに加え(訳注:Crónicasとは英語で「Literary Journalism」の意味)、ギュンター・ヴァルラフ、リシャルト・カプシチンスキ、マイケル・ハーの著作と合わせて陳列された。出版記念会に100人以上が招待された。数ヶ月後、『砂漠の骨』からインスパイアされた演劇に招待されたメキシコ領事館が「メキシコを貶めるような作品はサポートしません」という声明とともに代表を送ることを断った、と発表された。

 作者を守るためにスペインでの『砂漠の骨』の出版は限定的なものになった。出版当時はゴンザレス・ロドリゲスが目を付けていた政府、警察関係者がまだ力を持っていたし、メキシコを文明国家と表現したい人々にとってフアレスの汚職に対する当局の説明は到底納得できるものではなかった。しかしヨーロッパでの本に対するメディア報道は、ゴンザレス・ロドリゲスには報復行為からの一定の保護が必要という考えになった。そういった報道のあとでは、のちにメキシコで『砂漠の骨』が出版されたときに、作者とその著作に注目が集まるのは避けられないことのように思えた。

 ボラーニョは出版記念には参加しなかったが、翌朝ゴンザレス・ロドリゲスとその友人が、ボラーニョとその家族と昼食を食べるために、ブラナスの海沿いの街へ向けて北へ向かった。しかし、前夜の出版記念パーティーアブサン(訳注:リキュールの一種)によって二日酔いだった2人は違う電車に乗り込んでしまい、到着が数時間も遅れてしまった。ボラーニョは彼らの遅刻を許し、ワインのボトルを開け、彼らにハムのサンドウィッチをすすめた。病気のせいでボラーニョがお酒を飲めないことを知っていたゴンザレス・ロドリゲスは、ボラーニョのために彼が『野生の探偵たち』で彼が永遠の命を与えたカフェ「ラ・ハバナ」のコーヒー豆を0.5キロ持ってきていた。ボラーニョの肝臓はコーヒーも飲むことができないほど悪化していたのだが、彼が袋を開けて、その中に鼻を埋めたことをゴンザレス・ロドリゲスは覚えている。

 それから数時間、彼らはフアレスの殺人事件について話し合った。このときだけは携帯電話が没収されたりEメールが傍受されたりといったことを心配しなくてよかった。ボラーニョは好きなだけ質問することができた。

 聞いてくれ、ボラーニョは冗談を言った、私は君を小説内の登場人物にしたんだよ。ハビエル・マリアスが『La negra espalda del tiempo(訳注:英題はDark Back of Time)』でやったアイディアを頂戴したんだ。

 ゴンザレス・ロドリゲスは胃が急に重たくなった気がした。本当かい、ボラーニョ? 私の名前で?

 ああ、でも心配しないでくれ、ボラーニョは言った。彼の娘アレハンドラがゴンザレス・ロドリゲスの友人と遊んでいた。ボラーニョは幸せそうだった。ゴンザレス・ロドリゲスは言葉に詰まった。

 次の日の午後、彼らはバルセロナ寿司店で待ち合わせた。今回彼らが話したのはフアレスではなく文学についてだった。ボラーニョはメキシコの作家たちはまだ髭を生やしているのか、それとも全部剃ってしまったのかを聞いた。あるとき、彼は彼とマリオ・サンティアゴが1992年のパリでインフラリアリスト運動を正式に解散させていたことを教えてくれた。彼は狂っているよ、ゴンザレス・ロドリゲスはそう思った。インフラリアリストを重要だと考えていたのは、ボラーニョとサンティアゴの2人だけだと思っていたからね。

 この訪問のすぐ後、ボラーニョはエッセイ「ハリケーンの下のセルジオ・ゴンザレス・ロドリゲス」を発表した。そこで彼は勇気あるジャーナリストへの愛情と称賛を表明し、彼の著作を褒め称えていた。彼はこう書いている。「私の小説の執筆において」ゴンザレス・ロドリゲスの「技術的な協力は不可欠なものになっている」。そして『砂漠の骨』は「悪と堕落の不完全な写真であるだけでなく(他に何があるだろう)、本自体がメキシコの、メキシコの過去の、そして全てのラテンアメリカの不確定な未来のメタファーとなっている」

 7ヶ月後の2003年1月、ボラーニョはバルセロナの病院に入院。2週間後に亡くなった。

 2004年、メキシコで『2666』が出版されたとき、ゴンザレス・ロドリゲスはなかなかページをめくることができなかった。「死んだ女性の章を読むのに数ヶ月かかったよ」と彼は言う。「読むのは恐ろしかった。実際に経験するのとは別のこととして、ボラーニョのような偉大な文学者が書いたものを通してそれを見る、というのは笑いごとじゃないのに。ロベルトは誰よりも愚か者だよ。わかるかい?」

