2021年のブッカー賞受賞作。デイモン・ガルガット(Damon Galgut)は1963年、南アフリカのプレトリア出身の作家。なんと17歳で作家デビューしており、The Good Doctor(2003年)、In a Strange Room(2010年)で過去2度ブッカー賞候補になっている。作品は全て未翻訳。 さて、「南アフリカ」と「ブッカー賞」というと、海外文学に馴染みのある人なら、ブッカー賞を2度受賞したノーベル賞受賞作家、J・M・クッツェーが思い浮かぶであろう。やはりガルガットのThe Promiseもクッツェー(特に『恥辱』)に近いテーマとなっている。クッツェーのDisgraceが『恥辱』と訳されているので、おそらくは本作が翻訳される場合も、タイトルはストレートに『約束』となるであろう。 スウォート家と南アフリカとの約束 第1章“Ma”は、アモール(Amor)という13歳の女の子が、叔母から母が亡くなったと告げられるシーンから始まる。読み進めていくうちに、舞台は1986年、南アフリカのプレトリアで農場を経営する白人のスウォート家(Swarts)であることがわかる(“Swart”は南アフリカの公用語でもあるアフリカーンス語で「黒」を意味する)。家族構成は父マニー(Manie)母レイチェル(Rachel)、その子供たちは3人で、年齢順に現在徴兵されている長男アントン(Anton)、屋敷にいる長女アストリッド(Astrid)、そして次女のアモールだ。 長く病に苦しんでいた母レイチェルを最後まで介護したのは使用人であるサロメ(Salome)。遺体を搬送し、母がいなくなった部屋を掃除するサロメを見て、アモールは2週間前の父と母の会話を思い出す。 ……2人は私が部屋の隅にいたことを忘れていた。私のことは見ておらず、2人にとって私は黒人のような存在なのだろう。 (約束してくれる、マニー? 彼にしがみつき、骨のような手で握る姿は、まるでホラー映画のようだった。 ああ、そうするよ。 私は彼女に何かを残してあげたいの。彼女がしてくれた全てのことのために。 分かってる、分かっているよ、父は言った。 約束して、絶対にすると。そう言って。 約束する、父は言った。そして嗚咽音)(19) レイチェルは亡くなる少し前にオランダ改宗派(Dutch Reformed)からユダヤ教へと再改宗しており、葬儀のやり方を巡って父や叔母が混乱していた。埋葬の前に開かれた食事会に軍から一時帰宅したばかりのアントンが加わる。アントンは黒人の暴動鎮圧に派遣され、女性を1人射殺した直後に母の死を告げられたため、その女性と母を重ね合わせていた。そんなアントンと父が食事会で衝突。「彼女の夫は俺だぞ! 彼女のことはお前よりよく知っている。彼女が何を信じていたかは俺が知ってるんだ」という言葉から、何気なくアモールは口にする。「じゃあ母さんがやりたかったこと守らなきゃダメだよね。サロメに家を与えるって話も含めて全部、約束したのならね」そうアモールが言うと、「そんな約束していないぞ!」と一蹴されてしまう(62)。 ここでタイトルの意味が分かる。タイトルの『約束』とは「使用人であるサロメに家を渡す約束」のことだ。もちろん、それは「黒人に家を渡す=人種差別の撤廃」のことでもあるが、アパルトヘイト撤廃後も物語が続く(約束が守られない)ことから、「白人と黒人の関係性」とでも言えるようなもっと広い意味をもっている。 本作は基本的に農場の外を出ないが、政治的なネタがちらほら出てくる。第1章では叔母が、1986年当時の南アフリカ大統領、白人でアパルトヘイト撤廃運動に頑なに抵抗したボータ(Botha:在任86-89年)とピクニックをする夢を見たり、9年後の第2章では「融和の象徴」ラグビーW杯をテレビ観戦するなど、その時代の政治状況を説明しつつそれを登場人物に投影させている。そしてスウォート家でもっともリベラルな人物こそ、「サロメとの約束」にこだわり続け、第3章ではエイズ専門病棟で看護師として働くアモーレだ(99-08年にかけて大統領だったムベキはエイズ否認主義をとり、南アフリカでのエイズ被害が拡大した)。彼女はスウォート家でたった1人、南アフリカの暗い歴史を背負っているとも言える。 南アフリカの変化とともに1人、また1人と亡くなっていくスウォート家。果たしてサロメとの「約束」は果たされるのであろうか。 しかし、本作を傑作たらしめているものは、テーマだけでなく実はその文体なのだ。 自由自在の神の視点 本作はいわゆる「神の視点」とも呼ばれる、珍しい三人称で書かれている。海外の批評を読むとガルガットはこれまでこのような作風ではなかったようだが、本作でのその筆捌きは達人級だ。 序盤から次々と視点を変えて葬儀を描いていくが、その頻度が並ではない。早いときはわずか数行で視点が変わってしまう。しかも、その跳躍は主要人物に限らず、教会のホームレスや鳥にまで及ぶ! ほとんどの会話で引用符を使わず、連想ゲームのように時も場所も越えていくことで、物理的に狭く短い「農場での葬儀」という舞台の中でも、アントンの過去(暴動鎮圧)や大統領とのピクニックという叔母の夢までを自然に組み込み、物語世界を広げることに成功している。 さらに文字通り「神の視点」で、読者に直接語りかけてもくる。前述したホームレスはなんと勝手に名前を付けられてしまうのだ。 ……ここで証明することはできないのだが、実は彼はかつて高級取りであり、注目や尊敬を受ける人物であったのだ。もっともそれは全て上手くいかなくなるまでの話。しかし、それがどうした。彼自身は気にしていないようだし、時というのは全てを流し去る川のようなものなのだ。彼の家とその中にあった全てのもの/全ての人と一緒に、ホームレスの男は名前も失ってしまった。家族と友人は時も場所も遠いところに消え、もはや彼の正しい場所を指し示す者、あるいは彼が全てを忘れたとき彼が誰なのかを教える者はいない。だが、彼がとりつかれたように「風に吹かれて」の出だしを歌い続けているので、ここでは彼をボブと呼ぶことにしよう。いいじゃないか、もしかしたら正しい名前かもしれないし。 ボブは、うつらうつらとしか眠れず、朝日が昇る前に起き……(201) こうして様々な人物を次々と描いていくが、このような手法を用いているにも関わらず、重要人物であるサロメの出番は非常に少なく設定されている。白人中心のコミュニティでは黒人の家政婦が目に入らないことを意識してもいると思われるが、結果的にサロメが登場し「約束」が読者の眼前に引っ張り出されたときの緊張感は凄まじいものがある。 サロメがどうしてスウォート家で家政婦をするようになったのかは、最後の最後にサラッと明かされるのだが、そのとき語り手はなんと読者に責任を押しつけてくる。 もしサロメの故郷にこれまで触れていなかったとしたら、それはあなたが聞かなかったからだよ。(285) もはや読者を嘲笑うかのようだ。 新旧の古典のいいとこ取りのモダン・クラシック このように、自由自在な神の視点が様々なエピソードを持ち込むのだが、それらはどこか笑えるものが多い。特に次女アストリッドが傾倒するヨガの指導者は、後半で何度も読者を笑わせにくる。一方、様々な南アフリカでの暴力は、物語が農場の外を出ないことで、どこか他人事の気配が漂う(それこそが裕福な白人の特権)。このように、本作はシリアスなテーマでありつつもどこかユーモアの雰囲気が漂っている。白人の没落や南アフリカと献身的に向き合う娘などなど、クッツェーの『恥辱』と共通点は多いが、クッツェーが『恥辱』で南アフリカの厳しい現実を真正面から捉えたのに対し、ガルガットは『約束』でより風刺的な目で捉えたと言えるだろう。 海外の批評では、本作での独特の語りがジョイス、ウルフ、フォークナーと言ったモダニズムの巨匠と比較されている(結末はジョイスへの直接的な言及らしいが、私は不勉強で分からなかった涙)。さらに言えば、一家の没落とそれを側で見続ける女性、という構図はフォークナー『アブサロム! アブサロム!』に似ている……などなど、このように本作は新旧の古典と比較されるに値する、まさに「モダン・クラシック」だ。
ネイティヴ・アメリカンたちが奏でる豊潤なポリフォニー(The Night Watchman by Louise Erdrich)
