未翻訳小説を頑張って日々読んでいる日記

未翻訳小説を頑張って日々読んでいる日記

まだ翻訳されていない英米文学をたまに紹介します。

Infinite Jestまとめその1(1-32頁)

 アメリ現代文学最大の作家の一人にして、早逝の天才デイヴィッド・フォスター・ウォレス。彼が1996年に出版した『インフィニット・ジェスト』は90年代以降のアメリカ文学史において半ば伝説化されている。

 この未だに翻訳されていない大長編の概要と、出版20周年に際して寄せられたエッセイを紹介したのが前回の記事。今回から少しずつ『インフィニット・ジェスト』のまとめ・解説記事を書いていくわけだが、まず『インフィニット・ジェスト』がどんな小説なのかをもう一度振り返りつつ、この記事の方針を説明しよう。

『インフィニット・ジェスト』について

 ペーパーバック版についている帯によると、『インフィニット・ジェスト』の舞台は、資本主義が高度に進み娯楽が満ちあふれた近未来。登場する人物の多くが酒やドラッグなど何らかの中毒を抱えているが、ついにそれを手放さなければいけない状態にまで追い詰められる。そして幸福とは、喜びとは何か? といった問いにぶつかる…そうだ。

 問題はそのボリューム。本文が981ページ。388箇所もある巻末脚注はページ数にすると96合計1079ページ。今回は30ページほどまで進める予定で(ひとつの記事あたり1万文字前後にしたい)、このペースで月一回更新とすると…3年!?50ページずつでも2年半か。そのうちもう少しペースは上げていきたい。



記事のまとめ方

タイトル

まずは原文がどういった感じか見てもらおう。

f:id:nakata_kttk:20200115203131j:plain:w250

 数字での章立てはされておらず、“YEAR OF THE ◯◯◯◯ ” といった言葉が頭についているのみ。これは西暦の代わりに使用する年号をオークションしているという設定のためで、つまりは物語の時間を表している。◯◯◯◯にはもちろん落札した企業なり商品名が入る。

 ただ、これでは非常に分かりづらいので私の記事ではその章で中心となる人物名をタイトルとする。タイトルの横、丸括弧に入る数字は原文でのページ数だ。

 どうやらメインキャラクターが四人いるようなので(ハル・インカンデンツァ(Hal Incandenza)、ドン・ゲイトリー(Don Gately)、レミー・マラート(Remy Marathe)、マダム・サイコシス(Madame Psychosis)、前回記事を参照)、これらを中心に「ハル・インカンデンツァその1(1-17頁)」「レミー・マラートその8(?-?頁)」といった具合に進めていくことになるだろう。

 もちろん時間を表す年号と脇役の人物名なども、タイトルと合わせて併記する。

内容

 出来事をただまとめても味気ないので、「本文を飛ばし読みしている感覚」を目指して、本文の語りを再現しながら重要そうなところをピックアップ、その上で話の流れを説明する。パッと見では個人訳のように見えるかもしれないが(もちろん短い文章など直訳の箇所もあるだろう)、かなり乱暴にまとめている。

解説

 それ以前のストーリーと絡めつつ、「内容」をさらに簡潔にまとめる。小説上の仕掛け、デイヴィッド・フォスター・ウォレスの技が光る読みどころがあれば、ここで触れる。

用語

 重要なキーワードを中心に説明する。なお、造語や難解な英単語についてはここでは触れないので、それに関しては“Infinite Jest Wiki”というサイトを参照してほしい。

 では、早速始めよう。




ハル・インカンデンツァ その1(1-17頁)

時期:歓喜の年(Year of Glad)

人物:ハル・インカンデンツァ

内容

 僕はとある部屋の中で座っている。頭と胴体たちに囲まれながら、固い椅子の形状に僕の身体は意識的に適合している。この寒い部屋は大学の理事会の一室、木材の壁にはレミントン銃が掛けられていて、十一月の季節外れの暑さをしのぐ両開きの窓は、理事会の物音が外の受付に漏れることも防いでいる。つまり、チャールズおじさん、ミスター・デリント、僕、の三人がさっき通された場所だ。

 そして僕はここにいる。

 アリゾナの正午の蜘蛛のような日差しを受けて光り輝く会議室の松のテーブル、その向こうにいる三つの胴体、夏用ジャケットとハーフウインザーで結ばれたネクタイの上に、それぞれの顔が見えてくる。三人の部長──入試部、学務部、スポーツ部だ。どの顔がどの部署に所属しているのかは知らないけれど。 (最初の12行の拙訳)