 記者としてゴンザレス・ロドリゲスは、自分が再度襲撃される可能性を無視できるレベルで、危険な世界と距離を取り続けていた。しかし『2666』の殺人者と隠蔽の世界で彼の名前のキャラクターが身動きできなくなっているのを見つけ、それが幻想でしかないことが分かった。ボラーニョは1999年のゴンザレス・ロドリゲス襲撃をそっくりそのまま正確に描写した誘拐のシーンを書きさえした。ただし、現実と違うのは襲撃が死で終わることで、また死んだ記者が本当に「セルヒオ・ゴンザレス」という登場人物なのかははっきりしない(訳注:誘拐のシーンは「フェイトの部」の297ページだが、ここで記者の名前は明かされない。「セルヒオ・ゴンザレス」が登場するのはそのあとの「犯罪の部」)。

 そういった特定の心理戦はさておき、2004年にカルテル汚職を書いたメキシコのジャーナリストたちはみな危険を感じていただろう。その年のメキシコでは、5人の記者が殺されるか、行方不明になっていた。その中の1人は、幼い子供2人の目の前で撃たれた。国境なき記者団の2007年の報告によれば、メキシコはジャーナリストにとってイラクに次いで世界で2番目に危険な土地に選ばれている。レフォルマグループの会長アレハンドロ・フンコ・デ・ラ・ヴェガは2008年のコロンビア大学での講演で、グループの3つの新聞はジャーナリストを守るためにもはや署名入り記事を載せることができなくなったと言った。「私たちは麻薬界の大物や犯罪者たちに包囲されているんだ」と彼は説明した。「彼らの活動を明るみに出せば出すほど、彼らは押し返してくるんだ」。フンコは彼の家族全員を「アメリカの安全な場所」へと移している。

 『2666』の出版とゴンザレス・ロドリゲスがフアレスに行くことを止めたのが同じ年だったことは偶然だったかもしれない。ゴンザレス・ロドリゲスはチワワ州で彼の首に懸賞金が掛けられていると聞いた。彼の記事は誹謗中傷だとする訴訟も起こされて、チワワ州の土を踏んだ瞬間投獄される恐れもあった。こういった策略を考慮し、彼の弁護士はどんな状況下でもチワワ州に行くべきではないと警告した(2007年の春、フェリペ・カルデロン大統領が中傷と「侮辱」の合法化と州政府もそれに従うという連邦法にサインするまで続いた)。ゴンザレス・ロドリゲスが最後に訪れたとき、何が起こっているのか話したがる人はいなかった。ドアが全て閉じられた街になってしまったのだ。

 『砂漠の骨』も『2666』も簡単な本ではない。私は2冊とも読んでいるときは悪夢に苛まれた。ページは掘られたばかりの墓穴のようで、それぞれ異なる悪の哲学の影が落ちていた。『砂漠の骨』では、フアレスは蔓延る汚職の犠牲者だった。ゴンザレス・ロドリゲスは、警察と司法が見ないふりをしているときに残酷な行為が日常と化す、と信じている。女性への強姦と殺人、ジャーナリストの暗殺、身代金目的の誘拐…もはやこれらの犯罪がメキシコでトップニュースになることはない。ゴンザレス・ロドリゲスは言う。「連続殺人犯のような悪意に満ちた人間は、ある種の大規模な影響を及ぼしてしまう」。その影響とは、全体主義の独裁政治にも匹敵する皆殺しのメカニズムを引き起こしてしまうことだ。この「残忍な行為の標準化」は現代のメキシコとラテンアメリカが直面している最も重要な問題なのだ。

 『2666』の最終章「アルチンボルディの部」で、ボラーニョは より不気味な悪のヴィジョンを提示する。この章は第一次世界大戦の終わり、負傷したプロイセン人が家へと帰ってくることから始まる。すべてが変わりつつある、と見知らぬ人が彼に告げる。「戦争は終わろうとしていて、新しい時代が始まろうとしている。(プロイセン人は)食べながら答えた、何にも変わりはしないよ」。実際、第一次世界大戦から90年代後半まで広がる『2666』の最終章は、歴史は単なる「お互いに怪物性で競い合う」瞬間の連続でしかないというアルチンボルディの信念を証明するかのように構成されている。アルチンボルディが東部の最前線で第三帝国と戦い、ベルリンの廃墟で小説家としてのキャリアをスタートさせながらも、ボラーニョは私たちにレイプと殺人の物語を繰り返し語る。ドイツの丘では男が自分の妻を殺し、警察は見て見ぬ振りをする。戦争中、田舎へ疎開してきた都会人は決まって略奪され、レイプされ、殺される。ルーマニアのとある城の周りには至るところに人の骨が埋められていて、そこでホロコーストがあったことを暗示している。