2021年のピューリッツァー賞フィクション部門の受賞作。ネイティヴ・アメリカンの血を引く女性作家ルイーズ・アードリックは、1954年ミネソタ州にてドイツ系アメリカン人の父とネイティヴ・アメリカンのチペワ族(あるいはオジブワ族)の母との間に生まれた。一家はやがてノース・ダコタ州のインディアン居住区に移り住む。 ダーモント大学とジョンズ・ホプキンス大学で学びながら、詩を発表し始める。大学で知り合った作家兼研究者であるマイケル・ドリスと結婚、共同で短編の執筆、研究などを行う(2人は95年に離婚、97年にドリスは自殺してこの世を去る)。小説家としてのデビューは1984年の“Love Medicine”(『ラブ・メディシン』望月佳重子訳・筑摩書房)。 アードリックはすでに全米批評家協会賞を2回(1984年“Love Medicine”, 2016年“LaRose”)、全米図書賞を1回(2012年“Round House”)、そして今作でピューリッツァー賞受賞と2012年からの10年間でアメリカ文学賞三冠(勝手にそう私が読んでいるだけ)を達成。さらにこれまでの功績が認められ議会図書館の“Prize for American Fiction”をも受賞している。2008年から始まったこの賞の他の受賞者には、トニ・モリスン、フィリップ・ロス、ドン・デリーロ、デニス・ジョンソン、コルソン・ホワイトヘッドなど錚々たる顔ぶれ。日本語で読める作品は『ラブ・メディシン』を含む90年代に翻訳された5冊のみで全て絶版だが、ルイーズ・アードリックは押しも押されぬ大物作家なのだ。 『ラブ・メディシン』については、日本語版Wikipediaにも、検索でヒットする徳永紀美子の論文にも詳しいあらすじが書いてある。そこでの、 「アードリック作品は、20世紀初頭から現代までを主な時代背景として、保留地やその近隣の町で生きる人々の姿を描いている」(徳永 2012、31) 「(…)コミュニティの人々をも表出し、作品は個人の物語でもあれば、共同体についての物語にもなる。この多声を響かせるナラティヴ形式は、誰もが平等に語るという先住民のストーリーテリングの展開である。その一方で、同時にミハイル・バフチン(Mikhail Bakhtin)がいう、「対話的、ポリフォニック」テクストの典型ともいえるのだ」(徳永 2012、38) という箇所は、そのまま“The Night Watchman”にも当てはまる。前置きが長くなったが、いよいよ小説の中身について説明して行こう。翻訳されるとしたら全く違う邦題になる可能性があるが(そこまでタイトルに小説が縛られていないので)、一応『夜警』としておこう。 ネイティヴ・アメリカンの権利保護運動 『夜警(The Night Watchman)』は、1953年のノース・ダコタを舞台とした物語。「ポリフォニー」を奏でるために多くの登場人物が出てくるが、中心になるのはお互い親戚同士の2人、地区に唯一できたアクセサリー工場に夜警として勤務するトーマス・ワズウスク(Thomas Wazhushk)と、作業員として勤務するパトリス・パラントー(Patrice Paramteau)通称ピクシー(Pixie)だ。 トーマスとパトリスはそれぞれ全く独立したプロットを持っているわけではなく、同じコミュニティにいる以上、当然ながら密接に絡み合っている。 トーマス・ワズウスクはチペワ族の評議会の議長で、いわゆる“Termination(ターミネーション)”と呼ばれる「連邦管理終結政策」に対する運動を起こそうとしていた。「連邦管理終結政策」とは、ネイティヴ・アメリカンを他のアメリカ国民と同様に扱おうとするもの。だが、その政策が本当は何をもたらすのかをトーマスは分かっている。 エディはトーマスに「解放(emancipation)」について知っているかと尋ねた。ああ、知ってるよ、だけど解放じゃないけどな、トーマスは言った。その法案についてエディが誰よりも先に聞いているとは面白かったが──彼はそういうやつだった。昔も今も情報を集めるのが得意なんだ。 「俺はもちろん聞いたぜ。なかなかいい話みたいじゃないか」エディは言った。「自分の土地を売れるんだろ、俺が持ってるのは土地だけだからな」 「だけど、病院に行けなくなるぞ。クリニックも、学校も、農業支援も、全部なしだ」 「俺、何も要らないし」 「政府からの支給品もなくなるぞ」 「土地を売った金で買えばいい」 「法律で、もうインディアンではなくなる」 「法律は俺からインディアンの魂を取り出すことはできねえよ」 「多分な。土地の金が尽きたときはどうだ、それからどうする?」 「その日暮らしの生活をするさ」 「お前はあいつらが求めているインディアンそのものだな」トーマスは言った。 「俺は酔っ払いさ」 「それこそが、法案が承認された後の俺たちの姿なんだ」 「それじゃあ承認させようぜ!」 「お金はお前を殺すかもしれないぜ、エディ」 「ウイスキーで死ぬってこと? そうなのか、仲間よ?」(26) 政府は「自由」「平等」「解放」と言ってはいるものの現実にはその名の下に厳しい生活を強いられている社会的弱者への生活援助を打ち切る、という現在の日本でも同じことが堂々と行われている政策。これを阻止するため、部族の会議を開いて署名を集めて……というのがトーマスの主なプロットだ。 結婚して33年になる妻ローズと子どもたち、そして夜警の仕事中たびたびトーマスを訪れる幽霊ロデリック(Roderick)が、トーマスのプロットでの重要な人物となっている。 行方不明の姉 パトリスは19歳の女性。アクセサリー工場での働きぶりは優秀で、アル中で外をほっつき回っている父に代わって一家の家計を支えている。姉のヴェラ(Vera)はミネソタ州の街へ行ったまま行方不明となっており、パトリスはヴェラを探し出そうとしている。 トーマスよりもパトリスのプロットの方が多彩で、姉ヴェラの捜索を中心にしつつ、パトリスに惹かれる男性たち、工場での同僚たち(全員女性)との交流などが描れる。 ここで準主人公的な活躍をするのが、チペワ族の若きボクサー、ウッド・マウンテン(Wood Mountain)。彼はずっとパトリスに好意を抱いていて(一方のパトリスはウッド・マウンテンはもちろん男性全般に興味がないのだが)、この2人の関係は作中を通して描れる。 前半のハイライトは、パトリスが姉ヴェラの痕跡を辿るためノース・ダコタのファーゴという街へと出掛けるエピソードだ。ひょんなことからファーゴへと向かう汽車の中で一緒になるパトリスとウッド・マウンテン。ファーゴに着くと、ウッド・マウンテンはボクシングの試合のために別行動に。パトリスは怪しげな夜の街に辿り着き、そこでパトリスはプールの中で動物のゴムスーツを着て泳ぐという見せ物をすることになる。命の危険を感じつつも、やがてヴェラが住んでいた家を見つけることができたが…… 息を潜めながら彼女が一つ目の部屋に入ると、鎖が壁にボルトで繋がれている犬を見つけた。 青白くほとんど骨同然の犬は、足で立とうともがいていたが、崩れ落ちて横たわり、喘ぐこともできないほど弱っている。ひっくり返ったボウルと、部屋の一角には水が半分入ったガラスの水差し、そして干涸びた糞があちこちに転がっており、窓は開けられていた。彼女は水差しを持ってきてその生き物の近くでしゃがみ、膨らんでただれた鼻の下に水を垂らすと、しばらくして犬の喉が微かに動き水を飲み始めた。パトリスは立ち上がり次の部屋へつながる扉を開けた。それぞれの部屋に、汚れたマット、ねじれたブランケット、糞、尿の臭い、壁にボルトで固定された鎖があり、鎖の先には首輪だけが残っていた。彼女はそれらの鎖と首輪をよく観察していった。ある部屋では窓枠にビールの瓶が並べられており、最後に残った部屋は干涸びた悪臭に満ちたバスルームだった。そこにあったのは擦り切れた古いシート、乾いた血、丸められた二つのオムツ。彼女は犬のところへと戻り、今度は座って口元へ水をもっと注ぎ、浮き出たあばら骨に手を置いた。「あなたは彼女がどこにいるか知ってるよね」パトリスは言った。「絶対知っているでしょ。お願い、彼女を見つけるにはあなたの力が必要なの」 「彼女は鎖の先で死んだよ。私みたいに」犬は言った。(150) パトリスは、ファーゴでの知り合いの女性(ウッド・マウンテンの(異父母)姉でもある)に会いに行きヴェラのことを尋ねるが、明確な情報は得られず、その代わりヴェラが残した男の赤ちゃんを託され、ウッド・マウンテンとふたり、まるで家族のように連れ帰る。 悲劇と喜劇 ファーゴでの夜の見せ物と空っぽの部屋は、ヴェラが壮絶な体験をしたことを読者に想起させる。だが、トーマスを訪れる幽霊ロデリックの正体が分かるにつれ、これらの悲劇は当時のネイティヴ・アメリカンが置かれていた状況そのものなのだと分かる。 では、全体に渡って悲劇をひたすら書いたサスペンス・ホラー小説なのかというと否だ。引用したトーマスとエディの会話のように、あちこちに笑えるシーンがある。例えば、ウッド・マウンテンのボクシングコーチである白人教師のロイド・バーンズ(Llyod Barnes)もパトリスに惹かれていて、つまり師弟でなんとかパトリスに近づこうと躍起になっている。その様はコミカルなシーンにならざるを得ない。 中盤のハイライトはそんな2人の見せ場でもある。トーマスはウッド・マウンテンが前回ミスジャッジで敗れたライバル選手、ジョー・ワブル(Joe Wobble)との再戦を計画する。その試合の入場料を、ワシントンへ代表団を派遣する資金とするためだ。街でたまたまジョーを見かけると彼は不自然な歩き方していて、どうやら右肩を負傷しているようだった。これはチャンスだ、そう思ったウッド・マウンテンとバーンズはジョーを油断させるため、負傷したとき用のギプスを常にはめ、誰もいないところで密かに練習する。 (ウッド・マウンテンとグレイスという女性が、布教しにきたモルモン教徒について語る) 「あいつは失礼なやつだな。俺がぶちのめしてやろうか」 「その折れた手で? あなたが今使ってるその手、ニスの蓋も開けられないんじゃないの?」 「あっ」 「あなた、うそついてるのね!」 「言わないでくれ! 誰一人として言っちゃダメだ。俺はジョー・ワブルを騙そうとしてるんだよ」 グレイスは笑い始め、しまいには笑いすぎて思わず座り込んでしまった。 「おいおい、どうした」 「知らないの?」彼女はついに言ってしまった。「彼もあなたを騙そうとしてるの。体を曲げて歩き回ってる。たまにどっち側に曲げるのか忘れてるけど。女の子はみんな知ってるし」 ウッド・マウンテンは口を開けて驚いた。「え? どうやって知ったんだ?」 「あなたはもう知ってると思ってた。みんな知ってるよ」 (273) こうして、読者をも笑わせた後、パトリスをはじめ登場人物ほぼ全員が見つめるリングの上で、ウッド・マウンテンはジョー・ワブルとの騙し合いの再戦に挑むのだ。試合結果は…… この試合で無事資金を得たトーマスは、ワシントンで「連邦管理終結政策」を推進する上院議員と面会するメンバーを誰にするかを決める。果たして、ワシントンでの面会は成功するのか? ヴェラは帰ってくるのか? 