 …そのうちの一人が書類を見ながら僕のプロフィールを読み上げる。「えー、あなたはハロルド・インカンデンツァ、18歳。高校課程をもうすぐ終えるところで、マサチューセッツ州にある全寮制のエンフィールド・テニス・アカデミー(E.T.A.)に7歳から在籍している、と」

 この面接には大学だけでなくE.T.A.の関係者も同席している。チャールズおじさんは本名チャールズ・トラヴィス(通称C.T.)といって僕の母親の腹違いの兄弟であり、E.T.A.の校長でもある。もう一人は僕のアドバイザーのミスター・デリントだ。

 面接が進むにつれ、どうやらアリゾナ大学側が僕のテニスプレイヤーとしての成績や将来性には満足しているものの学業成績を疑問に思っていることがわかった。「テニスのジュニアランキング入りをしていて、O.N.A.N.C.A.A.での活躍も保証できるだろう。しかしテストの点数が標準以下にも関わらず評価がA++というのはどういうことか。E.T.A.の経営者があなたの母親とその兄弟であることを考えると…ねえ? そういうわけでこの不一致が悪巧みでないことを説明してもらうためにあなたたちに大学まで来てもらったというわけなんだ」

 僕は黙り続けたまま、面接官が続ける。「そして、出願と一緒に2本のエッセイが必要なところに、君は9本も送ってきたね。そのうちのいくつかは単著ぐらいの長さがあり、評価も『輝かしい(stellar)』となっている。君は分野とタイトルをちゃんと覚えているかな、ハル? 「現代の規範的文法における新古典派の仮説」「ホログラフによる近似現実映画へのポストフーリエ変換法の意味」「放送用エンターテイメントにおける英雄的均衡状態の発生」「物理容態の意味論とモンタギュー文法」「自分がガラスで出来ていると疑い始めた男」「ユスティニアヌスの官能作品における第三次象徴主義」…

 僕はパニックを感じ始めていた。自分が誤解されているときに毎回感じる、あの感覚だ。C.T.は、僕の成績は間違いないものでありプレイヤーとしても学生としても申し分ないと言ってくれた。「まあ、ここはそろそろ本人に語ってもらうのしかないのでは?」スポーツ部長がそう言うと、コンソール(操作盤)のキーボードを叩く音が聞こえて扉が開き、C.T.とデリントは部屋の外へ出て行って、部屋の中は面接官たちと僕だけになった。

 あのエッセイは確かに僕が書いたものだ、そう思いながらも僕はまだ黙り続ける。「こっちを見なさいハル。君みたいなシャイな少年を、成績に下駄を履かせ他人から論文を買ったスポーツ馬鹿を、アリゾナ大学が入学させても問題ない理由を教えてくれたまえ」

 「僕はただのスポーツ馬鹿じゃない」僕はゆっくりと喋り始める。「Call it something I ate」


 僕は兄オリン(Orin)から聞いた幼少期の話を思い出す。オリンが母の庭仕事を手伝っていたとき、当時5歳ぐらいの僕が「これ食べちゃったの」と泣き叫びながら現れて、それを見た毋が悲鳴を上げたそうだ。オリンによると僕が手に持っていたのは、地下室の片隅で見かける恐ろしく、暗い緑色の、気持ち悪く、フワフワしていて、細菌がいると思われる黄色やオレンジ、赤色といった染みが付いた土状の塊(patch fo mold)だった。母は「ああ!息子がこれを食べちゃったのよ!どうしよう!」と叫び回っていたという。

 「エッセイを買ったりなんてしていませんよ。僕はただテニスするだけの高校生じゃない。様々な過去をもつ、複雑な人間なんだ」僕は喋り出す。「それに皆さんが読んだ本を、僕はすでに全部読んでると思いますよ」僕がカミュに対するキュルケゴールの影響など知識を披露する様を、なぜか恐怖の目で見つめる大学側の人間たち。すると彼らは僕を取り抑えようとする。「僕の言うことを聞いてください」僕はゆっくりとそう言うが、周りの人間は「いったいこいつのこの音は何なんだ!?」という反応しかしない。彼らは僕が発作を起こしたとでも考えているようで、慌てて部屋に入ってきたデリントの制止も聞かず僕は床に押さえつけられてしまった。  