 この残忍性と免罪の風景の中では、サンタテレサはそれほど異常には見えない。根底に隅々まで行き渡っている悪が、湧き出て表面を突き破った場所が数多く存在し、サンタテレサもそんな場所の中の1つなのだ。この小説が言っているように見えることは、今のサンタテレサのように、これまでもそうだったように、2666年の墓場でもそうであるように、悪は海のようにどこまでも永遠に拡がっているということだ。

 この暴力のヴィジョンは、アメリカの黙示録作家、コーマック・マッカーシーを思い出させる。しかしボラーニョの小説にはセックスとコメディが存在し、彼のヒーローは『ロード』や『ブラッド・メリディアン』のそれらとは全く異なる。アルチンボルディはポーランドルーマニアといった戦場を行進するが、その姿は海の底をうろつき回る男、深く暗い恐怖に浸かっているがまだそれには触れていない男のようである。10代の頃、アルチンボルディはヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルツィヴァール』を読み、中世の「独立した世俗(lay and independent)」の騎士という考えに魅了された。彼にとっての聖杯は、見捨てられらたユダヤ人村で見つけた死んだ男の日記だった。

 「独立した世俗の騎士」。この言葉は『2666』のページの間をさまよい歩く偉大な探偵たちと偉大な作家たちを象徴しているのかもしれない。彼/彼女らは皆、たったひとりで深淵を読み、深淵を泳ぐことに自らを捧げている。この世界で作家になることは、探偵になるのと同じくらい危険な行為なのだ。墓場を歩き、幽霊たちを見つめる探偵に。





※『2666』本文からの引用箇所も『Roberto Bolano The Last Interview』から、つまり重訳しているが、最後の「独立した世俗の騎士(lay and independent)」のみ野谷文昭・内田兆史・久野量一訳の『2666』(白水社 2012年)を引用させてもらった。

Infinite Jestまとめその1(1-32頁)

 アメリ現代文学最大の作家の一人にして、早逝の天才デイヴィッド・フォスター・ウォレス。彼が1996年に出版した『インフィニット・ジェスト』は90年代以降のアメリカ文学史において半ば伝説化されている。

 この未だに翻訳されていない大長編の概要と、出版20周年に際して寄せられたエッセイを紹介したのが前回の記事。今回から少しずつ『インフィニット・ジェスト』のまとめ・解説記事を書いていくわけだが、まず『インフィニット・ジェスト』がどんな小説なのかをもう一度振り返りつつ、この記事の方針を説明しよう。

『インフィニット・ジェスト』について

 ペーパーバック版についている帯によると、『インフィニット・ジェスト』の舞台は、資本主義が高度に進み娯楽が満ちあふれた近未来。登場する人物の多くが酒やドラッグなど何らかの中毒を抱えているが、ついにそれを手放さなければいけない状態にまで追い詰められる。そして幸福とは、喜びとは何か? といった問いにぶつかる…そうだ。

 問題はそのボリューム。本文が981ページ。388箇所もある巻末脚注はページ数にすると96合計1079ページ。今回は30ページほどまで進める予定で(ひとつの記事あたり1万文字前後にしたい)、このペースで月一回更新とすると…3年!?50ページずつでも2年半か。そのうちもう少しペースは上げていきたい。



記事のまとめ方

タイトル

まずは原文がどういった感じか見てもらおう。

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 数字での章立てはされておらず、“YEAR OF THE ◯◯◯◯ ” といった言葉が頭についているのみ。これは西暦の代わりに使用する年号をオークションしているという設定のためで、つまりは物語の時間を表している。◯◯◯◯にはもちろん落札した企業なり商品名が入る。

 ただ、これでは非常に分かりづらいので私の記事ではその章で中心となる人物名をタイトルとする。タイトルの横、丸括弧に入る数字は原文でのページ数だ。

 どうやらメインキャラクターが四人いるようなので(ハル・インカンデンツァ(Hal Incandenza)、ドン・ゲイトリー(Don Gately)、レミー・マラート(Remy Marathe)、マダム・サイコシス(Madame Psychosis)、前回記事を参照)、これらを中心に「ハル・インカンデンツァその1(1-17頁)」「レミー・マラートその8(?-?頁)」といった具合に進めていくことになるだろう。

 もちろん時間を表す年号と脇役の人物名なども、タイトルと合わせて併記する。

内容

 出来事をただまとめても味気ないので、「本文を飛ばし読みしている感覚」を目指して、本文の語りを再現しながら重要そうなところをピックアップ、その上で話の流れを説明する。パッと見では個人訳のように見えるかもしれないが(もちろん短い文章など直訳の箇所もあるだろう)、かなり乱暴にまとめている。