物語の後も続いていくコミュニティ これまで名前を出した登場人物以外にも、後半で重要な役割を果たす才女ミリー・クラウド(Millie Cloud)、ウッド・マウンテンの母、モルモン教の宣教師、パトリスの工場の友人たちの恋、パトリスの父の帰宅(パトリスがこのときだけ“Night Watch”をする)、トーマスの父のエピソード、夜警中のトーマスが遭遇するフクロウとその幻などなど……多くの魅力的なキャラクターが縦横無尽に物語中を駆け巡り、悲劇と喜劇だけでなくネイティヴ・アメリカンの物語を「再演奏」していく様は、まさに「ポリフォニー」だ。 このブログでも紹介し、後に加藤有佳織の素晴らしい訳で邦訳されたトミー・オレンジの『ゼアゼア』(五月書房新社)も、舞台こそ21世紀の現代に移しているものの、多くのネイティヴ・アメリカンを登場させる点では共通している。『ゼアゼア』では、別々だったプロットがクライマックスに向けて集約していく形だったが、『夜警』は全く異なる。もちろん小説として一応の終わりを迎えるが、過去に紹介した小説と比べれば、ラストの「物語的な快楽」はかなり薄い。ワシントンでの面会は『インテリア・チャイナタウン』や『セルアウト』での法廷の決戦のようにはならないし、幽霊のロデリックは『歌え、葬られなき者たちよ、歌え』の幽霊のようには活躍しないし、行方不明のヴェラも意外な形で決着する。 だが、そんなラストこそ『夜警』のようなコミュニティを描く作品にはピッタリなのだ。『夜警』は、最初から網目のように絡み合った登場人物たちが、全員でそのままクライマックスになだれ込み、その豊かな「ポリフォニー」がこの後も続いていくと読者に思わせて終わる。これこそ悲しみも喜びも内包したコミュニティを真に描いた物語のあるべき姿であり、だからコミュニティの人々の“愛”の物語になっており、だからこそコミュニティを“守る”物語になっているのだ。 アードリックのあとがきの言葉が大変素晴らしいので、訳出して終わりにしよう。 最後に、もしあなたが、政府の公文書の乾いた言葉の連なりが魂をバラバラにし生活を破壊すると思っているなら、この本でその疑問を消し去ってください。逆に言うと、もしあなたが、我々にはその乾いた言葉を変えることはできないと思い込んでいるなら、この本から勇気を受け取ってください。 翻訳、どこか出してください! 参考文献 「部族の語りとポストモダニズムが出会う場所─Erdrich作品におけるハイブリディティ─」 熊本県立大学文学部紀要第18巻 2012年
戦争文学の新たな古典の誕生(At Night All Blood Is Black by David Diop)
ブッカー賞はイギリスの文学賞で英語圏の小説に与えられる賞だが、国際ブッカー賞とは英語に翻訳された小説を対象とする賞で、つまりはブッカー賞の翻訳部門。日本人では2020年には小川洋子の『密やかな結晶』(原著は1994年)が最終候補に残っており、アジア人作家ではハン・ガン『菜食主義者』が唯一の受賞作となっている。 今回紹介するのは、デヴィッド・ディオプ(David Diop)の2021年国際ブッカー賞受賞作"At Night All Blood is Black"、当ブログでは初の非英語圏の小説だ(ボラーニョの解説文の拙訳は特殊な例なので除く)。著者のデヴィッド・ディオプは1966年パリ生まれセネガル育ち。現在はフランスのポー大学で18世紀の文学を教えている。というわけで原文はフランス語。 デヴィッド・ディオプ2作目の小説"Frère d'âme"(Google翻訳では『魂の兄弟』)は2018年に発表、フランスの2000人の高校生が選ぶ「高校生のゴンクール賞」を受賞。13の言語に翻訳されそこでも様々な文学賞を受賞し。2020年、詩人であり翻訳家のAnna Moschovakisによって"At Night All Blood is Black"のタイトルで英訳されて国際ブッカー賞受賞となった。仮に邦題をつけるなら『夜、すべての血は黒く』とかだろうか。 なぜ「高校生のゴンクール賞」なのかというと、文章が非常に平易だからで間違いない。多少の専門用語や見慣れない単語はあるだろうが、使われている単語も文法も基本的にセンター試験レベル。しかも頁数は150ときているので、大学生はもちろん少し背伸びした高校生でも、電子辞書片手にすんなりと読了できるはずだ。 しかし実際に大学の授業で扱うには、あるいは高校生が読むには、十分な配慮が必要だろう。なぜならこれは戦争におけるヒューマニズムを扱った、非常に凄惨な小説だからだ。
…知っている、分かっている。俺はやるべきじゃなかった。俺はアルファ・ンジャイ、年老いた、老人の息子、俺は理解している、そうすべきじゃなかったと。(1)
舞台は第一次世界大戦の塹壕戦。フランス軍に加わっているセネガル出身のアルファ・ンジャイ(Alfa Ndiaya)という青年が語り手だ。冒頭アルファは、兄弟以上の絆で結ばれた友人、マデンバ・ディオプ(Mademba Diop)が壮絶な最後を遂げたときのことを振り返る。 マデンバは戦場で負傷し腹が裂け、臓器が外に飛び出し死を待つ状況だった。他の兵士が塹壕に避難する中、アルファはマデンバを置いていけず戦場でマデンバを腕に抱く。そこでマデンバはアルファに自分の息の根を止めて欲しいと請うが、アルファは大切な友人マデンバを殺すことができない。マデンバはアルファに抱きしめられながら夜通し苦しんだあと、ついに息絶える。 そこで初めてアルファは「そうすべきではなかった」と、マデンバが苦しまないように自分の手で殺すべきだった、と思う。人間であろうとして、マデンバに余計な苦しみを与えてしまった、マデンバを楽にしてあげることこそが人間的な行為だった、と。 そしてアルファは戦場で戦い続ける。死んだフリをして油断した敵軍の兵士を襲い、手を切り落として自陣に戻ってくる。マデンバが襲われた、魂の兄弟の命を奪ったまさにそのやり方を使って。毎回ひとり遅れて「トロフィー」を抱えて塹壕へと戻ってくるアルファを褒め称えられる指揮官と同僚だが、やがてアルファを不気味に感じ、遠ざけようとする。マデンバのことを想いつつ、戦場での狂気とは何か、人間性とは何かを問いながらアルファは戦い続ける。
「俺は知っている、理解している(I know, I understand)」「絶対的な真理として(God’s truth)」 など、同じ言葉を何度も何度も使う文体は、どこか稚拙で非常に独特(後半で明らかになるが、これはマデンバと違いアルファがまともな教育を受けていないことを反映してのことだろう)。アルファは、戦場が具体的にどこなのかを明らかにせず、淡々と目に見たもの、感じたものを語っていく。敵軍兵士の手を持って帰ってくるアルファを周りが最初は英雄扱いするも、徐々に化物のように扱っていくことに対し、「真理なのだが、こんな風に物事は進むし、これが世界なのだ。全てのものに二面性がある」(67)と語る。このように、アルファの言葉はあくまで戦場での普遍的な姿を明らかにするもので、それは敵国側でも、別の時代の別の戦場でも起きていることなのだということが、読んでいると分かるようになっている。 しかし、アルファはどこにでもいる兵士のひとり、という描かれ方はされていない。第一次大戦時のセネガルはフランスの植民地。つまり、この小説はアルファを通して人種問題、植民地主義もテーマにしている。 白人の指揮官からの人種差別はもちろんだが、後半に行くに従い明らかになるアルファとマデンバの過去が非常に面白い。そこでは、前半の戦場の場面とは打って変わったセネガルの民族と風土、そして彼らが「魂の兄弟」である理由が描かれる。和やかではあるが、民族の慣習によって振り回される人生の悲哀は、前半部の戦争の不条理とも繋がっている。そしてセネガルでの生活を全てを飲み込み2人を遠く離れた戦場の塹壕へと連れていくのが、植民地主義だ。 そして小説は語り手アルファの過去から現在へと戻っていく。それまで「俺は知っている、理解している(I know, I understand)」を繰り返してきたアルファを待っているのは…
これ以上ない残酷なオープニング、戦争の狂気をあまりにシンプルすぎる文体で語っていく不気味さ、植民地や民族など複雑な過去を抱えた語り手がいよいよ狂気に呑まれていき、最後の20頁で待ち受ける衝撃の展開…。戦争文学の新たな古典の誕生と言ってもよいだろう。
冒頭で書いたように、原題のフランス語は(Google翻訳すると)「魂の兄弟」となり、それに対して英訳版は「夜、全ての血は黒く」となっている。なお、”At Night All Blood is Black”というフレーズは比較的前半の本文中に出てくる。
衝撃のラストまで読むと(真の意味が)わかるのだが、アルファとマデンバは最後まで強い絆で結ばれている。が、それと同時に戦場では、アルファもマデンバも、白人のフランス人もドイツ人も、みな狂気の海に浸されやがて人間でなくなって(あるいは死んで)しまう。原題はアルファとマデンバの2人の関係に焦点を当てたタイトルだったが、英訳版は「戦場で戦う人間は全て同じである」という面を強調したかったのかもしれない。
個人的には原題の方がしっくりきたが、もし邦訳されるのならどうなるだろうか? いや、そもそも150頁という中編とも呼べそうな作品は日本語に翻訳されるのだろうか? キャリアも浅いので他の短編と抱き合わせというのも難しそうだが…。
というわけで、「センターレベルの英語ならイケる!」という方は最初の洋書として、大学生なら夏休みの挑戦として、"At Night All Blood is Black"を読んでみてはいかがでしょうか?