 そして救急車に乗せられた僕。救急隊員だけでなく精神科医も乗っている。そのまま以前にも来たことがある部屋、質問に答えるまで拘束され、質問に答えると鎮静剤を打たれる部屋、緊急治療室に連れて行かれた。  僕は色々な人のことを考えた。まず母。今年の「ホワッタバーガー・トーナメント」で多分優勝するだろうジョン・N・R・ウェイン、彼は僕とドナルド・ゲイトリー(Donald Gately)が父さんの遺産を掘っているときに見張りをしてくれる。そして18歳以下の男女の決勝に出てくるかもしれないヴィーナス・ウィリアムスのこと。ああ、明日のディンプナとの準決勝間に合うかな。チャールズおじさんが上手く僕をここから連れ出してくれることを祈るしかない。


解説

 ハロルド・インカンデンツァ、通称ハルの一人称で進む章。「まとめ0」の「まえがき」にもあったように本作のメインキャラクターの一人。優秀なテニスのジュニアプレイヤーでありながら明晰な頭脳を持った青年。難解なエッセイのタイトル、あまりに冷静すぎる観察力、そして高校生とは思えない語彙と博識などから、ハルが神童であることがわかる。しかしハルはコミュニケーションに難があるようで、ゆっくりしゃべっているつもりなのに、大学側の面接官からは動物が何やら音を出しているようにしか聴こえておらず、発作を起こしたと見られて救急車で病院に連れて行かれてしまう。

 とにかくハルの語りが完全に狂気。大学側の人間たちを「頭と胴体」と表す無機質な眼差し、難解な英単語と文法を駆使して自分の身の回りを描写するあたりは是非とも原文を読んでほしい。

 途中で挟まれる「兄オリンから聞いたエピソード」は今のところ、何のためなのかはよくわからない。“Call it something I ate(それを僕が食べた何かで呼べ)”も、ハルが食べた“patch of mold”も、具体的にどういうことなのかわからない…。

 最後のテニスの件で出てくる人名は、実は重要人物らしいということで書いておいた。ドナルド・ゲイトリーは「まえがき」にも名前が出てきたので(ドン・ゲイトリー)、彼もメインキャラクターであることは間違いないのだろう。

 詳しく調べると、冒頭からウォレスが色々な工夫をしていることが分かる。

  • 四方八方に広がる日差しを“spidered light”とする感覚(検索してみると、案の定『インフィニット・ジェスト』関連サイトしかヒットしない)。

  • チャールズおじさん(Unkle Charles)とミスター・デリント(Mr,deLint)は、チャールズ・デ・リント(Charles de Lint)というオランダ生まれのカナダ人ファンタジー作家の名前を分解したもの。

  • 原文では「入試部、学務部、スポーツ部」が“three Deans ─ of Admissions, Academic Affairs, Athletic Affairs”とAが5つ立て続けに使われたり、My silent response to the expectant silence…のような言葉遊びが色々なところに…

…この調子で調べていくと永遠に終わらない気がするので、こういった小ネタは全て読んだ後に加筆していければと思っている。


用語

  1. E.T.A. :アンフィールド・テニス・アカデミー。アンフィールドマサチューセッツ州にあるということだが、架空の街。

  2. チャールズおじさん:ハルの叔父であり、本名チャールズ・トラヴィス(C.T)。Dr. Tavisとも呼ばれていたりして実にややこしい。ハルの母親と一緒にE.T.A.を経営している。

  3. ミスター・A・デリント:E.T.A.でprorectorを務める。prorectorとはヨーロッパの大学に必ずある役職で、学生アドバイザーと先生を兼任するようなものらしい。

  4. O.N.A.N.C.A.A. :Organization of North American Nations Collegiate Athletic Associationのこと。 NCAA(National Collegiate Athletic Association:全米大学競技協会)の発展形であり、訳すなら、北アメリカ大学競技協会といったところか。架空の組織。



ヤク中アーディディー (17-27頁)

時期:ディペンド社大人用下着年(Year of the Depend Adult Undergarment)

人物:ケン・アーディディー

内容

 「今晩行くよ」って言ってたあの女はどこにいるんだ? もう来ても良い時間のはずなのに。アーディディーはリビングで座りながらそう考えていると、オーディオ機材を載せている鉄製の棚に虫がいるのを見つけた。棚を支える桁の穴を、その虫は行ったり来たりしている。彼は彼女に電話をしようとも思ったが、全く同じタイミングで彼女が電話を掛けてきて繫がらなかった場合、彼女がもう自分のことはどうでもいいのだと勘違いするかもしれないから電話はできなかった。