解説

 それ以前のストーリーと絡めつつ、「内容」をさらに簡潔にまとめる。小説上の仕掛け、デイヴィッド・フォスター・ウォレスの技が光る読みどころがあれば、ここで触れる。

用語

 重要なキーワードを中心に説明する。なお、造語や難解な英単語についてはここでは触れないので、それに関しては“Infinite Jest Wiki”というサイトを参照してほしい。

 では、早速始めよう。




ハル・インカンデンツァ その1(1-17頁)

時期:歓喜の年(Year of Glad)

人物:ハル・インカンデンツァ

内容

 僕はとある部屋の中で座っている。頭と胴体たちに囲まれながら、固い椅子の形状に僕の身体は意識的に適合している。この寒い部屋は大学の理事会の一室、木材の壁にはレミントン銃が掛けられていて、十一月の季節外れの暑さをしのぐ両開きの窓は、理事会の物音が外の受付に漏れることも防いでいる。つまり、チャールズおじさん、ミスター・デリント、僕、の三人がさっき通された場所だ。

 そして僕はここにいる。

 アリゾナの正午の蜘蛛のような日差しを受けて光り輝く会議室の松のテーブル、その向こうにいる三つの胴体、夏用ジャケットとハーフウインザーで結ばれたネクタイの上に、それぞれの顔が見えてくる。三人の部長──入試部、学務部、スポーツ部だ。どの顔がどの部署に所属しているのかは知らないけれど。 (最初の12行の拙訳)


 …そのうちの一人が書類を見ながら僕のプロフィールを読み上げる。「えー、あなたはハロルド・インカンデンツァ、18歳。高校課程をもうすぐ終えるところで、マサチューセッツ州にある全寮制のエンフィールド・テニス・アカデミー(E.T.A.)に7歳から在籍している、と」

 この面接には大学だけでなくE.T.A.の関係者も同席している。チャールズおじさんは本名チャールズ・トラヴィス(通称C.T.)といって僕の母親の腹違いの兄弟であり、E.T.A.の校長でもある。もう一人は僕のアドバイザーのミスター・デリントだ。

 面接が進むにつれ、どうやらアリゾナ大学側が僕のテニスプレイヤーとしての成績や将来性には満足しているものの学業成績を疑問に思っていることがわかった。「テニスのジュニアランキング入りをしていて、O.N.A.N.C.A.A.での活躍も保証できるだろう。しかしテストの点数が標準以下にも関わらず評価がA++というのはどういうことか。E.T.A.の経営者があなたの母親とその兄弟であることを考えると…ねえ? そういうわけでこの不一致が悪巧みでないことを説明してもらうためにあなたたちに大学まで来てもらったというわけなんだ」

 僕は黙り続けたまま、面接官が続ける。「そして、出願と一緒に2本のエッセイが必要なところに、君は9本も送ってきたね。そのうちのいくつかは単著ぐらいの長さがあり、評価も『輝かしい(stellar)』となっている。君は分野とタイトルをちゃんと覚えているかな、ハル? 「現代の規範的文法における新古典派の仮説」「ホログラフによる近似現実映画へのポストフーリエ変換法の意味」「放送用エンターテイメントにおける英雄的均衡状態の発生」「物理容態の意味論とモンタギュー文法」「自分がガラスで出来ていると疑い始めた男」「ユスティニアヌスの官能作品における第三次象徴主義」…

 僕はパニックを感じ始めていた。自分が誤解されているときに毎回感じる、あの感覚だ。C.T.は、僕の成績は間違いないものでありプレイヤーとしても学生としても申し分ないと言ってくれた。「まあ、ここはそろそろ本人に語ってもらうのしかないのでは?」スポーツ部長がそう言うと、コンソール(操作盤)のキーボードを叩く音が聞こえて扉が開き、C.T.とデリントは部屋の外へ出て行って、部屋の中は面接官たちと僕だけになった。

 あのエッセイは確かに僕が書いたものだ、そう思いながらも僕はまだ黙り続ける。「こっちを見なさいハル。君みたいなシャイな少年を、成績に下駄を履かせ他人から論文を買ったスポーツ馬鹿を、アリゾナ大学が入学させても問題ない理由を教えてくれたまえ」