「シェイクスピア」が出てこないシェイクスピア一家の物語(Hamnet by Maggie O’Farrell)
2020年の女性小説賞(オレンジ賞、ベイリーズ賞を経て今はこの名称)と全米批評家協会賞を受賞した『ハムネット(Hamnet)』。作者のMaggie O’Farrell(マギー・オファーレル)は1974年、北アイルランド生まれ。wikipediaでは大学で英文学を学んだ後、ジャーナリストとして働き大学で創作を教えていたと過去形で書かれているので、現在は専業作家ということなのだろうか?(書誌情報や彼女のHP見ても昔の経歴は分からず) 現在日本語で読める彼女の作品は、高い評価を受けた2000年のデビュー作『アリスの眠り』(原題『After You’d Gone』西本かおる訳、世界文化社)のみ。ちなみに夫のWilliam Sutcliffe(ウィリアム・サトクリフ)も作家。YA小説や風刺小説などを多く書いているようで、2008年の『Whatever Makes You Happy』は『アザーフッド 私の人生』として2019年に映画化もされている。 小説『ハムネット』は「歴史注釈(Historical note)」という頁から始まる。 1580年代、ストラトフォードのヘンリー通りに暮らしていた一組のカップルは、三人の子どもをもうけた。スザンヌ、そしてハムネットとジュディス。二人は双子だった。 男の子ハムネットは1596年、11歳で亡くなった。 4年ほど経ったあと、父親は戯曲『ハムレット』を書きあげた。 言わずもがな、父親とはあのウィリアム・シェイクスピアのこと。シェイクスピア一家、特に妻アン・ハサウェイ(Anne Hathaway)と息子ハムネットについての正確な情報はほとんど残っていない。だが、作者のオファーレルは想像を膨らませて、新しい家族の物語を作り上げたのだ。
この小説はどこから語ればいいのか難しい。それぐらいアイディア(あるいはテクニック)が詰め込まれている。 「シェイクスピア」が出てこない まず、この小説は『ハムネット』というタイトルだが、実際の主人公はハムネットでもその父ウィリアムでもなく、母アグネスだ。 (ウィリアム・シェイクスピアの妻はAnne Hathawayという名前が一般的だが、オファーレルは違う名前を充てた。この歴史的事実との違いについては最後の「著者注釈(Author’s note)」にまとめられている) ウィリアム・シェイクスピアというあまりにも巨大すぎる名前に物語の重心が奪われることを避けるため、ラテン語家庭教師、彼女の夫、彼(彼女)の父、などの呼称が使われている。家族が暮らすストラトフォードが舞台になっているが、ウィリアムは劇作家として活動し始める少し前からロンドンに単身赴任状態になってしまうので、結果的に一般的な「ウィリアム・シェイクスピア」の姿がほとんど描かれないのだ。 (正式な名前をストラトフォード=アポン=エイヴォンというその舞台は、ロンドンから電車で約2時間の位置にある街。現在ではシェイクスピアの故郷として一大観光地となっている) 「時の流れ方」が異なる二つの語り この小説は二部構成になっている。第一部はハムネットが亡くなるまでで、第二部はそれ以降の話。そして第一部の構成が面白い。 冒頭、少年ハムネットが早朝の邸を歩き回るシーンから始まる。ハムネットは家族を探そうとするが、どこにもその姿が見えない。ロンドンにいる父はもちろんだが、母、姉、メイドたちはどこへ行ったのか? この導入はハムネットを幽霊のように描くと同時に「あれ? ウィリアム・シェイクスピアは出てこないの?」と、肩透かしを食らった読者の気持ちをそのまま書いていると言ってもよく、抜群の掴みだ。やがてハムネットは双子の妹ジュディスが発熱しているだけでなく、喉や肩が腫れていることに気づき、助けを求めて医者を探しにいく。 読者は次の章に切り替わったところでさらに驚いてしまう。急に「ハムネットが医者の家へと走る15年前」の話が始まるからだ。そこではラテン語家庭教師が、窓の外でタカを手首に携えた謎の女性に目を奪われるエピソードが展開される。ここで読者の頭から完全に「シェイクスピア」のイメージが消えて、二人の男女の不思議な出会いの物語をひたすら追いかけることになる。そして再びハムネットの視点へと戻る… この小説の第一部は、ハムネットが亡くなる一日と、ハムネットの父と母が出会い双子が生まれるまでの数年間との、時の流れが異なる二つの語りが同時に展開される。そして場面が切り替わる際に違和感がないように繋いでみせるのも素晴らしい。 母アグネスの特殊能力 森に伝わるおとぎ話のような人物だと噂されているアグネスは、不思議な能力を持っている設定。薬草のエキスパートであるだけでなく、未来を予知し死者の魂をも感じることもできる。その出自の不気味さからラテン語家庭教師の親から交際を猛反対されるが、「自分は二人の子に看取られて亡くなる」という未来を知っているアグネスは、それでも結婚へと突き進む。 アグネスが不思議な能力で人生を切り開いていく様は非常に面白いのだが、同時に読者は不安にならざるを得ない。なぜなら、この超人的なアグネスをもってしても「ハムネットが11歳で亡くなる」ことは避けられないことを読者は知っているからだ。果たしてアグネスの能力を掻い潜りハムネットを死に至らしめるものは何なのだろうか? 細かな描写 この小説は基本的には易しい英語でテンポよく進んでいくが、所々で細かい描写を入れてきてよいアクセントになっている。植物学のようなアグネスが育てる薬草の描写、物置小屋でラテン語家庭教師とアグネスが結ばれる中その振動で震えるりんごの描写、最終盤にアグネスが見たロンドンの悲惨な光景などなど、色々見せ場はあるのだが、特筆すべきはジュディスがペストにかかっていることが分かった後に突然挿入される蚤(ノミ)のエピソードだ。 エジプトの港町アレクサンドリアで、船乗りの少年は猿が売り物にされているところに出くわす。少年と猿は一瞬心を通わせ、猿は少年の頭に飛び移る。そのとき2匹の蚤が少年の身体に落ちた…この出来事がきっかけとなり、船と港の多くの人々が謎の死を遂げ、やがてその死の影は遠く離れたストラトフォードに住むジュディスという女の子に辿り着く。その過程が15頁ほどで描かれるが、コロナ禍を経たあとにこの箇所を読むと、強烈なリアリティを感じることができる。(出版が2020年3月31日なので、コロナ禍に合わせて加筆したわけではなさそう) 兄の献身という悲劇 ジュディスがペストだと診断され、家からでることが許されない一家。そんな中、双子の妹ジュディスを救うために双子の兄ハムネットが取る行動は……ある程度予測できるとはいえ、ハムネットが母アグネスの目の前で死ぬシーンは、その悲しみの大きさとその後に残された人たちの虚無感を完璧に描いており、展開が読めても読者を圧倒させる筆力は見事と言わざるを得ない。 やはり予習はしておいたほうが良い 第二部は母アグネスの視点を中心に、悲劇による喪失とそこからの再生が描かれるが、これ以上のネタバレはやめておこう。一応言っておくと、さすがに第二部からは『ハムレット』を先に読んでおいた方が楽しめることは間違いない。私は『ハムレット』しか読んでいないので分からなかったが、もしかしたら他のシェイクスピア作品のオマージュなりヒントが散りばめられているのかもしれず、他の作品も読んでいる人ならより楽しめるのかもしれない。
息子を失う母アグネスを中心に女性キャラクターが多く登場するので、本作を一種のフェミニズム小説と読むこともできるだろうが、基本的には前回紹介した『シャギー・ベイン』(2020年のブッカー賞受賞作)のような批評的な読みができるタイプの作品ではないと思う。むしろ本作の価値は、ガーディアン誌のレビューに書いてあるように、誰もが知っている世界的なモチーフを使って全く新しい豊潤な物語を作り上げた、その創造の可能性を示したことであろう。 あらすじをほとんど説明してしまったと思うかもしれないが、これはあくまで大枠に過ぎない。アグネスとその夫の家庭環境や出産など、書ききれなかった要素はまだまだたっぷり残っている。さながらメドレー形式のように異なるタイプの物語が次々と展開されていき、最初の一行から最後の一行までまさに一瞬の緩みもない、文句なしのクオリティだ。 是非とも翻訳を期待していただきたいところだが…どこか出してくれますよね?