 彼女は高品質大麻200グラムを1250ドルで売ってくれると約束していた。実は、彼は以前に何度も大麻を止めようとして失敗してきた。彼は毎回「これが最後の一回だ。だからもう俺には売らないでくれ」と売人に言っており、プライドからその売人にもう一度売ってくれとは頼めない。だから彼はその度に、彼のことを知らない新しい売人を探す必要があったのだ。彼は座って考えて待っていた。虫が棚の桁を行ったり来たりしていた。

 ついに彼は彼女に電話をする。しかし着信音のあと聞こえてきたのは「私たちが後で掛け直します」という男女二人の声によるメッセージだった。確か黒人と付き合ってたな、行くよって言ってたあの女は。今晩行くよって言ってた彼女が来たとしても大麻を売ってくれなかったらどうしよう、そうなったら「友達のために必要なんだ。もう金も預かってしまったんだ」と彼は嘘をついてしまいそうだった。そういえば、彼女と約束するときに「まぁ何でもいいよ」とか言ってしまったぞ、と彼は思い出した。棚にいた虫が戻ってきた。桁の穴を出たり入ったりしている。彼はあの虫と似ている気がしてきたが、どんなふうに似ているのか分からない。彼は大麻を吸うときはいつも決まってやることがあり、それはまず、大学のテレピューター(TP)に彼は非常事態中だから電話を全て保管しておくようEノートを投稿しておくことだ。そして家の電話にも数日間離れていると音声データを残しておき、寝室を綺麗にし、アルコール類を全部捨てて、色々なものを買い溜めするのだ。虫の触角が桁の穴から突き出ている。食料の買いだめが終わったあとは、インターレース・エンターテイメント・アウトレットからフィルムカートリッジのレンタルの予約をする。そしてマリファナ用の煙管を新しく買わなければならない。なぜなら、最後の一吸を終えるとこれでもう用済み、二度と使うことはないからと煙管を捨ててしまうからだ。彼は電話を、時計を見た。行くって言ってたあの女が来たなら、彼はすぐに外の世界とこの部屋を切り離すことができる。彼は、内部で自分を支えている何かの桁の穴に、自分が消えていくように感じた。約束の時間からもう三時間が過ぎた。もう準備は万端だってのに。彼の新しい煙管はキッチンに置いてあるバッグの中にあるが、何色だったかを思い出せない。確か前回のはオレンジだったはずだ。だが、最新であり最後になる煙管の色が思い出せない。でも気楽にあの女を待っているという今の雰囲気を壊したくない。今晩行くって言ってた女、デザインの仕事で知り合ってすでに二回セックスしているあの女を。虫の姿は見えなくなった。彼はなぜ大麻を吸うのが好きなのか分からなくなった。口も目も乾くし顔はたるむし、胸膜炎みたいな痛みも出るし。だけどやめられない。もう四時間が過ぎたぞ。彼はありったけのフィルムカートリッジを持ってきて面白いものはないかと探し始めた。カートリッジを差し込むと、カチッという昆虫の鳴き声のような音と、ブーンという昆虫の羽音のような音がして再生が始まった。しかし、彼はそのカートリッジに何が入っているのか分かると、すぐ別のカートリッジにもっと面白いものがあるんじゃないか、それを見逃してしまうんじゃないかと心配になってじっとしていられなくなってしまうのだ。そうこうしているうちに、テレフォン操作盤が鳴ったが、ただの友人からの電話で怒りのあまり即切りした。椅子に座って再びやきもきしながら待っていると、電話とインターホンが同時に鳴った。彼の身体はそれらに同時に出ようとしたので、電話とインターホンの間で腕が引き伸ばされたような姿勢で固まってしまった。

解説

 「まえがき」にも書かれていた、パラノイドな大麻中毒者ケン・アーディディーの章。大麻を持って家に来るはずの女性をひたすら待ち続ける。棚の桁にいる虫への執拗な言及、“the woman who’d said she would come ”を何度も言い続けるなど、文体からもヤク中っぷりが伝わってくる(個人的にウケたのは“He went into the bathroom to use the bathroom”)。そして、自分ではなく友人から頼まれたんだと嘘をつきそうになったり、「これが最後の大麻だからもう俺には売らないでくれ!」を何度も繰り返す意志の弱さ…確かに何と魅力的なキャラクターだろう。これがもう登場しないって本当?