 「僕はただのスポーツ馬鹿じゃない」僕はゆっくりと喋り始める。「Call it something I ate」


 僕は兄オリン(Orin)から聞いた幼少期の話を思い出す。オリンが母の庭仕事を手伝っていたとき、当時5歳ぐらいの僕が「これ食べちゃったの」と泣き叫びながら現れて、それを見た毋が悲鳴を上げたそうだ。オリンによると僕が手に持っていたのは、地下室の片隅で見かける恐ろしく、暗い緑色の、気持ち悪く、フワフワしていて、細菌がいると思われる黄色やオレンジ、赤色といった染みが付いた土状の塊(patch fo mold)だった。母は「ああ!息子がこれを食べちゃったのよ!どうしよう!」と叫び回っていたという。

 「エッセイを買ったりなんてしていませんよ。僕はただテニスするだけの高校生じゃない。様々な過去をもつ、複雑な人間なんだ」僕は喋り出す。「それに皆さんが読んだ本を、僕はすでに全部読んでると思いますよ」僕がカミュに対するキュルケゴールの影響など知識を披露する様を、なぜか恐怖の目で見つめる大学側の人間たち。すると彼らは僕を取り抑えようとする。「僕の言うことを聞いてください」僕はゆっくりとそう言うが、周りの人間は「いったいこいつのこの音は何なんだ!?」という反応しかしない。彼らは僕が発作を起こしたとでも考えているようで、慌てて部屋に入ってきたデリントの制止も聞かず僕は床に押さえつけられてしまった。  

 そして救急車に乗せられた僕。救急隊員だけでなく精神科医も乗っている。そのまま以前にも来たことがある部屋、質問に答えるまで拘束され、質問に答えると鎮静剤を打たれる部屋、緊急治療室に連れて行かれた。  僕は色々な人のことを考えた。まず母。今年の「ホワッタバーガー・トーナメント」で多分優勝するだろうジョン・N・R・ウェイン、彼は僕とドナルド・ゲイトリー(Donald Gately)が父さんの遺産を掘っているときに見張りをしてくれる。そして18歳以下の男女の決勝に出てくるかもしれないヴィーナス・ウィリアムスのこと。ああ、明日のディンプナとの準決勝間に合うかな。チャールズおじさんが上手く僕をここから連れ出してくれることを祈るしかない。


解説

 ハロルド・インカンデンツァ、通称ハルの一人称で進む章。「まとめ0」の「まえがき」にもあったように本作のメインキャラクターの一人。優秀なテニスのジュニアプレイヤーでありながら明晰な頭脳を持った青年。難解なエッセイのタイトル、あまりに冷静すぎる観察力、そして高校生とは思えない語彙と博識などから、ハルが神童であることがわかる。しかしハルはコミュニケーションに難があるようで、ゆっくりしゃべっているつもりなのに、大学側の面接官からは動物が何やら音を出しているようにしか聴こえておらず、発作を起こしたと見られて救急車で病院に連れて行かれてしまう。

 とにかくハルの語りが完全に狂気。大学側の人間たちを「頭と胴体」と表す無機質な眼差し、難解な英単語と文法を駆使して自分の身の回りを描写するあたりは是非とも原文を読んでほしい。

 途中で挟まれる「兄オリンから聞いたエピソード」は今のところ、何のためなのかはよくわからない。“Call it something I ate(それを僕が食べた何かで呼べ)”も、ハルが食べた“patch of mold”も、具体的にどういうことなのかわからない…。

 最後のテニスの件で出てくる人名は、実は重要人物らしいということで書いておいた。ドナルド・ゲイトリーは「まえがき」にも名前が出てきたので(ドン・ゲイトリー)、彼もメインキャラクターであることは間違いないのだろう。

 詳しく調べると、冒頭からウォレスが色々な工夫をしていることが分かる。

  • 四方八方に広がる日差しを“spidered light”とする感覚(検索してみると、案の定『インフィニット・ジェスト』関連サイトしかヒットしない)。

  • チャールズおじさん(Unkle Charles)とミスター・デリント(Mr,deLint)は、チャールズ・デ・リント(Charles de Lint)というオランダ生まれのカナダ人ファンタジー作家の名前を分解したもの。

  • 原文では「入試部、学務部、スポーツ部」が“three Deans ─ of Admissions, Academic Affairs, Athletic Affairs”とAが5つ立て続けに使われたり、My silent response to the expectant silence…のような言葉遊びが色々なところに…

…この調子で調べていくと永遠に終わらない気がするので、こういった小ネタは全て読んだ後に加筆していければと思っている。


用語

  1. E.T.A. :アンフィールド・テニス・アカデミー。アンフィールドマサチューセッツ州にあるということだが、架空の街。

  2. チャールズおじさん:ハルの叔父であり、本名チャールズ・トラヴィス(C.T)。Dr. Tavisとも呼ばれていたりして実にややこしい。ハルの母親と一緒にE.T.A.を経営している。