Shuggie Bain by Douglas Stuart
*宣伝:東京は西荻窪の今野書店で「編集者竹田純」をテーマにしたフェアが好評開催中ですが、そのリニューアル企画として、「謎めいた読書家カツテイクの本棚」つまり僕のフェアが同時開催されます。期間は4月9日から4月末まで。僕が店頭に出ている日は直接お話もできますので、このブログで紹介した小説について話してみたい方は僕(カツテイク)のSNSをチェックしてみてください。 海外文学好きならもはや常識だが、英米文学において文学賞を受賞し邦訳が出るような作家は、大学で創作(Creative Writing)を学んだ経験がある人ばかりだ。もはや非創作科の作家を探すほうが難しいほど。 そんな中、Douglas Stuart(ダグラス・スチュアート)は、創作はもちろん文学も専門に学ばず、ファッションデザイナーとして働きながら小説を書き、出版社に32回も断られたあと、ついに44歳にしてデビュー作『Shuggie Bain(シャギー・ベイン)』を発表。当初は売れ行き不調だったが、いくつかの文学賞の候補に選ばれると売上も急上昇、そしてついに英語圏文学で最高の名誉のひとつ、2020年のブッカー賞をゲットしてしまったのだ! なんというサクセスストーリー!(本作は全米図書賞の最終候補にも選ばれていた。受賞作は前回記事のチャールズ・ユウ『Interior Chinatown』)
ダグラス・スチュアートは1976年生まれ。スコットランドのグラスゴーで生まれ育つ。服飾を学んだあと、24歳のときにニューヨークに移り住み、ファッションデザイナーとして働き始める。これまでカルヴァン・クライン、ラルフ・ローレン、バナナ・リパブリックなどで働いたそうだ。デザイナーとして働きながら小説を執筆し『シャギー・ベイン』がデビュー作だが、その前に『ニューヨーカー』で作品が掲載されたことがあるらしいので短編もいくつか書いていたのかな? もちろん日本語で読める彼の作品はない。 『シャギー・ベイン』とは主人公の男の子の名前。我々日本語話者からするとやや馴染みのない音ではあるが、翻訳されるとしても、やはりタイトルはそのままではないだろうか。 ・あらすじ 『シャギー・ベイン』の時代設定は1981年から1992年。主人公シャギー・ベインの年齢は作中の情報から計算すると著者と同じ1976年生まれになる。つまり、ほぼ自伝的な小説と言っていい。 サッチャーの自由主義政策によって、多くの国民が職を失い、貧しくなっていった80年代のスコットランドが舞台。 父シャグ、母アグネスのベイン一家に生まれた男の子が、主人公シャギーだ。父シャグはタクシー運転手で浮気性。母アグネスはエリザベス・テイラーに似ていると言われるほどの美女だが、今の生活に満足しておらずお酒ばかり飲む日々。シャギーには年の離れた姉と兄がいるが、その2人はアグネスの前の夫との間の子。 炭鉱の町ピットヘッドに引っ越したベイン一家だが、ついにシャグは家を出て別の女性のもとへ行き、アグネスはよりアルコールを求めるようになる。姉と兄が少しずつ家から離れていく中、シャギーは「女の子っぽい」ことでクラスメイトからバカにされながらも、必死に母アグネスに寄り添う。しかし母アグネスは酒を止めることができないのだった。 母アグネスと息子シャギーとの共依存とも取れる母子の絆を描く……というのが大まかなあらすじ。 個人的な印象だが、ブッカー賞はちょっと手の込んだ作品を好むという印象があった。去年の作品は未読だが(受賞作は2作で、そのうち1つはアトウッド『誓願』)、2018年はアンナ・バーンズ『ミルクマン』、2017年はソーンダーズ『リンカーンとさまよえる霊魂』、2016年はポール・ビーティ『セルアウト』(過去の記事を見てね)と、物語の設定や語りがすでに奇抜でそれだけでご飯が進むような作品ばかりだ。 それらに比べると『シャギー・ベイン』は正直言って地味である。ではなぜこれほどの評価を受けたのか? 私に言わせれば理由はいたってシンプル。登場人物もシーンも、抜群に上手く書けているからだ。 ・3つの軸 先行のブッカー賞受賞作ほど複雑なわけではないが、『シャギー・ベイン』も大きく分けると3つの「軸」、あるいはテーマがある。 1. 依存症文学 主人公はシャギーだが、実質的には母アグネスを中心に物語が進む。アルコール依存症でほとんどのお金をお酒に使いつつも、オシャレだけは手を抜かない。政府からのクーポンを現金に換える際にも「女王の雰囲気を身にまとう(”with the air of a queen”)」ほどで(129頁)、確かにダメ親なのだが、この気高きプライドと子シャギーへの愛とで非常に魅力に溢れたキャラクターになっていて、全く憎めない。 むしろ憎むべきはアグネスをさらに依存症へと追い込んだ夫シャグを始めとする男性の方だろうか。シングルマザーやアルコール依存症の問題は一見しただけでは分からないとはよく言われることだが、まさにこの問題を的確に捉えているのではないだろうか。 ピットヘッドに引越す前の序盤、酔い潰れたアグネスはシャギーを抱いたまま寝るのだが、寝タバコでぼや騒ぎを起こしてしまう。そのシーンをちょっと訳出してみよう。 部屋の中は黄金色に包まれた。炎は合成素材のカーテンをよじ登り、天井に向けて足を速めようとしている。腹を空かせたその炎から逃れるように、黒い煙が駆け上がる。彼は恐怖を抱いていたかもしれないが彼の母はどこまでも穏やかで、光が踊る影を壁に投げかけると、ペイズリー柄の壁紙は巨大な煙の魚群のように命を宿し、部屋はこれ以上ないほど美しかった。アグネスは彼をひたと抱きしめ、2人は静寂の中の新しい美を見つめていた。(55頁) さすがに著者スチュアートは緩急の付け方をわかっている。基本的には会話と説明文でポンポン話が進んでいくが、要所要所で印象的な場面と素晴らしい文章を持ってきて、読み手の心を掴んで離さない。 2. クィア文学 一応説明しておくと、性的マイノリティを総称する「クィア」という言葉があり、現在では性的マイノリティを扱う作品は「クィア文学」と呼ばれる。『シャギー・ベイン』も「クィア文学」にカテゴライズしてよいだろう。 この小説は1981年から1989年の時期に9割のページを割いているが、これはシャギーが5〜13歳の時期。この年齢はどんな子供でも性への意識がまだ薄い時期であるように、シャギーもあくまで趣味や歩き方が「女の子っぽい」程度にしか描写されていない。 しかし、それでも兄や同い年の男の子からバカにされるには十分。微妙な違和感を抱えつつシャギーは「ノーマル」になろうと努力もするが上手くいかない。そんなシャギーを表す初期の印象的なシーンがこちらだ。 学校にも通わず父親がいないことを揶揄われたシャギーは、お気に入りのダフィー人形(Daphne:検索してもヒットせず。文脈からバービー人形的な商品)を抱えて走り出し、昼のマイナーズ・クラブ(the Miner’s Club,:直訳は「炭鉱夫の酒場」)の前で足を止める。 マイナーズ・クラブは寂れて誰もいないようだった。シャギーは窓枠にぶら下がってみて、それから前庭のあたりを歩き回った。そこには古いラガーの樽から漏れ出た、気の抜けたビールの水たまりがあった。汚いビールはガソリンと混ざり、虹色の湖を生み出していた。シャギーは膝をつき、色調が変化する水たまりにダフィー人形のブロンドの髪をつける。彼が人形を引き上げると、輝く黄金色だった髪は夜の色に変わっていた。きれいな虹色はどこへ行ったの?(120頁) 「虹色」は「レインボーフラッグ」のことをイメージしているだろう。このときLGBTQという言葉は、シャギーが知らないどころかまだ生まれてもいない。周囲との差を明確に描いたシーンが多いわけではないのだが、だからこそ、自身を定義する言葉も概念も知らずにただ違和感を感じながら生きる少年をリアルに描いているとも言える。 ちなみにだが、スチュアートはゲイで男性と結婚している。Youtubeにはダグラス・スチュアートがお気に入りのクィア文学を紹介する動画もあるので、興味があれば検索を。 3. 労働者文学 海外のレビューなどを読むと、「イギリスの労働者文学」として評価する見方が多い。多くの頁が割かれる炭鉱の町ピットヘッド(架空の町)では鉱山がすでに閉山しており、無職ないしは低収入の住民ばかりだ。しかし、物語内の雰囲気はそこまで暗くない。なぜならその中で生きる人々(特に女性)が皆たくましいからだ。夫シャグに捨てられたアグネスを慰めてその街で生きる術を教える女性たち。メーターに硬貨を挟んで光熱費を誤魔化すなど、脇役も全員生き生きしていることがこの小説を圧倒的に豊かにしている。(出版を断られたとき、その理由の多くが「この小説は素晴らしいが、イギリスの労働者文学なんて売り方が分からない」というものだったらしい) だが、この物語は単に昔の労働者階級を描いているだけではない。