 細かいところだと「彼はそのカートリッジに何が入っているのか分かると、すぐ別のカートリッジにもっと面白いものがあるんじゃないか、それを見逃してしまうんじゃないかと心配になってじっとしていられなくなってしまう」は、情報の速度も量も飛躍的に増大した現代において、より顕著な心理だろう。

用語

 アーディディーのことはとりあえず置いておくと、この章の機能的な役割としては、アーディディーの生活を描写することで、この物語上の科学技術を説明しているところだろう。コンピューターとテレフォンが合わさった「テレピューター(TP)」。現代の我々がイメージするEメールとはちょっと違うような「Eノート」。「インターレース・エンターテイメント・アウトレット」なるものから「フィルムカートリッジのレンタルの予約」ができるらしい。他にもポツポツあった気はするので、そのうち加筆するかも。

 あと、「まえがき」ですでに不思議に思った人もいるかもしれないが、「200グラム」と“half a meter”という表記から、どうやら『インフィニット・ジェスト』のアメリカでは、メートル法が採用されているようだ。



ハル・インカンデンツァ その2(27-31頁)

時期:タックス・パッド年(Year of the Tucks Medicated Pad)4月1日

人物:ハル(10歳)と誰か

内容

「父さんにここにくるように言われたんだけど」

「さあ、そこに座りなさい。何を飲む? セブンアップ(レモン味のソフトドリンク)かい? ところでハル、君は今何歳かな?」

「6月で11歳になるよ。あなたは歯医者さん?」

「君はここに会話をするために来たんだよ。11歳か…お父さんからは14歳と聞いていたが、何か理由があるのだろう」

「あなたとお話しするの?」

「ああ。ところで僕は君にセブンアップを飲むことを懇願(implore)するよ。君の口から気持ち悪い音がするからね」

「ゼガレリ先生は虫歯と、唾液の分泌量が少ないからだって言ってたよ」

「さあ、始めようか。まず君は『懇願(implore)』という言葉の意味を知っているかな?」

「implore。他動詞の規則動詞。文語。誰かに何かを感情的に求めること。類語はbeg。語源はラテン語のimplorare。imは『中で』、plorareは『泣き叫ぶ』の意味。O.E.D.(オックスフォード英語大辞典)第6版、1387ページ」

「なんてことだ、彼女は誇張してたわけじゃなかったのか」

「アカデミーでもこれをやることがあるよ。こうやって辞書を一字一句読み上げて同級生を叩きのめすの。あなたは天才少年少女の専門家なの?」

スピフィフィフィッ

「とりあえずこれを飲みなさい」

「ありがとう。シュルグシュルグウウウ…ふう」

「ずいぶん喉が渇いていたんだね」

「さて、僕が座ったらあなたが誰なのか教えてくれますか?」

「…プロの話し上手ってとこかな。ハル、君のお父さんが僕とお話しさせるためにこの場をセッティングしたんだ」

「ゲップ。ごめんなさい」

トクトクトクトク

「シュルグシュルグウウウ」

トクトクトクトク

「プロの話し上手?『話し上手』ってのはたくさん話す人のことだよね」

「『話し上手』というのは、君ならすぐ思い出せると思うけど、『話すことが人より秀でている』ということだよ」

「それは『ウェブスター』の7版だね。『O.E.D.』じゃない」

トクトク

「僕はO.E.D.マンなんだ。あなたは博士か何かなの? 普通はそこら辺に資格証とか授与賞が貼ってあるものだけど」

「もう一杯セブンアップを飲んでみるかい?」

「彼自身はまだ幻覚を見ているのかな? あ、彼自身ってのは僕の父さんのことね。僕たちは父さんのことを彼自身って呼んでるんだ。多少なりとも、家族って内輪だけのあだ名をつけたりするものだよね」

トクトクトク

「知ってると思うけど、最近の彼自身の幻覚はけっこう酷いんだ。だから、3時に試合があるにも関わらず僕をここに連れてくるっていう彼自身の計画にお母さんが許可を出したんだと思う」