  3. ミスター・A・デリント:E.T.A.でprorectorを務める。prorectorとはヨーロッパの大学に必ずある役職で、学生アドバイザーと先生を兼任するようなものらしい。

  4. O.N.A.N.C.A.A. :Organization of North American Nations Collegiate Athletic Associationのこと。 NCAA(National Collegiate Athletic Association:全米大学競技協会)の発展形であり、訳すなら、北アメリカ大学競技協会といったところか。架空の組織。



ヤク中アーディディー (17-27頁)

時期:ディペンド社大人用下着年(Year of the Depend Adult Undergarment)

人物:ケン・アーディディー

内容

 「今晩行くよ」って言ってたあの女はどこにいるんだ? もう来ても良い時間のはずなのに。アーディディーはリビングで座りながらそう考えていると、オーディオ機材を載せている鉄製の棚に虫がいるのを見つけた。棚を支える桁の穴を、その虫は行ったり来たりしている。彼は彼女に電話をしようとも思ったが、全く同じタイミングで彼女が電話を掛けてきて繫がらなかった場合、彼女がもう自分のことはどうでもいいのだと勘違いするかもしれないから電話はできなかった。

 彼女は高品質大麻200グラムを1250ドルで売ってくれると約束していた。実は、彼は以前に何度も大麻を止めようとして失敗してきた。彼は毎回「これが最後の一回だ。だからもう俺には売らないでくれ」と売人に言っており、プライドからその売人にもう一度売ってくれとは頼めない。だから彼はその度に、彼のことを知らない新しい売人を探す必要があったのだ。彼は座って考えて待っていた。虫が棚の桁を行ったり来たりしていた。

 ついに彼は彼女に電話をする。しかし着信音のあと聞こえてきたのは「私たちが後で掛け直します」という男女二人の声によるメッセージだった。確か黒人と付き合ってたな、行くよって言ってたあの女は。今晩行くよって言ってた彼女が来たとしても大麻を売ってくれなかったらどうしよう、そうなったら「友達のために必要なんだ。もう金も預かってしまったんだ」と彼は嘘をついてしまいそうだった。そういえば、彼女と約束するときに「まぁ何でもいいよ」とか言ってしまったぞ、と彼は思い出した。棚にいた虫が戻ってきた。桁の穴を出たり入ったりしている。彼はあの虫と似ている気がしてきたが、どんなふうに似ているのか分からない。彼は大麻を吸うときはいつも決まってやることがあり、それはまず、大学のテレピューター(TP)に彼は非常事態中だから電話を全て保管しておくようEノートを投稿しておくことだ。そして家の電話にも数日間離れていると音声データを残しておき、寝室を綺麗にし、アルコール類を全部捨てて、色々なものを買い溜めするのだ。虫の触角が桁の穴から突き出ている。食料の買いだめが終わったあとは、インターレース・エンターテイメント・アウトレットからフィルムカートリッジのレンタルの予約をする。そしてマリファナ用の煙管を新しく買わなければならない。なぜなら、最後の一吸を終えるとこれでもう用済み、二度と使うことはないからと煙管を捨ててしまうからだ。彼は電話を、時計を見た。行くって言ってたあの女が来たなら、彼はすぐに外の世界とこの部屋を切り離すことができる。彼は、内部で自分を支えている何かの桁の穴に、自分が消えていくように感じた。約束の時間からもう三時間が過ぎた。もう準備は万端だってのに。彼の新しい煙管はキッチンに置いてあるバッグの中にあるが、何色だったかを思い出せない。確か前回のはオレンジだったはずだ。だが、最新であり最後になる煙管の色が思い出せない。でも気楽にあの女を待っているという今の雰囲気を壊したくない。今晩行くって言ってた女、デザインの仕事で知り合ってすでに二回セックスしているあの女を。虫の姿は見えなくなった。彼はなぜ大麻を吸うのが好きなのか分からなくなった。口も目も乾くし顔はたるむし、胸膜炎みたいな痛みも出るし。だけどやめられない。もう四時間が過ぎたぞ。彼はありったけのフィルムカートリッジを持ってきて面白いものはないかと探し始めた。カートリッジを差し込むと、カチッという昆虫の鳴き声のような音と、ブーンという昆虫の羽音のような音がして再生が始まった。しかし、彼はそのカートリッジに何が入っているのか分かると、すぐ別のカートリッジにもっと面白いものがあるんじゃないか、それを見逃してしまうんじゃないかと心配になってじっとしていられなくなってしまうのだ。そうこうしているうちに、テレフォン操作盤が鳴ったが、ただの友人からの電話で怒りのあまり即切りした。椅子に座って再びやきもきしながら待っていると、電話とインターホンが同時に鳴った。彼の身体はそれらに同時に出ようとしたので、電話とインターホンの間で腕が引き伸ばされたような姿勢で固まってしまった。