ブレクジットと新型コロナウイルスによる貧富の拡大に揺れるイギリスにおいて、サッチャリズムがもたらした失業者に、ブレクジットがもたらすであろうイギリスの暗い未来を重ね合わせてしまうことは、日本の読者にも想像がつく。その意味で、1980年代を書いた『シャギー・ベイン』は「現在」の物語でもあるのだ。 ・翻訳への期待と第4の軸 2010年代のブッカー賞受賞作は全部で11作(2019年はダブル受賞)あるが、そのうち8作が翻訳されている(2021年4月現在)。となれば、『シャギー・ベイン』も翻訳される可能性は高い。その際、期待するのはスコットランド文化への注釈、解説だ。 なんと言ってもカトリックとプロテスタントの対立だ。それも全編に渡って書かれている。 サッカーの元日本代表、中村俊輔が所属していたことでセルティックというサッカーチームを知っている人も多いだろう。ではそのセルティックと常に優勝を争うライバルチームがレンジャーズで、セルティックがカトリック、レンジャーズがプロテスタントのファンにそれぞれ支持されていることはご存知だっただろうか?(私は知らなかった) 小説内で、シャギーの姉キャサリンが「悪ガキ」に捕まりそうになったとき、悪ガキはナイフをチラつかせてこう言うのだ。“Celtic or Rangers?” (61頁) また、母アグネスの一家は伝統的にカトリックで最初の夫もカトリックだったが、アグネスはプロテスタントのシャグと出会い彼を選ぶことになる。そのときも異なる宗派での結婚について反対されるシーンがある。 物語終盤でも、10代の女の子から「あなたどこの学校なの? あ、じゃあ私は○○校だから(宗派が違うので)付き合えないわ」というセリフが出てくる。まさか、これほどまで宗派による対立が深いとは不勉強ながら知らなかった。 そして、「言葉遣い」だ。宗派の対立から分かるように非常に土着的な小説なので、スコットランドの方言がたくさん出てくる。会話文では鈍りを表現しているので(例:”I didn’t”が”I didnae”になる)、その両者が加わったときは何が書かれてあるのかサッパリ分からないこともあった。 言葉使いからどこの出身かを暗示し、地名や人名から宗派が分かり、その宗派の違いがキャラクターの行動に表れる……といった工夫もされているのではないだろうか? 残念ながら私には掴みきれなかったのだが、この「スコットランド文化」はこの小説のもう一つの軸として機能している可能性は高い。 言葉遣いに関しては翻訳した際に失われる可能性は高いが、どうせかなりのイギリス英語の使い手しか分からない要素だ。注釈つきで翻訳されれば、原文で読んだ私よりも本作をより深く楽しめることは間違いない。 ・非エリート作家の今後 ここまで読めば分かる通り、『シャギー・ベイン』はスチュアートが自身の経験をもとに全身全霊をかけて書いた小説だ。「ニューヨークタイムズ」のインタビュー記事によれば、本書を書き始めたのは2008年、第一稿はなんと900頁だったという!(最終的には430頁と半分以下。これでも長い方だが…) 次回作はすでに書き上がっているようで、90年代を舞台に宗派が違う2人の少年の恋愛を描いた物語らしい。次回作も本作の流れを組んだものになることは間違いなさそうだが、今作とは違う新たな要素を盛り込むのか? 小説家としてのアイディアはまだ残っているのか? 昨今では異色の経歴なだけに、今後が非常に気になってしまう作家だ。
Interior Chinatown by Charles Yu
2020年の全米図書賞フィクション部門の受賞作。チャールズ・ユウ(游朝凱)は1976年生まれ。カリフォルニア大学バークレー校で分子物理学と細胞生物学、そして創作を学んだ後、コロンビア大学のロー・スクールで法律を学び、法律事務所で働く。2000年代初頭から短編やエッセイを発表し、2010年『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと(原題:How to Live Safely in a Science Fictional Universe)』を発表。2014年に円城塔訳で出版されている。今作『Interior Chinatown(インテリア・チャイナタウン)』は2作目の長編。
『セルアウト』のプロットは私が以前に書いた記事を読んでいただくとして、青木耕平が『アステイオン093号』で同書の書評を書いていてそこから引用すると…… 「アメリカで黒人男性に寄せられる偏見を、知識として読者も共有していることを前提に構成され、ありとあらゆるステレオタイプだけでなく、歴史的、政治的、文化的な固有名詞が羅列されていく」(『アステイオン093号』205頁) つまり、黒人へのステレオタイプをどストレートに書いていくことで「皮肉」として黒人差別を表象する小説だ。その小説内でとりわけ印象的(準主役とも言える)のが、ホムニィ・ジェンキンスという高齢の黒人男性。彼は元俳優で、これまでに出演した作品とそこで演じた役柄は以下の通り。 ホムニィの主な出演作品 ・Black Beauty ─ 馬の世話をする少年(クレジットなし) ・War of the Worlds ─ 新聞配達の少年(クレジットなし) ・Captain Blood ─ 船上の給仕少年(クレジットなし) ・Charlie Cham Joins the Klan ─ バスの給仕少年(クレジットなし)(『セルアウト』75頁) ホムニィは「白人が中心」のスクリーンの中で、セリフがほとんどない黒人のステレオタイプの役をずっと演じてきたのだ。 "INTERIOR" Chinatown そして『インテリア・チャイナタウン』に戻る。チャイナタウンで撮影しているドラマのタイトルは『BLACK AND WHITE』。「白人と黒人が中心」のスクリーンの中で、ウィルスはじめチャイナタウンの住民は、アジア人のステレオタイプの役を演じるのだ。その役柄はだいたい以下の順に変わってくる。 5. 背景の東洋人男性 4. アジア人男性の死体 3. アジア人男性3 / 配達員 2. アジア人男性2 1. アジア人男性1(25頁) 「アジア人男性1」まで行けば、ようやく何かセリフがもらえるかもしれない。そしてさらにその先に…「カンフーの使い手」の役がある。かつてチャイナタウンからそこまで登り詰めた人物として、まずカンフーの達人である父、そしてその父の一番の教え子で「長兄(Older Brother)」と呼ばれた男がいた(別に誰かの兄弟ではない)。彼はカンフーはもちろん、ムエタイ、柔道、テコンドー、しまいにはブラジリアン柔術も使いこなせた。さらに… 数値上、彼の身長はアジア人として完璧だった。白人女性が振り向き、バーテンダーに無視されないには十分で、だけど姚明(NBAで活躍した中国人選手)と呼ばれたりモンゴルの巨人だとは思われない程度の高さだった…(略)…日本のサマリーマンのカラオケにも付き合うことができたし、トッポギをソジュで流し込むこともできた。(41-42頁) ここはまさに「文化的な固有名詞の羅列」をすることで、皮肉りつつも笑いを取りにきている箇所だ。 さて、そんな完璧だった長兄だが、突然チャイナタウンから姿を消してしまう。彼はどこへ行ったのか誰も知らない。主人公ウィリスは長兄のように「カンフーの使い手」の役をゲットするため日々精進し、ついにセリフを与えられるところまできた。ウィリスがセリフを読み上げると… そしてまた銅鑼の音が鳴った。君は辺りを見渡すが、どこから音が聞こえてきたのか分からない。(106頁)
ウィリスは、いや、読み手も含め、この小説では現実と芝居の区別がついていない。「脚本仕立て」の語りの真の意図がここにある。『セルアウト』のホムニィがそうだったように、エンターテイメントは差別が顕著に表象されている場であり、本作は作品全体をメタ・フィクションとすることで、『セルアウト』のさらに背景にいる、アジア人を逆説的に前景化する。本作のタイトルが『インサイド(INSIDE)・チャイナタウン』ではなく『インテリア(INTERIOIR)・チャイナタウン』である理由も理解できよう。 果たして、ウィリスは「カンフーの使い手」になれるのか? 白人と黒人が中心の物語(ストーリー)の中で、ウィリスは何を掴むのか? 本作はフールー(Hulu)での実写化が決まっていて、脚本仕立ての語りをどう映像化するか非常に楽しみだ。最初に書いたように著者の前作がすでに翻訳されているし、ここ数年の全米図書賞、ブッカー賞受賞作はほとんど翻訳されているので(『セルアウト』を除き…涙)、『インテリア・チャイナタウン』も間違いなく翻訳されるだろう。 これより先は、結末まではいかないが8割方のネタバレを含むので、実写化・翻訳を楽しみにする人は読まないでほうがいいです。