「君と話すことができてとても楽しいよ。さ、東方正教会の官能作品についてお話をしないか?」

「なんで僕が東方正教会の官能作品に興味があるって知ってるの!?」

「君は『話し上手』という言葉の意味に引っ張られすぎだね。僕にサポートスタッフがいないとでも思っているのかい?」

「オーケイ、アレクサンドリア? コンスタンティノ?」

「南ケベック奥地の危機に関連する君のコネクションを調査してないとでも思っているのかな?」

「南ケベック奥地の危機ってなに? キワどいモザイクの話をするんじゃないの?」

「悪党どもと君の家族の、下劣な不義を私が知らないとでも? 汎カナダ・レジスタンスの悪名高いM・デュプレシと彼の邪悪な書記であるルーリア・P…」

「いや、ちょっと待ってよ。僕は正真正銘10歳なんだ。あなたのアポのカレンダーが間違ってるんじゃないのかな。僕は、規範文法の世界的権威の母親と、光学とアバンギャルド映画界の大物で独力でE.T.A.を設立したけど午前5時にはワイルドターキーを飲んじゃう父親との間に生まれた、10歳の優れたテニスプレイヤーであり語彙の神童なんだ。それにまだO.E.D.の『J』までしか行ってないから、『ケベック(Québec)』とか『邪悪な(malevolent)』はあんまり知らないんだ」

「…写真はあるんだよ…それでオタワのパパラッチとバイエルンの国際部の記者が死んだんだ」

「うーん、出口はあっち?」

「君のお母さんが30も年の離れた医務官(medical attachés)と遊び回っているんだよ?」

「あなたの口ひげ(mustache)が曲がってる、って言うのは失礼かな?」

「彼女が持ってきた記憶力を向上させる秘伝のステロイド剤と君の父親が毎日注射している『メガビタミン剤』とは立体化学的に異なるのだが、あれは…(このあと化学用語や“palluctomy”といった造語のオンパレードが続く)」

「あ、そのセーター見たことあるぞ。彼自身が独立記念日のディナーで着てたセーターじゃん。洗ってない染みもあるし。この部屋と仮面まで用意したのにセーターを変えるの忘れたの? これはエイプリルフールの冗談かい、父さん? 母さんかC.T.に電話しようか?」

「…誰が『第五の壁』の部屋で、真っ赤で血に満ちた薄汚れた人生(ruddy bloody cruddy life)を送っているって?」

「父さん、このあとシャハトとのチャレンジマッチが組まれているんだよ。偽の鼻がずれ落ちた父さんが僕のことをずっと黙っていると思い込んでいる、こんな様子を眺めている時間はないんだよ」

「恐怖で終わらない会話を願ってもいいじゃないか?」

「…」

「我が息子よ?」

「…」

「息子よ?」


解説

 「ハル・インカンデンツァその1」のラストで緊急治療室に連れて行かれたハル。1体1の面談が始まるので「その1」の続きかと思うが、これはハルが6月で11歳の頃、つまり約7年前のエピソードとなる。O.E.D.を丸暗記している途中だったり、「君の口から気持ち悪い音がする」といった情報は「その1」を補完するものだ。

 やがて話している相手の変装が崩れてきて、なんと実の父だと判明する。どうやら母親がケベック州の何やらヤバい案件に絡んでいるらしいことがわかる。30も年の離れた医務官とは? しかし幻覚のせいなのか、父がハルの言うことを聞かずに難しい話をひたすら喋り倒すので、ハルは部屋を出て行く。

 また、これまで時間表記が「0830」など24時間表記だったのに対し、7年前は「午前5時」と12時間表記になっている。

用語

  1. Tucks Medicated Pad:検索すると“Tucks Medicated Cooling Pad”という痔用の貼り薬が出てくる。

  2. Québec:カナダのケベック州。最大の都市はモントリオール。カナダでは唯一フランス語が公用語となっているなど、ケベックという名前は聞いたことがあっても知らないことは多いのではないだろうか? このあと何度も舞台として出てくるので、基本的なことは調べておいてほうがいいかもしれない。

  3. M・デュプレシ:モーリス・デュプレシ(1890-1959)のことだと思われる。ケベック州の政治家で通算で20年間、州首相を務めた。独裁政治で有名。ただし、1959年に亡くなっているので、この小説の設定とは明らかにズレているが…。

  4. 第五の壁:演劇において、舞台上の世界と観客とを分ける境界線を「第四の壁」と呼ぶ。では第五の壁とは何だろうか…? 父の発言にそれを説明する箇所はない。



…今回はここまで!

これで現在の読破率、2.8%