解説

 「まえがき」にも書かれていた、パラノイドな大麻中毒者ケン・アーディディーの章。大麻を持って家に来るはずの女性をひたすら待ち続ける。棚の桁にいる虫への執拗な言及、“the woman who’d said she would come ”を何度も言い続けるなど、文体からもヤク中っぷりが伝わってくる(個人的にウケたのは“He went into the bathroom to use the bathroom”)。そして、自分ではなく友人から頼まれたんだと嘘をつきそうになったり、「これが最後の大麻だからもう俺には売らないでくれ!」を何度も繰り返す意志の弱さ…確かに何と魅力的なキャラクターだろう。これがもう登場しないって本当?

 細かいところだと「彼はそのカートリッジに何が入っているのか分かると、すぐ別のカートリッジにもっと面白いものがあるんじゃないか、それを見逃してしまうんじゃないかと心配になってじっとしていられなくなってしまう」は、情報の速度も量も飛躍的に増大した現代において、より顕著な心理だろう。

用語

 アーディディーのことはとりあえず置いておくと、この章の機能的な役割としては、アーディディーの生活を描写することで、この物語上の科学技術を説明しているところだろう。コンピューターとテレフォンが合わさった「テレピューター(TP)」。現代の我々がイメージするEメールとはちょっと違うような「Eノート」。「インターレース・エンターテイメント・アウトレット」なるものから「フィルムカートリッジのレンタルの予約」ができるらしい。他にもポツポツあった気はするので、そのうち加筆するかも。

 あと、「まえがき」ですでに不思議に思った人もいるかもしれないが、「200グラム」と“half a meter”という表記から、どうやら『インフィニット・ジェスト』のアメリカでは、メートル法が採用されているようだ。



ハル・インカンデンツァ その2(27-31頁)

時期:タックス・パッド年(Year of the Tucks Medicated Pad)4月1日

人物:ハル(10歳)と誰か

内容

「父さんにここにくるように言われたんだけど」

「さあ、そこに座りなさい。何を飲む? セブンアップ(レモン味のソフトドリンク)かい? ところでハル、君は今何歳かな?」

「6月で11歳になるよ。あなたは歯医者さん?」

「君はここに会話をするために来たんだよ。11歳か…お父さんからは14歳と聞いていたが、何か理由があるのだろう」

「あなたとお話しするの?」

「ああ。ところで僕は君にセブンアップを飲むことを懇願(implore)するよ。君の口から気持ち悪い音がするからね」

「ゼガレリ先生は虫歯と、唾液の分泌量が少ないからだって言ってたよ」

「さあ、始めようか。まず君は『懇願(implore)』という言葉の意味を知っているかな?」

「implore。他動詞の規則動詞。文語。誰かに何かを感情的に求めること。類語はbeg。語源はラテン語のimplorare。imは『中で』、plorareは『泣き叫ぶ』の意味。O.E.D.(オックスフォード英語大辞典)第6版、1387ページ」

「なんてことだ、彼女は誇張してたわけじゃなかったのか」

「アカデミーでもこれをやることがあるよ。こうやって辞書を一字一句読み上げて同級生を叩きのめすの。あなたは天才少年少女の専門家なの?」

スピフィフィフィッ

「とりあえずこれを飲みなさい」

「ありがとう。シュルグシュルグウウウ…ふう」

「ずいぶん喉が渇いていたんだね」

「さて、僕が座ったらあなたが誰なのか教えてくれますか?」

「…プロの話し上手ってとこかな。ハル、君のお父さんが僕とお話しさせるためにこの場をセッティングしたんだ」

「ゲップ。ごめんなさい」

トクトクトクトク

「シュルグシュルグウウウ」

トクトクトクトク

「プロの話し上手?『話し上手』ってのはたくさん話す人のことだよね」

「『話し上手』というのは、君ならすぐ思い出せると思うけど、『話すことが人より秀でている』ということだよ」

「それは『ウェブスター』の7版だね。『O.E.D.』じゃない」

トクトク

「僕はO.E.D.マンなんだ。あなたは博士か何かなの? 普通はそこら辺に資格証とか授与賞が貼ってあるものだけど」

「もう一杯セブンアップを飲んでみるかい?」

「彼自身はまだ幻覚を見ているのかな? あ、彼自身ってのは僕の父さんのことね。僕たちは父さんのことを彼自身って呼んでるんだ。多少なりとも、家族って内輪だけのあだ名をつけたりするものだよね」

トクトクトク

「知ってると思うけど、最近の彼自身の幻覚はけっこう酷いんだ。だから、3時に試合があるにも関わらず僕をここに連れてくるっていう彼自身の計画にお母さんが許可を出したんだと思う」