「ストーリー」とアジア人 ここまで来た人なら、ウィリスがその後どうなるか、なんとなく察しをつくだろう。 が、その前にウィリスの母親を経由して、1947年、台湾での「白色テロ」から始まるウィリスの両親のエピソードがはじまる。『セルアウト』のようにゲラゲラ笑いながら読める小説かと思ったら、ここから一気に暗く辛い話になる。 ウィリスの父であり師匠、ミン・チェン(・ウー)は若い頃必死に勉強し、台湾からアメリカはミシシッピの大学院に留学する。下宿先では日本人、韓国人からパンジャーブ人(パキスタン最大の民族)など様々な国からの留学生がいて、彼らは親しくなり、お互いがどのようなあだ名で呼ばれているかを教えあったりした。侮辱語から見た目に関することまで様々なあだ名が挙がるが、ミン・チェンはずっと「中国人(Chinaman)」と呼ばれ続けていた。しかしそれが全て吹き飛ぶ事件が起こる。彼らの仲間のうちミン・チェンと同じ台湾人が、通りすがりのアメリカ人に「ジャップ、これはパール・ハーバーのお返しだ」と殴られて病院に運ばれたのだ。 住民全員が理解した。それは皆のこと。彼ら全員のこと(it was them. All of them)。大事なのはそういうことで、彼らは皆同じなのだ。(163頁) もう机を囲んで、あだ名を比較することもなくなった。なぜなら、彼は今自分たちが何であるかを知ったのだ。これからもずっと。 アジア人男性(Asian Man)(164頁) 先日、映画『ダイ・ハード』を観ていた友人が「日系企業のビルが舞台だけど調度品がことごとく中国製なのがさすが!って感じ」とツイートしていたのがまさにこれだ。「白人と黒人の物語」の中では、日本だろうが中国だろうが同じ「アジア人」としか描かれない。「白人と黒人の物語」の中でミン・チェン・ウーたちは「アジア人男性」という役しか与えられない。この残酷な事実が「脚本仕立て」の語りによって、より鮮明になる。現実と芝居の区別がついていない、のではなく、現実も芝居も同じなのだ。 そしてミン・チェンは「ガラスの天井」にぶつかる。大学院を卒業しても職を得られなかった彼が流れ着いたのはチャイナタウンの食堂。そこでやはり「白人と黒人の物語」の背景で損な役を生きてきた(演じてきた)ウィリスの母、ドロシー(a yellow girlとだけ書かれていて民族的ルーツは不明)と出会う。 ミン・チェン・ウー こうして僕たちは出会ったんだ。そして恋に落ちたわけ。 ドロシー この場所で? ここはロマンスの場所じゃない。ここは警察が死体を発見する場所。 ここは昼と夜の境目がなく、日によって私たちが何になることを許されているのか分からない場所。こんな場所で私たちはどうやってラブストーリーができるっていうの? ミン・チェン・ウー その通りだ。俺たちは境遇を選べない。恋ができるときに恋しないといけない。仕事の合間、シーンの合間の、盗まれた瞬間に。ラブストーリーじゃない、俺たちのストーリーだ。(171-172頁) この「ストーリー」は重要なキーワードとして機能する。どうやって「白人と黒人のストーリー」から抜け出して「私たちのストーリー」を獲得するのか。 「トラップ」と白人化(white-ish) ウィリスが「アメリカ人になるために(to become Americans)」必死に努力してきたように、父ミン・チェンも少しでもいい役を得るために必死に努力した。そしてついにミン・チェンは「カンフーの達人」の役を得る。しかし、役のクレジットは「フー・マンチュー、イエローマン(Fu Manchu, Yellow Man)」だった。「フー・マンチュー」は調べるとすぐにわかるが、悪役アジア人の代名詞的な役名だ。しかしミン・チェンはもう後戻りはできない。彼は与えられた役を演じ続け、ドロシーの夫でなくなり、ウィリスの父でもなくなり、彼はブルース・リーの劣化版になってしまった。 ミン・チェンは「トラップ」に引っ掛かったのだ。この小説では「白人と黒人のストーリー」の中で、絶対になれない白人になろうとして搾取され、文化的な背景とコミュニティまでをも失うことを「トラップ(閉じ込める、罠に掛かる)」と呼んでいる。原文では”They’ve trapped us”のように動詞として使われることが多いが、この”They”が誰のことなのかは説明の余地もない。 そして再び、ウィリス・ウーへと戻る。ウィリスは以前に共演したことがあるカレン・リーという女性と食堂で再会する。祖母が台湾出身というカレンは大学を卒業したあと特にやりたいこともないので俳優業をしている。彼女は、ブラジル人、フィリピン人から日焼けした少し異国風の「白人女性」まで、色々な役を演じてきた。ウィリスはそんなカレンと恋に落ちる…というかカレンと話しているうちに、「アジア人男性のラブストーリー?」というテロップが加わる。 ラブストーリー:君とカレン、シーンが設定される。位置につけ。彼女は旅行客で、君は配達員。君は彼女から目を逸らすことができない。 ロマンティックな演出はじまる カレン これもう始まってるってわけ?(183頁) 時は流れ、そんなウィリスとカレンの間に娘ファービー(Phoebe)が誕生する。と同時に、カレンは大役をゲットする。若き母親の役を演じるその舞台は、チャイナタウンから離れた郊外。カレンはウィリスに、このままここにいても父のように「トラップ」に引っ掛かるだけ、一緒に来るよう言うが、カンフーにこだわるウィリスは拒否。家族はバラバラになる。 やがて、ウィリスはついに「カンフーの使い手」の役を掴む。しかし、やはり父のときと同じだった。「トラップ」に引っ掛かってしまった。自分が間違ってカレンが正しかった。ウィリスは(撮影クルーの)車を奪って撮影現場=チャイナタウンから逃亡する。 …ウィリスはカレンと娘フィービーがいる場所(舞台)へとたどり着く。そこは漫画のような背景に中国王朝や台湾の古い村をごっちゃ混ぜにしたアメリカの架空の街(移民の、文化変容の、同化政策の古い夢の語り直し)を舞台にした、メイ・メイ(Mei Mei)という中国人の女の子の冒険を描くストーリーだ。そこでウィリスが目にしたのは、まだ人種のことも知らず、演じることも知らない、純粋無垢な娘フィービーの姿だった。時折、子供の合唱団による「シェイシェイ・メイメイ♪」という歌が流れてくる。 フィービー なにかおはなしして? カンフー父さん やり方わからないんだよね。誰もそういうお願いしてこなかったから。 フィービー ためしにやってみたら? カンフー父さん わかった。やってみるよ。 (深呼吸する) あるところに女の子がいました。その女の子は…… ここがこのストーリーで大事なポイント。 この次の言葉、たとえその後に何を付け足したとしても、その言葉がものすごくたくさんの物事を決定してしまう。あまりに多すぎて数えきれないくらいの部屋、廊下、階段、隠し壁や隠し通路までを備えた宮殿につながるドアの鍵のようにそのストーリーが展開されるだろうし、あるいは次の言葉が壁そのものになり、壁が2つになり、囲んで迫ってきて、ストーリーの展開を制限してしまうこともあるだろう。(220頁) 女の子の話が続けられないので自分の話をしようとするが、ファービーは眠ってしまう。このファービーの夢のような部屋でこう語られる。 彼女は、歴史もなく、ここまで何があったのかも知らず、次のことを伝える君(ウィリス)が誰なのかも知らずに、ここにいる。これは終着点ではなく、これがゴールだったことなんて一度もなく、中国人の鉄道労働者とアヘン窟の女将と着物の女性と懸命に働く移民と尊敬すべきアジア人男性の死体とカンフーの使い手すべてのその先が、「シェイシェイ・メイメイ」だったことなんてないということを。それは同化という夢で、やっと気づいたがその夢とは、リアル・アメリカン・ガールのことだ。 (223頁) カレンとフィービーが向かった先にあるのは、ホワイトウォッシュされ(原文ではwhite-ish)歴史を忘却した「リアル・アメリカン・ガール」のストーリーだったのだ。そこは調和された夢。そこにいれば「アジア人男性」からただの「男性」になれる。でもここにずっといることはできない。なぜならこれはリアルではないから。そしてそこに警察のサイレンが聞こえてくる。ウィリスは警察が来るのをわかっていたし、むしろ待ち望んでもいた。 サイレンが止まる。メガホンから、君が知ってる声が聞こえてくる。 黒人男性警官 手を挙げて出てきなさーい。(225頁) そして小説は最後の舞台へと移る。フィービーとの対話の中で、移民の歴史と同化(assimilation)を読者の面前に持ってきたわけだが、そうなると次の展開はもちろん「アメリカを問い直す」ことだ。これはまさに『セルアウト』と同じであり、当然の帰結として最後の舞台も『セルアウト』と同じ場所が選ばれる。アメリカの歴史、法、そして自由を司る場所。裁判所だ。 Exterior Chinatown そこでどんな裁判が繰り広げられるかは…さすがにこれ以上のネタバレは控える。アジア人だけでなく、黒人、太っている人、ルッキズムまでに射程を広げて平等とは何かを問う。そしてラストに待ち受ける衝撃のラスト、涙が出てくるようなそのシーンは文句なしに最高だし、まさに映像向きとも言える。繰り返すが英語は易しめなので、英語がそこそこできる人は翻訳が出るまでに読んでしまうのはアリだ。 脚本仕立てのメタ・フィクションにすることで、一般的な小説では不可能な手法をいくつも用いたエンタメ性抜群のストーリー。その上で人種差別とその構造的問題を提示する。読みながら何度も唸ってしまった、間違いなく傑作だ。また、様々な方向に話を広げていくことも可能だろう。