「君と話すことができてとても楽しいよ。さ、東方正教会の官能作品についてお話をしないか?」

「なんで僕が東方正教会の官能作品に興味があるって知ってるの!?」

「君は『話し上手』という言葉の意味に引っ張られすぎだね。僕にサポートスタッフがいないとでも思っているのかい?」

「オーケイ、アレクサンドリア? コンスタンティノ?」

「南ケベック奥地の危機に関連する君のコネクションを調査してないとでも思っているのかな?」

「南ケベック奥地の危機ってなに? キワどいモザイクの話をするんじゃないの?」

「悪党どもと君の家族の、下劣な不義を私が知らないとでも? 汎カナダ・レジスタンスの悪名高いM・デュプレシと彼の邪悪な書記であるルーリア・P…」

「いや、ちょっと待ってよ。僕は正真正銘10歳なんだ。あなたのアポのカレンダーが間違ってるんじゃないのかな。僕は、規範文法の世界的権威の母親と、光学とアバンギャルド映画界の大物で独力でE.T.A.を設立したけど午前5時にはワイルドターキーを飲んじゃう父親との間に生まれた、10歳の優れたテニスプレイヤーであり語彙の神童なんだ。それにまだO.E.D.の『J』までしか行ってないから、『ケベック(Québec)』とか『邪悪な(malevolent)』はあんまり知らないんだ」

「…写真はあるんだよ…それでオタワのパパラッチとバイエルンの国際部の記者が死んだんだ」

「うーん、出口はあっち?」

「君のお母さんが30も年の離れた医務官(medical attachés)と遊び回っているんだよ?」

「あなたの口ひげ(mustache)が曲がってる、って言うのは失礼かな?」

「彼女が持ってきた記憶力を向上させる秘伝のステロイド剤と君の父親が毎日注射している『メガビタミン剤』とは立体化学的に異なるのだが、あれは…(このあと化学用語や“palluctomy”といった造語のオンパレードが続く)」

「あ、そのセーター見たことあるぞ。彼自身が独立記念日のディナーで着てたセーターじゃん。洗ってない染みもあるし。この部屋と仮面まで用意したのにセーターを変えるの忘れたの? これはエイプリルフールの冗談かい、父さん? 母さんかC.T.に電話しようか?」

「…誰が『第五の壁』の部屋で、真っ赤で血に満ちた薄汚れた人生(ruddy bloody cruddy life)を送っているって?」

「父さん、このあとシャハトとのチャレンジマッチが組まれているんだよ。偽の鼻がずれ落ちた父さんが僕のことをずっと黙っていると思い込んでいる、こんな様子を眺めている時間はないんだよ」

「恐怖で終わらない会話を願ってもいいじゃないか?」

「…」

「我が息子よ?」

「…」

「息子よ?」


解説

 「ハル・インカンデンツァその1」のラストで緊急治療室に連れて行かれたハル。1体1の面談が始まるので「その1」の続きかと思うが、これはハルが6月で11歳の頃、つまり約7年前のエピソードとなる。O.E.D.を丸暗記している途中だったり、「君の口から気持ち悪い音がする」といった情報は「その1」を補完するものだ。

 やがて話している相手の変装が崩れてきて、なんと実の父だと判明する。どうやら母親がケベック州の何やらヤバい案件に絡んでいるらしいことがわかる。30も年の離れた医務官とは? しかし幻覚のせいなのか、父がハルの言うことを聞かずに難しい話をひたすら喋り倒すので、ハルは部屋を出て行く。

 また、これまで時間表記が「0830」など24時間表記だったのに対し、7年前は「午前5時」と12時間表記になっている。

用語

  1. Tucks Medicated Pad:検索すると“Tucks Medicated Cooling Pad”という痔用の貼り薬が出てくる。

  2. Québec:カナダのケベック州。最大の都市はモントリオール。カナダでは唯一フランス語が公用語となっているなど、ケベックという名前は聞いたことがあっても知らないことは多いのではないだろうか? このあと何度も舞台として出てくるので、基本的なことは調べておいてほうがいいかもしれない。

  3. M・デュプレシ:モーリス・デュプレシ(1890-1959)のことだと思われる。ケベック州の政治家で通算で20年間、州首相を務めた。独裁政治で有名。ただし、1959年に亡くなっているので、この小説の設定とは明らかにズレているが…。

  4. 第五の壁:演劇において、舞台上の世界と観客とを分ける境界線を「第四の壁」と呼ぶ。では第五の壁とは何だろうか…? 父の発言にそれを説明する箇所はない。



…今回はここまで!

これで現在の読破率、2.8%