たとえば、ミン・チェンらを絶望させた「全員同じアジア人」という括り方。日本でも似たような現象があると言えるだろう。日本社会の構成員として外国人労働者を見ない日はないほどだが、ときに彼/彼女たちの文化的背景を全く無視して無理やり「東南アジア系」として括っていないだろうか? 文化現象ならば、ウー父子がこだわり続けた「カンフーの使い手」。ここ最近ヒットしたカンフー映画ってあっただろうか? ここ数年で私が目にしたカンフーは、なんということだろう、音楽界のスーパースター、黒人のケンドリック・ラマー扮する「カンフー・ケニー」だけなのだが。
私が挙げた例を見ればわかるように、『インテリア・チャイナタウン』が私にここまでヒットしたのは、自分が「海外(主にアメリカ)文学と洋楽好き」という人間だから、ということはあるだろう。どんなに原書で読んでも、どんなに洋楽を聴いても白人には絶対になれないのであり、またそれは自分のルーツを蔑ろにすることにも繋がる。 とりあえず、積読になっていた最新の日本の小説を読んでいくことから始めるか。
First Person by Richard Flanagan
わかるだろ? 彼はそう言って、机に身を乗り出した。俺はでっち上げてたんだよ。毎日、君みたいに。作家みたいに。(178頁) リチャード・フラナガンはこれまで3冊が翻訳されているので知っている人も多いだろう。1961年オーストラリアのタスマニア州生まれ。1994年に作家デビュー。2001年、3作目の小説『グールド魚類画帖(原題:Gould’s Book of Fish)』で英連邦作家賞を受賞、そして2013年、太平洋戦争時に泰緬鉄道建設の強制労働に従事したオーストラリア人捕虜を描いた『奥のほそ道(原題:The Narrow Road to the Deep North)』で翌年のブッカー賞を受賞する。そのほか2006年の『姿なきテロリスト(原題:The Unknown Terrorist)』が翻訳されており、いずれの作品も訳者は渡辺佐智江。 私は『奥のほそ道』を翻訳が出たときにすぐ読んだのだが、読みやすく詩情のある文体、綿密な取材と描写、そしてそのスケールの大きさに衝撃を受けた。こんな素晴らしい作家がいたのかと。 そして今年、新宿にある洋書専門店BooksKinokuniyaのワゴンセールのときに、フラナガンの2017年の小説『First Person』を発見(たしか500円か700円だったと思う)、英語のレベルはさほどではないし、約400頁だがフォントも余白も大きめなので、あのフラナガンならばと購入したわけだ。
という感じの序盤。泰緬鉄道を舞台にした前作に比べると、詐欺師のゴーストライターという設定は面白いが、随分こじんまりとしたストーリーだなぁという印象だった。 しかし、読み進めていくに連れてこの作品は思わぬ広がりを見せる。
キフとヘイデルの2人と行動をともにすることが多いレイだが、ヘイデルが近くにいるときのレイは明らかに本来の彼ではなく、暗く沈んでいる。ある日、キフとレイの2人だけでバーに行ったとき、キフはレイに、ヘイデルと一緒に過去に何をしていたのかを尋ねる。 レイはほとんど聞き取れないほど声を低くして言った。 俺たちはロケットの打ち上げ台を建設できる場所を探してたんだよ。 え? でけえ話さ。狂ってる。NASAだよ。(100頁) レイはキフに警告する。ヘイデルに喋らせ続けろ。絶対にお前は何も喋るな。双子を妊娠してる奥さんのこともだ。ヘイデルは血塗られた仕掛け鏡だ。奴を見続けるとお前自身の姿が見えてくる……。 レイから入手した情報も役立ち、やがてヘイデルは、CIAによって様々な国で諜報活動をしたことなど、謎に包まれた生涯を少しずつ語り出す。ただし語りの中心は、ヘイデルの過去ではなく世界の仕組みについてだ。 ビジネスマンって何だと思う? 政治家は? 彼らは魔術師なんだ。彼らは何かをでっち上げる。物語はみんなを繋げることができる唯一のものだ。宗教、科学、お金──みんな、ただの物語さ。オーストラリアは物語。政治も物語、宗教も物語、お金も物語でオーストリア安全機関も物語。銀行は俺の物語を信じるのを止めた。そして信仰が死んだとき、残ったものは何もなかったんだ。(179頁) なぜか双子の妊娠の話を知っていてキフの家族に会いたがるヘイデル、突然破棄になる初稿提出の期限、歪み始めるキフの思考。レイの過去に何があったのか? ヘイデルの命を狙う者とは何者なのか? ヘイデルとは一体何者なのか? 双子は無事に生まれてくるのか? 作家とは何か? 詐欺師とは何か? 悪とは何か?そして、自伝は完成するのか?
ここまで来ればわかる通り、この小説は明確な二つの軸がある。
1.キフとヘイデルの対決 2.ポスト・トゥルースの考察 小説に崇高な憧れを抱いていたキフに少しずつ侵入していくヘイデルの性悪説的ヴィジョン。そこから自身と家族を必死に守ろうとしつつ締切までに執筆しようと奮闘する様は、もはやホラー小説と言っていい。執筆に全く協力せずデタラメばかりを語り、いかに人々が事実よりも「自分が信じたいもの」を求めているかを熱弁するヘイデルには、トランプを始めとした世界中のポピュリズムの政治家の姿がチラつく。 ヘイデルが通称「ジギー(Ziggy)」、つまりデヴィッド・ボウイが生み出した「ジギー・スターダスト」の名で呼ばれているのは、彼が様々な偽名を使い分けたり、レイやキフを始め様々な人を取り込む魅力を持っているからだけでなく、この小説のあるクライマックスを示唆しているからでもある。
そのクライマックスとは原文の300頁ぐらいに訪れる。残り100頁。そう、クライマックスが来てもまだまだ小説は続くのだ。『奥のほそ道』でも同じ構成になっており、第二次世界大戦は小説の半分ほどで終わる。私がフラナガンで特に印象に残っているのは、「物語のその後」をしっかりと書くことだ。 あまりにも衝撃的な経験は、人生のひとつのクライマックスとして、その後の人生に大きな影響を与えるはずだ。ならば、その後の人生をも書かねばなるまい。『奥のほそ道』と『First Person』は「物語のその後」にかなりの頁が割かれる。『First Person』では約20年後の現代までが、それまでのテーマを受け継ぎつつ語られる。フラナガンは時の流れに抗えない人生の悲哀を書くのが本当に上手い。 キフはとある場で若手の女性作家と出会う。彼女は自叙伝しか書かない作家で、自分はでっち上げなどしない、物語なんて大嫌い、全部聞いたことがある物語であり、私たちは自分自身を見つめる必要があるのだと言う(キフはそれに対し「文学的自撮りみたいだね」と答えるのだが笑)。小説が現実に与える影響を疑う彼女はこう言うのだ。 “Everyone wants to be the first person.”(361頁)
実は詐欺師ジークフリート・ヘイデルにはモデルが存在する。その名はジョン・フリードリヒ(John Friedrich)。1950年生まれの彼はオーストラリア国家安全評議会(NSCA)に1977年から働き、取締役になった1982年からNSCAの事業を拡大しつつ27もの銀行からお金を借り、1989年に詐欺罪で逮捕された。その後明らかになったのは、彼はオーストラリア国民でなかったばかりか、公式の出生証明書さえなかったことだった。そして彼は自伝を書くためにある若い作家志望の男に電話をかける。 ──そう、キフ・ケールマンにもモデルが存在する。それはなんとリチャード・フラナガン本人なのだ! 若きフラナガンはフリードリヒの「報酬は1万ドル、期限は6週間」の依頼を受けてフリードリヒの自伝を書こうとするが……。 その後どうなったかは英語版Wikipediaに書いてあるが、小説の内容に深く関わるのでここは是非とも翻訳が出るまで読むのは待っていただきたい。正直、今作は『奥のほそ道』ほどのクオリティではないが(事実、賞レースで結果は残していない)、エンタメ性と批評性を兼ね備えた素晴らしい作品であり、数多くの読者を満足させることができる(読者が作家志望の場合は奈落の底へ突き落とされる)はずだ。今作もいずれ渡辺佐智江の素晴らしい翻訳で出版されるに違いない。 *ちなみにフラナガンの最新作は今作ではなく、2020年に発表した『The Living Sea of Waking Dreams』になっております。